残された者
「お嬢様ぁァ――!!」
いくら叫ぼうと、お嬢様はこちらに一瞥もくれず走り去っていく。
追いかけなくては。
連れ戻さなくては。
そして帰らなければ。
どうやって? 言葉で? 無理だ。
今さらなにを言おうと、お嬢様は私の言葉に従わない。
私は失ったのだ。信用を。
お嬢様との距離がどんどん離れていくのがわかる、物理的に? もちろんそれもある。がそれだけではない。なによりも互いの心が離れていっている。それも現在進行形で。
視線を落とし、手を見る。
お嬢様だけは、なにがあろうともあらゆる障害を取り除きこの手で絶対に守ると誓ったはずなのに……。
これじゃあ、ガキの頃からなにも変わっていない。いや、もっとだ。よりひどい。守るどころか、殺してしまうところだったのだから。
どうしてこうなった。なぜこんなことになってしまったのだ。
エリナ様に合わせる顔がない。
エリナ様、謝罪などで許されることではありませんが、申し訳ございません。私にお嬢様を守る資格はありませんでした。
離れよう。
フラウギスから。
離れよう。
アルテーニュから。
離れよう。
フォーサイス家から。
離れよう。
お嬢様から。
離れるのだ。
ルイス・ハウンド・コーデリーとして関わった全てから。
アデルバート様。最後までお力になれず、申し訳ありません。しかし、アデルバート様ならお一人でも、きっとお嬢様を守り抜けます。
エレナ様、アデルバート様。お二人からルイス・ハウンド・コーデリーというフラウギス国民として生きるための名を頂戴したにもかかわらず再び私は、トレバート・コーデットと名乗らせていただきます。
私は……。
いや俺は、もうルイス・ハウンド・コーデリーではない。俺はトレバート・コーデットだ。
伝えるのだ。起こったことを、俺の意思を、フォーサイス家に。
覚悟を決めろ。トレバート・コーデット。
屋敷に戻り次第伝えるのだ。一言一句、全て違わず。
しかし、俺一人がのこのこと戻るわけにはいかない。
こんな場所にこんな状況でお嬢様を一人にして俺だけ戻るわけにはいかない。
だが、どうやって連れ帰ればいい。
言葉ではもうどうしようもない。
誰のせいでもない、俺の、俺自身のせいで失った。お嬢様からの信頼すべてを。だから俺がなにを言おうと、どんなことを口走ろうとも、お嬢様が耳を傾けることはない。
ならば無理矢理連れ帰るしかないのだろう。
しかし、触れるというのか。この手で。触れるしかないのか。
いや、触れていいはずがない。絶対に触れてはいけない。お嬢様に、こんな危険な手で触れてはいけないのだ。
ではどうすればいい……。浮かばない。なにも。
いくら考えようと解決策は思い浮かばなかった。
途方に暮れ、手で顔を覆った。あまりのやるせ無さに手に力が入る。
爪が肌に引っかかった。傷がつくとともに軽い痛みが走る。
ハッとして、一度顔から手を離した。軽く指を曲げる。
鋭く尖った爪が目に写った。
危険を退け、守るためだけに使うと決めていたのに。むしろ危険に晒してしまった。なににも役に立たなかった。
捨てる。
そうだ、捨ててしまおう、こんな危険なもの。
右手の親指の爪の先を左手の親指と人差し指でつまむ。
限界まで空気を吸い込んだ。
息を止め、目を瞑った。
捨てるのだ。
顎に力を入れる。ギリリと歯が軋む。
空気を一気に吐き出すとともに、指先に最大限の力を込めて一気に引っ張った。
「ハァッ、ハッ、ァッ、ハァッ、ッッ、ハ、ッ、ハァッ――」
激痛と疲労が同時に止めどなく走る。
痛みのあまり身体中が強ばり、背中が丸くなる。汗があふれて止まらない。一切、力を抜く暇がない。
痛みに耐え、胸を張り、強張った体を伸ばす。
目を瞑り、息を止めた。
痛みだけでなく、苦しさも訪れる。
時間が経つに連れて、痛みよりも苦しさの方が増してきた。
肺が全力で空気を求めているのがわかる。頭がぼーっとしてきた。
すかさず息を吸った。再び痛みが体を襲う。しかし、先ほどよりも治まっているような気がする。
これをあと、九……。いや十九回……――。
いや、いまさら引くなどありえない。
親指の時と同じように、人差し指の爪の先をつまむ。
親指と同じように、人差し指の爪を引っこ抜く。
親指の時と同じだけの、激痛と疲労が走る。
息を止め、より激しい苦しさにより、一瞬ではあるが痛みを忘れる。
中指の爪の先をつまむ。引っこ抜く。激痛と疲労が走る。苦しさで痛みを上書く。
少し慣れてきたのか前の二本の指よりも痛みが少ない気がする。
同じことを、薬指と小指にも繰り返した。
痛いという感覚で、頭の中が塗りつぶされてしまうほどの激痛が右手を襲う。
次だ、次に進まなくては……。次は、左手、だ。
痛みを堪え、顎により力を入れる。
右手の時と同じように左手の親指の爪の先を、爪の剥がれた右手の人差し指と親指でつまもうとした。
しかし、うまくつまむことができない。
なぜだ。
理由を考えようとしたがあまりの痛みで頭が回らない。この状態だと短絡的な思考しかできなさそうだ。
繰り返し、何度も爪をつまもうとするが一向にうまくいかない。
痛みが増してきているような気がする。
痛みに耐えようとして、より歯を食いしばった。
そうか。
親指を口に近づけ、爪の先を思いっきり噛んだ。
時間を置きすぎたせいか、右手の痛みがどんどん増してくる。
だが、幸いにも、というべきかはわからないが、痛みが強くなればなるほど、激痛を堪えようとして爪を噛む力は増していった。
ならば、簡単なことだ。あとは引っ張るだけなのだから。
「フーッ、フーッ、フーッ――」
込めれるだけの力を込め、左手を思いっきり引っ張った。
しかし、左手は微動だにしない。
右手の痛みはどんどん増す。
「グゥーッ、ヴーッ、フヴーッ、フーッ、ブヴーッ――」
今度は左手首に右手を添え、右手で押すとともに左手を思いっきり引っ張る。
左手が大きく動いた。歯には爪が挟まっていた。
息を止め痛みを上書き、間を置かず人差し指の爪を噛む。
右手の力を借り、左手を引っ張る。
今度は一回で爪が抜けた。
一旦、苦しさで痛みを上書いたあと、すぐに次の指を噛む。
中指、薬指とこれを繰り返した。
ついに、小指の爪を噛むまでに至った。
息を吐くたびに喉が鳴り、唸り声のような音が息とともに口から漏れる。
「グゥヴゥゥゥーッ!!!!」
大きな唸り声とともに思いっきり手を引っ張った。
ついに左手の小指の爪が抜けた。
さっきから細かく浅い呼吸をやめられないが、これでひとまず両手が終わった。
しかし、これで終わりではない。まだ足がある。
いくら慣れたような気がしようと、痛みは治まるどころかどんどん増すばかりだ。
しかし、これ以上間を置くわけにもいかない。一刻も早く次に進まなくては。
体を丸めて足を口に近づけ、親指の爪を噛む。
「ヴゥゥゥゥゥゥゥゥゥヴゥゥゥ――」
足首に両手を添える。唸り声を上とともに、両手で足首を押しながら思いっきり足を伸ばした。
足はまっすぐ伸び、歯には爪が挟まっている。
これまでとは比べものにならないぐらいの激痛が走った。
苦しさで痛みを忘れようと、すかさず息を止めた。
あまりにも痛みが大きいからか、なかなか痛みが引かない。
「ハァッアッ!」
意識が飛びかけたのか、一瞬、痛みが完全に消えた。いや、実際飛んでいたのかも知れない。
本当に意識が飛んでいたとしたら相当危険だ、最悪死んでしまうかもしれない。意識を失ったのかどうか知りたいところだが、一人、しかもこんな極限の状態でそれを確かめる術はない。
だけど途中でやめるわけにもいかない。危険でもやるしかないのだ。なに、あと九回、おこなうだけだ。
足を近づけ爪を噛んだ。大きく、息を吸い、丸めた背中を思いっきり伸ばした。
==========
気がつくと全ての爪が剥がれていた。
終わったのだ。やり切ったのだ。
これでお嬢様を傷つける危険性が無くなったという訳ではないが、爪があった頃よりはマシだろう。
あとはお嬢様を迎えに行き屋敷まで連れて帰るだけだ。
鼻から空気を取り入れ、お嬢様の匂いをたどる。
向かうべき道が視えた。
足に力を込め、地面を蹴った。
しかし、いつものように強く地面が蹴れない。いつものような速度が出せない。
いや、逆に考えればまともに力を込めることができないということでもある。
ここは、お嬢様の危険がより減ったと考えよう。
そうだ失ったものについて考えても仕方がない。それらが再び手元にもどるわけではないのだから。
とにかくいまは最大限の速度で、いち早くお嬢様の元までむかうことだけ考えよう。
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