第十二章 夜鳥に別れを

一話

 任木蘭の落梅庵では相変わらず音清弦の奏でる琴の音が静かに流れている。しかし、今はその音をかき消すように金属を槌で打つ音が鳴り響いていた。

 風天巧は庭の石を使って即席の作業場を作り、ここ数日はこもりきりで槌を振るっている。穆哨は遠くからその様子をじっと見つめていた。ゆったりした袖をたすきでまとめ、長く豊かな黒髪をひとつに束ねた風天巧は真剣そのものの面持ちで蒼天斬を打っている。細腕を振り下ろすたびに響く音は華奢な見た目と打って変わって力強く、迷いのない仕草は彼が名実ともにこの道の頂点に立つ男なのだと実感させられる。穆哨は頃合いを見計らい、手を止めて額の汗を拭う風天巧に声をかけた。

「やあ、君か」

 にこやかに笑う風天巧に、穆哨は手に持った籠を持ち上げてみせた。

「昼餉だ。任前輩から預かってきた」

 穆哨が鉄床から少し離れた地面に腰を下ろして籠の蓋を取ると、出来立ての包子の匂いが湯気とともに立ち上る。風天巧は穆哨の隣にいそいそと腰を下ろすと、穆哨の唇に軽く接吻した。

「おい、汗臭いぞ!」

 突如として唇を襲った塩味に目を白黒させながら穆哨は抗議の声を上げる。しかし風天巧はそよ風のように笑って穆哨の文句を遮った。

「良いではないか。多少濡れていた方がお前としてもそそるだろう?」

 堂々と体を寄せてくる風天巧に穆哨は黙って手巾を押しつけた。悪い気はしないが、そのまま受け入れてしまうにはどうにも気が乗らない。

 風天巧はふっと笑うと大人しく手巾で汗を拭き取り、包子と一緒に入っていた竹筒の水で手を洗った。そのまま竹筒から水を飲み、ようやく風天巧は包子に手を付けた。

 その間、穆哨は鉄床に乗っている蒼天斬を眺めていた。折れた剣身は溶接されて一本になっており、遠目には往時の姿をすっかり取り戻したように見える。

 風天巧は口の中の包子を飲み込むと、蒼天斬を指差して言った。

「ほとんど完成しているよ。実は今のままでも使えるのだが、もう少し見てくれを整えたくてね」

 その瞬間、穆哨の心臓がなぜか跳ねた。ごまかすように無言で頷いたものの、呂啼舟の不安が頭を痺れさせていくのが手に取るように分かる。それはどこか怒りにも似ていた――呂啼舟は今この瞬間も、風天巧のことを自らを裏切り、見捨て、誅した人物として恨んでいるのだ。復讐を試みたが叶わず、その相手を目の前で他の男に奪われ、さらには同じ方法で再び亡き者にされようとしている彼の心中は今どうなっているのだろうと、穆哨は考えずにはいられなかった。ちょうど穆哨が呂啼舟と風天巧の過去を覗き見たときのように、様々な思いが千々に乱れて飛び交っているのだろうか。

「どうしたのだ? 穆哨」

 風天巧に呼びかけられてようやく、穆哨ははっと我に返った。わずかに低いところから穆哨を覗きこむ視線には心配の色がありありと映っている。穆哨はため息をつくと、言葉を探りながらゆっくりと口を開けた。

「覚えているか。俺がお前を傷つける直前のことを」

 風天巧はわずかに目を見開いたが、すぐに頷いた。穆哨はそれを確かめると、再び慎重に言葉を続けていく。

「呂啼舟が俺の体を乗っ取ってお前に会いに行き、お前との過去を掘り返しただろう。そのとき、お前とあいつの一連の出来事を、俺も見てしまったのだ」

「なるほど。だから私と啼舟の関係を知っていたわけか」

 風天巧は答えると、食べかけの包子を口の中に押し込んだ。それから懐を探り、壊れたままの小鳥を取り出す。風天巧は何も言わずに小鳥を眺め、一口で食べきるには明らかに多すぎる量を無理やり咀嚼して飲み込んだ。

「……そういえば、こいつを直している暇がなかったな」

 独り言のように風天巧が呟く。しかし、小鳥を見た瞬間、鈍器で殴られたような衝撃と頭痛が穆哨を襲った。

 穆哨は痛みに呻き、頭を押さえて広がりつつある黒い気配に抗った。しかし視界はみるみるぼやけて現実味を失い、喉から飛び出す咆哮を抑えることができない。東鼎会を滅ぼして以来、穆哨は久しぶりに全ての感覚が遠のいていくのを感じた。風天巧が狼狽える声を遠くに聞きながら、穆哨は呂啼舟に支配された喉で一言叫んだ。

「貴様!」

 風天巧が驚きのあまり色を失い、呆然としているのが見える。呂啼舟は風天巧にのしかかると、その喉に両手をかけて締め上げようとした。

 ――やめろ!

 穆哨は叫んだが、呂啼舟は穆哨を完全に無視している。手の下では風天巧の喉が唾を飲み込み、空気を求めて収縮しているが、その感触は忌々しい以外の何物でもない。風天巧は咳き込みながらも首にかけられた両手を押さえ、潰れた声で「啼舟」と呼びかけた。

「うるさい! この裏切り者! その声で二度と私を呼んでくれるな!」

 呂啼舟は叫びながら風天巧の喉をさらにきつく絞めあげる。風天巧はぐっと喉を鳴らしたきり、話しかける余裕すら失ってしまった。

「私を見捨てるだけでは飽き足らず我が器にまで手を出して、その上私に親しく呼びかけるだと⁉ 貴様ほど厚顔無恥な輩は聞いたことがない! どこまで私を苦しめれば気が済むのだ? 貴様となど、出会っていなければ良かった——」

 そのとき、叫び続ける呂啼舟の背後で琴が鋭く鳴った。次の瞬間には背中に衝撃が走り、つんのめった呂啼舟は風天巧の首から手を離す。呂啼舟が振り向くと、左腕に琴を抱えた音清弦が彼を睨みつけていた。その右手は弦の上に置かれ、いつでも次の一撃が放てるように構えている。その後ろには任木蘭と剣辰千朋が抜き身の刀剣を持って立っている。呂啼舟は苛立たしげに舌打ちすると風天巧を放り出し、右手に邪気を集めて三人に襲いかかった。

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