逃走の果て、

「はッ、ハ、ハッ――」


 ドタドタとおぼつかない足どりで、道なき道を走る。


 足を踏みしめるたびに、落ち葉がカサカサと音をたてる。


 少しでも多く空気を取り込むため、開きっぱなしになっている口からは、飲み込み切れなかったよだれが垂れ流しになっている。


 それでも足を止めることなく走り続け、必死で呼吸を続ける。


 だけど、いくら続けようと、呼吸は楽になるどころかむしろ苦しくなるばかりだった。


 少しでもいいから楽になりたい、そう思い、限界まで息を吸った。しかし、空気とともに口内にたまった唾も一緒に吸い込んでしまい気管に入った唾に体が拒否反応を示し、思わず咳ごんでしまう。


 咳により唾が口内を跳ね回る。そのうち数滴が鼻腔を通り鼻を刺激した。


 耐え切れず、大きなくしゃみが出た。頭が大きく前に振られる。


 疲れ切った体が全力のくしゃみの勢いを受け止め切れるわけもなく、そのままに地面に頭を突っ込むようにして倒れ込んでしまう。


 すぐさま立ち上がり、また走り出そうと前足に力を込めてみるが思うように力が入らない。


 追い討ちとばかりに体の奥底に押し込めていた疲労が、体全体に広がる。


 一度止めた足を再び動かすことがこんなにも体力が必要とは思わなかった。


 今自分にできることは、呼吸しかなかった。


 とにかく、吸って吐く。ひたすら続けられるだけ続けた。


 何度も続けていると、なんとか立ち上がれるだけの力が戻ってきた。


 前足に力を込めようとした時、視線を感じた。それも一つではない。


 無数の得体の知れない何かに見られている。


 さっきまでよりは確実に、体力は戻っているはずなのに、なのになぜか立ち上がることができない。


 力を込めた側から力が抜けていく。


 体の内側から何かに叩かれるような感覚がした。


 その感覚は時間が経つにつれ力を増し、音と音の間隔がどんどん狭まっていき速度を早めていく。


 叩くのに合わせて、ドッ、ドッ、という音が身体中に響く。


 気が付くと身体全体が震えていた。


 胸のあたりに、違和感を覚える。その違和感はどんどん存在感を増していった。


 胸が苦しくてたまらない。楽になりたい。


 苦しさのあまり、無意識のうちに口が開き息が吐き出された。少しだけ楽になれたような気がした。


 楽になりたくて何度も何度も息を吐く。


 しかし、大きくなり続ける違和感に対して息を吐くだけでは、まるで追いつかない。


 少しでも追いつけるように、もっともっと息を吐いた。


 空気が喉に引っかかりカハッ、カハッ、と声が出た。


 すると、声と一緒に胸の違和感も外へと吐き出されたような気がした。


 そうか、声を出せばいいのか。なら声を出し続けていたらその内この違和感は消えるはずだ。


 吸い込めるだけ息を吸い込む。胸が大きく膨らんだ。


 もうこれ以上吸い込めないというほど空気を取り込んだところで一度息を止め、喉に力を込めた。


 一気に、力一杯、声を乗せて息を吐き出すと、口からは赤い息が吐き出された。


 目の前に生えている草花が赤い息に包まれる。


 草花は一気に真っ黒に染まり、パチパチと音を立てて崩れてしまった。


 赤い息が通った後には、黒くなった草花の残り滓だけがある。


 なにが起きたんだ?


 わけがわからず、意味もなくキョロキョロとあたりを見回す。


 ガサガサと音をたてて草木が揺れ始めた。


 キィキイ、ガァガア、グェグエ――。


 四方八方からいろんな鳴き声がした。荒々しく真っ赤な音の波が視界一面に広がる。


 逃げなきゃ……!


 足に力を込め上半身を持ち上げた瞬間、草木の揺れが勢いを増した。


 こちらを覗く視線に圧力を感じる。それにどうやら数も増しているようだった。


 体の奥底から震えが起こり、力が抜けていく。


 今すぐにでも逃げ出さないといけないのに、もう動き出す気力すら湧かない。


「……――」


 鳴き声に紛れて微かに声が聞こえた。


 赤い波に紛れていて見えづらいが、黄色い波が漂っていることに気がついた。


 他とは経路の違う気配を放つ、二つの視線を感じた。


 それらはこちらに向かって徐々に近づいてきていた。



 ==========



「おい! 見ろよあれ、火だぜ!」


 剣を担いでいる男が、弓を手にしている男に向かって話しかける。


「自然発火……ではない、だろうな」


 弓を持つ男の右手が後ろに回る。


 剣を担いでいる男の口角がニヤリと上を向いた。


「てェ事は獲物だな――!」


 男は肩に担いでいた剣を構えながら答えた。


「いや、この辺りで火を起こせる生物の目撃情報は少ない。同業者が起こした……と考えるのが妥当なところか」


 弓の男は、剣の男に諌めるようにして言う。


「おいおい、火を起こせる生物といやぁ大物だらけなンだぜ。少しぐらい夢見たッてバチは当たんねーだろうが」


 剣の男は空いている左手を前に出しながら、訴えるように言う。


「無駄な夢はみない主義だ」


 弓の男は、こともなげに答える。


 剣の男の構えられている手が下がった。漂わせていた緊張感が一気に霧散していく。


「つまんねーヤツ……――」


 男は構えていた剣を再び肩に担ぎ、軽く地面を蹴った。


「どちらにしろ確認はする。気を抜いている暇はないぞ」


「おー――」


 剣の男は、腰を落とし剣を構え直した。顔の真剣みが増す。


 突如、鳥や獣たちが声を上げ鳴き始めた。


「ずいぶんな盛り上がりじゃねぇか。奴さん、相当嫌われたみてェだな」


「不用心なことだ。いや、それとも自信の表れか……?」


「どっちでもいいだろ、そんなこと。見りゃわかンだしよ」


「おい、絶対に気は抜くな」


「わぁッてるよ」


 剣の男はやや小走り気味に歩を進める。鳴き声に紛れているからか、それとも男に元から備わっている技術なのか、不思議と足音はしなかった。


 草木が激しく揺れ始め、ガサガサと音を立てて擦れ始めた。


 バサバサと翼をはためかせるような音が聞こえる。


「おいおい、さすがに盛り上がりすぎじゃあねーか?」


 剣の男はあたりを見回しつつ言う。


「なぜだ、なぜ反撃しない……――」


 弓の男は眉間にしわを寄せ、ボヤくようにしてつぶやいた。


「わかったぜ! 反撃しないってことは、それだけ自身があるってこッた」


「逆の可能性だってある。弱すぎて反撃すらままならない、とかな」


「お前にしちゃあ、やけに根拠のない論法だな。弱いならなんで警戒されてんだ?」


「火を起こせるからだ。基本、生物は火を恐れるものだからな」


 しかし、剣の男はニヤリと口角を吊り上げすぐさま反論した。


「いーや、違うね! 引っ張れるだけ引っ張って一気にヤるつもりなんだろうよ。いやぁ奴さん、わかってるねェ」


「そうかもしれんな――」


 弓の男の返答を聞き、剣の男の顔に喜びと驚きの表情が浮かぶ。


「大物と思いたいお前からすれば、だがな」


 しかし、続く言葉を聞いて呆れの表情を浮かべた。


「もうすぐ見えるぞ。どちらにしろ戦闘にはなるだろう。気を引き締めろ」


「わぁッてるよ。……あ、ちょっとまて」


 二人の男の足が止まる。


「なんだ?」


「どうせなンだしよ、賭けねェか? もちろん俺は強くて大物。で、お前は弱くて小物」


 弓の男が深いため息をつく。


「ものは、そうだな……。利益を七対三ナナサンでどうよ!」


「――。九対一キュウイチだ」


 剣の男はヒュウと口笛を吹く。


「強気だねぇ……」


「どうせ、低いんだ。これぐらいでないと割りに合わん。それよりも、音を立てるな不用心すぎるぞ」


「――……勝つ気満々じゃん」


「いくぞ」


 弓の男は矢筒から矢を一本抜き取り、つがえる。


「了解」


 剣の男は腰をより低く落とし、最新の注意を払いながら歩を進める。


 二人の男は茂みに身を隠しつつ慎重に身を乗り出し対象を確認した。


「おいおいマジかよ……ありゃ――」


 剣の男は口角を大きく吊り上げながら弓の男に顔を向ける。


「―― 飛竜ワイバーン、か……?」


 弓の男は訝しみつつ答える。


「間違いなく、大物……! それも大物中の大物だぜ、ありゃあ……!!」


「いや、にしては小さすぎる。まだ子供なのかも知れん。ならば、大した金にならんかもしれんぞ」


「そんなもん売り方次第でどうとでもなんだろ」


 剣の男の口元が大きく緩む。


「ハ! 最高の仕事だぜ! しかも九対一キューイチ!!」


 剣の男はこれ以上無いくらいの喜悦の表情を浮かべている。


 剣の男の言葉に、弓の男は納得がいかないといった表情を浮かべた。


「最高の仕事という点は同意するが最後のは聞き捨てならんな」


 弓の男は眉間に大きく皺を寄せながら言った。


「は? 間違いなく大物だろうが、なら俺の勝ちだ」


 弓の男は軽く鼻から息を吐き、答えた。


「よく思い出せ、お前はこうも言ったはずだ。強くて、とな」


飛竜ワイバーンなんだツエーに決まってる」


「だが、まだ子供だ」


 沈黙の後、弓の男は息を吸い大きくため息をつき口を開いた。


「なら――」


 間髪入れず剣の男が続く言葉を発する。


「確かめるしか、ネェな――!」


 二人の男は、同時に茂みから飛び出した。

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