第三章 旅

一話

 川は物流の要だ。それゆえに、川沿いの城鎮は人と物が集まって常に賑わいを見せている。笑いさざめく雑踏の中、露店の並ぶ前を足早に通り抜けていく人影があった。

 黒い装束に笠で顔を隠し、背中で白く長い包みと一振りの長剣を交差させたその男——穆哨は、雑踏をすり抜けて水路沿いの茶楼へと入っていった。

 茶楼の一番奥、水路がすぐそこに見える窓際の席に風天巧は座っていた。茶杯を口に運びながら水路を眺めている横顔は絵画の中から切り取られたような趣さえ感じさせる。穆哨が見ていると、風天巧は小舟に乗っている果物売りの娘に微笑みかけた。娘は一瞬で顔を赤くし、口を何度もぱくぱくさせたのちに一緒に乗っている娘たちに絶叫しながら抱きついた。皆十代くらいの娘たちで、キャアキャアと黄色い声で話し込んでいるのがこちらにまで聞こえてくる。

「大人気だな」

 穆哨が挨拶代わりに皮肉を飛ばすと、風天巧は軽く笑って答えた。

「可愛らしいではないか。家庭を持つ前にしか楽しめないことが女子の一生にはあるのだよ」

 また分かりきったことをと言い返しそうになるのを穆哨はため息で打ち消した。それが眉目秀麗な食わせ者にのぼせることかと思うと頭が痛くなりそうだ。

「渋い顔をするな。君とて女子の一人や二人、知っているだろう?」

「……あんなものはもう忘れた」

「随分な言い方だな。君だって嫁をもらえば女子遊びはできぬのだぞ? 楽しめるうちに楽しんで、時折痛い目に遭っておくといい……」

 バン! 不意に卓がけたたましい音を立てた。板が割れんばかりの音に我に返った穆哨は、その音を立てたのが自分であることに気が付いた――目の前では風天巧が整った目を丸くして体を後ろに引いている。扇子に隠れた口から哎呀アイヤと声が漏れた。ややあってから手のひらが痛みだし、穆哨はようやく顔から熱が退いていくのを感じた。

「……失礼、少々言いすぎたようだ」

 周囲の視線が痛いほど注がれる中、風天巧があえて大声で言う。穆哨は銀子を卓に放ると、風天巧の腕を掴んでそそくさと店をあとにした。



「なあ、さっきはすまなかったよ。私が言いすぎた、このとおり認めているんだからいいかげん許してくれ」

 渡し場に向けてずんずん歩を進める穆哨に、風天巧は何度目とも知れぬ謝罪を投げかける。とんだ地雷を踏んだものだと風天巧はため息をついた。孔麗鱗と楊夏珪のことだから早いうちに経験させているだろうと思っていたのだが、どうやら穆哨にとってはあまり良いものではなかったらしい。

 とはいえ、望んであてがわれた相手でなかったのだとしたらそういう言い方にもなるだろう。風天巧がそう結論付けたとき、穆哨がおもむろに振り向いた。

「船を見つけた」

「……何だって?」

 突然の言葉に、風天巧は思わず聞き返す。穆哨は手短に

「船だ。東に行く商船に金を払った。途中で麓苑ろくえんに寄るそうだ」

 と言い直し、橋を渡った向こうに見える漕手の一団を指さした。

 麓苑は玉染にほど近い山間の城鎮だ。身を隠せる森林が多い上、風天巧の住まう山が近いことも相まって、二人はこの街を最初の目的地にしていた。

 しかし、風天巧は船乗りたちを見て渋い顔をした。

「東か。どこまで行くかは聞いたのか?」

「……玉染ぎょくせんだ」

 穆哨も苦虫を嚙み潰したような顔で答える。玉染は東部で一番の水郷だが、魏龍影の地盤でもある。ひとたび魏龍影の差し向けた追手に目をつけられれば、無辜の彼らもただでは済まないことは想像に難くない。

「だが、ここから東に行く船はどれも玉染を目指している。ならばどの船に乗っても同じではないか? いざとなれば俺たちが船を降りて陸路に切り替えれば、彼らが見逃される可能性も上がるだろうし」

 穆哨の言葉に風天巧は重々しく頷いた。何のかかわりもない者たちを巻き込むことだけは避けたかったが、もしすでに道という道が見張られているのなら気をもんだところで手遅れだ。

 橋の向こうでは漕手の一人が立ち上がり、人好きのする笑顔でこちらに手を振っている。穆哨が手を挙げて答えると、男は仲間の方を振り返って何やら話し始めた。男たちが首を伸ばしてこちらを見ているあたり、彼らの話題は穆哨たちのようだ。

「俺はあんたの護衛ということになっている」

「つまり?」

 ちらりとこちらを見上げた風天巧に、穆哨は淡々と答える。

「主の諸国遊泳に付き添っていると言った。お前は西の果ての母王山ぼおうさんから来た公子ということにしてある」

 それを聞いて、風天巧は思わず口元に笑みを浮かべた。

「母王山か。神仙の住まう天界に通じているという、あの母王山かね?」

 からかうような目つきから穆哨はふいと顔を逸らせて言い返した。

「お前なら、これぐらい作っても通じそうだと思った」

「ほう。それは嬉しいな」

 ご機嫌に目を細める風天巧をちらりと一瞥すると、穆哨は橋に向かって足を踏み出した。

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