第30話 まだ殺し屋のまま

 ショウビが殺されて二日後。相沢はとあるビルの屋上で夜景を眺めていた。

 別に感傷に浸るためではない。ただ現実を受け止めるためだ。

「お前は殺さずに生きていけると思うか?」

 ふいに闇から声が聴こえた。待ち構えていた奴が来たようだ。

「見ていただろ?」

 振り向かないまま、相沢は問い掛ける。

「そうだな。ショウビを殺させるというシナリオが、こうもあっさり失敗するとは思わなかった。あの娘を始末するのは本当に骨の折れる作業だったよ」

 相沢の背後に男が現れる。黒のスプリングコートに黒の中折帽。そして手にはスタンガンを持っていた。しかし、相沢は未だに景色を見つめたまま振り向かなかった。

「お前が戻れば、あの前川という男の命は保証しよう」

「俺たちを人形として育てた奴の言葉を信じろと?あんたたちにとって、俺の命も前川さんの命も等しく無価値に近いんだろ?」

 相手への嫌悪を隠さず、相沢は冷たい声で言う。しかし、男は笑うのみだ。

「ならば、どうやって前川を助ける?お前には、何もできない」

「それは――」

 相沢は反論の言葉を持っていなかった。確かにそのとおり。自分は何も出来ない。前川の好意に縋り、人間になりたいと恋焦がれることしかできない。

 春には遠い冷たい風が、頬を撫でる。

「お前は自らの立場を忘れているわけではあるまい」

 男の言葉が、相沢は大きく揺さぶる。そう、自分の立場は、よく解っている。ただ生き続けるだけの、殺人人形だ。それを逸脱してこの世界には存在できない。解っている。でも、このまま人を殺し続け、そしていつかは殺される人生はもう嫌だった。前川が、相沢に楽しむことを教えてしまったから――

 振り向いたら負けだ。相沢はそれだけを念じてぎゅっと目を閉じた。

「すぐに、お前の考えが甘い夢だったと解る」

 男がスタンガンを相沢の首筋に近づけた。しかし、スイッチは押せなかった。

「そこまでだ」

「――」

 いつの間にか背後に現れた前川に、男は絶句する。前川の手にはリボルバーが握られていた。かちりと撃鉄を起こす音が耳元で響く。

「俺は、もう人は殺さない。殺人人形なんかじゃない」

 ゆっくりと相沢が振り向いた。そこにあるのは冷たい目ではなく、どこまでも哀しげだ。

「ふん。すぐに解るさ」

 男はにやりと笑ってスタンガンを仕舞うと、さっと身を翻した。前川が引き金を引くよりも早く闇に消える。

「まさかあいつが接触してくるとは、敵は本気ですね」

 涼しいながらも緊張した相沢の声が、前川の耳に届いた。どうやら危機は脱したらしい。

「一体誰なんだ?」

 持ちなれないリボルバーを相沢に返しながら訊く。いくら警察官として訓練を受けているとはいえ、銃を使う機会はそうそうない。手が汗でびっしょりだった。

「敵の中で、最も食えない奴ですよ。俺たち殺人人形を訓練した男です。それにしても、動きが早い」

 相沢はリボルバーの安全装置を確認して、ジャケットの内側に仕舞った。

「あいつが」

 訓練した奴がいることは解っていたが、まさか監視役の一人だったとは。前川は嫌な汗が額に浮かんだ。それに、こうして相沢が武器を持ち歩くのは珍しいことだ。殺しを行う時以外は、基本的に手ぶらだというのに。

「あいつらは、やっぱりお前を連れ戻すことしか考えていないな」

 しかし、今は現状を確認して次の手を考える時だ。先ほどのやり取りを遠くで聴いていた前川は渋面になった。

「殺し屋なんていう都合のいい存在を作り出すのは、苦労を要しますからね。特に、子どもの頃から仕込む殺人人形はそう簡単に作り上げられない。前にも言ったように、普通の感覚を残せずに失敗してしまいますから」

 相沢はまるで他人事のようだ。けれども、その言葉は前川に重く圧し掛かった。

 殺し屋として育てられながらも、普通の感覚を持ち続ける。

 生き残るためにそれを選んだという相沢だが、常人にそんな真似は出来ない。ショウビがそうだったように、どこかで心の歯車が狂ってしまう。いや、犯罪を実行すること自体普通の感覚ではいられない。つまり、殺人人形として生き残るのは至難の業だ。

 前川も刑事の端くれだ。様々な犯罪者たちを見てきている。しかし、どんな犯罪者とも異なるのが相沢だ。だからこそ、殺人人形という言葉がすんなりと腑に落ちてしまう。困ったことに、相沢は誰とも違うからこそ普通なのだ。

「お前に代わる奴はいない、ということか」

「今のところは、ですね。――いつかは現れるんでしょうが」

 相沢が目をぎゅっと閉じた。それは何かに耐えているかのようだった。

「……」

 以前に相沢が自分と同じ立場の人間を作りたくないと言っていたことを思い出す。

「なくならないのか。その、殺し屋って」

「無理でしょうね。暗殺というのは需要があるんです。それにいつの時代にもいたんでしょう。綺麗ごとだけで世界は成り立たないんです。だからこそ、俺の存在は容認されている」

 そう言って、相沢は目を開いた。やはり、哀しい目をしている。

「さっきの奴が言ったことを、気にしているのか?」

 甘い夢だと、殺人人形に育てた男が言った。それは相沢の胸に大きく響いていることだろう。

「そうですね」

 そしてあっさりと相沢は認めた。それはそうだろう。前川と出会った数か月よりもずっと長い時間、殺し屋として生きてきたのだ。簡単に切り捨てられるわけがない。

「でも」

 相沢はそこで寂しげに笑う。

「俺はもう、殺したくない」

 それは祈りに似た呟きだった。相沢は自分の中で何かが変わっていくのを感じていた。それは、殺すという行為自体の意味合いも変えようとしている。今まで疑問にすら思わなかった生き方に、前川の存在が初めて疑問を投げつけたのだ。それはもう大きな波紋となり、前のように淡々と生きることを許してくれない。

「――相沢」

 前川は言葉が続かなかった。

「行きましょう。現状は解りました」

 踵を返し、相沢が出口に向けて歩き出す。

「どう判断したんだ?」

 慌てて前川は追いかけた。

「俺はまだ、殺し屋以外の何者でもないということです」

 涼しい声は、いつもより寒々と響いた。


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