三話

 白い石を敷き詰めた床を湯気が撫でる。浴室じゅうに漂う湯気には気分を鎮める薬草の香が混ざっており、湯の温かさを手伝って変に疲弊した体と気分をほぐしてくれた。母屋に小屋を繋げただけの狭い浴室は、いかにも風天巧らしい瀟酒な作りに仕立て上げられていた。地面を掘り、床と同じ白い石を敷いて作られた浴槽の中、穆哨はほうと息を吐いて濡れた手で顔を拭った。

 目を閉じると、死にゆく穆鋭をじっと見つめる呂啼舟が未だに瞼の裏にちらついている。その一方で、鳳炎剣が前にも盗み出されていた事実は意外でもあった。さらに楓児と呼ばれた女人が持っていた白銀の剣——林氷伶は蒼天斬と呼んでいたが、魏龍影が持ち主を殺してでも奪いたがる剣ということは、あれも五行神剣の一振りなのだろう。

「加減はどうかね?」

 不意に風天巧の声が背後から聞こえ、穆哨は派手に湯を跳ねさせた。振り返れば、湯気の向こうに風天巧がわざとらしく目を見開いて立っている。

「おっと、失礼」

「……何の用だ」

 穆哨が睨みつけると、風天巧は様子を見にきたと言って平然と浴室の中に入ってきた。持ち上げた長袍の裾から色白の足が覗き、穆哨は思わず目を逸らして浴槽の隅に移動した。

「大丈夫だ。何も見やしないよ」

 クスクスと笑いながら風天巧は浴槽まで近づくと、手巾で縁についた水分を拭き取った。裾を腰までたくし上げ、袴を股ぐらのぎりぎりまで上げて足を湯に浸けると、風天巧は水分を拭き取った箇所にすとんと腰を下ろした。

「明憐に言って来てもらうことにしたぞ」

「そうか」

 風天巧から目を逸らせたまま穆哨は素っ気なく答えた。それでも視界の端に白い足が湯と遊ぶところが見えてしまい、無性に居心地が悪くなる。

「呂啼舟のことはまだ言っていないが、夢の様子を詳しく聞かれてはそうもいかなくなるだろうな。一体何の夢を見たのだ?」

 風天巧の問いに、穆哨は初めて風天巧の方をちらりと向いた。

「……東鼎会の連中が、ある親子を追っていた」

 穆哨はゆっくりと、頭の片隅にくすぶる夢の残像を拾い始める。

「父親は鳳炎剣を持っていたが、母親も『蒼天斬』という名の剣を持っているらしかった。幼い子を抱いていたが……呂啼舟の話を聞く限りでは、その子どもはどうも俺らしい」

「……それから?」

 風天巧の目から笑いが消えた。穆哨はその後のあらましを話して聞かせ、最後に一言尋ねた。

「蒼天斬というのも、五行神剣の一振りなのか?」

「ああ。木火土金水のうち『金』に当たる」

 風天巧は頷くと、あごに手を当てて天井を見上げた。

「だが蒼天斬は行方が分からなくなって久しい。私の記録では関山派の掌門の欧陽梁が保管していたが、彼が弟子の一人に与えて以降足取りが途絶えてしまった」

「では穆鋭の妻と子は逃げおおせ、林氷伶は蒼天斬を手に入れ損ねたということか? それでは俺の方と辻褄が合わないぞ。俺は幼い頃師父に拾われて、彼女に育てられたのだから」

 穆哨はそう言い返したが、少し間を置いて一言付け加えた。

「もっとも、呂啼舟が見せた夢の方が間違っているのかもしれないが」

「ではお前は、呂啼舟に見せられた光景は本当に覚えていないのだな」

「ああ。もっと言えば師父と出会ったときのことも覚えていない。彼女が色々話してくれて知っていることはあるのだが」

 穆哨は窓から外に流れていく湯気に目を向けた。

「だが、あれが俺の過去なら、子どもが母親と別れて隻眼の女に拾われるところまで夢は続いているはずだ。呂啼舟はそこまで見せるつもりでいたようだったから、多分俺が忘れている記憶を引っ張り出してきたのだろう」

「そうか……」

 風天巧が顔を伏せる。まただ、と穆哨は胸の内で呟いた。呂啼舟のこととなると風天巧は態度が一変する。しかし、これほどまでに風天巧の心に深く突き刺さっている男がなぜ穆哨の頭の中に入り込んでいるのか、穆哨にはさっぱり分からなかった。待ってさえいれば風天巧にも「底」の番は回ってきたのだし、他の天仙を襲撃して騒ぎを起こす必要もないはずだ。穆哨は湯の中に口まで浸かるとぶくぶくと息を吐いた。

 湯と思考に沈んでいると、不意に窓の方からピイと鳴き声がした。顔を上げると、鈍色の小鳥が格子の間から浴室を見下ろしている。そのまん丸い目と視線がかち合った瞬間、穆哨は水の中で両脚を胴体に引き寄せた。

「やあ、戻ったね。明憐姑は返事をくれたかい?」

 風天巧が声をかけて手を伸ばすと、小鳥はすっと滑空してその指にとまった。小鳥はピイピイと愛らしい声で鳴き、風天巧はそれに合わせて相槌を打つ。

「そうか。……ああ、分かった。え? 彼がどうしたって? ……ああ。そうか。ご苦労だったね、籠の戸は開けてあるよ」

 ちらりと穆哨を盗み見て、風天巧はいたずらな笑みを目元にたたえる。小鳥はピイと鳴いて飛び立つと、なぜか一度穆哨の頭を踏み台にしてから窓の外へと出ていった。

 穆哨は今度こそ風天巧を睨みつけた。風天巧は今にも大声で笑いだしそうな顔ですまないねと手を振った。

「あの子がここは湿気が多すぎて、窓まで一直線に飛べないと言ったものだからね」

「……本当にそれだけか?」

「ああ。だからお前の頭を足場にしたいと」

 穆哨は何も言わずに立ち上がると、湯をざぶざぶ蹴りながら風天巧に近づいた。さすがにまずいと感じたのか、風天巧がぎくりと身を引く。

「いや、あの子は少しばかり悪戯好きなのだ、私は何もやましいことはッ!」

 風天巧が言い終わるのを待たずに穆哨は薄緑の襟首を引っ掴んだ。そのまま湯の中に引き倒すと、くぐもった叫び声が水中から聞こえてくる。穆哨は風天巧を引き上げようとしたが、あぶくの中からぬっと伸びてきた腕が穆哨を逆に湯の中に押し倒した。

 風天巧が湯から顔を出し、咳き込みながら乱れた髪をかき上げる横で、穆哨も湯を撒き散らしながら水面に顔を出した。

「何をするのだ!」

 風天巧は手で顔を拭きながら咎めるように言った。穆哨は濡れそぼった風天巧を睨みつけ、

「本当にそれだけか」

 と凄む。風天巧はわざとらしくため息をつくと、

「だからどうしたと言うのだね。君の裸体など、とっくに見て知っているというのに」

 と言って髪をまとめていた紐を解いた。黒髪がぱらぱらと広がって体の輪郭を覆い、小柄な風天巧がもう一回り小さく見える。

「それに、私も同じ男ではないか。見られて困ることもなかろう?」

 風天巧は言葉を続けながら長袍の腰紐を解き始めた。穆哨が真っ赤になって目を見張る前で、風天巧は緑茶色の長袍、細い体にぴったり貼り付いた内衣、袴、そして下履きまでをも順番に脱いでは石の床に放り投げてしまう。初めて見た風天巧の裸体は柳のように細身で、しかし決して貧弱ではなく、まさに柔よく剛を制すといったところだった。

「これでおあいこだ。私もひと風呂浴びさせてもらうから、明憐が来るまでに逆上せないよう気をつけたまえよ」

 風天巧はにやりと笑うとトプンと湯の中に肩まで浸かった。穆哨は天井を仰ぐと、

「……俺が悪かった」

 と呻くように言った。

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