第55話 琢磨の決断

 木曜日、琢磨は網香先輩に話があるとアポイントを取りつけて、応接室で待っていた。

 膝に手を置き、神妙な面持ちで、網香先輩が来るのを待つ。


「……」


 暖房の音だけが部屋の中に響き、静寂な時間が続く。

 ふと腕時計を見ると、網香先輩のアポイントを取った時間から十分ほど過ぎている。

 どうやら前の仕事が押しているようだ。

 さらに数分ソワソワとした気持ちで待っていると、突然コンコンと慌ただしくドアがノックされた。


「はい」


 返事を返すと、バタンと談話室のドアが開かれて、網香先輩が慌ただしい様子で入って来た。


「ごめんね、前の会議が長引いて遅れちゃった!」


 デスクに戻らず、会議が終わった足でそのまま来たのだろう。

 会議で使ったと思われる資料を両手に抱えていた。


「お疲れ様です。相変わらず忙しそうですね」

「まあ、決算締めの月だから仕方ないわ。ささ、座って頂戴」

「荷物、置いてきてからでもいいですよ?」

「いいの、いいの! デスク前で本部長が待ってた気がしたから逃げてきたの」

「いいんですか、それ?」

「平気よ! 数分もすればどこか行くわよ。後で何かしら連絡がメールで届くから問題なし!」


 そう言って、網香先輩は向かい側の革張りのソファ席へと座りこむ。


「ふぅ……それで、急に話があるってどうしたの? 何かあった?」

「あっ、えっと・・・・・・」


 いきなり本題に入るもの心の準備が出来ていなかったので、別の話題から話を振ることにした。


「谷野、部署異動って聞いたんですけど……」

「あぁーそうなのよ。谷野さんたっての希望で、美容関係の製品の部署に異動することになったのよ」

「今日の朝聞いて驚きました。てっきりうちの部署にしばらくいるのかと思っていたので」

「まあ、彼女も見つけたんでしょ。自分のやりたいことを」


 網香先輩は、会議室から谷野の席を見つめるように、遠くを見つめている。

 その表情は、どこか夢を見つけた谷野を羨ましそうに眺めているようにも見えた。

 すると、視線をパッと琢磨へ向けた網香先輩は、にっと意地悪めいた笑みを浮かべて頬杖をついた。


「それで、今回の本題は何かしら? もしかして、琢磨君もプロジェクトリーダーになってくれる気になったとかだったり?」

「はい、そうです」

「……へっ?」


 よどみなく答えた琢磨の返事に、しばしの間を置いてから驚きの声を上げて琢磨を凝視する網香先輩。


「今・・・・・・なんて?」

「俺、プロジェクトリーダーやってみます」


 琢磨はもう一度はっきりと口にした。

 ぱちくりと何度も瞬きをしてから、肩の力を抜くようにしてソファに深く座りなおす網香先輩。

 そして、一つ息を吐いてかすかに口元を緩めた。


「そう・・・・・・でもどうして急に?」


 琢磨の心の変わりように疑問を抱いているのか、理由を問うてくる網香先輩。

 その質問に、琢磨は自分の心で思っていることを答えた。


「何かを変えないと、自分も対等の立場に立てないから……もっと広い視野で世界を見てみたくなったんです」

「……まさか、あなたから視野を広げたいなんて言葉が出てくるとは思っていなかったわ」


 網香先輩はすっと真剣な表情に戻り、琢磨の真意を探るように鋭い視線を送ってくる。


 琢磨は臆することをなく網香先輩を見つめ返す。

 数秒間見つめ合い、会議室に沈黙が続く。

 そして、網香先輩が根負けしたように目を閉じてため息を吐いた。


「分かった。今回の話は上層部に通しておきます。杉本君なら、年明けにも承認されてプロジェクトリーダーになれると思うわ」

「ありがとうございます」


 網香先輩に対して深くお辞儀をする。

 けれど、琢磨に取っての本題はここからだった。


「先輩……それから、もう一つ大事な話があります」

「うん、何?」

「その……俺……」


 じっとりと刺さるような視線で見つめてくる網香先輩。

 琢磨は唇を噛み、一つ息を吐いてから意を決して網香先輩を直視する。

 そして、次の瞬間――


「ごめんなさい! 俺、網香先輩とはお付き合い出来ません」


 椅子から立ち上がり、深く頭を下げて言った。


「……」


 しばしの沈黙。

 網香先輩の様子が見えないので、沈黙が怖い。

 その時、網香先輩のふっと息を吐く音が聞こえた。


「そっか……私振られちゃったのね」


 その声音は、どこか悲しくもあり、何故か少し嬉しそうでもあった。


「自分から気持ちを伝えたうえで、網香先輩が俺のことを待っていてくれたのは重々承知してます。それでもって、自分勝手に気持ちを改めてこのような形で断ってしまい申し訳ありません。それでも俺は、新しいやりたいことを見つけるためにプロジェクトリーダーになるなら、網香先輩と付き合うことは出来ないんです!」


 琢磨の心は決まっていた。

 今までは網香先輩の傍で一緒に入れればそれだけで満足だった。


 けれど今は、自分のやりたいことを見つけるために、プロジェクトリーダーになる覚悟を決めて、網香先輩から依存することをやめる決意をした。

 それは琢磨に取って、網香先輩からの依存脱却を意味していて、網香先輩と恋愛対象として付き合っていくことは出来ない。


 なぜなら、琢磨にはもう、共にやりたいことを見つけたら切磋琢磨していく本当の相手を見つけてしまったから。

 それは、網香先輩ではなく、唐突に海ほたるで出会った一人の少女だった。


「そんな気はしてた・・・・・・」

「えっ?」


 思わず顔を上げると、網香先輩は気の抜けた声でにこりと優しい笑みを向けていた。


「私としては、対等の立場になって夢を追い続ける琢磨君と付き合いたかった。けれど、あなたの心を動かしたのは私じゃない。そういうことでしょ?」


 私、違うこと言っているかしら? とでも言いだしそうなほどに、網香先輩は既に悟っていたのだ。

 琢磨の近況の変化に、そして由奈という存在に。


「網香先輩……」

「最後に、一つだけ聞いてもいいかしら?」

「はい……」


 網香先輩はゆっくりと立ちあがると、琢磨を見定めるかのような視線で咎めてくる。


「その子の事、本気なんでしょうね?」


 網香先輩の鋭い声に、琢磨はオウム返しのように威勢のいい声で答える。


「はい、本気です!」


 すると、すっと網香先輩は柔和な笑みを浮かべた。


「そう・・・・・・」


 そして、応接室の出口の方へと向かっていく。

 琢磨の横を通り過ぎる時に立ち止まり、独り言を呟くように囁いた。


「その今の気持ちを大切にしなさい。琢磨君」

「はい……」


 こう言い残して、網香先輩はドアを開けて応接室から出ていった。

 これで、琢磨がやらなければならないことはもう一つしかない。

 どんなに拒絶されようが、かっこ悪いといわれようが、彼女に本当の気持ちを伝えることだけだ。

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