第五章 桃源仙境

一話

 西部山脈の最奥にそびえる神秘の母王山ぼおうさん――伝説によれば、この地には天仙の住まう桃源郷へと通じる道があるという。

 今、その険しい山間を流れる霧に包まれた川を一艘の小舟が静かにのぼっていた。

 船頭の櫂が水を掻く音だけが聞こえる中、小舟は霧の中を迷うことなく進んでいく。乗り込んでいる三人は無言のまま、一人は薬箱の中身を確認し、一人は笠を顔に被せて居眠りを決めこみ、一人は船の行く先を凝視していた。


 川の先は霧の中に消え、行けども行けども視界が開ける様子はない。船の行く先を見ていた穆哨は、船尾で櫂を操る陳青を振り返ると一言尋ねた。

「本当に、この川を上った先に仙境とやらがあるのか?」

 穆哨の問いに陳青は頷く。

「ええ、ありますよ。この母王山の渓流は、人界と天界——これからご案内する仙境をつなぐ唯一の通路なんです。天玦神巧も明憐姑もその他の方々も、皆ここを通って俗世と別れられました」

 穆哨はふうんと頷くと、また視線を前に戻した。

 陳青によれば天界は二層に分かれており、穆哨が迎えられるのは下層に位置する仙境せんきょうという場所だった。ここには各地から集められた仙人たちがつどい、さらなる境地を目指して日々修行を積んでいるという。そして三界の創造主・創神そうしんに修行が完成したと認められた者は、晴れて神の一柱として上層の神境しんきょうに迎えられるのだ。陳青はこの創神との契約により、新たに仙骨を得た者を探しては仙境に連れていく役目を担っているのだという。

 ふと、ひと席をまるまる占領して寝そべっていた風天巧が顔に置いている笠を持ち上げた。

「仙境には今誰が残っているのかね?」

 ややぶっきらぼうな口調で風天巧が問う。すると邱明憐が半ば呆れたような口調で答えた。

「あなた以外、誰もどこにも行っていないわよ」

 風天巧は「そうか」と呟くと、また笠を被って片手を頭の下に入れた。隠居先から連れ出されてからというもの、風天巧はずっとこんな調子でむくれている。

「そんなに戻りたくないなら人界に残れば良かったのに」

 邱明憐が言うと、風天巧はため息とともに再び笠を持ち上げた。

「そうもいかなくなったのだよ。此度の騒動について一言求められているようなのでね」

「鳳炎剣が天界に戻るから?」

「そうだ。それも使い手が一緒で、その使い手は本来なら何十年とかかる修行をたった数か月で完成させて天界に迎えられるのだからな。全く、何が神の剣だ。災厄ばかり引き起こすではないか」

 風天巧がため息混じりにぼやくと、その腕を邱明憐が軽くはたいた。

「ちょっと、そんなふうに言ったら穆哨くんに悪いでしょう。あなたの自業自得なのに」

「……俺は別に気にならないですが」

 急に話を振られて戸惑いつつも穆哨は答えた。

「というか風天巧、お前船酔いは大丈夫なのか?」 

 穆哨が尋ねると、風天巧はわざとらしく大声を上げた。

「いや、大丈夫じゃないね。ああー気分が悪い、吐きそうだ」

「馬鹿な芝居はやめてください。ここはもう人界ではないのですから、人界の法則は通用しませんよ」

 陳青が呆れたように声を張り上げる。その言葉を聞いて初めて、穆哨は小舟が水音も立てなければ揺れてもいないことに気がついた。

 船が進むにつれて周囲の霧は一層濃くなっていき、船の中までぼんやり曇って見えるほどになった。

「もう間もなく仙境に着きます」

 そう言った船尾の陳青の姿までもが霧に半分隠れている。邱明憐は膝に広げていた薬の袋を薬箱に戻し始め、風天巧は起き上がって伸びをした。

 穆哨は傍に置いた鳳炎剣を握りしめた——他人の野望と血に濡れた己の一生において、永遠に見ることはないと思っていた場所が、この霧の先で自分を待っている。これはまさに天から降ってきた幸運であり、もう二度と訪れないかもしれない唯一の転機なのだ。


 しばらくすると、まるで雲が水上に鎮座しているかのように白く輝く壁が見えてきた。陳青は慣れた手つきで櫂を操り、船を壁の中へと進ませる。白色が全てを覆い尽くして晴れたとき、穆哨は目の前に広がる景色に呼吸も忘れて見入ってしまった。



 そこには淡い翡翠色の湖が一面に広がっていた。頭上にも輝くばかりの青空が広がって、湖と同じように果てしなく続いる。その境界線は遠くの方で溶け合い、ぼんやりとしか見ることができない。水面には蓮の花が咲いており、枯れることを知らないと言わんばかりに天上を向いて芳醇な香りを放っている。湖は風ひとつなく穏やかで、ただ蓮の香りのする空気が水面に乗っているような不思議な空間だった。遠くの方に見えているのは船着き場なのだろう、陳青はその張り出した舞台に向かってまっすぐ船を漕いでいった。

「ここは天湖といいます。仙境はこの巨大な湖の上に築かれた、人界で言うところの水上都市なんですよ」

 陳青が教えてくれたが、穆哨は目の前に広がる景色に圧倒されて返事をするのも忘れていた。これほどまでに何もなく、しかし美しい景色を穆哨は未だかつて見たことがなかった。

 陳青は船を桟橋に寄せると、船を繋いで穆哨たちを降ろした。船着き場には四人以外に誰もおらず、視界の先には桟橋状の回廊がずっと伸びている。木の床を踏んで四人はさらに歩を進め、ようやく水上にそびえる門の前に到着した。

「我、陳青、創神の名において開門を命ずる!」

 陳青が朗々と声を張り上げると、青銅色の門が軋みながら開かれる。

 そこに広がっていたのは、現世とは似ても似つかぬ桃源の園だった。

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