10 暴走

   *


 日に日に発光虫はっこうちゅうが減少していることが街で話題になっていた。変化は、人間よりも虫のほうが早く気づく。

 ツルデは金属の棒を丘の上に突き立て、そのそばに腰掛けていた。まだ若い芝生に撫でられて足首がこそばゆい。

「まるで自分の家に来たかのような態度じゃの」

 クエンはぎりぎり声の届く位置から言った。

「その棒は——墓荒らしの手口じゃな。お前もついにそこまで堕ちたか」

 そうやって恋人の墓を親族に無断で攫っていくような輩がたまにいた。化生石けしょうせきとオーブが馴染んで形を変えはじめるのが七日後。それから二ヶ月〜半年かけて地上に芽吹き、独特の墓石は形作られる。まだ地中にある墓を探すには効率の良い方法だった。

「俺はそもそも人殺しだ。もうこれ以上は堕ちる場所がない」

 ツルデは金属の棒を上下に動かす。土の中で鈍い音がする。牙を剥き唸っているタッカスをクエンがなだめた。

「実物を見つけないと、あんたはしらばっくれるだけだろうからな。こんなに離れたところに埋めてやるなよ——母親のそばに置いてやれ」

「あの場所はリトリテのためにある墓地じゃ。それを埋めるのであれば、敷地外にせねばならん」

「それを埋めたのはなぜだ?」

「狂った研究者が頼みに来た。狂ってはいたが、可哀想な男じゃ。手を貸した」

「あんたのほうが狂ってるよ。過去の悲劇を知っておきながら、どうして止めなかったんだ」

「悲劇とそれに何の関係がある」

「シエナは生きていると考えるべきだ」

 クエンが一瞬固まったのを、ツルデは見逃さなかった。タッカスも飼い主の異変に気づき——それは苛立ちに違いなかった——彼の手を舐めた。

「肉体がどのように振る舞おうと、儂らが生きているということにはならんよ。オーブときちんと接続され、その意思の元にオーブに尽くすこと。それができない肉体は落珠らくじゅであり、落珠はモノに過ぎんのじゃ。モノが化生石に入ったところで、それは石の中に別の石が入っているというようなものじゃ。奇妙ではあるが、何の価値もない」

「模範的で、つまらない考え方だ。新聞くらい読んでるだろう? こいつがどんな悪さをしているか、理解しろ」

「それがどういう悪さをしたと――」

 タッカスが急にひと吠えし、後ろ側へ走り出した。ツルデもクエンの背後に視線を移し、顔を青ざめさせている。

 老いた墓守は恐る恐る首を後ろに回した。

 夜のとばりの中で地面から黒い板がゆっくりとせり上がってきていた。それは墓場を外部の敵から守る壁となり、弧を描きながら横にも広がっている。まだ壁が形成されていない場所から、丘を駆け上ってくる小さな点がある。

「くそじじい! てめぇに聞きてぇことがある!」

 ナバルだった。墓地を要塞に変えつつある壁の一部から細い蛇が伸びてきて、オルトラに乗ったナバルに襲いかかっている。彼は蛇と一緒にクエンたちの方へ近づいてきていた。

「やべぇ、逃げろ!」

 ツルデがクエンの元へ走り出した時、ポケットに忍ばせておいた容器がこぼれ落ちた。丘に落ちた衝撃で蓋が開き、中から薬液が漏れ出す。土の中に液体が染みこんでいくとき、ツルデは何か悲鳴のようなものを聞いた気がした。

 その後すぐに金属の棒を刺した地面から黒い蛇が現れ、ツルデを思い切り突き飛ばした。荒い化生石の表面がこすれ、背中に大きな切り傷を作る。地面に打ち付けられた衝撃で彼は呻き、そのまま丘を転がっていった。クエンも同時に蛇の頭に打たれ、倒れている。

 オルトラに乗ったナバルにタッカスは飛びつき、腰に抱きついた。ナバルはどうにかバランスを取ってそのまま走るが、正面の土の中から別の蛇が出てきて前輪を横からなぎ払おうとする。避けきれないと諦めた瞬間、突然蛇の動きが止まった。

 ナバルの腰でタッカスがその黒い蛇を悲しげな瞳で見つめている。

 ——この犬ころは傷つけたくないってことか。けど何だって俺を狙うんだ。

 ナバルはオルトラを降り、ツルデに駆け寄った。血が丘の緑を染めているが、もう傷口はほとんど塞がっている。

「立てるか? さすがに犬と人間二人は持って歩けねぇ」

 タッカスはナバルの腕でもがく。離してやると中空で静止した蛇をじっと見る。ツルデは自力で立ち上がった。

「爺さん、立てるか」

 クエンはツルデが出した手を一瞥したが、取らなかった。老体をゆっくりと起こす。

「急に攻撃が止んだな。気が変わったのか? 今のうちに墓守小屋に行こう。ナバルを治療する」

 ここに来るまでにナバルは右腕を折り、体中に擦り傷や切り傷が出来ていた。タッカスが足首の傷を舐めると、彼は痛みで前に倒れた。


   *


 ——十八年前、早春。

 エナクは平凡な学生だった。そして平凡な研究者になった。彼は昔からおとなしく友人はほとんどいない。

 真面目さだけが取り柄といった男だった。

 一方ナバルは高等部で主席、イリ研究所でも入所してすぐに成果を出した。二号棟にある身体課では将来を嘱望しょくぼうされる若者で、体格も良く快活、誰とでも仲良くできて情に厚かった。

 何がきっかけでエナクと話すようになったのか、ナバルは正直覚えていない。小等部では挨拶もしたことがないはずだが、高等部の途中からエナクはひょっこりと彼の隣に現れ、いつの間にか何でも話せる間柄になった。エナクにとって気軽に他愛ない会話が交わせるのはナバルだけだったし、弱みを見せるのが苦手なナバルにとっても、悩み事を打ち明けられるのはエナクだけだった。

 それでもナバルは最後までエナクに言わなかったことがあった。

 エナクはリトリテではないにも関わらず、三号棟を選択した。三号棟はリトリテやオーブに関する研究が主だったが、オーブはあまりにも謎が多く、その課が行っている実験や理論も奇抜で胡散臭いものが多い。リトリテではないエナクがわざわざそこを選ぶ理由は一つしかなかった。

 ある休日、ナバルは自宅の庭に水を遣っていた。ヨルハからもらった花の種が芽を出し、薄緑の羽を広げている。

「びっくりするくらい似合わないね」

 朝に弱いはずのエナクが彼を訪れてきていた。心なしか表情が明るく、憑きものが落ちたようだ。

「もらいもんだからな、枯らすわけにもいかねぇだろ」

「ヨルハかい。彼女は素敵だ。優しくて、思いやりがある」

 エナクは庭の入り口に立ち、中に入ろうとはしなかった。

「それはお前だからだよ。俺にはずいぶんと厳しい女だ。この前も花屋の前を通っただけで怒鳴り散らされたんだぜ」

「それは君が通りがかりの拳闘士に突然喧嘩を売ったからだろ」

「なんだ、聞いてんのかよ」

 水をやり終えると、ナバルは庭に出しっぱなしにしている木製のスツールに腰掛けた。少しの沈黙があってから、エナクは言った。

「ヨルハに結婚を申し込もうと思ってる」

 ナバルは彼の顔をじっと見た。冗談を言うような男ではなかった。

「リトリテとそれ以外の種の混血の場合、半数以上の子は落珠として生まれてくる」

「もちろんそうだ」

 エナクは揺らがなかった。こんなにはっきりと意見を述べる彼を、ナバルも初めて見た。

 彼は気づいているのだろうか?

 もちろん、そうだ。気づいているからわざわざ言いに来た。ナバルは高等部からヨルハのことが好きだった。一緒になりたいと思っていた。けれどリトリテと彼の間にある障壁が——落珠のリスクがその恋愛感情を強く抑え込んでいた。彼は自分の子供が息をせずに産まれてきて、出来損ないの人形以下の扱いを受け、プラントで燃やされ、湖に投げられることが恐ろしかった。それは誰しもが本当は心の中に持っている気持ちだと彼は考えていた。ただ言わないだけだ。そうやって悲劇が起こったときに乗り切ることを、昔の人は教えてくれた。

 エナクの決断はひどく無責任であるようにナバルには思えた。しかし一方で、自分は負けたのだと彼は悟った。恋の強さ、愛の強靱さで俺はエナクの足下にも及ばない。エナクは真面目な男だった。そして、彼の数少ない自主的な選択はいつも正しかった。

「良いと思うぜ。結婚式は呼べよ」

「気が早すぎるよ、まだ決まったわけじゃない」

 エナクは今日会ってから初めて笑った。それでナバルは、彼が緊張していたのだとわかった。エナクと別れてからナバルは家で薄い茶を飲んだ。学生時代からずっと胸に引っかかっていた何かが流れ落ちた気がした。


   *


「こんなもんでいいだろ」

 ツルデの大雑把な治療は、体中に消毒液を塗りつけて絆創膏を貼るというものだった。しかし折れた腕の処置はうまく、三角巾で綺麗に固定されている。野良拳闘で学んだのだという。

 墓守小屋の窓から外を見ると、墓地を覆いつつあった壁は建築途上の城砦のように半端な状態で停止していた。

「壁のことは後で良い。それより俺はそこの頭でっかちの爺さんに用があってきたんだ」

 ナバルが指差したクエンは、小屋の隅であらぬ方を向いていた。

「シエナは焼いて湖に捨てられたんじゃないのか」

 ナバルの鋭い視線を受けても、彼はまったく動じない。

「そうしたと誰から聞いたんじゃ」

「カムファからだ。骨が撒かれるのを見たってな」

「湖に? 儂はここで寝泊まりしておるのでな、誰がいつ散骨されたかなどわからん」

「だが実際はこの丘にいる」

 ツルデが横から割って入る。ナバルが大きなため息をついた。

 どうして俺に言ってくれなかったんだ、エナク。

 俺に言ってくれれば、シエナの面倒だって見てやったのに。

 だが今クエンにそんなことを言ったとして、死人の答えが返ってくるわけでもない。ナバルは首を横に振った。

「——それで、その土の中のシエナが黒い蛇を操り、俺やソイユを襲った? この墓地を覆う壁を造ろうとしてる? そんな馬鹿なことが本当にありえるのかよ」

 ナバルが尋ねる。

「起こりえんよ。肉体のないオーブに何ができる?」

「爺さん。それ以上つまらない言い訳を並べるな。ナバルに話してやれ」

 ツルデは小屋の引き出しから拳銃を取り、クエルに向けた。

「父親に銃を向けるか」

「俺は息子じゃない。そう言ったのはあんただろ?」

 それまで無表情だったクエンの顔がわずかに歪んだ。

 そしてゆっくりと、今日見た景色、黒い蛇の姿を思い返し、自分の知識と繋ぎ合わせる。

 オーブなしで、本当に、あれが起こり得るのか。

「儂が……儂がこの手で、あの悲劇をまた引き起こしてしまったというのか」

「誰も爺さんの責任だとは言ってない。あんたはエナクの頼みを聞いて、墓石を一つ作った。ただそれだけだ」

 クエンはあからさまに混乱し始めていた。瞳が泳ぎ、壁に背を当ててそこから崩れるようにして地面に尻をついた。タッカスが慰めようと顔を舐めるのを、彼は振り払う。

 ナバルとツルデは彼が話し始めるのを待った。

「——儂の曾祖父の、祖父の、そのまた祖父の——随分昔の話だと聞く。当時は風域ふういきを境に二つの街があり、リトリテは北東、ラドルテは南西に暮らしておった。北東の街の、寒い日の夜。あるリトリテの男二人が酒に酔い、路地裏で喧嘩をした。リトリテ同士の喧嘩じゃ、どれだけ激しくとも肉体を狙っている以上大事にはならん。だが、一方の男が相手の倒れた拍子にオーブがこぼれるのを見た。そしてそのオーブに向かって酒瓶を振り下ろした。

 もちろん、そんなことじゃオーブは壊れんよ。だが相手の男が意識を失ったのを見て——男は殺してしまったと考えた。酔っていたせいで慌てたんじゃな。そこで相手のオーブと肉体を自ら化生石で包んだ」

「おいおい、その酔っ払いは墓守だったってか?」

「いや、違う。その頃はまだ化生石に包むのは親族の仕事じゃった。だから誰でも化生石のやり方は知っておったんじゃ。

 真夜中、男はその化生石を墓地に持ち込み土に埋めた。わざわざ化生石に埋めて正しい埋葬の手順を踏んだのは、天則を破ったが上の呪いを恐れたからじゃろう。誤った埋葬方法をとれば、街が滅びる——そうじゃ——悲劇は幾度となく繰り返されていたのかもしれん。

 夫が失踪したと妻が届けを出し、犯人の男はすぐに捕らえられた。儂の先祖が犯人に話を聞き、急ぎ化生石を掘り出そうとしたが、もうすでに遅かった。化生石の中で生きていたオーブは、自らを包む化生石に語りかけ、男に復讐しにかかったんじゃ。

 漆黒の化生石は触手のように伸びて街中を駆け巡ったという。元々は犯人の男のオーブを破壊するのが目的じゃったはずだが、その後化生石は暴走をはじめ、街のほとんどを破壊した。全てが終わった後には、冷めた鉄のようなあの化生湖けしょうこ、儂らがいうアルダ湖が残り、かろうじて死を免れたものたちは風域の反対側へ移動しラドルテと合流した。それが今、儂らの知るこの街じゃ」

 クエンは自分のオーブをちらと見た。また少し光度が落ちている。

「それ以来、儂らは酒がオーブに悪いと考えるようになり、飲まなくなった。そして化生石の加工は儂の家系にのみ伝えられ、伝統は書き換えられた。嘘だと思うならアルダ湖を見てくると良いじゃろう。水など一滴もない湖をな」

 ナバルは動揺しながら話すクエンを観察し、理解した。

 この墓守は、落珠をモノに過ぎないと本当に信じていた。

 シエナを埋めることが、過去の悲劇の再来に繋がるなど、思いつきもしなかったのだ。

「それじゃ、次はシエナがその時と同じことをしようとしてるってかよ……けどあいつが狙ったのはソイユだ。そして俺と、今はわけわかんねぇ壁を作り始めてる。これは何だ? これもシエナの意思だってのか?」

「本人に聞けよ。さっき俺がいたところに埋まってる」

 ツルデが投げやりに言う。

「これは、審判なのかもしれん」

 クエンが低くつぶやくような声を出した。

「ああ、そうなんじゃ……かつて東からこの街に合流したリトリテの多くが、ラドルテと結ばれ子を持った。彼らは大量に生まれ落ちる落珠に怯えたが、決して愛を諦めることはなかった。そのツケを今儂らは払っておるんじゃ。

 リトリテとラドルテの婚姻が世間的に否定されても、時既に遅し。今のリトリテで純血はおらんと言われておる。リトリテ同士が結婚してもわずかな可能性で落珠が産まれてしまう。少しずつ、儂らの自発的なルールがリトリテの血を濃くして来たとしても、何時の時代も必ず自分勝手な輩は現れる。リトリテとラドルテの、愛などという不定形のものが、落珠を産む確率を上げる。

 愚かなことじゃ。そもそも儂らは、西側と合流すべきではなかった。東の街が滅びたのなら、もっと東へ行き、また一から野を耕し、獣を飼い、家を建てるべきだった。それが少しでも楽をしようとした結果が、このざまじゃ。今でもまだ遅くない。あの黒い化け物はそのことを儂らに告げようとしているのではないのかね。リトリテはここを去り、新しい街を作る。そしてラドルテという誘惑から逃れ、愛という幻想から解放される……

 あの娘はそのために産まれてきたのではないかね。父と母は過ちを犯したのだと」

 ナバルがクエンの胸ぐらを掴み、壁に押しつける。タッカスはナバルの足に噛みつくが、彼はまったく意に介さなかった。

「ふざけるなよ。リトリテのルールやらこの街の歴史や伝統やら、そういう御託を並べるのは良い。俺だってその大切さはわかってるつもりだ、説教なんざいくらでも聞いてやるよ。だがリトリテと——種族っつう枠組みを理由にしてあいつらを貶めるのは許さねぇ。エナクがどれだけの愛と決意を持ってヨルハと結ばれたのか知らねぇお前が、そんな言葉を吐くのはぜってぇ許さねぇ。産まれてきた大事な命を——ソイユとシエナを傷つけるような言葉はぜってぇ許せねぇんだよ!」

「やめろナバル!」

 ツルデが銃口をナバルに向ける。

「けっ。親子愛かよ。そうだ、そういう愛だよ! ツルデ、お前はわかってる。でもお前の親父さんの頭の中には、そんな人間らしいもんはないらしいぜ」

「わかった。わかったから離してやれ」

 ツルデが言った後で、タッカスが急に大声で吠えはじめた。自分で小屋の扉を開け、外に出る。異様さを感じ取って三人が遅れて出て行くと、丘の頂上で無数の蛇が絡み合いながら空に伸びていた。

「早く止めないとまずいな」

 ツルデが銃を手に持ったまま走り出すと、地中から五匹の蛇が現れ彼とナバル、クエンの三人を襲った。他の場所からも蛇が伸びていたが、それらは上空から壁越しに街の方を見ている。

「狙いはソイユか?」

 ツルデは小屋の近くに、クエンは近くの墓地にそれぞれ蛇に襲われて倒れていた。ナバルは壁のすぐそば、一番小屋から遠いところに飛ばされている。体は痛みで動かなかった。

 タッカスだけが蛇の攻撃を受けずに済んでいた。ツルデの落とした拳銃が足下にある。大柄の番犬は樹幹のように絡み合う蛇の群れに悲しげな目を向けると、拳銃を口に咥えて壁の外へ出て行った。

 遅れてツルデが立ち上がる。

「電話だ! 事務所にかけてくれ!」

 声を出すとナバルの胸は震え、痛みにもだえるのだった。


   *


 どれだけ求薬を投与しても、オーブの濁りは改善されない。ソイユが触れようとするのを拒否するように、鱗は逆立っている。

 事務所の電話が鳴っている。こんな夜遅くに誰だろうか。

「キッツ。出ないの?」

 扉の前に立つボディガードに声を掛ける。

「ルカさんに頼まれたっす。この場所を離れるわけにはいかないっす!」

 天井の高いクフタ商会の中で、延々と鳴り続けるコール音は不気味だった。

 あのときもそうだった……

 二年前、ソイユはまだ父と二人でエルダ湖の近くに暮らしていた。明るい森が好きなソイユがお願いして引っ越してもらったのだ。母との思い出があった前の家を手放すことを、エナクは始め渋った。しかしソイユは、そういう父の顔も見たくなかった。ふとした瞬間に何もない窓の外に目を遣り、母がそこにいるのではないかと探す。そういう父が嫌だった。

 その夜はソイユの誕生日の翌日だった。前日は仕事で帰れないと決まっていたので、次の日にお祝いをしようと二人で約束していた。彼女はミラの母親が働く花屋で黄色い花を買い、一輪挿しの花瓶に入れて机の中央に飾った。憂魚の香草蒸しと牡鹿のステーキに山菜の和え物を用意して彼女は父の帰りを待っていた。きっと素敵な、とても大きなプレゼントを抱えて帰ってきてくれるだろうと思っていた。

 しかし約束の時間を三時間過ぎても、父は帰ってこなかった。ソイユは一人きりの部屋で、一人分の料理を食べた。その部屋は二人入ってもまだ余るほど広く、料理もまた同じだった。

 腹いせに全部食べきってしまおう、とソイユは思った。けれどどうしてもお腹に入らず、乱雑に身をほぐされた憂魚の顔が机の上で痛みにもだえているように見えた。

 ソイユが風呂から出ると、家の電話が鳴った。しかし彼女は出なかった。しばらくして家のドアが乱暴に叩かれた。ソイユは机の前で三角座りをして、憂魚の顔を見ていた。

 扉の外で叫んでいるのがナバルだと気づくと、彼女は面倒臭そうに扉に向かって歩いた。ナバルおじさんを使うなんて、ずるい。まだ彼女は怒っていた。しかし、扉の前に立っていた男は彼女の知る偉そうで、人の気持ちを読むのが下手くそなくせに、お節介極まりない中年ではなかった。彼は目を真っ赤に腫らしていた。

「ソイユ、エナクが……」

 八〇四年、しちの月、十日。エナクは病により亡くなった。ソイユには一切伝えていなかったが、彼は自分の余命がわずかであることを、以前から医者に告げられていた。

 エナクが彼女に伝えたかったことの多くを、ソイユは未だ知らない。これからも知ることはないだろう。

 ——取らなきゃ。

 この電話は取るべきだ。思い出から現実に帰って来た彼女はそう思い、扉に手を伸ばそうとした。

 そのときまたあの目眩がやってきた。

 ソイユの視界が突然遮られる。まぶたを開けると黒い部屋にいた。夢で見る、白い煙の浮かんでいる球状の部屋。

 煙がふたりの赤ん坊を抱いている母の姿を形作る。

(父さんは私をなかったことにした。それでも父さんは私を見ていた)

 母の後ろに父の姿が現れる。

(でもその父さんがいなくなって、私は本当にいない人になった)

 赤ん坊のうち一人が消え、残った三人が笑顔になる。

(あなたは、どうして私の手に触れてくれないの)

「だれ……」

 ソイユは煙に背を向けて走った。走って、走って、どこまで走っても暗闇の中で、すぐ後ろに煙は漂っている。

 消えたもう一人の赤ん坊が目の前に突然現れ、ぎろりと目を見開く。

(約束したのに。父さんは、ここにいれば、きっとみんなが会いに来るって……こんなに待ったのに誰も来ない!)

「やめて! ばかばかしい、あなたは私よ! 私は私、一人だわ。他の誰でもない。二人も要らないのよ——そうでしょう、オーブ?」

 ソイユの腹の中が橙色に明滅し、外からもはっきりとオーブの輪郭が見える。しかしその弱々しい光で照らすことのできるものはなく、部屋は黒いままだ。

(ふたりもいらない?)

 眼球の縁がはっきりとわかるほど目を飛び出させ、赤ん坊が言う。

(私があなたであることもできたのよ。最初にオーブをあなたに譲りさえしなければ。私が父に愛され、学校に通い、ミラと友達になることも出来た)

 ソイユの中のオーブが群青色に変わっていく。

「幻よ! あなたなんか幻なのよ! 悲しいときに人をもっと悲しくさせる。苦しい人をもっと苦しめる。あなたは憑きものよ——父さんはあなたに苦しめられて死んだんだわ!」

 耳を塞ぎ、ソイユが叫ぶ。

 だが声は腹の中のオーブから聞こえる。

(私じゃないわ! 私たちを産むことを選んだのは父さんと母さんよ!)

「あなたなんか選ぶわけないわ! 私は私、たった一人の私、たった一つのオーブなのよ!」

 ソイユが目の前の煙を振り払い、また走り出す。

 赤ん坊の非難の声は止むことがない。

 そのとき彼女の頭の中に、ある記憶が想起された。

 それはオーブからではなく、この弱々しい肉体に宿る声のようだ。

「振り返るの」

 これは、女の人の声。

 見たことも聞いたこともないはずの、記憶。

「嫌なことがあったときは、背中を向けて走り出す。必死になって逃げて、もうこれ以上動けないってなったときに、やっぱり私は振り返るの。

 そしたら。

 嫌なことはもっと嫌なことになって、すぐそこで嗤っているの。

 だから私は、それからは走るのをやめた」

 これは——母さんの声なの?

 ソイユは足を止める。母の言葉をなぞるように振り向くと、赤ん坊だった白い煙はみるみるうちに成長し、やがてソイユの姿になる。

「嫌なやつはもっと嫌なやつになって嗤ってるの……」

 逃げなきゃいけないときはある。どうしようもなく逃げ出したいときがある。

 でも、いつまでも逃げ続けられるわけじゃない。

 だからいつかは立ち止まって、振り返らなきゃならない。

 その後はどうするの?

 母さんは病気に立ち向かった。

 立ち向かっても結局死んでしまった。

 何かが変わったのだろうか。

(姉さん……)

 煙のソイユが手を伸ばす。またあの手だ。ソイユはもう背を向けず、走り出しもしなかった。そして鏡写しの自分を見て言った。


   *


 ルカとアユタがクフタ商会に着いた時、すでにそこは襲撃された後だった。正面右手の壁に大穴が開いている。自警団が簡易的な柵を作り、野次馬たちを近づかせないようにしていた。

 崩れた壁の残骸の中から、ソイユのリュックがはみ出ていた。ルカが穴から建物内に入ると、動揺したキッツが同じ場所をぐるぐる回っている。

「やべぇやべぇやべぇやべぇやべぇ!」

 ソイユはそばで布団にくるまっていた。

「二人とも無事か」

「ルカさん! やばいっす、蛇が、あいつが出て」

「落ち着け。あいつが出て、どうした」

 穴の上部に残った壁が剥がれ落ちる。音に怯えてキッツは跳び上がった。

「……俺がふがいないばっかりに……ソイユさんのオーブが、あいつに盗られちまったっす」

「そうか。でもソイユは無事ここにいる。ありがとう、キッツ。お手柄じゃないか」

「何言ってるんすか! オーブですよ、彼女の命で、彼女自身だ! 俺はまずそっちを守るべきだったのに、あいつ、硬すぎて何やってもびくともしねぇ……」

「キッツ。もう一度言うぞ。。オーブをどうするかは後で考えるさ」

 アユタがソイユの隣で声をかけている。震えている彼女の体が徐々に落ち着いていくのがわかった。

 ルカは腰を下ろしソイユと目線を合わせる。怯えていると言うよりは不可解だと言った方が確からしい。顔には疑問符がいくつも浮かんでいた。

「怪我はないか」

「うん……」

 怪我はないか。

 この言葉はリトリテに対して何らかの意味を持つのだろうか。

 持っていて欲しい、とルカは思う。

「カムファと話が出来た。君には双子の妹がいる」

 ルカがカムファから聞いた話を伝えると、ソイユは曲げた膝に顔をつけて涙を流した。

 声をかけようとしたところをアユタに制止された。ルカは黙って頷き、その場を彼女に任せて事務室に向かう。

 さっきから電話が鳴りすぎる。

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