11 友達

   *


 タッカスは拳銃を口に咥えたまま、真夜中の商店街を歩いていた。番犬としてクエンに飼われて以来、墓地を出るのは初めてだ。それまではよくこの辺りを勝手に散歩して怒られていたものだった。色んな店で魚や野菜のおこぼれをもらっていると、運動しているはずが体重はどんどん増えていく。

 クエンは優しいし、人間の食事を分けてくれる。タッカスは彼が好きだったが、商店街が恋しくなることも多々あった。その気持ちが薄れたのは二年前、あの少女が墓地にやってきてからだった。

 石の中に包まれている美しい少女をタッカスは見た。彼はいつも通り埋めるための穴を掘るのを手伝ったが、本当のところ、この石は外に置いておいたほうが良いのになと思っていた。クエンはそんなタッカスの気持ちを汲むことなく、事務的に石を穴に入れ土をかぶせた。周りには誰の墓石もない、さみしい場所だった。

 それから彼は墓地の散歩コースにその石を埋めた場所を加えた。はじめは土を掘って石を舐め、何か反応はないかと伺っていたが特別な変化は起こらなかった。クエンがそれに気づくと激怒したので、それからは石のある土の上に腰掛けてのんびりと風域ふういきを眺めるようになった。そのうち土の中で何かが動く感触があり、彼は嬉しくなって跳び上がった。土の中の動きはゆっくりと、着実に大きくなっていく。一年ほど経つと黒い手が土の中から出てきてタッカスを撫でたり、突いたりした。さらに経つと手とタッカスは追いかけっこを楽しむようになる。しかしそうすると周囲の土が荒れてしまうので、クエンはタッカスがまた墓を掘り出そうとしているのではないかと怒るのだった。

 彼が怒られているのを見て、少女ももう何もしなくなった。けれどタッカスは散歩コースを変えることはせず、毎日その場所を訪れ続けた。

 タッカスは彼女のことが好きだった。

 なのに。

 遊び相手になってくれたあの少女が、突然クエンや他の人を傷つけた。そのことがタッカスにはひどくショックだった。

 しかし彼は彼女をまだ信じている。クエンがタッカスを叱りつけ、タッカスがそれに反抗して彼の腕に噛みつくのと同じことだ。人間同士だって、いつも仲良しでいられるとは限らない。ときどき相手を傷つけることは、きっと必要なことなのだ。

 路地裏から義足の猫が出てきた。商店街を二匹で並んで歩いていると、魚屋の店主は喜んでクワッカをいつもたくさんくれる。久しく会っていない旧友を見ても猫は首を傾げるだけで、嬉しそうなそぶりはない。それが関心のないふりをしているだけだと、タッカスにはわかっていた。

 少しじゃれ合うのも良いかもしれないけれど。

 今は、この銃をどこかに隠さなければ。

 彼は匂いで拳銃が少女にとって非常に危険なものだと判断した。クエンが化生石でリトリテを包んで帰ってくると、必ずこの匂いがする。少女はこの匂いがする薬をとても嫌っていた。

 タッカスは猫を置いてけぼりにして、噴水の脇を抜けた。誰にも見つからないところはどこだろう。人間の寄りつかない場所はどこにあるのだろう。


   *


「今混み合ってるんだ。また明日かけ直してくれ」

 ルカは電話を取ると、有無を言わせずそう言って切ろうとした。

 それを慌てて止める声に、聞き覚えがある。

 墓守の息子だ。

「あの時の拳闘士か。何の用だい」

「元拳闘士だ。何故出なかった」

「それどころじゃないんだ。用事があるなら早く言ってくれ」

「待て、ということはもう……俺はナバル、クエンの三人と墓地にいる。例の黒い化生石けしょうせきに襲われた。オルトラも壊されて、下手に動いたらまたやられかねない状況だ。恐らく石はそっちの娘を狙いに行った」

「残念だけど全部終わった後だ。俺も今着いたんだ。ソイユは無事だけど、オーブは奪われた」

「オーブが? 自分のものにするつもりか」

「だろうね……確認したい。やっぱりこれは、シエナの仕業なのかい?」

「話が早いな。その通りだ。丘には化生石に包まれたシエナが眠ってる。オーブを奪ったところで、自分のものにはならないはずだが。ソイユに恨みでもあるのか」

「ソイユのオーブはわずかにシエナにも繋がっていると思う。シエナは、オーブを通してソイユに話しかけていた。ソイユはオーブを通してシエナと視覚を共有した。そのことが関係あるんじゃないか」

「なるほどな。シエナは完全な落珠らくじゅじゃないということか。で、そのオーブを自分だけのものにしたいと。姉妹喧嘩にしては規模が大きすぎる。だがオーブの共有……そんなことが本当にあり得るのだとすれば、余計まずいことになった」

「どうして?」

「アルダ湖の前で話したこと、あれにはもっと細かい事情がある。化生石に生きたまま入れられた男は、自分を生き埋めにした男に復讐した。だが、男の目的はそれで終わっている。後は自分の居場所に誰かが気づいて掘り出してくれれば、それで良いはずだ。

 問題はその後。男のオーブは化生石の中で濁って濃紺に変わった。〈暴走〉が始まったんだ。石の中で暴走した結果、化生石は周囲に何があろうがお構いなく破壊する。それが北東部にあったリトリテの街を壊滅させた。

 シエナがオーブと繋がっているのなら、例え埋められているのが肉体だけだったとしても、オーブが濁りきった時に同じように暴走が起こるだろう。この街の地下には化生石が有り余るほど眠っている。何百、何千という顔のない蛇を作れるほどに」

「この街は持たない、か。最悪だね。ソイユの状態も良くない」

「それもオーブの濁りを早めるだろうな。アルダ湖の悲劇の時は、オーブはおよそ丸一日経って暴走したと言われている。それまでに何か手を打つ必要がある」

「そっちで動いてオーブを取り戻せないか?」

「そう簡単に返してくれるとも思えない。今シエナの墓石の周囲には六匹の蛇が動き回ってる——おい、ナバル、あれが見えるか」

 途中で声が遠くなり、しばらくするとまた元に戻った。

「墓石の真上に向けて蔓のように化生石が絡まりながら伸びている。まるで巨大な樹だな。その天辺に鳥の巣のような皿が作られているから、オーブを隠すならあの中だ」

「駄目か……なら……」

 シエナが地中の化生石と接触することでそれを操っているのなら、彼女を石から取り出してしまうという手段がある。だが、オーブの奪還と同じで簡単に近づかせてくれるとは思えない。

「化生石は硬すぎる。ナイフで切れるようなものなら、力づくでどうにかできそうなんだけどな」

「——少しそのまま待っていてくれ」

 何かひらめいたのか、ツルデがまた受話器から離れる。ナバルやクエンが怒鳴り合う声がした。

「よし。聞こえるか?」

「もちろん」

「墓守が化生石を加工するときに使う溶剤がある。それを使えば化生石は人の手で粘土のように自由に形を変えられるようになる上、濃度を高めればほとんど水に近いくらいまで軟化させることも可能だ。シエナを石から出せる。

 だが、溶液をかけようとしても近づけない。さすがに襲ってくる蛇全部を溶かせるほどの量もない。そうなると使える武器は一つ、銃だ。

 嘆きの泉の悲劇以来、墓守は代々お守りとしてある拳銃を受け継いできた。それに使う弾丸は高濃度の溶剤を含ませていて、化生石を貫くことが出来る」

「それでオーブを? ソイユもシエナも、死ぬよ」

「狙うのはシエナの肉体だ。シエナの墓石は今、地上に出ている。巨大な樹の根元に空洞があって、そこに浮かんでいる——地面とは黒い化生石で繋がっているようだ。それを頼りに化生石を操れるんだろう。化生石の変形・変色は石の縁で起こるから、本体の石はそのまま透明度の高い緑色を保っている。むき出しになっているシエナの接続枝せつぞくしを撃ち抜け」

 接続枝を?

「接続枝のことは知ってるか。肉体とオーブを繋ぐと言われている器官だ。実際にはそれが負傷したところで、リトリテが死ぬわけじゃない。ただ、接続枝はリトリテの肉体が具えているもののなかで唯一、物理的な攻撃でオーブに影響を与えることのできる器官だ。そいつを撃ち抜けば一時的にオーブの機能が衰える。肉体も動けない。化生石を操ることも出来なくなるだろう。その隙に俺が接近し、溶剤を石にぶちまける。シエナを石から取り出しさえすれば、例えその後暴走しても俺が殴られる程度で済む」

「そんなピンポイントで、蛇に襲われながら接続枝を撃ち抜けると思うかい?」

「お前なら出来る。シエナを埋めた爺さんの記憶によれば、体は南南東の方角、六十度下を向いている。本来はオーブを抱きかかえた状態で石に包むが、今回シエナはオーブを持っていない。その部分が隙間になってるから、接続枝のある位置も外側から何とか視認出来る」

 ツルデは一度拳を交えたとき、ルカの体つき、至る所に残る傷跡、無駄のない動きから彼が拳闘場の試合とは比べものにならないような厳しい場所で訓練を積んだと踏んでいた。

 オルトラの運転も十分さまになっている。蛇を避けつつ、接近し、撃つ——難しい仕事だが、任せられるだけの技量はあるだろう。

「で、その銃はどこにあるんだ」

 ルカは受話器を持つ手に力を込めた。

「それが問題だ。タッカスが口に咥えて、どこかに消えた」

 あの利口そうな犬が? 不可解な行動だった。

「じゃあまずは迷い犬を探す必要があるね」

「そういうことだ。恐らく商店街だろうと、爺さんは言ってる。ここにもらわれてくる前はそこが散歩コースだったらしい」

「了解したよ」

 だがルカは、その作戦が最善だとは思わなかった。

「急いでくれ。俺は腹が減った」

「何もかも終わった後で、君が餓死している姿を見たいよ」

 電話を切るとルカはソイユの元に戻った。アユタは隣でどうしたものか困っていて、ルカの姿を見るとお手上げだ、というジェスチャーをした。

 さっきは任せとけ、と自信満々だったはずだけど。

「ソイユ、動けるかい。ここは騒がしい。事務室に行こう」

 さほど多くはないものの、外にいる自警団や野次馬の声が壁の大穴を通って聞こえてきていた。ソイユは返事をせず、自ら立ち上がり事務室へ向けて歩きはじめた。

 この子は悲しんでいるのでも怯えているのでもない、とルカは思った。

 怒っているのだ。

「お茶を淹れるよ。まともな濃さでね」

 湯を沸かしている間に、彼女の怒りの源泉が何なのか考えていた。

 オーブを奪われたことだろうか。

 妹の存在が隠されていたことだろうか。

 彼女はルカが淹れたお茶に口をつけようともしなかった。ルカは彼女の正面に椅子を持ってきて、彼女から話し始めるのを辛抱強く待った。アユタは沈黙が耐えきれず部屋を出たり入ったりしている。

「父さんは、私に研究のことはひとつも教えてくれなかった」

 かろうじて聞き取れる声でソイユは言った。

「私のために帰ってくることはなかった」

 それっきり彼女はまた立てた膝に顔を当て、ソファの上で縮こまってしまった。

 ルカは机の上にエナクの日記を置いた。

「君の父さんの日記だ。俺もまだちゃんと読んでない。誰よりもまず君が、この中身を知る権利があると思う」

 やはり返事はなかった。

「シエナはこのままだと暴走して、街を全部壊してしまうかもしれない。たくさんの人が死ぬだろう。彼女は人殺しになってしまう。俺は、それを止めるために探すものがある」

 ルカがソファを離れる。

「アユタ、そばにいてやってくれ」

「ったく……わかったよ」

 ルカはタッカスを探すために駐輪場に行く。そこにはキッツがいて、ずらりと並んだ従業員のオルトラのタイヤを一つずつ検分していた。

「あ、ルカさん。見てくださいよこれ。どいつもこいつもパンクしてるっす。誰かの悪戯っすかね」

 タイヤには鋭利な刃物で切り裂いた跡がある。シエナがやったのだろう。

「でもずーっとサボってて帰りが遅れた俺のやつと、アユタ姉さんのは無事っすよ」

 さすが俺、とでも言いたそうな顔だ。

「サボりもたまには役に立つってことだね。少し借りていいか?」

「もちろんっす!」

「ありがとう。君には結局、助けられてばかりみたいだ」

 キッツのオルトラはルカがナバルから借りているものより軽く、エンジン音が静かだった。ちゃんと働いて稼いだ金で、オルトラ商会から買ったのだ。


   *


 どうしてあたしがこんな面倒臭い、金にもならないことをしなきゃなんねぇのか。

 アユタは心の中で呟いた。ルカと一緒にいると、何だか調子が狂うようだ。自分勝手に、自由奔放に生きているはずなのに、勝手に他人のためになるようなことに巻き込まれる。

 あいつには善意の引力みたいなのがあるんじゃねぇか。

 ソイユは相変わらず顔を伏せている。さっきまでキッツが元気を出させようと隣で喚いていたが、逆効果なので外につまみ出した。この空気の中で一発ギャグをかますなんて、考えられねぇ。

 どういう言葉をソイユにかけていいのか、アユタには想像もつかない。彼女はこれまで塞ぎ込んだことも、泣いたことも一度もない。笑うか怒るか、大抵はその二択で済んでしまう。子供の頃から周りには男ばかりがいた。

 だが沈黙は、言葉をひねり出すよりもずっと彼女にとっては苦痛だった。

「親父の日記、読んでみろよ」

 彼女は机上のノートを片手で持ち、ソイユの膝にちょんと当てた。

 ソイユは俯いたまま首を横に振るだけだ。

「さっきまた、ぱらぱらと読んでみたんだけどよ。お前に、ごめん、って書いてたよ」

 白銀甲しろがねこうの音色だけが言葉の間を埋める。

「そのさ、あんたの妹にも、ごめん、って書いてたよ」

 彼女は日記を机の上に戻し、もう飲むつもりもないコップを持ち上げて、時間を潰した。窓の外に目回し蝶が来たら、コップをくるくると回す、子供の頃に良くやった遊びを思い出す。

「謝るってことは、悪いって思ってるってことだ。悪いって思うってことは、相手のことを考えてるってことだ。相手のことを見てるってことだ」

 なんて当たり前のことを言うんだろう、あたしは。

 自分の口から、自分でも意図しない声が漏れてくる。

「あたしは、その気持ちは大事だと思う。そういう気持ちをうちの両親も持ってれば良かったのにな。

 弟がいたんだ。あたしが七歳のとき母さんが産んだ。あたしはずっと弟が欲しくて、跳んで喜んだよ。出産にも立ち会わせてもらった。

 でも、産まれてきた弟を見て親父もお袋も絶句した。落珠だったんだ。そうとわかるとあたしはすぐに部屋をつまみ出された。すっげぇ手際のいいやつらだったよ、あの病院の人間たち、そして、あたしの両親の変わり身の早さも……。

 次の日には、弟はエルダ湖に沈んでた。

 あたしはね、自分の弟が湖の一部になるのを見たのさ。そして二度とあそこの魚は食わねぇって誓った。親父もお袋も、それから弟のことは一切口にしない。そもそも弟なんてのは生まれてこなかったって、本気で思ってる。

 みんなそんなふうにして見ないふりをしてやり過ごすんだよ、きっと。リトリテ同士の結婚でも、ごくまれに落珠は産まれてきちまう。そのときにどう対処すべきかを、わかっちまってるのさ。

 でもさ、それって気持ち悪くないか?

 嫌なことがあったときの解決法がばっちり決まってて、誰も傷つかない。あたしは、それは気持ち悪いと思うね。むかつくやつがいたら喧嘩する。むかつかない秘伝の技なんかに頼らねぇ。いけすかねぇことが起こったら、それがいけすかなくなるまで、全力で抗う。いけすかねぇことを受け入れて、そのまま好きになっちまうなんてありえねぇ。そんなのは嘘だ。嘘は嫌いだ。そんで好きでも嫌いでもない無関心ってのはもっと嫌いだ。

 あたしの親父とお袋は、弟が落珠として生まれたとたん無関心になったんだ」

 いつの間にかソイユが顔を上げ、アユタの途切れ途切れに動く唇を見ていた。

「なんだよ、あたしの顔に何かついてんのかよ」

「ううん。ただ——話させて、ごめん」

「ちっ。そのごめんは嫌いだね」

 アユタはコップを置き、窓に近づいた。目回し蝶が飛び立つ。夜が暗いという当たり前のことが、大切に思えた。

 ソイユは彼女の背中を少し眺めてから、机上の日記の表紙に触れた。

 父さんは、私を見ていたのだろうか。

 妹を?

 母を、見ていたのだろうか。


   *


 夜の街から発光虫はっこうちゅうが完全に消えていた。

 発光虫は化生石を嫌うのだろうか。それとも何らかの異変を感じ取る能力に長けているのか。

 噴水の横にオルトラを止める。広場にはチョークの跡がくっきり残っているが、奏螺そうらのいた場所だけが綺麗に消されていた。次の土地に行ったのだろう。魚屋から生ものの臭いが漂っている。

 徒歩で商店街を端から端まで、銃を咥えた犬を探した。表通りにいないとわかると路地に入る。燭台を持って来れば良かった、とルカは後悔した。月が明るいのが救いだ。

 急に路地裏の扉が開いてルカは驚いた。足音を聞いて住民が出てきたのだった。犬を見なかったか聞いたが、気持ちよく寝ていたのにと怒られた。そこから裏通りに出ると、義足の猫がいる。生身の足が血で赤く染まっていたので、助けてやろうと近づいた。

 体に触れようとすると警戒し、逃げてしまう。

「無理するなよ。痛いときは、誰かを頼っていいんだ」

 気持ちが通じなかったのか、猫は一定の距離を取り続けた。周辺に長い毛が何本も落ちているのに気づく。どうやら喧嘩相手のもののようだ。

 タッカスと同じ赤毛だった。

 ルカが毛を持って身振りで猫に意図を伝えようとする。猫はしばらく人間の滑稽な仕草をじっと眺めていたが、そのうち体を反転させ、ちょうど今ルカが向いている方角へ向け鳴いた。

 そっちに行ったのか?

 肩の包帯をナイフで短く切り、背を向いている隙に猫を捕まえる。指を噛まれてしまったが、傷ついた足に包帯を巻いてやることは出来た。

 ルカは一度広場に戻り、オルトラに乗って猫が示した方へ進んだ。花屋の前を通り、エナクが埋葬されている霊園に着く。念のため階段を上ったが、タッカスは見当たらない。ここは住居や商店が密集する中心街の西端だ。猫が示した方角をそのまま行くと、エルダ湖に突き当たる。もちろんまた街の中心部に戻った可能性も十分ある。

 だがルカは、できるだけ墓地から遠ざかろうとするだろうと考えた。

 もし湖から北の森に入られたら、さすがに見つけられない。急いでオルトラを走らせ、エルダ湖に向かう。湖が近づくとオルトラのヘッドライトを消し、徐行した。

 湖の畔、落下防止柵のそばに墓地の番犬はいた。

 少し離れた位置にオルトラを置いて歩く。タッカスは逃げなかったが、尻を上げて威嚇の姿勢を取った。獰猛な、野生の唸り声がする。

「どうしてその銃を持って逃げたんだい」

 努めて優しくルカは言った。姿勢を低くし、出来るだけ犬と目線の高さを合わせるようにする。

 一歩、一歩、ゆっくりと接近する。

「話をしよう。俺は、君のことが知りたい」

 君は、彼女を守りたいんじゃないのか?

 ルカの手がもう少しで届く、といったところでタッカスは首を左に大きく振った。拳銃は勢いよく地面を滑り、湖へ吸い込まれる。

 考える間もなくルカは柵を跳び越え、水面に落ちたばかりの銃を掴んだ。

 そのまま体が沈んでいく。

 真夜中の湖は底なしに思えた。その底なしの深みから、魚の群れがこちらを目指している。何百、何千とも思える銀の眼がルカに焦点を合わせ、猛スピードで襲いかかろうとしていた。

 ——クワッカだ。

 水中で慌てて体を回転させ、水面に出る。水位は高くぎりぎり柵に手が届いた。体を持ち上げるよりもクワッカの群れが追いつくほうが早く、足に一斉に鋸歯が刺さる。全身が水から離れるとルカは腰のナイフを抜き、両足に食らいついている獰猛な魚に一匹ずつ切りつけ、湖に沈めていく。その負傷したクワッカに対し、他のクワッカが集まってきて共食いをした。深く入った歯はあったものの、幸い肉を抉られることはなかった。

 何とか柵を乗り越え、彼は地面に仰向けになる。街を救うとか、人を守るとか、未来を変えるとか——そういう大それた使命があるくせに、この体たらくだ。自分はまだまだ、目的に見合うだけの力を持たない。

 体を起こすとまだそこにタッカスがいた。さっきまでの敵対的な態度はなりを潜めている。困惑しているみたいだ、とルカは思った。

「これは、」

 彼は拳銃をタッカスに見せる。

「この街の人たちを守るために必要なものだ。だけど俺は、あの子には使わない。約束だ。人を守るための方法は、一つじゃないから」

 未来が、一つではないように。

 いくつもある選択肢の中から、最善のものを選ぶのがヤドリの仕事だ。

 人の言葉がわかるのだろうか。

 タッカスは彼の顔を舐め、オルトラのほうへ歩き出した。

 ——君はシエナと友達。そうだろう?

 それがただの想像ではないと、ルカは本気で考えていた。

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