#9 暗闇で感じるもの

「ちょっと待って」


 もう一度、その辺りでマグライトを揺らす……手応え有り……角か?


「……曲がり角だ。一本道じゃなかったのか?」


「あ、ここ、ジグザグなんだよ。曲がり角ってことは、ここから水槽ゾーンなんだね。ネイデさんが言ってたんだ。普通の水族館って通路に対して平行に水槽面があるのに、ここの通路は通路に対して水槽面が三角、つまり二面飛び出していて、それが牙みたいに両側から飛び出しているもんだから、結果的に細くてジグザグの通路になっているんだって」


 確かにさっきまでの通路と音の質感が変わった気がする。

 響いている音はそれほど高くはないから、やっぱりガラスではないはず。

 足元にガラスの破片があるのとないのとでは歩きやすさが全然違う。

 特に暗闇の中では……いやさすがにもうそろそろ明かり点けてもいいんじゃないか?


「そっか。でもそういうことなら、そろそろ灯り点けようか?」


 あるはずのものを確認し続けている時はそこまで怖くはないのだけれど、暗闇の中で出会う曲がり角はけっこう心臓に悪い。


「……んー。でも、道は一本だし、大丈夫じゃない?」


 何が大丈夫なのか分からない。

 トワさんはマグライトのスイッチについて知ってか知らずか、とにかく手を放してくれない。


「それに……顔見られながらだと、ちょっと恥ずかしいし……あたし、顔に出やすいみたいでさ。キチ野郎にも、とぼけたの見抜かれたみたいでね。結局その後つきまとわれるようになっちゃって。事あるごとに付き合ってほしいとか言ってくんの。冗談じゃない。あたしは確かにAV出たことある女ですよ。でも軽い女じゃないんです。信じてもらえないかもしれないけれど、好きじゃない人には触られるのも嫌だし」


 こうして手をぎゅっと握られた状態でそういうこと言われてもな……。

 自意識が過剰になりそうだからとトワさんから意識を外へ広げる。

 いつの間にかカビ臭さはなくなっていて、でも、かわりになんか磯の香りが満ちてきているような……え、でも営業しなくなってからどれだけ時間経っているんだっけ?

 二十年……いや三十年近くか。

 こういう香りって、残っているもの?


「きっとね、尾行されてたんだと思う。いつの間にか自宅もバレててね、休日にばったり会うんだよ。服を買いにいって店から出るとそこに居るの……気持ち悪くって怖くって。でも、脅してきたり、迷惑メールしたりとかはいっさいないの。いつも偶然会った風を装って挨拶してきて、すぐ離れてくんだけど去り際に『付き合ってほしいなぁ』とかボソって言うの。恐怖でしょ」


 話を聞きながら、さっきトワさんがあの男を殴っている時のことを思い出していた。

 あれだけ殴る背景には、それなりの理由が隠れているんだな。


 柄の先に当たる音が増える。

 僕はトワさんを制しながら立ち止まり、もう一度確認してみる。

 やっぱりだ。正面には壁。

 するとここで九十度向きを変えなきゃなんだな。

 ギザギザ配置の水槽通路か。

 こういう配置も周りを水に囲まれている感じで案外悪くないのかもしれない。


 ちゃぷ。


 今の音、水?

 近くではないようだけれど……。


「トワさん、何か聞こえなかった?」


「コンコンって壁を叩く音以外は、なんにも」


 気のせいなのかな。

 水槽を強く意識し過ぎちゃったのかな。

 自分の耳に入ってくる音が本当の音なのか、それとも不安が闇の中で大きくなって聞こえただけの幻聴なのか、わからなくなりかけてる。


「だよね」


 僕らは再び歩き始める。

 オカルトめいた漠然とした不安だけではなく、ここは前後を塞がれたら逃げるのが厳しそうだという具体的な不安もあったし。


「……で、キチ野郎さ、あんまりにもしつこいから、あたしとうとうブチ切れてね。それって脅してるの? 付き合わないって言ったらそのDVDを会社でばらまくの? って詰め寄ったのね」


 そういや彼女、脅されてたって言ってたよな。


「そしたらね、『他の男には見せたくないから、ばらまいたり、どこかにアップしたりはしない』って言い出したのね。PCに入れておくとハッキングされてデータを抜かれるかもしれないから、いつも持ち歩いている小型のハードディスクにしまっているとか、もともとAVもあたしの事可愛いと思ったからずっと取ってあったとか……正直反吐が出た。でも、逆にチャンスって思ったの。そのデータを取り戻しさえすれば、キチ野郎があたしに付きまとう理由を奪えるって考えて。だからこの廃墟ツアーを知った時、あいつに持ち掛けたんだ」


 持ち掛けた?

 まさか、殺そうと……?

 さっきのトワさんの剣幕が脳裏に蘇る。

 僕の握っているこの手は……じっとりと手のひらに汗がにじんでくる。

 そのタイミングでマグライトの柄がまた宙を切る。

 角があるってのはわかっているはずなのに、やっぱり心臓に良くないな。


「ハードディスクのデータと元のDVD、ダビングしたりコピーしたりしたもの全部あたしにちょうだいって。その代わり、一日だけ付き合ってあげるからって。あたしのこと撮影禁止って条件付きでも、キチ野郎は飛びついてきたよ。条件付けたのは『一日ってことは二十四時間だよね?』とかしつこく確認してくるからだったんだけど、なんか色々細か過ぎて本当嫌だった。もちろん一日恋人っていう設定も、何でも言うこと聞く奴隷じゃなく、気に入らないことは拒絶したり、生理来たって言って土壇場で一線守ったり、そういうことへの布石なのね」


 また正面に壁。

 向きを変えた僕に合わせて彼女も歩く方向を調整しているようだ。


「このツアーが見つかる前、場所はホント困ってたんだ。キチ野郎をあたしの家に上げるのは絶対嫌だったし、キチ野郎の家に行くのも隠しカメラとかありそうで怖かったし、完全な二人きりも嫌だからどこかに宿取るとかも避けたかったし……そして、ちょうど行こうと思ってたこのツアーを選んだの。テントなら、いざとなったら周囲の人に助けを頼めるかなとか、あと頭のどこかにミラーハウスの噂がこびりついていたのかも。キチ野郎の人が変わって、いっそあたしのこととか全部忘れてしまえばいいのに……そんなこと夢想したりもしてた……」


 暗闇というものは欠片でも不安を抱え込むとどんどんそれを育ててゆく。

 今、手をつないでいるはずのトワさんは、本当にそこに居るのだろうか。

 僕の日常からかけ離れた物語が語られるにつれ、彼女自身に対するリアリティが闇の中に消えていってしまう。

 ドラマチック過ぎてツクリモノなんじゃないかとさえ感じる……ツクリモノ……もし彼女が今、無表情な顔をしていたら……急にドイツ語をしゃべり始めたら。

 いや、トワさんがトワさんのままだとしても、僕が壁を確かめるこの音に紛れて静かに近づいている誰かが居たとしたら。


 また角。

 さっきよりはドキドキが小さい。

 慣れてきたのだろうか。

 それともこの闇に絡め取られて麻痺していっているのだろうか。

 なんだか空気が冷たくなってきた気がする。

 この温度の変化は、気のせいじゃないよね?


「ここ着いて自由行動になってから、それとなくミラーハウス誘ってみたんだ。キチ野郎はついて来たよ。ミラーハウス、一階はけっこうガラス割れててアレだったけど、二階は一室あるだけの展望ルームが綺麗だったよ。けど気味が悪かったな。中世のお姫様の部屋って感じの内装なんだけど、肌寒いっていうか……こんな季節なのにね。そう、ここみたいに」


 気のせいじゃないのか。

 自分だけ感じているわけじゃないという安心感と、なんで寒くなるのかという原因のわからない不安とが混ざり合う。

 なにかしらの理由をこじつけて優勢になろうとする不安を、ささやかな安心感でなんとか抑え込む。


「妙に冷えてきたよね……地下だから涼しいのかな。ほら、鍾乳洞みたいな」


「そだね。ホント」


 トワさんとの物理的な密着度が確実に高くなっている気がする。


 ……なにやってんだ僕は。

 当初の目的を心に強く取り戻さないと。

 僕はトリーを迎えに来たんだってのに。


 自分というものがあやふやになりやすいのは、暗闇の中に居るからなのかもしれない。

 暗闇では自分の境界そのものが分からなくなってくる。

 どんなに目を見開いても何も見えないせいか、いつもは視覚で確認していた「境界」を視覚以外の感覚で判断しようとしてしまう。


 例えばトワさんに触れている右手は、触覚でそこに自分の右手が存在することを認識しているけれど、マグライトの柄で壁を探し続けている左手は本当の手の長さよりも遠くで鳴る音を聴覚で認識して、左手の境界を実際よりも遠くに感じている。

 自分がマグライトを握っているのは理解していても、壁を叩いた手応えは「マグライトの先」に留まらずに「自分の手の中」にも伝わっていて、頭じゃなく感覚で「そこ」ではなく「ここ」にあるように感じてしまっているんだ。

 自分という存在が闇の中に溶け出しちゃっているんじゃないかという自身に対する不信感は、こういう闇を体験するまで味わったことなんてなかった。


 僕はちゃんと僕自身の姿を保てているのだろうか。

 そして大切な想いをも、自分の内側に留めておけているのだろうか。


 次に触れた正面の壁は、マグライトの柄だけじゃなく、ちゃんと左手そのものでも触れてみる。

 ……大丈夫。

 僕は僕のままだ。


「……続き、話すね。ミラーハウスに行ったときはね、まだ全然明るかったんだ。外だってそこそこ暑かったんだよ。だから空気の入れ換えも兼ねて窓でも開けようかなって近づいたのね。でも窓ははめ殺し。いざとなったら大声出して人を呼ぼうかなとか、飛び降りて逃げようかなとか考えていたからちょっとがっかりしてたんだ。そしたらその時、あたし気付いたの。キチ野郎、いつの間にか三脚とカメラをセットしてて。約束違うじゃないってあたし怒ったんだよね。そしたらキチ野郎、本性が出たっていうか逆ギレかましてきたんだ。『自分は約束守っています。君のことは映してない。約束したから。でも君は鏡を撮ることまではダメだと言っていない。鏡の中に何が映り込んでいても、君との約束には抵触しない』って。すげー屁理屈。あーもう腹立つ!」


 そのとき不意に、背中がぶるっと震えた。

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