三話

 目を閉じて琴を爪弾くその青年は純白の衣をまとい、絹糸のような黒髪を半分だけ結い上げて残りを背中に流している。一行が近付くと彼は演奏の手を止め、静かに目を開けて氷のような視線を投げかけた。

「それがかの者か」

 よく通る声で一言だけ言い、青年が穆哨を凝視する。陳青がすかさず間に入り、青年を紹介するように手を伸ばした。

「ええ。穆哨殿、彼は音清弦いんせいげん殿です。天音清楽てんいんせいがくの二つ名は今でも人界では健在かと思います」

 穆哨は「ああ」と声を上げて頷いた。芸事には縁のない生活を送ってきたが、今なお彼を越えることは不可能だと言われている天才楽師の二つ名はさすがに聞いたことがある。

「天音清楽、彼は穆哨殿、人界より新たに招かれた天仙の候補者です」

 陳青が穆哨を紹介する。音清弦は陳青を見、それからもう一度穆哨を見、

「神の剣で一足飛びに修業を終えたという外道の輩か」

 と淡々と言い放った。

 この思いもよらぬ発言に、その場にいる全員が凍りついた。

「どういうことですか」

 穆哨はさすがにむっとして聞き返した。音清弦が答えようとしたところに風天巧が割って入り、穆哨に加勢した。

「やめたまえ、清弦。様々な偶然が重なったとはいえ、彼が得た天仙の資格を我々が断ずるのは、それこそ道に反するとは思わんのかね」

 風天巧の言葉に音清弦はかえって眉をひそめる。陳青と邱明憐は後ろの方で顔を見合わせ、やれやれと首を振るばかりだ。

「思わぬ。悪しき方法での修行は災いの元だ。個人が滅するだけならまだしも、仙境全体に害が及ぶとなれば私は容赦するわけにはいかぬ」

「清弦、そこまでにして。仙境の調和を考えるなら、まずは穆哨くんを悪く言うのをやめてちょうだい」

 耐えかねた邱明憐が割って入り、ようやく音清弦は口をつぐんだ。しかし、穆哨と風天巧をひと睨みしてまた琴を弾き始めるさまは、まるでこれ以上議論の余地はないと言わんばかりだ。穆哨は風天巧に目をやったが、風天巧は扇子をこめかみに当ててため息をついた。

「何も言うな、穆哨。天音清楽は自分の楽から他人の行いまで、全てが清くあることを何よりも重んじているのだよ……まったく、変わりないようで良かったよ。音清弦」

 だが、存分に皮肉のこもった視線もものともせず、音清弦は平然と琴を奏でている。

 風天巧はかぶりを振って陳青に向き直った。

「まさか彼と明憐以外は誰も招集していないなんて言わないだろうね?」

「もちろんです。此度は剣辰千朋けんしんせんほうのお二人と、天靖開陽将てんせいかいようしょうをお呼びしています。お三方ともそのうち来られるかと……」

 陳青が言い終わる前に、こちらに向かって歩いてくる足音が聞こえてきた。金属の踵が石畳を打つ高らかな音が響き、聞く者の頭に偉丈夫が大股で堂々と歩いているさまを否が応でも思い起こさせる。いち早く振り向いた陳青は、光り輝く銀色の鎧に真っ赤な外套を羽織った足音の主を仰々しく迎えいれた。

「お待ちしておりました、天靖開陽将」

 拱手して深々と一礼する陳青に対し、鎧姿の男は頷きもしない。男は猛禽のような目つきで部屋の面々を一瞥し、穆哨にぴたりと視線を合わせた。

「其方が穆哨か」

 低く、威厳に溢れた声で男は言った。穆哨が「そうです」と答えると、男は外套を翻して朗々と名乗った。

「よく参った。私は号を天靖開陽将、名を宋靖そうせいという」

 孔麗鱗もかくやというほどの——いや、むしろ孔麗鱗であれば確実に嫌うであろう類の驕傲が、この天靖開陽将こと宋靖にはある。半ば気圧されるように拱手して頭を下げながら穆哨はそんなことを思った。宋靖は穆哨が頭を下げても会釈ひとつ返さず、そのまま奥に設けられた長机に向かって歩いていき、当然と言わんばかりに上座に腰を下ろした。それもそのはず、宋靖は一人で一万の軍勢に匹敵すると言われた伝説の将軍で、人界では大人気の仙人なのだ。神でもないのにあちこちで祀られており、彼の廟は武の象徴たる開陽星にあやかって「開陽廟」、または号を取って「天靖開陽廟」と呼ばれるのが一般的だった。穆哨も彼の像は何度も見ているが、実際に目の前にいる宋靖は、像に彫られた姿より何倍も威圧感を覚えさせる。その畏怖の念たるや、彼が去ったあとは周囲の空気が軽くなったように感じられるほどだ。


 音清弦は宋靖の登場にも全く動じず琴を弾き続けており、風天巧は邱明憐を手招きして何やら話し込んでいる。穆哨は目が合った陳青に

「仙人……天仙が新しく増えるというのがここまで特別だとは思いもしなかった」

 とこぼした。

「仙境にずっといれば、新しく仙人が増えることなんて日常茶飯事のようなものではないのか?」

「そうですね」

 陳青がにこやかに答える。

「たしかに、我々のように悠久の時を過ごしている身からすると新しい仙人はけっこうな頻度で増えています。ですが天仙の地位を受け入れるということ、天界の一員になるということは決して日常茶飯事ではないのです。天仙になるというのは三界の秩序の一端を担うということでもあり、その重責に耐えられる者は少ない。だからこそ、我々はこうして修為の高い天仙を集めて候補者の意志を確かめているのです。ただ仙人と呼ばれる存在でいたいだけなら地仙として人界に留まっている方が益がありましょうし、実際にそういう者は玉佩の色も変わることがありません」

 陳青は言葉を切ると広間を見回した。邱明憐と音清弦は宋靖に続いて長机に着いており、何やら談笑している。残った風天巧は入り口をちらりと見て、

「剣辰千朋の二人はどこで何をしているのかね」

 と陳青に問うた。

「さあ……場所と時間は伝えてあるのですが」

 そう答えた陳青の顔はどこか不服そうだ。風天巧はふむと答えると、

「穆哨、我々も座って待つとしよう」

 と言って穆哨を手招きした。

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