‐1336年 日ノ炎月 6日《5月6日》‐

最悪の目覚め

 肩甲骨に平たく硬い何かが当たっている。反射的に体を丸めてしまった。体中が錆び付いているみたいにギシギシと痛んだ。眉間に皺がよる。私は薄く目を開いた。


「よぉ、お目覚めか。寝心地はよかったかよ?」


 不意に聞こえた声に、思わず体が跳ねた。床に思いっきり尾骶骨をぶつけてしまい、あまりの痛みに背中が大きく後ろに反った。


 苦痛で顔を歪ませながらぶつけたところを手で抑え、少しでも痛みを和らげようと患部を撫でまわす。


 クッ、クッ、クッと笑う声がした。


「まぁ、床の上で寝てて、気持ちいいわきゃねぇわな」


 声のした方を見ると、足を組み膝の上に肘を付きつつ、どっしりと構えながら偉そうな態度で簡素な木箱の上に座っている男がいた。


 男は手のひらで顔半分を隠しながら笑いを堪えているみたいだった。


「その反応だと床の上で寝たことなんてねぇンだろう。いつもは……、あれか? ふかふかのベッドで寝てんのか?」


 そう言って男は、組んだ足を解いた後、両手を膝の上に置きこっちに顔を近づけてきた。


 シャルルだった。


 一瞬にして眠気が引き、一気に思考が巡りだす。


「ルイス?! エスペラ?!」 


 顔を右に左にと忙しなくキョロキョロとさせながら、ルイスとエスペラの名を呼んだ。


「残念、どっちもここにゃいねぇ」


「ウソっ! ルイス! エスペラ!!」


 シャルルの言葉には耳を貸さず、私は二人の名前を何度も呼び続けた。


 ダンッ! と両足で床を叩きつけながら、シャルルが立ち上がった。


「うるッせェガキだなぁァア!」


 シャルルの怒鳴り声が部屋中に響いた。サッと血の気が引き、喉の奥に声が引っ込んだ。


 私が黙ったのを確認し、これみよがしに鼻から勢いよく息を吐いた後、シャルルは再び話し始めた。


「犬は死んだし、飛竜ワイバーンはもう売っ払った」


「うそ……、嘘つかないでっ……!」


 シャルルは膝を曲げてその場にしゃがみ込み、グッと顎を突き出して一気に顔を近づけてきた。


「残念だッたな!」


 それだけ言ってシャルルは、わざとらしくドカッと音を立てながら木箱の上に座った。


 喉の奥が震え、目の前が滲んでいく。


「ルッイスっ……、エッスっ、ペラっ……」


 自然と二人の名前が口から漏れた。


 チッ、と舌を打つ音がした。


 唇を噛み、声が漏れるのを防ぐ。それでも、ふっ、ふっ、と口角から空気が漏れてしまう。


「オイ――」


 木箱の上からシャルルが立ち上がった。


 瞬間、シャルルの座っていた箱がガタガタッと音をたてて揺れた。


 シャルルは慌てた様子で、踵を引いて木箱を少し後ろにずらし、立ち上がったばかりにもかかわらず、再び木箱の上に腰を下ろした。


 木箱の中からムゥムゥ、とくぐもった声が聞こえた。


「エスペラ……?」


 木箱から聞こえてくる声が大きくなった。


 間違いない! エスペラだ! 箱の中に閉じ込められているんだ!!


 私は、もう一度大きな声でエスペラを呼んだ。


「エスペラ!!」


「ムゥ! ムゥ!」


 声とともに、木箱の内側からバンバンと何か叩きつけるような音がした。


 シャルルが拳を握り、腕を振り上げ、箱に向かって思いっきり振り下ろした。


 木箱から声と音がしなくなった。


 シャルルが鋭い目つきで私を睨み、その場から立ち上がった。ダン、ダン、とわざとらしい足音を立てながらこっちに近づいてくる。顔下半分を掴まれ、口を塞がれた。喫驚と恐怖からかバクバクと心臓が脈打ちだす。口を塞がれているせいか、それとも鼓動が速くなったからか呼吸がうまくできない。手と鼻の間にできたわずかな隙間から必死で空気を取り込んでいく。頬を掴む指が大きく沈んだ。グイッと引っ張られ、無理やり床から立たされる。膝が地面から離れた。


「目を見ろ」


 私はシャルルの言葉には従わず視線をそらした。


 指先が細かく震えているのがわかった。思いっきり手を握った。今度は腕全体が震えてきた。


 頬を掴むシャルルの指の力が増した。直後、より近くに引っ張られた。


 ゴン。


 お互いの額と額がぶつかった。思わず視線が正面を向く。


「いいか、ガキ――。次ィ、勝手こいたら……殺す――」


 頬から指が離れて膝が地面についた。腰の力が抜け、上半身がグラつく。咄嗟に床に手を付き体を支えた。心臓がバクバクと音を立てて脈打っている。いつの間にか口で息をしていることに気がついた。


 ドンドンドン、とドアを叩く音がした。


 シャルルは慌てた様子で木箱から立ち上がり、すぐさま木箱を部屋の隅へと追いやった。


「シャルル、入るぞ」


 ドア越しに聞き覚えのある声がした。


 直後、ドアが開かれシモンが部屋に入ってきた。続いて三人の犬狼人リカイナントがシモンに続いて部屋に入ってくる。


 全員が部屋に入ったのを確認し、シモンはドアを閉めた。


「ボス、到着早々すまないが、場所が場所なんでな。許して欲しい」


 シモンが、三人の中でも一際大きな犬狼人リカイナントに向かって承諾をとるかのようにして話しかけた。


 ボスと呼ばれた、大きな犬狼人リカイナントがシモンに顔を向ける。


「かまわん。……で、話とはなんだ?」


 ボス? 犬狼人リカイナントが? けど、犬狼人リカイナントの方もボスと呼ばれることになんの違和感も持っていないみたいだし、関係性がいまいちわからない。いや、もしかしたらボスっていう名前かもしれないけど……――。


「ボス、悪いが俺たち二人は今日限りで狼邸ラィビャンクから抜けさせてもらう。もちろん、土産はある。……あれだ」


 そう言ってシモンは私を指刺した。


 大きい犬狼人リカイナントは口を開くことはなく、続くシモンの言葉を待っているようだ。


「フォーサイスの娘だ。どうだ、異論はあるか?」


 シモンは私を指さすのをやめ、大きい犬狼人リカイナントの方に顔を向ける。


「異論か……」


 大きい犬狼人リカイナントは腕を組み、一度考えるような素振りを見せ、再び口を開いた。


「ない――」


 シャルルの体が動いた。と同時に、再び大きい犬狼人リカイナントは話し始める。


「――わけがないだろう。お前たちは、我が邸宅の大事な大事な使用人――」


「使用人じゃねェ! オレはテメェなンかに仕えている覚えはねェぞ!!」


 使用人という言葉を聞き、シャルルが言葉を挟んだ。


 大きい犬狼人リカイナントはシャルルに視線を向け、口を開いた。


「シャルル、貴様がどう思っていようが関係ない。貴様らが俺の下についているという事実にはなんら関係のないことだ」


 大きい犬狼人リカイナントは、再びシモンの方に向き直り、続きを話し続ける。


「出て行くことは許さん。仮に出て行くことを承諾したとしてもだ、やるべきことはやり終えてから出ていかんとな。金も用意せず、元となるものだけ用意して、あとのことは主人任せ……、使用人にあるまじき行為だ。それに、出て行く時は後任も見つけんとな?」


「後任ならいるだろ」


 シモンは言う。


「何を言っている……? 貴様らの代わりがいる、だと?」


「もちろんだ」


「おいおい、簡単に言ってくれるじゃないか。貴様らの後任だぞ。そう簡単に見つかってたまるか。発言には気をつけたほうが身のためだ。でないと……――」


「問題ない。それにしてもボス、俺たちのことをずいぶん高く買ってくれているみたいだな……――」


 大きい犬狼人リカイナントは口角を大きく歪ませ、たいそう嬉しそうにニンマリと笑う。その笑顔には、どこか邪悪さが含まれているように感じた。


「もちろんだとも! 徴収奴隷だったこの俺が、フラウギス貴族を使う!! 世界広しと言えど俺くらいだろう! 本当、貴様らは最高の使用人だ!!」


 そう言って、大きい犬狼人リカイナントは心底楽しそうに笑った。


 シャルルは上半身を前に乗り出し、一歩前に踏み出した。大きい犬狼人リカイナントの周りにいた犬狼人リカイナントたちが一斉に構える。シャルルの動きが止まった。


 しばらく笑い続け、落ち着きを取り戻した大きい犬狼人リカイナントは、再び話し始める。


「貴様らを手放す気は毛頭ない」


「もっといい、使用人が手に入ったとしてもか?」


 そう言ってシモンは、大きい犬狼人リカイナントへと視線を送った。


「なに……? 貴様ら以上だと……、そんなのがどこにいる!?」


 大きい犬狼人リカイナントは、驚いた様子でシモンに聞き返す。


「さっき紹介しただろ」


 一瞬、嫌な予感が身体を巡った。


 シモンの顔が私の方へと向いた。


 つられて大きい犬狼人リカイナントの視線も動いた。


「あれか? 仕事ができるとは思えんな」


 私のことを顎でしゃくりながら大きい犬狼人リカイナントが答える。


「別に俺たちのことだって、世話係が欲しくて置いているわけじゃないだろう。あれなら、俺たち以上にボスの心を満たしてくれると思うが?」


「ふむ……――」


 大きい犬狼人リカイナントは腕を組み、考え込み始めた。


 さっきから二人は一体何を話しているんだ? 使用人? 私が? 誰の? あの大きな犬狼人リカイナントの? 使用人? なんで? どうして? …………――――。


 頭の中に無数の疑問が浮かんでは解決されることなく消えていく。


 シモンの声がした。


「俺たちと違ってフォーサイスは元じゃなく、今現在も貴族だ。それにボス、跳ねっ返りは好きだろう」


「まぁ、嫌いではないな。しかし……――」


 何か引っ掛かるところがあるのか、大きい犬狼人リカイナント未だ悩んでいるようだった。


「それに、子供は仕込み甲斐があるぞ。想像してみろボス、生意気だった子供が年々従順になって行く様を……」


 大きい犬狼人リカイナントは思案するように目を瞑った。顔が上下に動き、小刻みに何度も頷いているのがわかる。


 やがて納得がいったのか、大きい犬狼人リカイナントは一度大きく頷いた後、目を開け、口を開いた。


「悪くない、悪くないぞ! いや、むしろ最高かもしれん!!」


「そうか、それは何よりだ、ボス。それでは、俺たちは今日限りで抜けさせてもらうということで……」


 大きい犬狼人リカイナントの顔がこっちを向いた。口角が大きく上を向いた。


 一歩、一歩と大きい犬狼人リカイナントが近づいてくる。


 互いの距離が縮まり、大きい犬狼人リカイナントの足が止まった。私のことを見下ろすようにして視線が下を向く。


「貴様は今日からこの俺、ウォルク=ダイヤ=ヴォルフに使えるのだ! 王家の血の通っているこの俺に使えることを光栄に思うがいい。では名を与えよう――」


 私の顔に向かって大きな犬狼人リカイナントの腕が伸びた。大きな手で目を覆うようにして掴まれた。細く尖った爪の先が肌に触れているのがわかる。


「今日から貴様の名は、イツポル=アリスタクラだ。心に刻め」


 今、私は何を言われているんだ……。


 言葉の意味を飲み込むことがまるでできない。


 シモンと大きな犬狼……えっと、ヴォルフ……が喋っていて、私を使用人にしようとしていて、使用人になることが決まって……? 名前を……――。そういえばお父様も新しく家に仕える人たちが来るたびに新しい名前をつけていたっけ――。え、本当に仕えることになったの……? でも、人を雇用するときは契約を交わさないと……。それに私の意思だって……いや、そもそもなんでこんなことになっているんだっけ?


行われていたことを理解しようとして、頭の中でいままで行われていた行動の一つ一つが再生されていく。


「――。イツポル! 屋敷に戻るぞ」


 ヴォルフの声がした。誰かを呼んでいるようだった。それも呼びつけるような強い口調で。


 しかし、だれからも返事はない。


「イツポル!!」


 さらに口調が強まった。ヴォルフの視線は何故か私の方向に注がれている。私は視線を注がれている人物が誰かを確認するために後ろを振り向いた。しかし、誰もいない。右を確認するとシャルルが私を見ている。左を確認するとシャルルと同じようにシモンも私を見ていた。正面に向き直る。相変わらずヴォルフの視線は私の方を向いている。よく見たら後ろに控えている狼犬人リカイナントたちも私を見ていた。全員が示し合わせたかのように私のことを見ている。


「おい! 貴様のことだぞ! イツポル!!」


 ヴォルフが真っ直ぐ私を見たまま、怒鳴りつけるようにして呼びつける。


 もしかして私のことを呼んでいる……? でも、名前が違う。私の名前はエレノア=アルバニア=フォーサイスだ。イツポルなんていう名前じゃない。なんでそんな間違いを……、意味がわからない。


 ヴォルフが、大きなため息をついた。


「せっかく名を与えてやったのにも関わらず、返事すらまともにできんとは……。頭の悪いガキだ。これは躾がいがありそうだな」


 ヴォルフは私の目の前に立って片膝をつき、しゃがんだ。直後、右腕を掴まれた。ヴォルフは右手の人差し指を立て、爪の先を私の腕に突き立てた。爪の先が肌を突き破ってつぷりと沈んだ。刺さった所から血が滲んだ。


「ッ!」


 驚きとほんの少しに痛みから、思わず声が出た。反射的にヴォルフの手を振り解こうとして腕に力が入る。しかし、全然振り解くことができない。


「己の名前ぐらいは覚えんとな。イ――」


 肌の上に立てたてられた爪が、文字を書くようにして、スッと引かれる。


「イッッ――!!」


 痛みで思わず声が上がる。私の声に構わず指は動き続け、徐々に傷が刻まれていく。


 手を振り解こうとして、精一杯の力を込めて腕を動かそうとするがびくともしない。


 痛い痛い痛いイタいイタいイタいイタいいたいいたいいたいいたいいたいいた――。


 嫌だ嫌だ嫌だイヤだイヤだイヤだイヤだいやだいやだいやだいやだいやだいや――。


 頭の中が、痛みと恐怖に塗りつぶされていく。


 突如、指の動きが止まった。


 ガタガタッという音が部屋中に響き渡っていた。


 いつの間にかヴォルフの視線が私の腕を放れ、音のする方へと向いている。


 私も、音のする方向へと顔を向ける。


 エスペラが入っているであろう、木箱が音を立てて揺れていた。


「あれはなんだ?」


 ヴォルフが木箱について尋ねる。


「大したもんじゃねぇ。気にすんなよ――」


 シャルルが答える。


 直後、箱の中からムゥ、ムゥとくぐもった声がした。


「ボス、躾の続きはいいのか……」


 シモンが泣き声に被せるようにして、言葉を重ねた。


「シモン、貴様ら何か隠しているな?」


 ヴォルフの顔がぐるっと半回転し、シモンへと向いた。


 ヴォルフはドンドンとわざとらしい足音を立てながら、力強く、シモンへと詰め寄る。


「あれはなんだ! 今すぐ答えろシモン! 主人に対して隠し事とは決して許されんぞ!!」


 ヴォルフは大声を出し、シモンを問いただす。


 シモンの口がゆっくりと開かれた。


「すまんな、ボス」


 直後、ヴォルフが取り巻きの狼犬人リカイナントに突き飛ばされた。


「グローネン! 何をする!!」


 グローネンと呼ばれた狼犬人リカイナントのお腹には短剣が刺さっていた。


「グローネン!!!!」


「失敗だ!! 逃げろ! シャルル!!」


 シモンとヴォルフの声が重なる。


 シモンの声を聞き、シャルルが木箱を持ち上げ窓に向かって投げた。


 木箱が、窓ガラスを突き破り外へと放り投げられる。


 グイッと思いっきり引っ張られ、腰を掴めれるような感覚がした。


 びっくりして思わず目を瞑ってしまう。


 目を開くと目まぐるしい速度で後ろに流れていく木々が写っていた。

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