12 選択
アユタとソイユは事務室で眠っていた。机の上に日記が置いてある。彼女はそれを読んだだろうか。
ルカは自分で救急箱から消毒液と包帯を取り、クワッカに傷つけられた足の応急処置をした。
後は墓地を目指すだけだが、夜は視界が悪い。拳銃で
人出が増える前、早朝に決行するのがいいだろう。
ルカは墓守小屋に電話をかける。ツルデが出た。
「日の出までまだ時間はあるが——それまでに暴走しないかどうか、心配だな。かといって夜中に接続枝を撃ち抜くのも、確かに現実的ではない話だ。こっちでシエナの動きは監視して、何かあったら連絡する」
「ありがとう。俺たちは一休みさせてもらうよ」
「しくじるなよ」
「当然さ」
ルカは屋上で仮眠を取ることにした。クフタ商会の前にいた野次馬はみな家に帰り、自警団も解散している。
シエナはまだ暴走していない。
それでも人を襲ってしまうのは何故か。
ルカは始めにソイユが襲われた時のことを思い出す。彼女は、手が伸びてきたから逃げたと言っていた。シエナはただソイユに触れたかったのではないだろうか。逃げられたから追いかけた。途中で俺が出てきて、短刀を振るった。自己防衛は当然のことだろう。俺を襲う。その後でまだ追いかけてきたのは——俺がソイユを攫っていると考えたのかもしれない。彼女にあの時、ソイユを攻撃する意図はなかった。
ナバルたちが墓地で襲われたのは、彼らが自分を掘り返すことを恐れたからだ。彼女は悪意から埋められたわけではない。復讐心は持たない。ただ自分の身を守り、ソイユと姉妹であろうとしている。
するとオーブの強奪は、仲違いする何かがあったのだ。オーブを通じて会話したのか。であれば、何よりもまずやるべきことは仲直りだろう。
——壮大な姉妹喧嘩、か。
シエナがカムファに会いに行ったのは、自分の存在を人々に認めてもらう——その手助けをしてもらうためだと考えられる。彼女は、俺にイリ研究所の鍵を与えた。それも同様に自分を知ってほしいというメッセージじゃないだろうか。
——俺に対する見方が変わっている?
そうだとしても、俺が近づいて来るとわかれば、シエナは何としても止めようとするだろう。姉から奪ったオーブを守ろうとして……
考え事をしながら、ルカは浅い眠りについた。
やはり夢は見なかった。
人の気配がして目を覚ますと、ソイユが梯子を登り切ったところだった。手にエナクの日記を持っている。
「危ないよ」
「こんなとこで寝てる人に言われたくない」
ソイユはルカの隣に座った。彼女は屋根の上に置かれた拳銃に気づいた。ルカは仰向けに横になったまま、拳銃を握って銃口を空に向けた。
位置について。
用意、
ドン!
ルカが銃を撃ち出す真似をする。ソイユは一連の動作を不思議そうに見ていた。
「こういう競技は、この街にはないんだね」
星が眩しすぎるくらいだ、とルカは思った。
「シエナと話したのか?」
「うん。私には妹なんていない。そう言って振り払ったの。怖かった……」
それがシエナが怒った理由か。
「ソイユ。俺はこの銃を使いたくないんだ」
「私も、使って欲しくないな、そういうのは」
「君の妹は放っておけば暴走する。あの黒い蛇が街中を暴れ回って、彼女が望まないとしても多くの人を殺してしまう。それを止める最後の手段として、彼女を撃つことが必要になる可能性は、決して低くない。
同じ暴力だとしても、引き金を引くという行為と、拳をぶつけるという行為は全然違う。
もしも俺が彼女をこの銃で撃ち、騒動を止めたら。シエナにもう居場所はないと思う。力づくで止めないといけないということは、彼女が俺たちと協調して生きられないということを意味する。処分されることになるはずだ。
俺は、そんなことは望まない。彼女は——どのようなかたちであれ——生きていくべきだ。そして君も、街の人たちも、彼女と共に生きていくべきだ。
——君は妹をどう思う?」
残酷な問いだろうか。
ルカは、それでも聞かざるを得なかった。
「まだ、信じられないの」
正直にソイユは言った。
「自分に妹がいたということ。父さんがその子を育てて、しかも私には黙っていたこと……父さんはずっと仕事だって言って、妹に時間を費やしてたってこと。
それに、わからないの。私はその子を妹と呼べるのかどうか。その子を生きていると認められるのかどうか。あのオーブはずっと私と一緒で、私だけのものだった。妹を認めるのだとすれば、私は何なの?
私はずっと自分が不完全だって思ってた。自分には父さんの一部と、母さんの一部がある。けど自分自身がどこにあるのか、全然わからなかった。それはこういうことだったの? 私の肉体にはオーブの半分しか宿ってない。だから肉体は出来損ない。そして、一つの肉体にきちんと接続されていない、オーブも出来損ない。
オーブという個性が肉体を私らしく形作る。だとすればそもそも個性の欠けている私は、私というからっぽさだけを持つ、未熟なモノに過ぎないんだよ」
「君は君で独立した一人の人間だよ」
ルカは上体を起こし、体ごとソイユのほうを向いた。
「俺はリトリテじゃないから、君の言う不完全さがどんなものなのか、本当の意味では理解できていないかもしれない。けど、例えどのような意味であったとしても、完全な人間なんて存在しない。それは事実だ。当たり前のことだよ。キッツはすぐに楽な方に逃げようとするけど、純粋で、他人想いだ。アユタは体を動かすのは得意だけど頭を使うことはからっきし駄目。ナバルなんて見てみなよ、不器用でさ、人とすぐ喧嘩するのに、それは短所に見えて長所でもある——まっすぐで熱い男なんだ。だから人がついてくる。
義足の猫が、義足だからと言って、猫じゃないなんて君は思うかい?
俺は両親の顔も見たことがないよ。家もないし、学校だって行ったこともない。自分が何時産まれたのかさえ知らない。けどここにある、この一つの体が俺だ。自分のルーツが欠けていることなんて、どうだっていい」
ルカは自分の胸を掴んだ。
「何かが足りないということが、人としての欠陥だなんて俺は思わない。何かが足りない人が、人未満の何ものかだなんて俺は思わない。俺には君は、ここにある君の体が、君自身に思えるよ。揺るぎない君がここにいる」
「じゃあオーブは——シエナっていう妹は何なの?」
「オーブはリトリテの心臓であるかもしれない。けど、心臓に人格が宿るわけじゃない」
「それはオーブの価値を貶めることだわ。リトリテへの侮辱でもある」
「もしもオーブの価値とやらが、ソイユやシエナという人間を貶めることで守られているというのなら——オーブもリトリテもくそ食らえだね」
ルカは強い口調で言った。
「君はオーブでシエナと繋がっている。話すことができる。今まで話してこなかった分、会話するべきなんじゃないかな。そうすればきっと、彼女もわかってくれるはずだ。
下でこれからの計画を話してくる。アユタにも協力してもらいたいんだ。ここからシエナの元まで、そう遠くない。俺の願いは、この銃が彼女を貫く前に君と彼女が仲直りしてくれること。それだけだ」
そうなればシエナはオーブを返し、もう誰かを傷つけることを止めるだろう。
ルカはそう信じていた。
「それは、あなたの望む未来へたどり着くために必要なの?」
ナバルかアユタが、ヤドリの使命について彼女に話したのだ。
「もしもそれが、君の望む未来なのだとすれば」
自分の使命を美化するな。
やるべきことは目の前にいる人々を、ただ助けるということだ。
ルカは彼女のそばを離れ、梯子に向かう。
「日記を読んで欲しい。下で待ってるよ」
空が明るみ始めている。
ソイユは返事をしなかった。
*
東の空を灯りに、ソイユは父の日記をめくり始めた。父の字は小さく、窮屈で、下手くそだった。
七九三年、
妻に掛ける言葉を考えていなかった。
出産による死のリスクはわかっていたはずだ。彼女の体の弱さが、生まれてくる子供たちにも影響を及ぼすかもしれないとも考えていた。だから私は彼女を救い、子供たちを救えるように準備を怠りはしなかった。双子が一つのオーブを抱いて出てきたときも、決してうろたえはしなかった。どちらも処分されないように最善を尽くし、結果として二人は生きている。
だがなぜだろう。私はヨルハが死ぬという可能性に実のところ目を背けていた。彼女が死ぬ間際、私の目には涙ばかりが溢れ、口からは嗚咽しか出てこなかった。最後に彼女が微笑んだときも、涙のせいでそれはぼやけて見えたのだ。最後に彼女が愛していると言ったとき、私の喉は完全に詰まっていた。
妻の葬儀も、埋葬も、すべて人に任せてしまった。私には立つ力さえなかった。私のほうが死んでいるのではないかと思った。
七九三年、参の月、二十八日
日記を書くということがこれほどまでに自分を救うとは思わなかった。しかし、私は本当は妻や娘たちと話がしたい。
天候は晴れ、とナバルに聞いた。
これからはシエナをこの地下室から出してやるために、オーブの研究を進める。同僚のカムファが引き続き私のために自分のオーブを貸し出してくれるという。ありがたいことだ。
娘とは、子供とは非常にわがままなものだ。ソイユは朝私が出社しようとする度に泣く。シエナは私なしでは自分で何一つしたがらない——かまってちゃん、というやつだ。いつか私とソイユとシエナで食卓を囲むときのために、シエナにも言葉を教えはじめた。声には反応しているように思えるのだ。
七九三年、
私とこの街のエゴのせいで生き別れとなっているソイユとシエナが再会する場面を想像する。そのときシエナは自分の足で歩き、自分の意思で伸ばした腕でソイユと抱き合うだろう……
ソイユは一枚一枚、丁寧にページをめくっていく。しばらく読み進めていくと、日記の中ほどから写真が滑り落ちてきた。生前の母がベッドの上で二人の赤ん坊を抱いている。赤ん坊の一人は泣きわめいていて、もう一人は眠っている。母と、ベッドの隣で彼女の手を握っている父は、満面の笑みをカメラのレンズに向けていた。
空が明るくなったせいで、写真に落ちた水滴がはっきりと見える。
*
「ふーん。面白そうじゃん」
起こされたときは不機嫌だったが、話を聞いたアユタはやる気になったようだった。
「障害物有りのオルトラレースって感じ? この街がぶっ壊されるのを防ぐ、そういうでっけぇことには興味ねぇけどよ。手を貸してもいいぜ」
「ありがとう。オーブは置いていってくれ」
「万が一の保険ってわけだ。不死身の
気持ちいいくらいにアユタは笑う。
「悪い。無理はしないでくれ。なるべく怪我なく、二人でシエナに接近する」
シエナが自らの意思で
「うまくいけば借りていた
「
「何かはわからないけど、それも付ける。……不思議だね。君は一連の出来事に、さほど驚いていないみたいだ」
「この街がずれてるってこたぁ、とうの昔からわかってんだよ」
「俺は? 俺は何をしたらいいっすか? 一緒に行かせてくださいよ!」
キッツが興奮した様子で割って入る。ルカは呆れたように、
「オルトラの修理は終わったのかい?」
彼にはパンクしたオルトラを直すよう頼んでおいた。しかし彼は、そんなこと初めて聞いたと言わんばかりの顔をしていた。
「それじゃあ君は待機だ。俺とアユタで墓地に向かう」
「そ、そんなぁ……」
「みんなを出来るだけ遠くに避難させて欲しい。顔の広い君にしか出来ない仕事だ」
風域がヤドリを呼んだということは、その程度の策では避けられない被害が発生するということだ。だが、それでもルカは頼まずにはいられなかった。
「うっす!」
キッツは嬉しそうに頷き、すぐさまクフタ商会を出て行った。
オーブを金庫に入れるために、アユタが一旦家に帰る。ルカは入っていた弾倉を抜いて通常の三十八口径を装填し、ス・ピートの空き缶を並べて試験射撃を行う。一発も外すことなく、すべて缶の中央を撃ち抜いていた。
水に濡れた影響もまったくない。
準備を終えると、ルカは事務室に入り墓守小屋に電話を掛けた。
電話に出たのはナバルだった。
「今からそっちに向かうよ。ソイユも連れて行く」
ルカは彼女が来ると信じた。
「わかった。すまねぇが、頼む。俺は……俺が、変に隠そうとしたからおかしなことになっちまった」
「ナバルのせいだとは思ってない」
「嫌な予感がしたんだ。この街の常識が、守ってきたものが壊れていくような予感。それがまさにお前の言ってた悲劇ってやつだった。だから、もっとお前とはちゃんと話しておくべきだった。そうすりゃここまでひどくならなかった」
「悲劇はこれから起こる。つまり、まだ間に合うってことだよ」
「——そうだな。俺もこっちで何かやれることがねぇか考えてみる。言っておくがソイユは父親似だ。エナクは温厚な人間だった。けどな、母親のほうは——キレるとめちゃくちゃ怖かったんだぜ」
「なるほど。シエナは母親似ってわけだ」
電話を切って駐輪場に行くと、既にアユタはオルトラのエンジンを掛けていた。隣にキッツのオルトラも、すぐ出られるよう準備されている。
「待って!」
ルカがオルトラの座席についたとき、ソイユが建物から出てきた。
「私も連れて行って」
「危険だよ。今のシエナはまるで駄々っ子みたいに、誰であれ近づく人に反抗するだろうから」
「オーブは肉体との距離が近いほど、その影響力を増すの。遠ければ遠いほどリトリテの回復力は落ちる。だから、私があの子とちゃんと話をしようとすれば——もっと近くに行かなきゃいけないわ」
ソイユはルカの後ろに座った。
日記を読んだんだ。
そして決意してくれた。
「——ようこそ、この街で一番危険な乗り物へ」
ルカはオルトラのエンジンをかけた。クフタ商会の大穴から赤毛の犬が駆けてくる。アユタの荷台に載せた籠の上にひょいと跳び乗った。
「おい、なんだこの犬は!」
「乗せてやれよ。俺が約束を守るかどうか、見張ってるんだ」
「約束?」
その通り、とでも言うようにタッカスはひと吠えした。
「一人と一匹だけの秘密なんだ。さぁ、はじめよう」
ルカがアクセルを踏むと、前方から風を一気に受ける。
その風に紛れて、彼の母とも言える風域が、重たい手で肩を叩いた。
静かに、頷くように。
右ハンドルを手前に捻る。
マフラーが熱を吐き出し、すぐに灰色の煙に変わる。
ミラー越しにソイユの不安な顔が見える。
先導するアユタの背中を追い、一気にギアを上げた。まずはクフタ商会の前を通る第三街道を北上する。商店街のどの店も開いてないような時間だが、子供たちの朝食を用意する母親や、散歩が日課の老夫婦の姿があった。ルカはシエナが襲ってこないことを祈る。
空は快晴、薄い雲が透けている。
シエナとの接触に集中できるよう、ソイユはベルトでしっかりと後部座席に固定されていた。接続枝の上に右手を置く。左手でルカの体を掴み、目を瞑る。右手から順番に、前腕、上腕、肩、と接続枝の中に溶けて一体化していく感覚。首、頭、左肩、上腕、胸、腹、前腕——接続枝に吸収されて掴んでいたはずのルカの体も消えてしまう。暗闇の中で小さな枝になって浮かんでいる、私らしきもの。
年月が圧縮され、一年が一秒になったかのように、枝は急速に上へ向けて生長する。徐々に太くなる三つの分枝がある一点から絡み合いはじめ、一本の巨木となって闇の空を貫いていく。
まだ、開かない。
巨木の生長が止まる。
「来たぜ!」
アユタが叫ぶ。正面約五百メートル先から黒い蛇が二匹、こちらに向かってきていた。これまで見ていたものより細い。この辺りの地下は化生石の資源が貧しいのだとルカは推察した。
向かってくる蛇をルカとアユタは左右に分かれて避ける。そのまま作戦通り狭い路地に入り、それぞれが北東の墓地を目指した。
始めて蛇と遭遇したときの、あの動き。
シエナは優しい子だ。できる限り障害物に接触しないよう蛇を動かし、細い路地でそれが難しいとなるとルカを無理に追わずチャンスが来るのを待った。
もし彼女がまだあのときのように冷静さを保っているのなら、路地を走ることで襲撃を免れるはずだ。
しかしそう簡単にはいかなかった。
正面の道の影が濃くなる。見上げると蛇は上空からルカに向けて頭を高速で打ち下ろしてきた。
ぎりぎりのところで左手に折れ、その攻撃を躱す。地面に勢いよくぶつかった蛇はそのまま大地の一部となる。衝撃で周囲の家が大きく揺れ、あちこちから食器の割れる音がする。
「アユタ、作戦変更だ!」
届くかわからないものの、反対側の路地に向けてルカが叫ぶ。このままだと避けられるだけの空間がない上、住民への被害が大きい。後続の蛇が後ろから路地の複雑な道をすり抜けてやってくる。左手のゴミ箱を貫通して、地面からもう一匹蛇が出てくる。針のようにとがった頭で、オルトラを狙っている。
再び第三街道に出ると、アユタとタッカスは後方にいた。一足早く大通りに出ることを選んだようだ。
「言ってたことと違うじゃねぇか! 上から三匹も突っ込んできたぞ!」
「悪い!」
怒りがシエナの優しさを食い殺している。それはただの勘違いに過ぎないのに。
ソイユと君は、話し合えば最高の姉妹になれるはずだ。
もしも声が届くなら、ルカはそんな言葉を差し出したかった。
道が直角に折れ、東にまっすぐ延びている。
このまま行けば、墓地へ直接繋がる第五街道だ。
その前の最後の住宅地、やや背が低すぎるように思える家のドアから見知った顔が出てきた。
——魚屋のおばさんだ。
大柄の女は猛スピードで走ってくるオルトラにも、逆側から襲ってくる三匹の蛇にも気づかず道を横断する。道路の向こう側で男の子が一人、子供用のシャベルで黄色い花を根っこから掘り出そうとしていた。
「アユタ、右だ! 蛇を引きつけろ!」
ルカはソイユの左腕をしっかりと掴み、オルトラを右に倒す。かなり強引に曲がったために、ソイユが悲鳴を上げて閉じていた目を開く。道路の中央から左寄りにルカとアユタを狙っていた蛇も向かって右側にカーブを描くが、二人を捉えきれず地面に頭を突っ込んだ。
魚屋のおばさんは道の真ん中で転び、空中で曲線を描いて固まる黒い石に唖然としている。男の子は新しい遊具だと駆け寄り、シャベルで突いてみたり、両手で掴まったりした。
「どうだ、ソイユ。話せそうかい?」
三人と一匹は、第五街道に入った。
「駄目なの、木が、どうしても開かなくて、あの子が拒否してるのかも」
「近づいたらどうにかなるものかな。それとも、君が仲介してくれるかい?」
タッカスに聞いてみると、彼は困ったように首を傾げた。
「だろうね……とにかく先へ行こう。ここから墓地までは障害物がまったくない。道は広いから避けやすいけど」
「こんなんじゃまだまだ遊び足りねぇよ!」
アユタは蛇行運転したりドリフトをしたりと、挑発するように走っている。必死に籠に食らいついているタッカスが不憫だった。
本来の目的を忘れてないか……?
オルトラのメーター部を見ると、速度表示の針が狂ったように左右に振り切れている。急カーブやブレーキ、長時間アクセルを全開にするといった無理がかかることが想定されていないために、壊れてしまったようだ。
ソイユがもう一度シエナと繋がろうと試すが、うまくいかなかった。
第五街道に出てからシエナの蛇は一度も現れていない。左にゆったりとした弧を描き、北に向かう。そのまままっすぐ走ればリトリテの墓地だ。
「なんだありゃあ?」
その墓地のあるほう、本来ぼんやりと丘の姿が見えているはずの場所に何か黒い建物がある。イリ研究所の壁とは比較にならないほど高い。まるで新しい漆黒の拳闘場が建てられようとしているようだ。
そしてルカたちにもっと近い場所、はっきりと見える第五街道の道路上に一体の黒い彫刻が現れた。
シエナだ。
化生石で象られたシエナが片手を振ると、地面から鋭利な黒い刃が生えてきてルカたちのほうに向かってくる。サメの群れが地中から鰭だけを出し、一斉に襲ってくるようだった。
「縁石を使え!」
ルカは街道と荒れ地を区分している縁石に乗り上げた。勢いで車体は大きく宙に浮かび、サメ型の化生石を跳び越える。
シエナは化生石をそれほど早く動かせない。一度避けてしまえば後ろから追いつかれる心配はなかった。
シエナの口が大きく開く。強風がトンネルを吹き抜けるような音がして、それは徐々にホラ貝を吹く音に近づいた。
「何か喋ってるの?」
ソイユがルカの横から顔を出す。
「——喋ろうとしているんだ。喉に風を通して、必死に人間の真似をして」
しかしその声は最後まで声にならず、萎んでいってしまった。
化生石のシエナは土の中に隠れ、代わりにまた蛇が立て続けに現れる。
どうしてこれほどまで力を振るうことができるのか。
ルカは冷静に蛇を避けながら考える。
どこまで本気で俺たちを潰そうと――
殺そうと思っているのだろうか。
エナクが何も伝えず、何も教えなかったはずがない。彼はシエナを、娘を愛していた。
愛されたことがある人間なら、愛することもわかるはずだ。
その反対の意味も、行為も、それによる痛みもわかるはずだ。
俺とは違うんだ。
何も与えられなかった俺と君は違う。
だから、怒りが冷めたときは謝って欲しい。
そして姉妹で笑ってほしい。そうルカは思った。
「あたしはもう飽きてきたよ!」
前を行くアユタの動きが緩慢になっている。蛇の動きを読んで避けることをやめ、蛇の来なさそうな方へ大きく動く、なるべく頭を使わないようなやり方に変わっていた。
危険な兆候だ。疲れもあるのだろうが、このままだと墓地に着くまでに蛇の餌食になる。
また蛇が一匹、前方の地面から現れてまっすぐアユタのほうへ向かっていく。彼女が右にハンドルを切っても蛇の頭は軌道を変えない。
しかし、その腹から別の蛇が顔を出した。
アユタは突然のことに対応出来ず、一瞬動きが止まった。
オルトラの最高速でぶつかれば、例えシエナが意図しないとしても、衝撃でアユタの体は粉々になるだろう。死なないとしても、その痛みは相当なはずだ。
死なないとしても、同じだけの苦しみはあるはずだ。
ルカは拳銃の銃口を蛇の頭に向け引き金を引いた。
銃弾は化生石の一部を深く抉っただけだ。しかし内部の薬液が外に漏れ出し、頭の下半分が溶解していった。そしてシエナは上手く操れなくなり、その蛇の動きは静止した。
「あっぶねぇ! あんたに借りだな。畔飯亭の定食はなしにしてやるよ」
「そりゃどうも。もう少し本気出して欲しいんだけどね」
「あたしが本気出したら、あんたの出番はなくなっちまうぜ?」
「出番なんてないほうが良いんだよ、俺は」
会話する余裕があったのはそこまでだった。それから先は蛇の分裂・増殖が容赦なく行われ、避けきれないこともあった。銃弾を消費した結果、第五街道を抜けるときにはもう弾は二発しか残っていない。
目の前にそびえ立つものを見て、ルカとアユタは唖然とした。
漆黒の壁が丘一面を覆い、来る者を拒んでいる。
「そういえば子供は、怒ると部屋に閉じ籠もることもあるとか」
ルカが速度を落とす。
「ああ。だがこの部屋には扉なんてねぇし」
「蹴って開けられるような代物でもなさそうだ」
行き止まり、だった。
*
「ルカたちが出た。作戦開始だ」
電話を切ってナバルが言う。クエンはベッドに腰掛け自分のオーブを撫でていた。
もはやクエンは考えることを放棄している。この出来事について一切関わりたくないようだ。
どうせもうすぐ死ぬから構わない、とでも思っているのだろうか。ツルデはその態度に苛立つ。
「俺たちは愚かだと思わないか。悲しい過去をなかったことにし、同じことを繰り返そうとしている。あの頃の痛みを後世に伝えることなく」
「伝えられてはおるよ。じゃから儂とお前だけが、化生石を扱え、悲劇が再び起こらないように管理してきた」
「だが失敗した」
「それは確かに儂の責任じゃ。この事件をきっかけに、
「他人事みたいに言うんだな」
「儂という命はもう消えつつある。何を言ってもそれは儂のいない世界——儂が死んだ後の世界にのみ関わっているという気がする。
儂はこの過ちに対し、何らかの罰を受ける必要があるじゃろう。儂もそれを望む。
だが、この老いぼれにふさわしい罰とは何なのか?
儂にはわからんのだ」
「落珠っていう便利な言葉を、俺たちは捨てるべきじゃないのか」
ツルデは墓守小屋を出る。表にはナバルがいた。
「爺さんはもう引退だろう」
「じゃ、今からお前が正式な墓守ってわけだ」
「俺は勘当されてる。資格がない」
「親子ともどもいつまで意地張ってんだ。親父さんのそばにいてやれよ」
ナバルは丘を覆う巨大な壁を見ていた。
「さて、これをどうするかだけどよ」
「どうしようもないな。溶剤をここで使うわけにもいかない」
「何とか人一人通れるくらいの穴は作らなきゃならねぇ」
「娘を説得でもするか?」
ツルデは丘の先にある化生石を指す。大樹の頭の生長は止まり、樹冠は網目状の卵のようだった。
「俺もちょっとくれぇ仕事しねぇとな」
ナバルは墓守小屋を離れ、ある墓石に近づいた。三つの球体を持つ、ヨルハの墓だった。
墓石がオーブの声を聞く。
俺の声も聞いてくれるだろうか。
「ヨルハ。見りゃあわかると思うが、大変なことになってんだ」
ナバルは墓の前であぐらを掻いた。学生時代、エナクと三人でよくこうして語り合ったものだ。
「お前には見えてんのかな。すぐそこで、黒い蛇みたいなのがうようよいるだろ。あれがお前の娘、シエナだ。そしてあのでっけぇ茸みたいなやつの天辺には、ソイユのオーブがある。
お前が双子の娘を産み、そのうち一人が産声を上げなかったあのとき。俺は正直悲しかった。悔しくて、むかついて、絶望した。けどお前とエナクは、俺が構えたカメラのファインダー越しに微笑んでた。この四人は絶対に幸せになるんだ、そうならなきゃいけねぇって思った。
でも、お前は逝っちまった。後を追って二年前、エナクも逝った。エナクの葬式の後、ソイユが俺になんて言ったか、俺はここで話してなかっただろう。
『どうして悲しみは積み重なるの。どうしてこの塔は崩れることはないの』
エナクはシエナに付きっきりだった。ソイユには家庭で、悲しみを打ち消すくらいの幸せを感じるときがほとんど皆無だったんだろう。
そして俺もうまくやれなかった。すまねぇ」
親代わりに何かしてあげたくても、何もかも空回りしてしまう。ナバルはずっと無力感に苛まれていた。
丘の上の蛇が一匹、ナバルのほうに顔を向けた。そしてゆっくりとその首を伸ばす。
「俺はずっとエナクがシエナを湖に撒いたと思ってた。娘一人に重荷を背負わせないための苦渋の決断だったんだと考えてた。でも違ったんだ。あいつはシエナを一人のリトリテとして、この墓地に埋葬することを選んだ。それは彼女がかつて生きていたという証明だ。そして今、シエナは別のかたちで生きていたことを、今もまた生きていることを証明しようとしている。
あの写真の中でひどい顔で泣いていたソイユは、ミラっていうオカルトが大好きな友達のおかげで笑うことを覚えた。
あとはシエナだけだ。
あそこにいる。
でも、そのシエナは今、この街のみんなから笑顔を奪おうとしている。
オーブが濁り、〈暴走〉を始めたら終わりだ。
はっきり言ってこれはひどい姉妹喧嘩だ。姉妹の母親はお前。なぁ、ここらでちょっと母親の威厳ってのを見せてみねぇか。喧嘩する悪い子は、叱らなきゃいけねぇ。それに、初めての姉妹喧嘩なんだ。仲直りの仕方だって、教えなきゃいけねぇ。そのために力貸してくれや」
ルカは、銃を使うだろうか。そんなはずはない。なぜソイユを連れてくると言ったのか。二人で、話をさせるためだ。
ナバルが丘を覆う壁を指す。
「あそこからソイユが来る。二人が顔を合わせてごめんなさいなり、こんちくしょうなり言って仲直りする手はずを整えてやりたい。俺たちには無理なんだよ。お前なら出来るだろ?」
反応はない。ヨルハの白い墓は、静止していた。
「——俺はまだ、あの花を育ててるぜ」
その言葉に、ほんのわずかだが墓石が震えたような気がした。
「お前にもらった帰り道に、捨ててやるつもりだったんだ。花なんて育て方もわかんねぇしな。けど、なんでかその種は俺の家までたどり着いた。そして俺は庭の端っこにそれを埋め、時折水を遣った。芽が出て、花が咲いた。何度か季節が過ぎて、庭は俺には全然似合わねぇ真っ赤っかのお花畑になった。お前にはめられた、そう思ったぜ。
クフタ商会に入ったときに、いくつか花を裏庭に植え替えた。気に入った事務員や近所の人にも分けてやった。少しずつお前の花は、この街に広がってきている。
生きていればそういうこともある。痕跡ってやつだ。それは綺麗な痕跡だ。けどお前の娘、シエナはこのままじゃとても醜い痕跡を残してしまうかもしれない。あいつの思いに反して。あいつをみんな誤解して。
そうならないように、今動いてるやつらがいる。お前も、娘が恐怖と共に記憶に刻まれることは避けたいはずだ。
そうだろう?
だから頼む。シエナを説得してくれ。お前のオーブは、この下にあるんだろう。リトリテのオーブってのはよ、長い眠りについているだけで、また目覚めることもあるんだろ?」
墓石が動いたと思ったのは、風のせいかもしれない。
もしくはナバルの瞳が、体が、震えたのか。
ヨルハは返事をしなかった。
駄目だこりゃ。
やっぱ俺らしく、ないよな。
「エナクの言葉じゃなきゃ、お前には響かねぇ、か」
ナバルが腰を上げたとき、丘の上をゆっくりと移動していた黒い蛇が一気に速度を上げ、彼に襲いかかった。横からツルデが飛び出したが、避けられない。蛇の頭は大きな手のひらになり、二人の上方から襲い掛かる。
だがその手は、二人には届かなかった。
黒い手を、白い石の盾が受けている。
盾はヨルハの墓石から伸びていた。
「……こんなことが、あり得るのか」
地面に倒れたままツルデが呆然とする。
白い化生石はヨルハの墓石から帯のように伸びて、丘を覆う壁に接触する。すると帯は徐々に黒い化生石の中を浸食し——壁に大きな穴を開けた。
その穴から、接近してくる二台のオルトラが見えた。
*
声が届いたとして、私は何を話したいのだろう。
シエナのことは何も知らない。どんな子かもわからない。外見は、彼女の作る彫像がそうだとすれば——驚くほど私と似ている。父さんの日記にも、書かれていたのは成長しているということ、視覚と聴覚が機能していることだけだ。
オーブを通じて妹は何度も私に接触してきていた。私はそれを私自身の夢だと解釈し、相手にしなかった。けれど今振り返ってその言葉を反芻してみても、シエナを知る手がかりにはなってくれない。
ただ、私と話をしたかったというのは事実だ。
謝るべきだろうか。もちろんそうだ。でも謝って、それで終わることだろうか。そうは思えない。
二人の間に立ちはだかっている濁流の、根本的な原因は何だろう。
ソイユはシエナと対話するため、接続枝の上に手を置いた。これで三度目だ。三つの分枝が絡み合い巨木になる。さっきよりも幹が太く、長く上に伸びていく。
幹の先端が外側に開く。枝は細分され、鳥の巣のような形を作る。上から白い煙が落ちてきて、巣の中央で球体に変わった。
卵。
シエナは私が妹の存在を否定したから怒った。私はそのことについても謝らなければならない。私は妹の存在を認める。認めて、現状を変えたい。
どうやって?
妹がもし暴走せず、オーブを私に返したとして、その後は? 化生石から取り出しても、妹は自ら肉体を動かせない。
化生石の中にいて、黒い蛇を動かすことでコミュニケーションを取るシエナをみんなが認めてくれるだろうか?
この街は、シエナのような命を受け入れるだけの下地がない。
私だって持ってない。
それは、きっと変えていかなければならないことなのだろう。
父はシエナを私と同じように——つまり、この街に馴染むリトリテに変身させることで彼女が受け入れられるようにしようとした。
私は。
私は、この街が今のままの彼女を抱きしめられるようにしたい。
——お願い。聞いて。
白い卵が霧散する。幹の上の巣には、それでもまだ何かの破片が残っている。黒い、化生石の薄片だ。
(来ないで!)
突然叫び声が暗闇の中に響いた。
(来ないで!)
「お願い、私は話がしたいの」
耳をつんざくほどの大声にかき消されないように、ソイユも必死で喉から声を吐き出す。
「ごめんなさい!」
(大嫌い大嫌い大嫌い大嫌い大嫌い大嫌い大嫌い大嫌い大嫌いみんな大嫌い!」)
「聞いて、私はあなたを知ったの、それで――」
すっ、と波が引いていくように無音になった。
ソイユが目を開くと、黒い壁に白い穴が開き、その奥に倒れたナバルとツルデの姿が見えた。
*
ツルデがオルトラを見て、慌てて小屋に戻っていく。溶剤を取りに行ったのだ。
「ソイユ、シエナは?」
「さっき少しだけ繋がった。もうちょっとだと思う」
「そのちょっとは、結構大きいな」
本音を言うとここに来るまでに終わらせたかった。シエナは、自分に近ければ近いほど複雑に化生石を操ることが出来るようだ。同時に操れる質量も増える。丘は彼女の家。接近するのは相当難しいだろう。
それでも、やるしかない。
「何とかして至近距離まで突っ込むよ」
「うん。私も頑張る」
穴を通って墓地に入る。ここからはシエナの攻撃だけでなく、墓石も避けて走らなければならない。
「左に大回りしていくぜ。あっちのほうが墓石が少ねぇ」
墓石の配置は不規則だがかなり広い間隔を取ってある。それがわずかな救いだった。
速度に緩急をつけ、ルカとアユタはシエナに近づいていく。
迫り来る黒い蛇。立ち並ぶ七色の墓石。背中に漆黒の壁。最奥に空間を歪ませる、風域という名の神秘。雲一つない空があまりにも場違いに思える。
——風域は俺が正しい選択をするかどうか見ている。
風域は語らないが伝える。運命なんてものはない。生きとし生けるものの意思が、道を作る。だから正しい道を選べ、と。
「アユタ、視力は良いかい?」
「あたしはリトリテだよ。動く望遠鏡って呼んでほしいね」
「さすがだね。シエナの体の向きはわかるかい?」
丘の上に巨大な幹がある。根っこが地上から浮いた形になっているため、中央は空洞になっていた。その中に緑色の石が見える。
「んー、右だな。墓守小屋のほうを向いてるぜ」
ナバルが埋めた時よりも、東に向きが変わっている。
「ありがとう」
「よし。良いこと思いついたぜ。あたしはこのままもう少し左に膨らんで、背中側からあいつに突っ込む。そしたらこっちに攻撃が集中するはずだ。その隙に正面から撃っちまいな」
「まさか。自殺行為だ」
「死なねぇやつがどうやって自殺するんだ? おい犬ころ、やばくなったらお前は降りるんだぞ。じゃ、そういうことで」
点在していた墓石が途切れる。
墓守の土地を抜けたのだ。丘はまだ緩やかな上り坂になっている。
アユタは左にハンドルを切り、全速力でシエナの背中を目指した。
回り込んで接近していくと、予想通り黒の大樹から無数の蛇が生まれ、襲い掛かってくる。蛇同士が衝突するように、うまくルートを取れれば大樹の真下の空洞を抜けて反対側に抜けられる。彼女はそう考えていた。
しかし、蛇の頭を二つ避けた後で想定外の事態が起こる。地面から長方形の柱が何本も飛び出てきて、オルトラを持ち上げたのだ。速度が出ているせいでオルトラは大きく宙に浮かび、アユタも投げ出された。
——犬ころは?
タッカスは柱が出る寸前でオルトラを降り、一匹でシエナのほうへ向かっていた。
無事、か。
アユタは目を閉じる。体が勢いよく大樹の幹に衝突し、骨と肉の潰れる音がした。
タッカスはそのまま化生石で出来た柱の隙間を縫い走った。柱と蛇がぶつかり合って動きを止めると、宙に浮いた蛇の体の下を匍匐前進で通り抜ける。
視界が開けるとシエナを挟んで向こう側にルカの姿が見えた。
彼は少女を傷つけるためにここに来たわけではない。
彼はタッカスの思いを読み、誓いを立てた。
少女を元の優しい友達に戻すためにここに来たのだ。
手伝わなければならない、とタッカスは思った。それは餌を手に入れるためでも、散歩の口実を作るためでもない、彼にとってはとても特別な行為だった。この墓地から一度銃を持ち出した時のように、友達のためにやるべきこと。
彼はシエナが包まれた化生石を通り過ぎ、ルカのそばに行こうとした。しかしその瞬間、彼とソイユの乗ったオルトラは地面から現れた巨人の手に捕まる。
ソイユはオルトラにベルトで繋がれているため、その場でオルトラと一緒に倒れている。
ルカは丘の上を転がり、血まみれになりながらもまだ左手は銃を握っていた。
*
彼らだけが人々を導くことが出来る。
〈
良き導き手のいない世界は、まもなく崩壊するからだ。
かつてヤドリに救われたある国では、彼らは救世主としてもてなされていた。どんなに苦しい時代も、彼らが来ればやがて光に満ちる。そのときまでの我慢だ、と。
〈宿人〉は本当に人を幸せにするのだろうか?
ある国は千年もの間、不死身の暴君によって支配されているのだという。そこでは人々は決して暴君に抗わない。運命だと受けいれている? 違う。彼らはいつか必ず暴君の支配は終わると信じているのだ。自分たちが支配構造を変えるのではない。救世主が外からやってくるからだ。
だが、そのような国には宿人は決してやって来ない。なぜなら暴君は、自分の国を滅ぼすような失態は犯さないからだ。暴君は暴君であるが故に、国の行く末を自由に操ることが出来る。反乱分子がない限り、彼の治世は——彼以外の人々にとっては地獄だとしても——永遠に安泰なのだ。国が持続可能である限り、風域は決して宿人を国に招かない。
〈宿人〉は何のために存在するのだろう?
未来を決めるのは、その国の人々の意思だ。一人一人の選択の結果として、未来は訪れ、絶えず変わり続けている。選択することを放棄した国には、固定化された未来——多くは不幸な一本道——しか存在しない。だが、変わる意思、変える意思がある国は常に流動し続ける。
それこそが健全な状態だ、とルカは思う。
変わり続ける未来の中には、国をまるごとひとつ滅ぼしかねない最悪の未来も存在する。それはもちろん、避けたいことだ。だからといって自ら思考することを放棄し、日々迫り来る選択肢を見ないふりをしていても、状況は良くならない。人々の選択が、その無類の幸せへの意思にもかかわらず、不幸を招くとき。そのときに風域はヤドリを呼ぶ。
ヤドリは交通整理をするだけだ。何も特別な力があるわけじゃない。
ある国では、ヤドリの発言は絶対だった。彼は未来を知っている。だから彼の言うことを信じ、行動しよう。ルカは彼らの期待に応えるべく奮闘した。その国は恐らく、今でもまだヤドリを神聖視しているし、進んだテクノロジーの元で安定した社会を継続しているだろう。ルカが戦闘機から爆撃を受けたとき、人々は人間の壁を作り彼を守った。周囲には人間の肉片が飛散し、彼は生きてはいたものの、血の海に溺れた。
その国の未来を形作ってきたのは、その国の人々だ。
つい最近割って入ってきた自分の命に、どれほどの価値があるだろう。
*
狂ったような犬の吠え声でルカは目を覚ました。瞼から垂れてきた血を袖で拭う。視界は良好、焦点も合う。まだ出来ることがあることにひとまず安堵した。ソイユは軽傷のようで、オルトラのそばで既に体を起こしていた。
左手にはしっかりと銃を握っている。こんな時でも凶器を離さない自分の無意識が嫌になる。
タッカスがシエナの石の前でずっと声を上げている。
彼も友達を止めたいのだ。
「ルカ!」
目覚めたことにソイユが気づいた。
「大丈夫だ。早く、シエナと……」
自分のことなんてどうでも良かった。こんな痛みなんて、何度も味わってきたし、これからも味わう。ヤドリの日常に過ぎないのだ。
ソイユは混乱していた。顔をルカに向けたかと思うと、シエナのほうを見て、またルカを見る。彼の声は届いていない。
土で汚れたタッカスも一瞬吠えるのを止め、こちらに振り向いた。左手の人差し指が引き金に当たっていることがわかっているのか。
——大丈夫。俺は撃たない。
ソイユが叫んでいる。その声がどんどん遠くなっていく。シエナを包んでいる薄緑の化生石が、下から徐々に濃く黒く変色していく。
暴走だろうか。
頭上の幹の側面から、枝を出すように蛇が生まれ勢いよく横に伸びる。そのうちの一匹がこちらに向かってくる。
風域がまたその重い手で、肩を叩いたように思った。
撃て、という声。
アユタか?
それともツルデが、ここまで来たのか?
こんな状態になってもまだルカは銃口をシエナには向けない。それを向けてしまったら終わりだ。大丈夫、まだ間に合う。ソイユは、シエナと向き合っている。
ソイユの声をちゃんと聞けば、二人はわかり合える。
オーブの濁りも止まる。
なんて楽観的な馬鹿なんだろう、俺は。
風域が撃てと言っている?
なら俺はヤドリ失格だ。
*
ソイユはルカの手から銃を奪い、接近する蛇に向けて撃った。反動で腕が上に持ち上げられるが、そのおかげで当てずっぽうの銃弾がうまく蛇の頭に当たる。彼女は銃を落とした。
「あたしだって大っ嫌いよ!」
涙が枯れることはあるのだろうか。
「あんたなんか大っ嫌い! 何でよ! どうしてこんなことするの? どうして……」
どうして人を傷つけるのだろうか。
オーブも。
父さんも。
私から奪おうとするのだろうか。
「あんたが父さんの時間を全部持っていったのよ! あんたがいなければ父さんとご飯を食べられたし、父さんが私を遊びに連れて行ってくれたし、父さんが入学式を見に来てくれたのよ! 私だって誕生日に一緒にいて欲しかった! 私だって父さんに勉強を教えて欲しかった! でも父さんはずっとあなたのところにいたのよ!」
母が死に、父が死に、突然妹が現れる。こんな特別なんていらなかった。
ミラとミラのお母さんみたいに、普通の幸せが欲しかったのに。
「いきなり何よ! 私を襲って、ルカを襲って、ナバルおじさんやクエンのお爺ちゃんまで巻き込んで! 周りを見なさいよ! ぐちゃぐちゃになったこの丘を見てよ。七色の墓石で輝いてたあの丘とこの黒い石だらけの墓地は一緒なの? あなたが壊したのよ。ルカを見てよ。血まみれでもう意識もなくて……もう……どうすればいいの……誰か助けてよ……」
風が痛い。
無数の黒い蛇の動きが、中空で止まっている。
「今さら何が妹よ! こんな妹ならいらないわよ、今のあなたは人間じゃない。化け物よ! そうならないことも出来たのに、なってしまった弱い化け物よ! 弱さを父さんや母さんやあたしやみんなのせいにするんじゃないわよ! 化け物なんだからみんなに無視されて当然じゃない! 傷つけられて当然じゃない、殺されたって当然じゃないの!」
ソイユが落とした銃を拾い引き金を引いた。最後の弾はどこにも当たらず、硝煙だけを残して消えた。
「動けなくて当然よ! 喋れなくて当然よ! 生きたいなら優しくなりなさいよ! 母さんなら絶対そう言うんだから! 私の中の母さんはいつだってそう言うんだから! 馬鹿、馬鹿、馬鹿、嫌い嫌い嫌い嫌い大嫌い!」
すべての蛇がソイユの方に向きを変え、一斉に動き出す。怪我の治ったアユタが走ってきて、彼女を守ろうと覆い被さる。
蛇は二人の手前で停止した。
丘の向こうから白いケースを持って駆けてくるツルデがいる。
「待って!」
彼が溶剤を化生石にかけようとするのをソイユが止めた。
ツルデの足下に黒い滴が落ちる。
まるで涙を流すように——黒い化生石が少しずつ溶けて地面に落ち、土の中に染みこんでいく。
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