二話

「……今の……君……一体何を……」

 あまりの衝撃に呆然としたまま、風天巧――徐風玦は呟いた。呂啼舟は顔を耳まで真っ赤に染め、目はあたふたと宙を泳いでいる。


 そして、それを見ていた穆哨は徐風玦以上にこの光景に度肝を抜かれていた。

 なぜ自分がここにいるのか穆哨にはさっぱり分からない。ただ、途絶えた意識が徐々に回復するにつれ、己が完全に呂啼舟に乗っ取られたことだけは理解できていた。楼閣の小窓から地面を見ているような感覚だったが、それでいてぎこちなく見つめう二人は手を伸ばせば触れられそうなほど近く感じられる。きっとこれは呂啼舟か風天巧の思い出で、どういうわけか巻き込まれてしまったのだろうと穆哨は考えた。だが、まともに思考が働いたのはそこまでだった。

 誰かとこのような付き合い方をする風天巧など見たことがない。いや、そんな風天巧は見たくない。今まで感じたことのない荒波が胸を内側から叩いているのを穆哨は感じていた。


「……徐風玦……私は……私は、その……」

 呂啼舟は細長い体を哀れなほど縮こまらせ、涙を浮かべながら口ごもっている。彼は白い道服に後頭部で丸くまとめられた黒髪という、正統派の道士であることが一目で見て取れる装いをしていた。対する徐風玦は今と変わらず緑の軽い長袍をまとっているが、細かな装飾がふんだんに施されたより豪奢なものを着ている。半分だけ結い上げた黒髪を留めるのも、今よりも技巧の凝らされた美しい小冠だ。

 徐風玦はしどろもどろになっている呂啼舟をじっと見守っていたが、やがて何かに思い至ったように両手をぽんと打った。

「君は、私を好いているのか?」

 呂啼舟はぎゅっと目をつむり、無言のまま何度も首を縦に振る。徐風玦は柔らかい笑みを浮かべ、「そうか、そうか」と頷いた。

「清廉潔白が売りの君がそんなことを思っていたとはねえ。この仙境にも面白いことはあるものだ」

 徐風玦はそう言うと、体側できつく握りしめられた呂啼舟の拳にそっと己の手を重ねた。

「だが悪くはない。私も君をよく知りたいと思っていたのだよ……本当は初めて会った日のうちに話をしたかったのだが、君、なぜだかすぐに帰ってしまっただろう」

「それは……あのままお前を見ているとおかしくなりそうだったから……」

 呂啼舟が消え入りそうな声で答える。

「それが色恋というものだ。それに実際、多少はおかしくなっていたのだから今さら言い訳することもあるまい? 私だって、もしも良くない理由で避けられているのならどうするべきかと、それなりに本気で考えていたのだよ」

「お前は嫌ではないのか? このような汚れた感情一で喜一憂する己が」

「私は好きだぞ。しかし、道観で何を教わったのか知らないが、色恋を汚れた感情とは随分と言ってくれるではないか」

 徐風玦がおどけて言うと、呂啼舟は小声で謝った。徐風玦はその手を握り、呂啼舟に体をぴったり寄せる。

「可愛い奴だ」

 そう呟くと、徐風玦は少しだけ背伸びをして呂啼舟の頬に口付けた。



 こうして始まった二人の日々を穆哨は苦々しげに眺めていた。この記憶の持ち主が呂啼舟であることはすぐに分かった――しかし、その中にいる以上、穆哨は目の前で起こる全てから目を離すことができない。

 いつしか荒波は黒い感情に変わり、同時に混乱までもが一体となって胸中を渦巻いている。穆哨の中では風天巧の所有を見せつけてくる呂啼舟に対する苛立ちと嫉妬が嵐となって吹き荒れていたが、一方でいつの間にそこまで思い入れが湧いていたのだと自問する思いもあった。そもそも風天巧とは成り行きで行動を共にしてきただけであって、それ以上でもそれ以下でもないはずだ。それを彼がいつも隣にいると錯覚するなど勘違いも甚だしい。

 それに何より、誰かに組み敷かれ、望んで欲望の捌け口にされる彼は穆哨の知る風天巧ではない。

 だが、そういう自分は彼の何を知っているのだろう――穆哨は風天巧についてのあれこれをひとつずつ思い浮かべては整理していった。まず鍛治師であること、これは絶対だ。それからひょうひょうとしていて調子ばかり良いこと。実戦用かつ現役の武器が使われていないと怒ること。武器以外のものも作れること。泳げるが船酔いすること。作り物の小鳥をたくさん持っていて使役していること。人をからかうのが好きなこと。

 それから、本性が見えないこと。

 風天巧は多くのことを穆哨に隠している。過去に情人がいたこと、男色家であることはまだしも、天仙だったこと、人界に争いを持ち込んだ張本人であること、あちこちの勢力に協力しながら漁夫の利を狙っていたことなど、あまりに多くのことを隠されていた。

 ……そんなもの、知り尽くしたところで何になる。どこかから反論の声が聞こえてきた。それでも穆哨は、風天巧という男を知らないことが不満に思えて仕方なかった。

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