ドライブ彼女~自分たちで探し求める夢~

さばりん

第一章 

第1話 昇進の話

「それでは、本日の週礼はこれで終わりにします」


 金曜日の夕方。今週もいつものように変わらぬ週例を終えて、平凡で怠惰な平日を杉本琢磨すぎもとたくまは終えようとしていた。

 コの字形の会議スペースの机を囲むように座っていた社員たちは、各々デスクへと戻っていく。


 琢磨も他の社員と同様に、自身のデスクへ戻ろうと席を立ちあがると――


「杉本君。ちょっと残ってもらえる?」


 週例会議の議長で、直属の上司でもある石橋網香いしばしあみか先輩に手招きされて呼び止められた。

 長い黒髪の彼女は、議長席に座ったまま、にっこりと琢磨に微笑みかける。


「はい……」


 少し不吉な予感を覚えつつ、琢磨は網香先輩の元へと向かった。



 ※※※※※



「はぁ……」


 運転中、琢磨は自然とため息がこぼれ出てしまう。

 琢磨は一週間の仕事を終え、電車で実家へ帰宅して夕食を済ませた後、父親の社用車兼自家用車のミニバンを借りて、ぼんやりと決めた目的地へと車を走らせていた。


 首都高速湾岸線を走り、浮島JCTから東京湾アクアラインへと進む。

 東京湾に掘られた海底トンネルを抜けた先が今日の目的地。

 到着したのは、東京湾に浮かぶ海ほたるPA。


 金曜日の仕事終わり、父親の車を借りて一人ドライブをするのが琢磨の習慣であり趣味になっている。

 目的地はいつもその日の気分次第。

 ただ無心に車を走らせ、適当に頭に思い浮かべた目的地へと向かう。


 目的地に到着してから、特に何かするでもなく缶コーヒーを片手に、ただ景色をぼんやりと眺めて帰路に着く。


 いつ頃から、なぜ一人ドライブを始めたのかはうろ覚えだけれど、気が付いた時には、琢磨の一週間のルーティンスケジュールとして組み込まれていた。


 今となっては、仕事モードから休みモードへのオンオフを切り替えるスイッチのような役割を果たしている。


 PAの駐車場に車を駐車させ、エンジンを切る。

 車から降りて、トイレを済ませてからPA内のエスカレーターを登り、併設されているコーヒーチェーン店でブレンドコーヒーを購入した。

 その足で、琢磨は最上階まで登る。


 最上階の飲食店街を抜けて、琢磨は千葉側の展望デッキへと出た。

 デッキの人はまばらで、若いカップルが数組と、一組の家族連れの子供たちがワーキャーはしゃぎながら、取り付けられている鐘をカンカンと鳴らしているだけだ。


 風は比較的穏やかで、潮の香りがほんのりと漂う。

 とはいえ、四月の夜は、まだひんやりと肌寒い。

 琢磨はジャケットをきちんと羽織り直してから、展望デッキ横の柵に肘を置く。


 正面を見渡せば、富津や館山方面の街の輝きが、暗闇に包まれた東京湾の奥にうっすらと瞬く。

 視線を左に向ければ、木更津方面へと伸びるアクアラインの地上橋が一直線に続いており、片側二車線の道路を、ヘッドライトを光らせた車がひた走る。

 顔を右へやれば、横浜や川崎の工業地帯の電飾が、色とりどりの光を放ちながら煌びやかに灯を放つ。

 そして、空を見上げれば満天の星――

 とまではいかないものの、いくつか春の星たちが光り輝いていた。


 海からは、建物の護岸に当たる波しぶきの音が微かに聞こえ、ひんやりとした肌寒い空気を展望デッキへと送ってくる。

 空からは、羽田空港へ離着陸する飛行機のエンジン音がごぉぉぉぉぉーっと引っ切り無しに鳴り響く。

 あと時々、海ほたるPAへ立ち寄らず、もの凄いスピードで東京湾アクアラインを走り去っていくスポーツカーの駆動音が聞こえてくるだけ。


 漆黒の闇の包まれた東京湾に突如そびえる海ほたるPA。

 独特の森閑とした雰囲気は、心を落ち着かせてくれる安らぎの場所。

 琢磨はお気に入りスポットとして時々訪れている。


 理由を問われても分からない。

 強いて言うなら、東京湾の中心で、都内特有のごちゃごちゃした喧噪を忘れ、海の自然を感じられる場所だからであろう。


 湾の中心に、まるで自分だけが立っているような開放感。

 平日夜の海ほたるPAならではの自然と人工物のマッチした独特な静けさが、琢磨の心を引きつけるのだ。

 琢磨は漆黒の海の景色を眺めつつ、自然の豊かさや荘厳さを感じながら、先ほど購入したコーヒーを嗜む。


「はぁっ……」


 コーヒーを口に流し込むと同時に、苦くて深いため息が漏れ出る。

 今日は仕事で色々とあったため、琢磨の頭は疲れていた。


「俺がプロジェクトリーダーねぇ……」


 網香先輩に言われたことを、独り言のようにぼやいてしまう。

 それは週例会議後の出来事。



 ※※※※※



 網香先輩に呼ばれた琢磨は、一人会議室に残された。


「何ですか網香先輩?」

「ごめんね急に! 実は、琢磨君に大事な話があって」

「大事な話……ですか?」

「そう、大事な話!」


 ぴんと人差し指を上げて、網香先輩はにっと微笑む。


「琢磨君さ、プロジェクトリーダーやってみる気はない?」


 網香先輩の口から放たれたのは、琢磨をプロジェクトリーダーへ昇進させるという話だった。

 まだ決定事項ではないらしい。

 けれど、上層部は琢磨の昇進を望んでいるとのこと。


「どうかな、琢磨君にとっても悪い話じゃないと思うんだけど?」


 網香先輩が首を傾げて琢磨に尋ねる。

 しかし、琢磨にとって昇進や昇給ごとは全く興味が無い類いであった。


「ごめんなさい。今の自分に、プロジェクトリーダーをやる気はありません」


 琢磨はきっぱりと網香先輩に答えたのだが――


「えぇ!? どうして!?」


 それから、網香先輩にプロジェクトリーダーの良さやメリットについて長々と説明を受けた。

 けれど、その日琢磨が首を縦に振ることはなかった。


「俺はただ、網香先輩の下で仕事がしたいだけなのになぁ……」


 琢磨の目標の中に、ビジネスキャリアプランなど一切含まれていない。

 彼の今の目標は、網香先輩とお付き合いすること。

 それ以外ちっとも関心がないのだ。


 網香先輩は琢磨が今の会社に新卒で入社した時からの直属上司。

 おっとりしているけど時々お姉さんっぽくもあり、子供っぽく悪戯めいた事もしてくる気さくな先輩。

 面倒見も良かったこともあり、気が付けば琢磨は網香先輩のことを異性として意識するようになっていた。

 彼女は二年前からプロジェクトリーダーに昇進し、運よく琢磨のいる部署のリーダーとしてチームをまとめている。

 この会社で言うプロジェクトリーダーは、いわゆる部長と思ってくれればいい。

 

 とにかく、琢磨は今の部署で、網香先輩のもとで一緒に働いていれば、満足なのである。それでも、彼女は執拗に琢磨へ昇進を進めてきた。


「はぁ……どうしたものかな」

「そんなに海を眺めながらため息ついて、何が楽しいの?」


 琢磨がぼやいていると、不意に横から声を掛けられた。

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