初めての家出 3
大声で泣いているうちに落ち着きを取り戻した私は、所々しゃっくり混じりになりながらもなんとか口を開きしゃべっていく。
「
私のしゃっくり混じりの言葉になっていない言葉を、ルイスは時々頷きながらもただじっと黙って聞いてくれていた。
「
しゃべっているうちにだんだんと涙はおさまってきたが、しゃっくりはいまだやまず、相変わらず言葉は言葉になっていなかった。
口を閉じ、息を止め、喉元を迫り上がってくるしゃっくりに合わせて一度、ゴクッと、口の中に溜まった唾を一気に飲み込んだ。
「――っん。それでなわを窓から垂らして……、それをつたって外に出ようって……思って」
ルイスは大きく、深いため息を一息をつき、ゆっくりと口を開いた。
「それで失敗して悲鳴をあげてしまったと――。お嬢様、なぜそんな危険なことを……。どこか、お怪我は――?」
ルイスは私の腕や背中、腰、関節など、体のあちこちにそっと触れながら、私に怪我がないかを確かめ始めた。
「うん、大丈夫。どこも痛くはないしケガも大丈夫だと思う……」
ルイスは、肩をつかみ私の目を見て話し始めた。
「お嬢様、何度でも言わせていただきますが……、どうか危険なことだけはなさらないでください。もしも……もしものことがあったらどうするのですか」
ルイスは私から目線を外し、うつむいた。
「本当に……――」
私の肩をつかむルイスの手に力が入る。
「本当に無事でよかった――」
ルイスは肩に置いていた手を背中まで回し、グッと私を抱き寄せた。ルイスの心臓の音が聞こえる。ルイスの体は微かに震えていた。
「ごめんなさい……――」
ギュッと口を閉じ、ルイスの胸に顔をうずめる。
一呼吸ほどして、ルイスは再びそっと肩に手を置き、ゆっくりと腕を伸ばして私を胸から遠ざけた。
ルイスの両手が私の両頬を包み、うつむく私の顔を持ち上げた。自然と互いの目が合った。思わず視線をそらしてしまう。「お嬢様」と声がした。恐る恐るルイスの方を見る。ルイスの瞳に街灯の光が反射してキラリと光った。
「なぜそうまでして外に出ようとしたのです――。ちゃんと、話してくれますね?」
深く、ゆっくりと、首を下げる。ルイスの手が私の頬を離れた。
「――夢を見たの。二匹の
ルイスは私の目を見て、ただじっと話を聞いてくれている。
そうだ、理由もそうだけどまず、なによりもまず、これだけ、これだけは言わないと――。
私はグッと唾を飲み込み、口を開く。ルイスと、そして自分に自身に言い聞かせるように、はっきりと、言葉を声に出す。
「ルイス、心配かけてごめんなさい」
ルイスが大きく深く頷いた。
「お嬢様、もう危ないことはしないと約束していただけますか?」
「うん、約束します。もう危ないことは絶対にしません」
「約束ですよ」
ルイスは右手で拳を握り、小指だけを立てて、その手を私の目の前に差し出してきた。
私も右手で同じ様な形をつくり、ルイスの右手に近づける。そして、お互いの小指を重ね、握り、同時に同じ言葉を唱えた。
「「ゆびきりげんまんうそついたらはりせんぼんのーます。ゆびきった」」
言葉が終わるとともに互いの小指と小指を勢いよく放した。
「それとね、もう一つ謝りたいことがあるの……。わたしのせいで見張りの人たちにイヤミを言われていたでしょう。ねぇ、ルイス。本当にごめんなさい」
「あの程度のことどうってことありませんよ」
ルイスは私に軽く笑ってみせた。
ルイスの耳がピクリと動いた。
「おっとお嬢様、どうやら見張りの方々が戻って来た様です。お嬢様が見つかってしまうと少し手間がかかってしまうかと思われますので、申し訳ありませんが先に戻っててもらってもよろしいでしょうか」
「ええ、わかったわ」
「ありがとうございます。私も話が終わり次第すぐに向かいます」
私は一度頷き、誰にも気づかれないように、見張りが来るであろう方角とは反対方向に向かって小走りで駆けていった。
==========
屋敷に向かってしばらく一人で歩いていると、後ろから誰かが駆けてくる音が聞こえてきた。
後ろを振り向き確認をすると、四つ足で駆けてくる影が一瞬だけ見えた。直後、風切り音がした。前に向き直ると、そこには背筋をピンと伸ばし姿勢を正したルイスの姿があった。
「お嬢様、お待たせしてしまい申し訳ございませんでした」
だけどよっぽど急いでいたのだろう、耳を澄ますと草木が揺れる音に紛れて、ゆっくりと深く息をする音が聞こえた。
「ず、ずいぶん早かったのね」
驚きと、ほんの少しの呆れからか、喋り出しに少し躓いてしまう。
「こんな夜更けに、長時間お嬢様をお一人にさせておくわけにはいきませんので、それに何かあってからでは旦那様に顔向けができません」
お父様が私を心配する、か……。たしかにたった一人の跡取りだ、気にかかけてはいるのだろう。しかしお父様が、跡取り以上の興味を私に向けているとは思えない。病気のことだってあるしそれに、私は女だ。代わりを立てる可能性だってありえる。お父様が私を心配しているだなんて、到底そうは思えない。
「お父様がわたしのこと気にするかしら」
やや投げやりな態度で前に向き直る。まるで小石を蹴るみたいに、足を振り子のように振りながら、前に歩を進める。
「お嬢様、そんなことはありません。旦那様はいつもお嬢様のことを気にかけておられます」
「本当に? だって、ちっともわたしと話そうとしてくださらないのに?」
「ええ、本当ですとも。ここだけの話、旦那様は口下手なのです」
まさかルイスがお父様についての冗談を言うなんて……。
驚きとともに後ろを振り返ると、人差し指をピンと伸ばし、それを口に当てているルイスの姿があった。
その仕草はルイスなりのユーモアだろうか。たしかに少し空気が重くなってしまったかもしれない。ならばこちらもユーモアで返すのが礼儀というものだろう。貴族たる者、礼節を欠くようなことがあってはならない、こちらも全力で応対せねば。
「まぁ! 主人の陰口を言うなんてルイスは悪い従者ね」
……。全力で答えたはいいがこれは、少し意地悪だったかもしれない。
言葉に出してしまった以上もう既に手遅れではあるが、心に少しだけ後悔が募る。
「陰口だなんてとんでもございません。私は事実を述べたまでです」
私の心を知ってかしらずか、ルイスはやや大仰な身振りで慌てたように体を反らせて手を左右に振っている。
「ふふ。なにその言い方、全然かばいきれていないじゃない、ルイス」
ルイスの反応に私は思わず笑みをこぼしてしまう。
「おっと!? 私としたことが……」
ルイスは両手で口を押さえてキョロキョロとあたりを見回している。
「ならお母様はどうかしら?」
お父様の次はお母様だ。今度はどう答えるだろう、少し気になる。答えが楽しみだ。
「もちろん、奥様もお嬢様のことを心配しておられますよ」
ルイスは先程よりもやや真剣味を増して答えた。
もう冗談を言い合う時間は終わりということなんだろう。この場限りの冗談とはいえ、ルイスがお母様のことをどう思っているかが聞けるチャンスだっただけに、少しだけ残念だ。
「はぁ……、だとしたらもっと態度に表してもいいと思うのよね。お母様ったら私に会ったらいっつもぐちぐちぐちぐち。お小言ばっかり」
そう言って足元の小石を軽く蹴った。
「お嬢様、はしたないですよ」
「……――。ほんともう、いやになっちゃう。この家で私のことを本当に気にかけてくれているのはルイスだけって思っても仕方がないと思うのだけれど。ねぇルイス?」
やや首を横に傾げ、斜め下から顔を覗き込むような格好でルイスに問いかける。
「旦那様も奥様もいつもお嬢様を気にかけておられます。賢いお嬢様なら分かっていただけると、ルイスはそう思っておりますよ」
予想はしていたが、求めていた返事ではない。
「そうね、ルイスの言う通りわたしは賢いから、本当は全部わかっていたわ。でも――」
夜空を見上げ、大きく息を吸い、一度、長い長いため息を吐く。
「――少し、寂しい気持ちになっただけ。ただそれだけ……、たいしたことじゃないわ」
「お嬢様、夢を本にするとおっしゃっていましたが、一体どんな夢を見たのですか? 本に書き示したくなるほどの夢とは。私、実は気になっておりまして、是非ともお聞かせ願いたいのですが、よろしいですか?」
「聞きたい!? いいでしょう。よく見てなさい!」
ルイスに夢の内容をちゃんと伝えるべく、私は大仰な身振り手振りを交えながら夢の内容について語っていった。
二匹の
赤い
非力ながらも、白い
傲慢な赤い
けど実は、白い
それに激怒した赤い
全てを演じ終えるころにはほんのり顔が熱くなっていた。ちょっと激しく動きすぎたかもしれない。おそらく今私の顔は赤に染まっているのだろう。
「それは、随分とすごい内容ですね。まるで演劇を見終えたかの様な気分です!」
「ね! これはもう形にするしかないでしょ! でも文章にするのがなかなか難しいの……」
「私に話してみせてくれたのと同じ様に書けばよろしいのではないのですか?」
そんなのんきな質問に対して私は、右手の人差し指を立ててルイスの目の前に掲げる。
「ルイス、あなたは何もわかってないわ。本には文字しか書いてないのよ」
「と言いますと?」
「景色や動きが見えないってことよ。だから代わりに文字で景色や動きを見せなきゃいけないの」
「お嬢様ならできますとも」
いくらルイスとはいえ、この返しはない。さすがの私も呆れてしまいそうだ。
「もう、ルイスったらさっきからおべっかばっかり、わたしの話、本当にちゃんと聞いてたの?」
「ええ、もちろんです。それにおべっかではありません、すべて心の底から思っていることです」
はぁ……――。
ルイスは何もわかっていないようだ。
ルイスに対する呆れと、本がうまく書けない挫折感に同時に襲われ、思わず肩がガックリと落ちる。
「あのねぇ……。そもそもうまく書けなかったから外に出ようとしたのよ、わたしは。」
そう、今の私だとうまく書けなかったのだ。
うん……やっぱり、やっぱりこのまま帰るは嫌だ。――だけどルイスは許してくれるかな……――。
目を瞑り、一度深く考えてみる。
うん、やっぱり気持ちは大事だ! 私は今日行きたいと思ったのだ。ここはもう覚悟を決めて言うしかない。
「ねぇ、ルイス……。あのね、やっぱり今から森に行っちゃだめ……?」
「い、今から……ですか?」
まったくもって予想していなかった言葉だったのだろう。ルイスにしては珍しく言葉に詰まってしまっていた。それに、よほど驚いたのだろう、ルイスの真っ黒いまんまるの真珠の様な瞳が大きく開かれ、目蓋からその全容を覗かせる。水を口に含んでいれば噴水の様に吹き出していただろう。間違いない。
驚くルイスを他所にすかさず言葉を続ける。
「お願いルイス、後は景色の描写がうまく書けるかどうかだけなの……――」
「お嬢様、今からというのは流石に……。それにここまで暗いと碌に景色も見えず目的が果たせないのでは……」
「ルイス、その場の空気というものは目だけで感じるものではないでしょう、景色が良く見えないくらい何よ! 何よりもその場に行って感じとるのが一番大事なはず。お願いルイスどうしても森に行きたいの――!」
「お嬢様、流石に本日、それも今からというのは……流石に承諾いたしかねます。そうですね……。明日の……お昼からでしたら――」
「明日じゃダメなの! それに鉄と女は熱いうちにって本に出てくる
「お嬢様、あまりそう言った表現は控えた方が……」
「そうなの?」
今の表現のなにが不味かったのだろうか? 今の私の気持ちを表すのにピッタリだと思ったのだけどどうやらルイス的には良くないらしい。
「わかったわ。次からは気をつけます」
「ええ、お願いします」
そう言ってルイスは軽く頭を下げた。
「いや、そうじゃなくて! ルイス、やっぱり今から森に行っちゃ、だめ……?」
「お嬢様、申し訳ありませんが……」
ルイスの口からこれ以上言葉は出てこない。
「そうよね、ごめんなさい……」
ルイスの返事を聞いて、足取りが一気に重くなるのを感じた。肩に重りでも乗っているみたいだと思った。
歩けば歩くほどに足取りが重くなっていく。前を歩いているルイスの足が止まった。こっちに振り向いたのが見えた。
待ってくれているのだろう。だけど、それで歩く速度が速くなることはなかった。気持ちを立て直すというのはものすごく難しい。
力なくゆっくりと歩を進める。一歩踏み出すごとに徐々に頭が下を向いていく。
「お嬢様!」
後ろからルイスの声がした。どうやらいつの間にか追い越してしまっていたようだ。しかし俯いたまま歩いていたためか、いつも間にかルイスを追い抜かしていたことに今の今まで気がつけなかった。
ルイスに返事をしないと、無視というのはあまりにもわがままだ。だってルイスは何も悪くはないんだから。こればっかりは私が悪いのだから。
だけど、それを受け入れられるかはまた別の話だった。
「なぁに――?」
なんとか後ろに振り向き返事を返すが声に感情が乗らない。
ああ、私はなんて嫌な子なのだろう。自分で自分のことが嫌いになりそうだ。
「今回だけですよ」
今回だけ、一体なにがだろう。言っている意味がわからなかった。
「森に行くこと、今回だけ。特別ですよ」
森に行く、今だけ、特別? 言葉の意味が処理しきれない。どういうことだ。
だって森にはいけないって? けど今回だけ? 特別に森に行く?
同じ言葉が文字となって何度も脳内に浮かぶ。
「どうしたのですか。ほら、行きますよ」
心臓の音が聞こえる、目に光が灯った気がした。
もし私が恋愛小説の主人公ならば、今この瞬間、ルイスに恋をしていたかもしれない。いや、かもしれないではない、間違いなく恋に落ちていた。
森に行く。この言葉は、今の私にとってはこれ以上ないくらいの殺し文句だった。
「ほ、ほんとに!?」
「ええ、本当です」
「い、いいの、森に行っても」
あまりの事に、信じきれず何度も確認をとってしまう。
「ええ」
「ほんとのほんとの本当に!?」
「本当の本当の本当にです」
何度確認をとっても、返ってくる言葉が変わることはなかった。
「どうしたのですか、ほら行きますよ。――それとも行かなくても良いのですか?」
ルイスの言葉に私は大きくブンブンと首が取れそうなくらいの勢いで横に振った。
「いく! 行きます!!」
先ほどまで体を重くしていたものはどこへいったのか。天にも届きそうなくらいの大きなジャンプをし、大急ぎでルイスに駆け寄って、一緒に家の裏にある森へと向かっていった。
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