彼らなりの歓話、あるいは閑話。そして――

 シャルルの首根っこを掴む、ルイスの指が開かれた。ドサリと音を立てて地面に倒れ込むシャルル。


 体を丸め、大口を開き、大きく音を立てながら、シャルルは足りていなかった分の呼吸を補うべく一気に肺へと空気を押し込んだ。だが次の瞬間、せっかく取り込んだ空気全てを吐き出し、派手に咳込み始めるシャルル。


「なにをしている、まずはすべきことがあるだろう。早く立て――」


 ルイスは、言い終わると同時にシャルルの肩を蹴った。


「ル、ルイスっ――!」 


 ルイスの行動を目に、エレノアは思わず声を上げてしまう。


 道端に転がる石ころでも蹴り出すかのように、粗雑に肩を蹴られたシャルルの上半身が強制的に持ち上がる。下を向いていた顔が正面を向いた。


「な――、ゲホッ――。なにしやがるッ! ッ――ッ! コッチは苦しんでンだぞ」


 シャルルは怒鳴り声を上げながら勢いよく立ち上がり、ルイスに詰め寄った。


「なにとは?」


 対するルイスは、知らぬ存ぜぬといった具合に、なに食わぬ表情を浮かべながらシャルルを見ていた。


「なにって、コレのことに決まッてンだろうがッ――!」


 言葉と当時に、シャルルは言葉尻の勢いに乗せてルイスの股下目がけて思いっきり蹴りを繰り出す。がしかし、ルイスの手にあっさりと受け止められ、防がれてしまった。


「ああ、これのことだったか――」


 ルイスは、シャルルの足を掴む手に力を込めた。徐々に強くなる鈍い痛みに、シャルルは奥歯を強く噛み締め抵抗する。だが、やがて痛みに耐えきれなくなり声を上げてしまう。


「イ――ッ、てェエなァア! クッ、ソがア!!」


 痛みによって引き出された声を無理矢理にでも掛け声に変えて、シャルルは拳を振り上げルイスに向かって思いっきり振り下ろした。瞬間、鈍い痛みが鋭くなった。全身から力が抜けていく感覚が走った。拳は急速に勢いを失っていき、ルイスの肩に届く頃には、まるで枯れ葉でも落ちるかのようにして着地した。


「痛みすらまともに覚えていられないとはな、貴様は学習能力というものがないのか。これは、お前らの言うが必要か――」


 ルイスの手が再びシャルルの首に掛かった。ゴクリと唾を飲み込む音がすると同時にシャルルの喉仏が大きく上下する。


 瞬間、エレノアが動いた。エレノアはルイスの腰に手をかけ、グッと、力を込め、腰骨を掴み、揺らす。


「ル、ルイスっ! シャルルにして欲しい事! あるんでしょ、ね!」


 エレノアの声を聞き、ルイスの手が開いた。全身の力が抜け、その場に崩れ落ちるシャルル。肩を上下させながら必死に呼吸を続けている。しかし、呼吸を整える間も無くルイスの声が掛かった。


「早く立て。」


 シャルルは必死の形相を浮かべながらも、ルイスの顔を見上げ、キッ、と睨んだ。


「早く立て。と言っているんだが」


 ルイスはシャルルの顎につま先を引っ掛け、やや乱暴に持ち上げた。


「さっさと姿勢を正し、立て。そして今、自らが置かれている状況についてよく考えることだな」


「あ? なに言ってんだ、テメェに殺されかかってる以外あるかクソが」


 シャルルは、唾でも吐き捨てるかのように言葉を吐いた。


「よくわかってるじゃないか。そうだ、貴様は今、殺されかかっている。そしてだ、まだ殺されてはいない――」


「なにが言い――!」


 シャルルが口を開いた瞬間、ルイスは足を前に突き出した。シャルルは背にしていた木の幹に思いっきり背中を叩きつけられてしまう。


「ぐェへァぇッ――!」


 声とともに大量の唾を吐き出し、苦悶の表情を浮かべるシャルル。


「ルイスッ!」


 ルイスはエレノアの方へと向き直り、一度頭を下げた後、シャルルの胸を足で押さえつけ、木の幹に段々と押し込んでいく。


「よくよく考えて発言しろ」


 シャルルは一度わざとらしく舌打ちをして、口を開いた。


「感謝しろとでも言いてェのかテメェはよ! なんで殺そうとしてるヤツに感謝しなきゃなンねェンだ! するわけねェだろ! クソが!」


「俺に? なにを言っている? 貴様が感謝すべきは俺ではない、お嬢様だ」


 ルイスの言葉に、シャルルはまるで理解できないといった表情を浮かべた。


「いいか。貴様が未だ生きていられるのは、ひとえに、お嬢様のお言葉あってこそだ。言うなれば、お嬢様は貴様の命の恩人と言える――」


 ルイスは、シャルルの胸から一度足を離し、つま先を脇に引っ掛けた。


「理解できたのなら、即座に立ち上がって姿勢を正し、全霊を持ってして、今すぐ感謝を示せ」


 ルイスが足でシャルルの体を持ち上げようとした瞬間、シャルルはルイスの足を勢いよく払い退け、自らの力で立ち上がった。


「ガキに感謝しろッて?! オレにこんなガキに向かって頭下げろッてのか、エエ?」


 シャルルは声を荒げ、答えた。口からは激しく唾が飛んでいた。


「ああ、そう言っている。それにガキではない。エレノア様だ」


 対しルイスは、毅然とした態度を崩さず答える。


「オイ、お嬢が抜けてんぞ」


 ルイスの耳がピクリと動いた。


「貴様如き――、ゴロツキ風情がお嬢様を……――。エレノアお嬢様を、エレノアお嬢様とお呼びする資格があるとでも思っているのか!!」 


 ルイスは体を前に乗り出し、シャルルに詰め寄った。


 縮まった分と同じだけ、シャルルは上半身を後ろに引いて距離を取り、眉間に皺を寄せ、大口を開けて舌をだらりと伸ばす。


「なんだその顔は……」


 シャルルは伸ばした舌を引っ込め、肩をすくめた。シャルルの態度を見てルイスは呆れたような表情を浮かべてから、鼻から荒く息を吐き出し、口を開いた。


「――それにだ、途中で口を挟むな、まだ話は終わっていないんだ。わかっているのか?」


 シャルルの返事はない。


「わかっているのかと聞いている!」


 ルイスの怒鳴り声に、シャルルはわざとらしくうんざりとした表情を浮かべながら、気だるそうに口を開いた。


「ウルセェなア、テメェが口挟むなっつッたンだろうが」


「言葉の途中で口を挟むな、と言ってるんだ! それに、貴様如きにも分かるよう、わざわざ、わかったかと聞いているんだぞ。これでも理解できないと言うつもりか」


「ウルセェ。人間ならともかく、狼犬人イヌとの会話の仕方なンざ知るか」


 ルイスは、軽蔑の眼差しでシャルルを一瞥した。


「――、まぁいい。それよりも、今すぐお嬢様に頭を下げろ」


「チッ――、ちゃんと覚えてんじゃねェよクソが」


「忘れることなどあるか! 貴様がそんな態度でいる限りは一生でも言い続けるぞ」


「バカが、じゃあ全員死ぬだけじゃあねェか」


「無駄口を叩くな。いいか、貴様がお嬢様に頭を下げないといけない理由などいくらでもあるんだぞ」


「は? なんだよ、コッチにゃ覚えはねェぞ」


 ルイスは腕を組み、一度大きなため息を吐いた。


「……。ならば教えてやる。いいか――」


 ルイスは、組んだ腕を解きシャルルの前に出す。


「まず感謝だ――」と言ってシャルルの前に出した手の親指を折り曲げる、「次に謝罪――」と言い、続けて人差し指も折り曲げ、「そして――」と、言葉と動作をともに続けていく。


「まだあんのかよ」


 ルイスは鋭い目つきでシャルルを睨みつけた。


 シャルルは目を細め、唇の端をクイっと持ち上げて不服そうな表情を浮かべる。


「いいか、貴様はこれからお嬢様に仕えるんだ」


「は?! なんで俺がガキなんかに!」


「おい! 何度言わせる――」


「ウルセェ! いきなり意味わかンねェこと言われてンだぞこっちは! なのに黙ッて聞いてられッかよ!」


「金を渡しただろう――。」


「は? だからなんだよ。テメェの飼い主……だとガキもそうか。親飼い主のだろうが、ガキはカンケーねェ」


 シャルルは顎をしゃくってエレノアを刺しながら言った。


 瞬間、ルイスは爪を立て、シャルルの喉元に突き立てる。


「――エレノア様だ。訂正しろ」


「し、知るかよ……! コッチだってなァ、何度でもいってやらァ! ガキに仕えた覚えなンざねぇ!!」


 声を張り上げ、虚勢を張るシャルル。しかし、その声はわずかに震えていた。


「お嬢様はもう、立派な淑女レディーだ、ガキではない。何度も言わせるな――」


 ルイスの爪がシャルルの肌に触れた。爪の先から血が滲む。


「ルイス!」


 エレノアの声を聞き、ルイスは即座にシャルルから爪を離した。一度深く、呼吸をし、再びルイスは口を開く。


「いいか、お嬢様は貴様如きにも温情をかけて下さっている。これだけの慈悲を受けてなお貴様は、頭一つ、下げる気はないと言うつもりか――」


 ルイスの鋭い視線がシャルルに突き刺さる。シャルルの返事はない。


「それにだ、今やフォーサイス家の所有物全てがお嬢様のものとなっている。ということは、だ。貴様はもうすでにお嬢様に雇われているということに――」


「ちょ、ちょっと待って! ルイス、家の物は全てお父様のものでしょ、それが私のものって……どういう――」


 ルイスの言葉を聞き、突如エレノアが口を挟んだ。反射的に顔がエレノアの方に向く。しかし、即座にエレノアから顔を背け、苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべた。しばらくして、再びシャルルの顔を向け、ルイスは口を開いた。


「――いいか、貴様に渡した金は今やお嬢様のものも同然だ。と言うことは、だ。貴様はお嬢様に雇わ――」


「そいつに雇われてるってんだろ、もう聞いたわ。てか、犬が飼い主の言葉無視してんじゃねぇよ」


「そうだ貴様はお嬢様に雇われているんだ、やっとわかったか、ということはだ貴様は雇われている間必然と仕えるということに――」


 どこを見ているともいえない、ただただ真っ直ぐに正面を見据え、つらつらと、感情のこもっていない平坦な口調でひたすら言葉を吐き出していくルイスを見て、シャルルは独りごちるように言葉を発した。


「いや、マジかよ。マジで無視すんのかよ。――またイカれたか……?」


 シャルルは、エレノアに顔を向ける。


「なぁ、オマエんとこ……大丈夫か?」


「え、いや、いつものルイスはこんな――」


 シャルルにいきなり声をかけられ、エレノアは驚きと返す言葉の無さに思わず戸惑ってしまう。


「おい! 断りもなく、いきなりお嬢様に話しかけるとは何事だ!」


 突然、平坦だった口調で言葉を発していたルイスが、急に感情のこもった声でシャルルに話しかける。


「は? え? なんだコイツ急に……。キモっ……――」


 絶句するシャルルをよそにルイスは続く言葉を発していく。


「いいか? 貴様は、短期間、一時的に雇われているに過ぎない。それにだ、貴様にはお嬢様に対する敬いの心が一切ない。そんな貴様が、だ。なんの断りもなく、お嬢様に話しかけていいとでも思っているのか?」


 今度ははっきりと、侮蔑の感情がこもったような声色でシャルルに言葉をぶつけるルイスを見て、エレノアが声を上げた。


「ルイス。お母様みたいなこと言わないで――」


 寂しさと、ほんの少しの険しさの含まれたような声色でエレノアは言った。


 少し不思議そうな顔を浮かべるルイス。


「エレナさ……――」と何か言いかけるが、途中で何か気が付いたのか「いえ。申し訳ございません」と言い直し、ルイスはエレノアに深く頭を下げた。


 エレノアは「ええ、お願い。」と言い、言葉を続ける。


「それにね、ルイス。ちゃんと答えてちょうだい、今度こそちゃんと――。」


 ルイスは頭を下げたままで、返事どころか動く気配すらない。重苦しい雰囲気が漂う中、エレノアは唇をキュッと閉じ軽く頷き、直後、口が開いた。


「ルイス! シャルルにまで言われちゃってるのよ! まぁ私としては、シャルルの態度はなんでもいいけど、けどルイスからしたらダメなんでしょ。じゃあ、口で言うだけじゃなくて行動でも示さないと! なのにルイス自身があたふたしてちゃダメじゃない、ね。ちゃんとしなきゃ!」


 さっきとは打って変わって明るい口調でエレノアは喋る。場の空気が弛緩していくのが感じられた。


「あと! 私は、エレナじゃなくてエレノア! もう二回目よ! 誰と勘違いしているのか知らないけど、もう間違えないでね。ね! ルイス!」 


 頭を大きく上下させ、ルイスは噛み締めるように頷いた。再びルイスはシャルルへと顔を向けていく。が、途中で一瞬、動きが止まり、「――え? 二回目、ですか?」と言い、エレノアへと向き直る。


「そうよ、二回目。覚えてないの?」


「お、お恥ずかしながら……。申し訳ございません――」


 そう言ってルイスは顔を伏せる。


「もう! ルイス! いいからもう、シャキッとしなさい! で! お手本! 見せなきゃ! 私にはこう答えるんだ。って、シャルルに。ね!」


 エレノアはルイスにピシャッと言い放った。


「え、ええ、はい。そう、ですね、お嬢様――」


 顔を上げ、返事をするルイス。しかしなぜか、なかなか続きを話さない。


「もう! 本当にどうしたのよ! なにそんなに恥ずかしがってるの!」


「い、いえ、お嬢様……恥ずかしがっているわけでは決して……、ただ――。ただ、その……内容を知られるわけには、いかないものでして……――、」と、ルイスは一度言葉を切り、チラチラとシャルルの横目に見ている。


「そ、そう。じゃあ一回シャルルには離れてもらって」


「よ、よろしいんですか、それでは、教えることができませんが……」


「え? ええ、もちろん。なにルイス、そんなこと気にしてたの!」


「そんなことではございません、とても大事なことです。それに、お嬢様直々のご命令でもあります」


 ルイスはいたって真剣に答える。


「命令って、お父様のお言葉でもないのに、そんな堅いものじゃあ――」


「お嬢様――」


 ルイスは、チラリとシャルルに視線を送った。


「え、ええ、そうね。」


 エレノアは一度咳払いをして、再び口を開いた。


「シャルル、一回離れてもらえる」


「あ?――」


 シャルルの顔が曇った。ルイスの耳がピクリと動いた。


「あー、まぁ……いいわ。ああ、いいよ、離れてやるよ」


 シャルルはエレノアたちに背を向け、歩き出した。


「お嬢様――」


 ルイスが小声でエレノアに話しかけ、耳元で何かを囁いた。エレノアの首が縦に振られる。ルイスはエレノアに一礼し、シャルルの方へ顔を向けた。


「おい!」


 ルイスがシャルルを呼びつける。


「貴様は先に向かっていろ!」


「は?」


 シャルルの足が止まった。


「もういいから、先に行けと言ってるんだ」


「あ? ああ、おお――」


 理解が追いつかないのか、シャルルは少し考えるようなそぶりを見せる。少しして、何か納得がいったのか「おお、そうか。そうか!」と言い、駆け足気味にこの場を去っていく。


「逃げるなよ!」


 ルイスの声が掛かる。


「臭いでわかるからな」


 一瞬、距離は離れていっているのにシャルルの立てる足音が瞬間的に大きくなった。足取りが一段と早くなる。やがて遠くへ行ったのか、シャルルの足音が完全に聞こえなくなった。


「お嬢様。アデルバート様、それとお家についてですが――」


 ルイスの顔がエレノアの方を向く。ゆっくりと、ルイスの口が開かれた。

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