〝獅子〟の剣/4
アーロウとレグルスを見送ったセレンは、祭壇と講演台の前にある会衆席に腰を下ろす。
目を閉じ、両手を組み、十字架に向かって、祈りを捧げる。
(二人が無事でありますように……)
目を開けると、脇腹になにかが擦り寄る感触がした。立派なたてがみと背中には竜の翼を生やした仔猫のようなライオン――
「くすぐったいわよ、リェフ」
獅子竜を膝の上に乗せ、頭を撫でる。リェフはごろごろと喉を鳴らした。本当に猫だ。
「セレン、もういいかい?」
奥の扉から若葉色の髪と瞳を持つ少年が顔をのぞかせていた。
「もういいよ、アドニス」
「――みんな!」
アドニスが呼びかけると、
「セレン!」
そばかすのロミオを筆頭に、おさげ髪のジュリー、人形持ちのパト、最年少のピーター――子どもたちが一斉に部屋を飛び出し、セレンのもとに集まる。
「セレン。お歌、歌ってー」
ジュリーがせがんだ。
「セレンの歌、昼寝にはぴったりなんだよな」
ロミオの一言に、ジュリーが「こら!」と怒った。
「はいはい。――じゃあ、ちゃんと座って聴いてね」
セレンはリェフを会衆席に置いて、立ち上がる。
「はーい」
元気のよいお返事が響き、子どもたちは前列の会衆席に身を寄せ合って座った。
アドニスは丸まっているリェフの隣に座る。
セレンは祭壇に上がり、十字架の前に立つと、子どもたちのほうを向いた。
ひとつ咳払いをし、発声を始める。やがて、それは止んだ。
教会の中が静まり返る。
子どもたちは騒ぐこともせず、セレンが歌い出すのを、いまかいまかと待っていた。
息を吸い込み、セレンから一音が発せられた。
始まりの一音ですべてが包み込まれてしまう。
ゆら ゆら おやすみ
愛しき わが子よ
汝は 祝福されし子
忌まれる所以は どこにもない
それは優しく、子どもたちにとっては母親の子守唄。
だが、大人が聞けば、女神の歌声。
ゆら ゆら 揺られろ
星のゆりかごに
汝は 祝福されし子
災厄ではなく 救世をもたらす者
子どもたちの目蓋はやがて重くなり、うとうと眠る子もいた。
くわぁ、とリェフも大きなあくびをする。
歌が止んだ。
パチパチパチ。
突然、拍手が教会に響き渡る。
その音に、まどろんでいた子どもたちが弾かれたように目を覚ました。
「すばらしい!」
セレンに称賛を送る男の声が教会に響く。
フードを目深に被っているため、男の顔はよくわからない。だがマントと靴に至るまで、すべて赤。ここまで全身赤ずくめなのは見たことがない。怪しさ満点だ。
そんな彼女たちの心情など露知らず、赤ずくめの男は立ち上がり、
「なんて美しい歌声なんだ!」
近づいてくる。
とっさに、アドニスが彼女と子どもたちをかばうようにして、男の前に立ちはだかった。
「あ、あなたは……?」
男に問う。
「これは失礼。オレの名はレッドフール」
セレンとアドニスは目を見張った。
その名は、
『自身のことは口外することなかれ』という秘密主義者で、顔や素性などはわかっていない。わかっているのは、この男のように『全身赤ずくめでフードを被っている』ということだけだ。
ますます、警戒心を露にするアドニスとセレン。
「……『正体不明な情報屋が、なんでここに』っていう顔をしてるな」
自らをレッドフールと称する男は肩をすくめる。
「偶然ここを通りかかったら、そこにいるお嬢さんの素敵な歌声が聴こえてさ。いわば、オレは花の蜜に引き寄せられた赤い蝶!」
ふと彼は思い立ったように、
「あっ、そうだ! よろしければ、お近づきのしるしに、どうぞ」
手品のように赤い花を一輪、差し出した。
「わーっ!」
これには思わず、セレンとアドニスの後ろに隠れていた女の子たちが声を上げる。
セレンは、その赤い花をまじまじと花を見た。
ほのかに漂う香りが鼻孔をくすぐる。――本物の花だ。
「ここじゃ、本物の花なんてめずらしいだろ」
「え、ええ……」
この中心都市では、植物が自生することはない。
原因は都市全体を覆っているドーム状の
その粒子線は人体に影響を及ぼさないが、植物と土に悪影響を与えた。自生していた植物は枯れ、土の養分も枯渇してしまったのだ。一時は、防護壁を取り払うことも検討されたが――安全と引き換えに、人々はあるべき自然を殺してしまったのである。
そのため、種を植えても発芽することは滅多にない。たとえ順調に育ったとしても、カプセルに覆わなければ、すぐに枯れてしまう。またプリザーブドフラワー、ハーバリウムもあるが、これらもカプセルと変わりない。自然の――カプセルに覆われていない植物を見るのは、人工栽培農業が盛んである
「小さなレディたち。この花の名前……知ってるかい?」
レッドフールは屈み、ジュリーとパトに尋ねる。二人はほのかに、頬を赤らめている。『小さなレディ』と呼ばれたのが嬉しいらしい。それを不服そうな表情で見ているロミオ。彼は「むうぅ」と頬を膨らませている。どうやら、レッドフールと彼に対する女の子二人の態度が気に入らないらしい。それを見たアドニスは苦笑した。
一方の女の子たちは「んーと」、「ええっと……」と考えている。
「――アネモネだろ!」
答えたのは、ロミオ。
「おおっ! よくわかったな!」
拍手を送るレッドフール。
「へへんっ! 毎年レグルスが贈ってるからな! なんたって、セレンの誕生花だもん!」
ロミオは胸を張って答えるが、
「ロミオ! 余計なこと、言わない!」
「なんでこたえるの! こたえたかったのにー!」
「パトも!」
セレンと女の子たちから叱られてしまった。ロミオは口を尖らせる。自分は正解を言っただけなのに……。そんな彼をアドニスとピーターがなだめた。
すっかり気まずくなってしまい、セレンはどうしていいものか戸惑ってしまった。
「あ、あの……っ! ロミオが言ったこと忘れてください」
「いやいや。誕生花を贈るなんて、いいカレシじゃないか」
「そ、そんなんじゃ……」
からかわれてしまい、セレンはいたたまれない気分になる。
アネモネの花言葉は『儚い夢』、『薄れゆく希望』、『儚い恋』、『恋の苦しみ』、『辛抱』。ほかにも『嫉妬のための無実な犠牲』という恐ろしい花言葉もある。だが、赤いアネモネは『きみを愛す』という情熱的な花言葉である。このように花言葉は色によって、意味も変わってくるのだ。
「あっ!」
突然と、レッドフールが声を上げる。
「……やっぱ、だめだな。もう花びらが散ってる」
花びらはすでに一枚だけだった。ここの環境にさらされたせいだろう。
もともと、この花の名は風が吹くだけで花びらが散ってしまうことから、『風』を意味する語源から取られている。
最後の一枚も落ちてしまったその時、勢いよく教会の扉が開いた。
――§―― ――§―― ――§――
「た、助けて……っ!」
「マーサさん!」
やってきたのは、栗毛の髪を持った三十代後半の女性だった。彼女は肩から血を流し、自分と同じ栗毛の女の子を抱きかかえている。娘のマリだ。彼女はぐったりとしている。
「い、いったいなにが……!」
セレンはマーサに駆け寄る。
「い、いつもみたいに散歩してたんだ……」
マーサは事情を話し始めた。
まず、マリが動物を見つけて「かわいい!」と追いかけたことが始まりだ。マーサは急いで、娘を追いかけた。娘に追いついた彼女が目の当たりにしたのは、その動物が娘に襲いかかっている光景。マーサは無我夢中で動物からマリを引き離し、肩を負傷したものの、マリを取り戻すことはできた。しかし、娘はぐったりとしている。急いで
「ど、動物だって、さ、最初は仔猫くらいだったのに……。マリに襲いかかった時、大型犬ぐらいの大きさで……ブタみたいな鼻と鳥みたいなくちばし。――あんな動物、見たことないよ!」
「興奮しないで。傷に障ります」
セレンはマーサを落ち着かせようとするが、マリのことで頭がいっぱいの彼女は、かなり錯乱している様子だ。
マーサに抱かれているマリを見た。一刻を争う状態だ。
このままでは、彼女の小さな命の灯火は絶たれてしまうことだろう。
セレンはとっさに手をかざす。だが――、
――身内以外の前で使ってはだめだ。
頭の中でクーパーの声が響いた。
(どうしよう)
マーサとマリを救うためには、クーパーとの長年の約束を破らないといけない。それに、このことを知らない子どもたちもいる。だが、救えるかもしれない命を見捨てることなどできない。
(父さま、ごめんなさい……)
セレンは意を決し、アドニスにこう告げた。
「アドニス、奥の部屋にみんなを連れて行って」
「え、セレン?」
「お願い」
なにも言わないで、なにも訊かないで。
「……わかった。――さ、みんな」
セレンの気持ちをくみ取ったアドニスは子どもたちを居住スペースへと連れていく。
それを確認したセレンはマーサに向き直る。
「マーサさん――」
「……なんだい?」
「ここで起こったこと、誰にも言わないと誓ってください」
「え?」
呆気にとられているマーサに、セレンはなおも言った。
「誓って!」
「あ、ああ……。わ、わかったよ……」
普段の彼女らしからぬ雰囲気にマーサは気圧され、うなずくしかなかった。
ぐったりしているマリにセレンは両手をかざし、意識を集中させる。
すると、彼女の両手から淡い緑色の光が両手から放たれ、少女を包み込む。
その光に驚くマーサ。しかし驚いていたのは、彼女だけではない。
すっかり忘れ去られているレッドフールも驚いていたのだ。
(詠唱破棄の
法術――治癒と防御、補助と転移。攻撃方法である光属性の魔術が行使できる術式だ。かつて〝
(あれは中級治癒法術〈キュアル〉。……彼女、なかなかの使い手だな)
光が徐々に止み始めると、マリの怪我は跡形もなく消え去った。
ひと息つき、
「次はマーサさんの番です」
驚いているマーサをよそにセレンは彼女の右肩に手をかざす。
淡い緑色の光が放たれ、みるみる傷口が塞がっていく。
マーサは自分の肩とマリ、セレンを交互に見た。
「もう、大丈夫です」
「あ、ありが……とう……」
なにが起こったのか、まだ戸惑っている母親に対し、
「ありがとう。セレンおねえちゃん」
すっかり元気になった娘は素直に礼を言う。彼女はマーサの腕から抜け出し、自分の足で立つ。
「ママ、おうちにかえろうよ」
「……ああ、そうだね」
「マーサさん。わたしの言ったこと……」
「わかってるよ。――それじゃあね」
マーサはうなずき、マリとともに教会を出て行こうとした時だった。
「ああ、ちょっと待って」
レッドフールが母子を引き止める。セレンはぎょっとした。
(しまった! この人がいること、忘れてた!)
「だいじょうぶ。誰にも言わないよ」
レッドフールが囁く。
「それに、女性は秘密を持っていたほうが美しさに磨きがかかるってもんさ」
これは意味がわからなかったが、セレンはひとまず胸をなでおろした。
レッドフールがマーサに言う。
「よろしければ、家までお送りしましょう」
「え、でも……」
「実はオレ、あなたがおっしゃってた動物のことを調査していまして……お話を伺いたいんです」
「はぁ……」
この人、信用していいのかい? とマーサは目でセレンに訴える。
「だいじょうぶです。見た目は怪しい人ですけど、わるい人ではなさそうですよ」
「……なんかそれ、ひどくない?」
レッドフールは思わず、苦笑する。
「マーサさんとマリちゃんをよろしくお願いします」
「ああ。機会があれば、またあの歌声を聴かせてくれ。――じゃあな」
と言って、マーサ母子と共にレッドフールは行ってしまった。
彼らの背中を見送り、セレンはたまらず近くの会衆席に腰を下ろす。
(……つかれた)
どっ、と疲労感がやってきた。
アドニスが頃合を見計らったように姿を現し、
「みんな、もういいよ」
アドニスの合図で、ロミオたちが飛び出す。
「あれ? 赤いおにいちゃんは?」
ジュリーはレッドフールの姿がないことに気づく。
「マーサさんとマリちゃんを送るって、行っちゃった」
「えー!」
ジュリーは残念そうな声を上げた。
「ねえ、セレン。もう一回、お歌……」
「歌いません!」
きっぱりと言われ、肩を落とすジュリー。
「……また『小さなレディ』って呼んでほしかったのに~」
「なんだよ。あんなやつに口説かれて、うかれちゃってさ!」
憎まれ口を叩くロミオ。ジュリーはむっとなり、すかさず言い返す。
「なによ! ロミオだって、きゃぴきゃぴしたアイドルにうかれてるくせに!」
「アリアをばかにするな!」
中心都市で有名なアイドルの名だ。ロミオはそのアイドルの大ファンなのである。
そんな幼い二人の言い合いは、
「ごきげんよう! 麗しの我が姫よ!」
招かれざる客の出現によって幕を引いた。
――§―― ――§―― ――§――
一難去って、また一難。
そんな格言がセレンの頭によぎる。
現れた男は、舞台演劇の騎士物語に出てきそうな貴族衣装を身につけており、茶の髪と瞳。細身で軟弱だが、育ちのよさを思わせる顔立ち――いかにも『お坊ちゃん』というのがしっくりとくる。
彼の名は、ジャック・シャムライアン。この第五星区の
彼の姿を見た途端、アドニスたちは不快感を露にする。彼こそ、執拗にセレンに結婚を迫っている男であったからだ。三ヶ月半前――どこで聞きつけたのか、セレンの誕生日祝いを兼ねた交流会の時も今のような登場だった。その時はレグルスの堪忍袋の緒が切れ、シャムライアンをきつく絞った。それを最後に、彼は教会に姿を見せなくなったのである。てっきり、あきらめたのかと思っていたのだが……どうやら懲りていなかったらしい。
「お久しゅうございます。所用で多忙をきわめ、ここしばらく、あなたに会えずじまいでした。――さみしい思いをさせて申し訳ない」
そんなことはない。むしろ、その所用とやらに忙殺されていてほしかった。
「久方ぶりの逢瀬。ああ、あなたの美しさがより際立っているかのようだ!」
彼の芝居がかった口調は、アドニスたちをますます不快にさせた。
「……さて、私がここに来た理由はわかっていますね?」
にっこりと笑うシャムライアンに対し、セレンは小さなため息をもらした。
「お断りします」
決して変わることのない返事を彼に伝える。
今日はいろいろと間が悪い。さっさと帰ってほしかった。
「ああ!」
シャムライアンは大げさな嘆きを見せ、
「いつものことながら、解せない」
鼻につく口調で疑問を投げかける。
「なぜ、そんなにも頑なに拒否なさるのです?」
「ここを離れる理由が、わたしにはありません」
「しかし『獅子星』の稼ぎでは、子どもたちとの生活もままならないでしょう?」
「たしかに、そういう時もあります。けど、わたしと子どもたちはこの生活に満足しています。もちろん、レグルスも」
「私ならこの教会の生活費はどうにでもなる。あなたは幸せ。私も幸せ。子どもたちも幸せ。万々歳ではありませんか。いったい、なにが不満なのです?」
シャムライアンのお金は富裕街と貧民街の住民たちから徴収したものだ。誰かの犠牲の上で成り立っているお金で幸福な生活を送るなど、セレンには考えられない。
「わたしはそんなことまでして、幸せになろうとは思いません。だいたい、レグルスがそんな施しを受けるとでも?」
何度もやったやり取りにセレンは少し苛立ち、声を荒げる。
シャムライアンの目が鋭くなった。
「レグルス、レグルス……。あなたの口からは、やつの名前ばかりだ!」
突然、シャムライアンが声を荒げる。
「ジャックと呼べ、と何度も私が言っても呼ばないくせに! レグルスは呼ぶのか!」
彼の怒りは明らかにセレンに対してではなく、レグルスに向けられている。三ヶ月半前のことを考慮しても、その怒りは明らかにそれとは別なものである――気がした。
セレンは思わず、たじろいだ。
「わ、わたしとレグルスはずっと一緒でした。慕うのは、あたりまえです」
「それは兄のように慕う情ですか? それとも、男女の情ですか?」
「あなたには関係のないことです! 今日はお帰りください!」
セレンは彼の卑屈めいた言葉に不快感を露にする。
その態度がシャムライアンの癪に障ったらしく、
「この
乱暴に両肩を掴まれ、激しく揺さぶられる。
「や、やめ……!」
セレンは身をよじって離れようとするが、できない。
「そうだ! 俺に手に入らないものはない! 獅子である俺の町だ!」
セレンは痛みに眉をしかめ、
「いやあ!」
たまらず悲鳴を上げる。
『セレンから離れろ!』
セレンの耳にアドニスたちとは違う少年の声が聴こえた。
二人の間に黒い影が飛び出し、シャムライアンに体当たりする。
「ぐっ!」
突き飛ばされ、尻もちをつくシャムライアン。
「……っ! なにをする! 無礼――」
上体を起こしたシャムライアンは言葉を止めた。
目の前に、竜の翼を持った人よりも大きなライオンがいる。
その
セレンにだけ聴こえた少年の声は、リェフの声であった。
「う、うわああああっ!」
シャムライアンの口から悲鳴が上がる。
勢いよく、教会の扉が開かれた。
「ジャックさま!」
「いったい、なにが――!」
シャムライアンの悲鳴に、教会の外にいた護衛が中へと入ってきた。
「おのれ! 化けもの!」
護衛は拳銃を取り出し、リェフに向かって撃とうとするが、
――グオオン!
リェフの咆哮に恐怖し、立ちすくんでしまう。
彼はシャムライアンのほうを向き直り、
――グルルゥゥゥッ!
威嚇する。
「ひっ!」
シャムライアンは怯み、後ずさる。
「ま、待て! お、俺がわるかった……」
目の前の獣を諌めようと試みるシャムライアンだが、リェフは低く唸り、すべての毛を逆立てている。前足に力が籠り、床を引っ掻く。
――グオオオッ!
リェフが前足の爪をふり下ろしたその時、
「やめなさい!」
セレンがシャムライアンの前に立ちはだかった。
寸前のところで、リェフは止めた。だが、すこしでも動けば、セレンの頭にリェフの鋭い爪先が当たることだろう。
「セ、セレン……!」
シャムライアンはセレンが自分を庇ったことに驚く。
一方のリェフは、セレンがシャムライアンを庇うのかが理解できず、唸っている。
「この人はもう、わたしを傷つけたりしないわ」
『ほんとうに?』
「ええ、ほんとうよ」
セレンの受け答えをシャムライアンは不思議に思った。リェフはただ唸っているだけだ。だのに、彼女はそれを理解しているかのようだった。
「だいじょうぶだから、もとに戻って」
すると、リェフの巨躯がみるみる小さくなっていく。
普段の大きさに戻ると、
――ふあご。
しゃがれた猫のような鳴き声を上げた。
「いい子ね、リェフ」
セレンはリェフを抱き上げ、頭を撫でる。彼は『くすぐったい』と言わんばかりの表情を浮かべ、ごろごろと喉を鳴らした。
「……だいじょうぶですか?」
「はい……」
恐怖のあまり放心状態になりながらも、シャムライアンは立ち上がった。
立ちすくんでいた護衛も主人のもとへと駆け寄る。
「ジャックさま、ご無事で!」
「きさま!」
護衛がセレンに怒鳴り声を上げ、彼女の腕の中にいるリェフがまた唸る。
「よせ!」
シャムライアンに制止され、護衛は「……ご無礼を」と一礼する。
「申しわけありません」
セレンは謝罪する。腕の中にいるリェフはシャムライアンへの敵意をむき出しに、たてがみと全身の毛を逆立てている。
「……いや、私も申し訳なかった」
「今日は、お帰りください」
セレンは静かに言った。
「ああ。では、また……」
シャムライアンが立ち去ろうとした時、
「もう、来ないで」
はっきりとした口調でセレンは言った。
シャムライアンは一瞬足を止め、唇を強く噛み締める。だが、彼はセレンのほうを振り返ることなく、教会を後にした。
ふう、とセレンはひと息つく。
「……セレン、だいじょうぶ?」
子どもたちを代表して、アドニスが尋ねる。
セレンの目に飛び込んできたのはアドニス以下ロミオ、ジュリー、パト、ピーター――不安そうな表情を浮かべた子どもたちの顔だ。
みんなを安心させるために、
「だいじょうぶよ、みんな」
気丈にふるまうセレンであった。
――§―― ――§―― ――§――
マーサたちを家まで送り届けたレッドフールは、母子が襲われた場所へとやってきた。
貧民街はほとんどが廃墟同然の場所だ。瓦礫やガラス片があちこちに飛び散ったまま、放置されている建物やあばら家が点在している。路地には、そのゴミくずが放置されており、ガラス片を平気で踏んでしまう。
その一角には痕跡が残っていた。血飛沫が飛び散り、壁を赤く染めていた。
(……まだ新しいな)
レッドフールは血痕を見て、そう判断する。
(まさか……いやいや!)
レッドフールはかぶりを振る。これが人間の血であるとは考えたくはなかった。
しかし、すでにお目当ての動物の姿どころか気配すらも感じられない。
実はここ最近、『奇妙な動物』――すなわち
本来なら、彼はこのような依頼を引き受けることはない。引き受けたのは、依頼人が彼の親愛なる友人だったからだ。たとえ、彼の背後にあの女の影がちらついていたとしても断る道理はない。すべて承知の上だ。だから、それに関する情報収集のため、
――セレンだ。
菫色の髪と瞳、顔立ち、雰囲気――レッドフールが思い浮かべる彼女に似ていたのだ。
気乗りのしない面倒な依頼かと高を括っていたが、彼女に出会ったことで、依頼に対してやる気が出てきた。
ふと、レッドフールは思い出す。友人から別の依頼を受けた男――アーロウのことを。
(……たしか、なんでも屋『獅子星』に例のブツの捜索を依頼しに行ったんだよな)
愉快そうな笑みを浮かべる。
(おもしろいことになるかもしれねえな)
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