シロジムの雨が降る

深見萩緒

雨の止まない街



 石壁の上を這う鈍重な生き物は、一見するとただのナメクジのようだった。よく見れば斑模様の背にはいくつもの目玉があり、警戒するようにせわしなく動いている。その異形こそが、この薄茶色の生き物がナメクジでなくミトラであることを示していた。

 不定形の生き物であるミトラは、擬態により姿を得る。水の多いこの地では、ナメクジに擬態することが生存戦略的に有利なのだろう。


 ラウラスは手に持っていた杖を差し出し、先端でナメクジミトラの尻をつついた。小さな鳴き声を上げ、それは濡れた石畳の上に落ちる。本能に基づく擬死反応により柔らかな肉を硬直させ、背の目だけが攻撃者を探るべく辺りを見回す。やがてラウラスの姿を捉え、さっきの衝撃が老人のいたずらであったと知ると、ナメクジミトラは起き上がってびいびい文句を言った。ラウラスの右頬に引き攣れた笑みが浮かぶ。


 中庭はいつものように、雨のヴェールをかぶってくすんでいる。ラウラスは屋根の下のベンチに腰掛け、大きな溜め息をついた。石壁に寄り掛かると、ようやく身体が休まるという感じがする。歳のせいか、広い屋敷から値打ちのあるものをかき集め、丘をひとつ越えた市場へ売りに行くという慣れた行為すら、重労働に感ずるようになった。


 雨が降っている。ナメクジミトラはいたずらの報復をすべく、ラウラスの靴の先に嫌な臭いのする粘液をなすりつけている。「参ったか」と言いたげに見上げた生き物に、ラウラスは不慣れな笑みを更に広げた。

 再び視線を中庭へ向ける。天の底が抜けたような雨は、建物の角を削ぎ街を腐らせていく。かつては見事な彫刻が施されていた石の柱は、今は雨に摩耗し、のっぺりした灰色の真皮を露出していた。根本の方にはキノコが群生し、ゴマ粒のような虫たちがたかっている。ラウラスへの報復に満足したナメクジミトラが、そのゴマ粒を味見しようと口吻を伸ばす。粘着質な吻に捉えられ、虫たちは羽ばたこうともがくが敵わない。


 似た光景を、数十年前に見たことがある。ラウラスはまさにこの中庭で、愛する人が喉を掻き切り生き絶えるのを見ていた。彼女の指は、ちょうどあの虫たちの細い節足のように、死に抗う本能のまま痙攣し虚空をまさぐっていた。

 あれから何年が経っただろうか、ラウラスは確実に老いていた。あとどれだけこの生活が続くだろうと考えると、こみ上げる胃酸と後悔とが喉を焼く。雨は、もうずっと降り続けている。一日も欠かさず、たった一秒も止むことなく……。


 痛む膝をさすりながら、ラウラスは待った。いつも通りであればそろそろ、この雨の原因が姿を現すはずだ。いつの間にかナメクジミトラはどこかへ行ってしまい、中庭に息づくものはラウラスのほかにない。しばらく待って――今日はいつもより遅い。ラウラスはようやく、雨音の中に小さな気配を聞き取った。

「やあ、シロジム。元気だったかね」

 ラウラスが外套から取り出した瓶を振ると、シロジムという名のミトラはこぽりと体液を泡立たせた。


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