二話

「……まずいな」

 風天巧は脈をとりながら呟いた。その声には不安を通り越して苛立ちさえ浮かんでいる。力なく垂れ、されるがままの穆哨の手首の内からはごうごうと流れる気脈の勢いが伝わってくる。丹田を中心に濁流のごとく荒れ狂う熱い真気の流れは、彼の年齢でたどり着ける修位をはるかに上回っていた。そのせいで今や穆哨はこんこんと眠り続け、肌もわずかに熱気を帯びている。

 一般に内功の修行は、真気が丹田で凝縮され、金丹と呼ばれる塊になるのが一つの到達点だと言われている。この境地に至る者は一握りであるため、金丹の完成を最高とする修行者も少なくない。それも小さいうちから修行を始めて一生の間にたどり着けるかどうかという険しい道だ。

 しかし、稀にこの境地にたどり着くばかりか超えてしまう者がいる。さらなる精錬を経た金丹は体内で石のように固まり、仙骨と呼ばれるものに変わる。仙骨によって全身の筋骨が強化され、丹田を中心に経脈が鎧のような機能を果たすようになれば、その修行者は一般の人間とは一線を画した存在――世にいう仙人になるのだ。

 今、穆哨の体ではまさに金丹が作られていたが、金丹がまだ形成されきっていないというのに中心が仙骨のように固まりつつあった。穆哨の肉体はこの急激な変化についていけず、睡眠という最低限の活動だけに力を使っている状態だ。肌を内側から焼くような熱をともなった真気は、鳳炎剣の使い手に特有の火炎の気そのものだ。

 風天巧は穆哨を起こして座らせた。金丹の錬成に影響が出ない程度に真気の流れを緩めさせないと、穆哨はこのまま目覚めないかもしれない――そうなっては全てが水の泡だ。風天巧は焦りを押さえつつ、逞しい背中に手のひらを押し当てた。熱をゆっくりと取り込むにつれ、風天巧の全身をじわじわと汗が伝う。深呼吸して熱気を外に排出し、根気よく運功を続けること半日、風天巧はようやく穆哨の背中から手を離し、息を吐いて目に流れ込む汗を拭った。穆哨の手を取って脈を測ると、真気の流れはずっと勢いを緩めている。

 風天巧は、穆哨の変化についてある程度の仮説を立てていた――すなわち、鳳炎剣を使い始めたことで功体が刺激され、修行の完成が段違いに早まったのではないかと考えたのだ。五行神剣は強大な力を持つゆえに修位の低い使い手を想定して作られておらず、「火」の功体を持つとはいってもまだまだ未熟な穆哨に相当な負担がかかっていたことは想像に難くない。問題は、その負担によって穆哨の功体が急激に完成されつつあるということだった。

 穆哨は鳳炎剣を使いこなすことを求められ、風天巧もそれに乗っかって修練に口を出した。それが今の状況に関係しているのか――その因果がどうであれ、穆哨は数日のうちに金丹を完成させ、仙骨をも得るだろう。穆哨は、かつて地上に存在したどの仙人よりも若くして、この人界でたどり着ける最高の修為に達するのだ。


 風天巧は穆哨を寝かせ直すと、そっと部屋を出て自身の書斎に向かった。萌黄色の小鳥の入った籠を散らかった文机に置いて燭台に火を点け、巻物や書物、丸めた紙が乱雑に詰め込まれた棚を漁ること一香柱、風天巧は目当ての巻物を探し当てた。やけに年季の入ったそれには五振りの長剣と五行の相関を表した図が描かれている。隙間を埋めるように所狭しと書かれた字は風天巧によるものだ。眉根にしわを寄せて巻物を読んでいた風天巧は、文机で小鳥がピイと鳴く声にハッと顔を上げた。すぐに巻物を放り出して文机に取り付き、うず高く積まれた書物の間で絶妙な均衡を保っている羅盤を取り上げる。高く低く、鋭い声に色を付けて鳴く小鳥に従って盤に指を走らせた風天巧は、弾かれたように目を丸くすると燭台を掴んで書斎をあとにした。

 誰かが陣に入れば小鳥が鳴いて知らせ、風天巧は侵入者の正体を見定めて然るべき対処をする。それがこの山のからくりだが、今回の侵入者はすでに陣を突破して、家の前で主を待っていた。

 暗闇の中、提灯を提げて立っているのは簡素な単袍を着た一人の男だった。

「君か。陳青ちんせい

 滑らかな眉間にしわを寄せ、風天巧は吐き捨てるように言った。

「ご無沙汰しております、天玦神巧てんけつしんこう

 あからさまな嫌悪をぶつけられても陳青は気にする素振りすら見せない。

「今は風天巧と名乗っているのだがね」

「いいえ。あなたが天界に属するからには、私はあなたが好き勝手に決めた名で呼ぶことはできないのですよ。どうしても嫌だと仰るなら徐風玦じょふうけつとお呼びしますが」

「何の用で来た」

 風天巧は陳青を睨みつけた。しかし、陳青は嫌われ慣れていると言わんばかりにけろりとして、風天巧に歩み寄る足取りにもまるで遠慮がない。陳青は提灯を持っていない方の手首を軽くひねると、その手に巻物を取り出した。

「役目を果たしに。本当は本人に会って話さなければならないのですが、状況が状況ですからあなたにお任せしようと思いまして。ここに逗留している穆哨という人に、これを渡していただきたい」

 陳青が差し出した巻物を風天巧はじっと見つめていたが、やがてため息をつくと乱暴な手つきで受け取った。巻物を留める紐には「天」の字を模した飾りがついている。風天巧は巻物をさっさと袂に仕舞うと、陳青をもう一度睨みつけた。

「話はしておく。だが、受けるかどうかは彼次第だぞ」

「承知していますとも。ですが、現在穆哨殿が鳳炎剣を使っている件について、天界では様々な憶測が飛び交っています。これを機に一度天界に戻られては如何ですか? どのみち穆哨殿は鳳炎剣を天界まで持ってこられるでしょうし、そうなれば我々には五行神剣を誰よりもよく知る者が必要です」

 風天巧はハンと鼻を鳴らすと、閉じた扇子で陳青を差した。

「もう一度言うが、この話は穆哨次第だ。彼がこの人界にとどまるというのであれば私も行かないからな。絶対にだ」

「ええ。分かっています」

 陳青はあっさり頷くと、両手を重ねて一礼した。

「では、私はこれで。どうかよく考えてください、天玦神巧」

 陳青はそう言うと暗闇の中に消えていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る