9 潜入

   *


 ナバルがソイユの様子を見にクフタ商会に戻ると、休憩室から三つの声が聞こえた。ソイユ、ルカ、そしてキッツだ。

 彼はそのまま部屋に入らず、扉を背にじっと三人の声に耳を傾けていた。どうやらルカとソイユが、キッツに黒い蛇の事件について得た情報を話しているらしい。驚いたのは、ソイユの幻聴の話だ。

 私は、父さんの娘――

 まさか、とナバルは思った。そんなはずはない。彼女はもう存在しないはずだ——いや——元々存在しないことになっていて、しかも完全に処分されたはずだ。

 彼はそのまま部屋に入らず、家に戻ってカムファに電話をかけた。しかし繋がらない。仕方なくオルトラに乗って彼の自宅を訪れた。日が出ているうちは家にいるのが常だったが、ノックしても沈黙が返ってくるだけだ。彼が鍵を掛けないとわかっていたので、ナバルは勝手に扉を開けて中に入り、部屋という部屋を検分した。地下の陰鬱いんうつな隔離部屋まで探したが、彼の姿はなかった。

 研究所に行っても受付はいないの一点張りだ。あの受付はいかに仕事をしないかしか考えないし、元弱小拳闘士の警備員は追い返す絶妙のタイミングをいつも見計らっている。

 そんなはずはない。

 彼女は焼いて湖に捨てられたはずだ……

 カムファに聞けばその事実を再確認出来るはずだとナバルは思っていた。だが、掴まらないとなると直接墓地に行ってクエンに聞くしかない。生きたリトリテを埋めると黒い化生石けしょうせきになる。クエンがもし彼女を埋めたとしたら――

 例えオーブがなくても、黒くなるのか?

 ナバルは研究所の受付に小言を言って駐輪場に戻る。

 だが、さっきまで問題なかったオルトラのタイヤがパンクしていた。

「誰だ! こんなときにいたずらしやがって」

 ここからだとクフタ商会に戻るより、オルトラ商会で修理を受けた方が早い。そう思った彼はオルトラを引いて近くの商会を訪れ、特急でタイヤを直してもらった。不思議なことに、針のような細くとがったものではなく、何らかの刃物で縦に裂かれた跡が残っていた。普通の悪戯でやる手口ではない。

 そんなこと構ってられるかよ。

 彼は気にせず修理を終えたオルトラに乗り、走り始める。だが次の瞬間、彼の体は宙に浮き、手はハンドルから離れ、民家の壁に体が投げ出された。

 さっきまで座っていたオルトラは思い切りひしゃげている。黒い化生石で出来た巨大な手が、その車体を握りつぶしていた。

「何なんだ、お前は……」

 俺が墓地に行くことを邪魔してるのか?

 表はその手に怯えた人たちが奇声を上げ、騒動になっている。ナバルはふらふらになりながら路地に入った。

 どうにかして墓地に行かなければならない。

 妨害されているということは、目的地は正しいということだ。


   *


 研究所を囲む壁はざっと六メートルはある。越えるための道具として、倉庫から鉤縄かぎなわを一本借りることにした。荷物の固定用に使われるもので強度に難はあるが、一人分の体重なら問題ないだろう。

 念のため失った短刀の代わりに護身用の武器がないか、バックパックを漁った。前の国をほうほうの体で出てきたのでろくな装備がない上、この街では必要性が皆無のため調達していない。使えそうなものと言えば調理用の小ぶりなナイフだけだった。

 ナイフを腰に、鉤縄を袋に詰めて準備を終えたところで床に石ころが一つ転がっていることに気づいた。すっかり忘れていたが、この街に来る前にイシコロガシから横取りしたものだ。

 今ならわかる。

 それは化生石だった。

 金になると思って拾った石だが、この街には有り余るほど化生石がある。記念用に持っておこうかと手を伸ばしたとき、黒い枝が視界の外から伸びてきてその化生石と結合した。跳び退いて正面の窓を見ると、その枝は窓の下から伸びてきている。

 —―蛇だ。

 ルカは動かなかった。ナイフでは化生石に歯が立たない。重要なのはここで無理に争うことじゃなく、正体を見破って対策を練り、確実に処理することだ。今の状況で最善の策は、ただ見守ること。そして襲われたら——全力で逃げること。

 黒い枝に触れた化生石はみるみるうちに形を変えた。持ち手のついた五センチほどのシリンダーで、先端から持ち手にかけて複雑な凹凸がついている。形が出来上がると黒い枝は取っ手から切り離され、滑るように窓から外に出て行く。

 ルカが窓から顔を乗り出すと、黒い枝はナバルが丹精込めて育てている花壇の辺りから伸びていたが、すぐに土の中に消えた。

「なんだったんだ……」

 床に残された奇妙なオブジェを眺める。

 そしてはっとした。

 カムファが研究所で使っていた特殊な鍵とうり二つだったのだ。

「まさか、俺に行けって言ってるのか?」

 なぜ、協力するのだろう。

 俺はどこに導かれようとしているのか。


 イリ研究所のセキュリティは緩い。平穏さ故か、この街にはセンサーの類いは存在しないのでどこから入ろうが感知されてアラームが鳴るという悲惨なことは起こらないし、赤外線で暗闇の中を監視されていることもあり得ない。受付があるのはもちろん研究の秘密を守るという理由もあるが、秘密を盗まれたからといって誰かがそれをうまく使いこなせるということは考えにくい。研究者の素質があり、学を得たものは大抵研究所に入ることになるからだ。対外コミュニケーションを極力排除したい研究所内部の人間の要望と、コグレダ紙の記者ように面白おかしく脚色する人々を遠ざけるのが実際の受付の目的だった。

 だから研究所を囲むこの高い壁も、侵入者を排除するという通常考えられる意図とは別の理由で造られている。外部の人間がうっかり入ってしまって、七号棟であったのような事故に巻き込まれることを防いでいるのだ。

 ——見回りもいないようだし、三号棟に近いところから登るか。

 ぐるりと壁を一周し、ルカは登るべき場所の検討をつけた。壁の周囲にも街灯はあるが、間隔が広くちょうど間になる位置だと光はまったく届かない。曇り空で月も隠れ、背中側の公園は緑が多く目立ちにくかった。

 ルカは袋から鉤縄を出さず、そのまま壁のほうを向いてじっと待っていた。背後の茂みの中で隠れている何者かの気配に気づいたのだ。

 動きはない。

 殺気を感じないということもあり、彼は自分から回れ右をしてその茂みに近づいていった。

「何やってるんだい?」

「ちっ。ばれたか」

 茂みから出てきたのはアユタだった。

「いやな、さっき向こうのほうであんたを見かけたんだ。こんな夜遅くに怪しいじゃねぇか。もしかしてあたしと同じこと考えてんじゃねぇかって見張ってたんだよ」

 アユタは髪や体についた葉っぱを払う。

「同じこと? もしかして君もこの中に入ろうとしてたのか?」

「そうだよ。だが今日はあんたに先鋒を譲ってやる。ありがたく先に行きな」

 ほう。とルカは顎に手を当てた。

「なるほどね。俺を先に行かせて、侵入しても安全かどうか確かめたいってわけだ。中にまだ人が残ってるかもしれないしね。一騒動起こしてくれたらそのどさくさに紛れて侵入し、目的を達成できる上、厄介な鍵の問題もクリアできるかも」

「ぐ……」

 図星だとアユタの顔が言っていた。

「でも俺は構わないよ。どうせ一人で行くつもりだったんだ。後で来て俺の邪魔をしなければ、だけど」

「しねぇよ。ちなみにあんたの目的は?」

「三号棟。研究室で過去に何が行われていたのか調べたい」

「奇遇じゃねぇか。あたしも三号棟に用があるんだ。あそこで愚薬ぐやくのプラス9が開発されてて、実用化にこぎつけたって噂だ。けど研究者のやつらはそれを独り占めして外には出さねぇ。ずるくねぇか?」

「プラス9? あのお菓子じゃなくて、本物があるのか」

「ホントかどうかはこれから確かめなきゃならねぇけどな。ソイユの親父さんが働いてた三号棟で、研究を引き継いでるらしい」

 虫の音だけが響く夜のため、二人とも自然とごく小さな声で話すようになっていた。

「なぁ、あんた三号棟に入る手はあるのかよ。壁の向こう側は厄介だぜ。あそこの鍵はヘンテコだからさ、針金じゃ開けれねぇ」

「これが使えるんじゃないかな」

 ルカは黒い円筒型の鍵を取り出す。

「嘘だろ! なんであんたが合い鍵持ってんだよ」

「運だけは良いと評判なんだよ、俺は」

「よし、決めた。一緒に行こうぜ」

「わかりやす過ぎるね、君は」

「むしろ気持ちいいだろ? ほら、来いよ。代わりと言っちゃなんだが、楽に中に入る方法があるんだ」

 アユタが壁から体一個分離れた地面を、持ってきたスコップで掘り始めた。

 まもなくその下から木の板が現れる。

「昔さ、近所のクソヤローどもとこの辺を遊び場にしてたんだよ。ボールが壁を越えちまうなんてしょっちゅうでさ。いちいち受付に行ってこっぴどく叱られちゃたまんねぇだろ」

 木の板を持ち上げるとそこには大人一人がやっと入れるほどの穴が空いていた。

「これ、自分たちで掘ったのかい? すごいな。穴の中もちゃんと補強されてる」

「仲間内に大工の息子がいてよ。ずっと使ってなかったんだけどさ、今朝思い出したんでちょっくら入ってみるかってな」

 さっそくアユタが穴に頭を入れる。

「ひとつ聞いて良いかい?」

 ルカは袋から鉤縄を出した。

「なんだよ、もう半分入っちまったぜ」

「ここを二人で通ったら、木の板が外からむき出しの状態で放置されると思うんだ。行きはまぁ人通りもなさそうだし良いとしても、帰りは壁の向こう側の板がむき出しになる。子供の頃はどうしてたんだ?」

「……んな細かいこと気にしてっかよ。放っておいてもばれやしねぇさ」

 どうせ研究者の誰かがボール拾いのことを知っていて、こっそり砂をかけてやっていたのだろう。

「俺は上から行くよ。君が完全に中に入ったら、木の板を載せて砂をかけた後で壁を越える。帰りも同じようにすればばれないし、二人とも潜入出来る」

「あんた天才かよ! さすが、頼んだぜ」

 足だけが穴から飛び出た状態でアユタは言った。

 ルカは鉤縄で壁を越えると、縄は袋に入れて穴の中に隠した。予想外の展開とは言え、荷物を隠す場所が出来たのは好都合だ。

 壁を越えて目の前にあるのが三号棟だ。アユタは大胆にも正面玄関へ回ったが、鎧戸が下りていたので鍵は使えない。裏手に回ると非常口がある。扉の上部に開いた窓から中を覗くと灯りはすべて消えていた。もう研究者は残っていないようだ。

 非常口の鍵穴には、あの蛇が作った鍵がぴたりとはまった。

 ルカが鍵を外すのも待ちきれず、アユタは興奮気味に扉を押し開けた。照明のスイッチを入れようとする彼女をすんでのところでルカが止める。

「一階はまずい。外から丸見えだ」

「じゃどうすんだよ」

 ルカは暗い通路を手探りで進む。通路は正面の壁に突き当たるまでまっすぐ続いており、そこに燭台とマッチがあった。大抵の施設では、非常用に携帯式の照明が設置されている。思惑が当たってルカはほっとした。

 蝋燭の柔らかな灯りを頼りに、フロア内の構造を把握する。正面玄関を入ってすぐのところにまず一つ、大きな部屋がある。部屋の入り口左に掲示板が設置されているが、危険物の処理方法が変更になった旨を記したペラ紙が一枚貼られているだけだ。研究者同士で共有する情報はさほどないのだろう。玄関の左手に上階へ向かう階段が、そこから非常口までの直線通路に面して三つの部屋があった。途中で右に曲がると左手にまた大きな部屋があり、これが建物の裏側の壁に面している。

「入ってみよう」

 少女像が手を当てていたこともあり中を調べてみるが、カムファの言った通り机と椅子が無秩序に並んでいるだけだ。卓上に残っているノートや紙をめくってみたものの、どれも計算式や思考の断片を書き付けた落書き帳のようなものばかりで、有益な情報はない。

「なんだよつまんねぇな。さっさと行こうぜ」

 アユタは欠伸をした。

 その部屋を出て左手に進むと地下に伸びている階段が見つかる。

「念のため足音を立てないようにしてくれ」

「そんな器用な真似できるかよ」

「じゃあ靴を脱ぐんだ」

「あ、なるほどね」

 アユタは意外なほど素直に靴を脱ぎ、ルカの後ろについていった。

 階段の途中でルカは燭台をアユタに預け、一人で先に下りた。灯りは点いておらず、人の気配もしない。アユタを呼び、蝋の灯でスイッチを探して押し上げる。弱々しい青い光が天井から落ちて、何とか全体を見渡せるようになった。

「陰気臭ぇ照明だなおい。研究者ってのはどいつもこんななのか?」

「まぁ、数字は見づらいだろうね……研究に支障はないのかな」

 奥側の壁に面して巨大な水槽が置かれており、中にはオーブが一個沈んでいる。橙色のきれいなオーブだった。ルカはその左手にある実験器具の数々が気になった。床には書類が乱雑に置かれている。ソイユが見たという場面にそっくりだ。

「この水槽、愚薬じゃねぇか?」

 アユタが水槽に指をつけて舐める——そんなことで愚薬かどうかわかるわけないのだが——それからおもむろに自分のオーブを漬けて取り出した。

「んー。わかんね。もしかしたらそうかもしれねぇけど、プラス9じゃねぇな」

 彼女はすぐに興味をなくし、実験器具の載せられた机の引き出しを片っ端から開けていく。引き出しの中にも、机の上にも愚薬らしきものは見つからなかった。

 ルカは細かな文字がびっしりと書かれた書類の山をかき分けていた。

 部屋の中央の床に破損の跡を見つける。

 その中から黒い化生石が覗いていた。やはりソイユが視覚を共有したのは、蛇だったのだ。土の中を通り、この場所から蛇は侵入したのだろう。

 恐らくこのときは、少女の姿だった。

 化生石が残っている床の近くに、つたない文字で書かれた紙が落ちていた。

〈しえな いきてる〉

「ん? なんだその下手くそな文字は」

 アユタが横から顔を割り込ませる。

「これは——蛇の文字だ。話せないから、文字で意思疎通していたんだ。カムファと」

「言ってる意味が全然わかんねぇぞ」

 ルカはアユタに化生石のこと、ソイユの幻聴、カムファと蛇との対話について話した。

「それであんたはここに来たってわけか。でもそのしえなってのは何だ?」

「誰だ、と言うべきかもしれない。蛇が書いたとすれば、蛇自身のことだ。化生石に包まれた被害者が助けを求めているのか――」

 その人物、しえなが私はエナクの娘と言っていた。

 ソイユ以外に、もう一人娘がいたんだ。

 ルカは書類を一枚ずつ確認していく。だが床に散らばっている紙はどれもカムファの署名が入っていた。

「エナクの署名が入った紙を探してくれ」

「あたしは愚薬を探すのに忙しいんだよ」

「頼む! 愚薬は後で俺も探すのを手伝うから」

「しかたねぇなぁ」

 そういってアユタは実験器具がある机の反対側を探し始めた。そちらにも机があるが、参考書が数冊載っているだけだ。

 だが机の下に一枚の紙が落ちていたので見てみようと潜り込んだとき、床についた手のひらが左にわずかに横滑りした。

「な、何だ?」

 そのまま手のひらを動かしていくと、床と一体化していた長方形の石が左手の壁に吸い込まれていく。

 下は浅い穴になっていて、痛んだノートが積まれている。一番上のノートを手に取って、ぱらぱらとページをめくった。

「おいルカ、こりゃエナクの日記だぜ」

 アユタは適当なページで止めて、内容を読んだ。


   七九四年、むつの月、一日。


 シエナは相変わらず動かないが、肉体は順調に成長している。ベッドが小さくなってきたので買い換える必要がある。カムファがちょうど良いものを見繕ってくれると言うが、大丈夫だろうか。彼にそのような生活力を期待するのは間違いであるような気がする。

 体が大きくなればその分、必要なエネルギーも増える。これまでの点滴では明らかに不足しているので、何か工夫をしなければならない。この点については二号棟に協力を要請するのが得策と思われるが、シエナの存在を話すわけにもいかない。うまい理由を考えなければ。

 嘘は苦手だ。

 ナバルが今月で研究所を辞めて、運び屋を始めると言った。学生時代からの同士を失うのは悲しいことだ。最近はあまり前向きな話題がない。次の悲しみはいつ来るのか。


   七九六年、しうの月、二十五日


 天候不明。二日間家には帰っていない。ソイユに関して、ナバルから叱咤された。確かに私は良い父親ではない。娘二人、どちらも幸福に出来ず何の成果も出せない惨めな研究者だ。

 求薬ぐやくの製品化により街は浮き足立っているらしい。人々にとっては太陽のような発明なのかもしれないが、あれは陰鬱な、この地下の部屋と同じジメジメした薬物だと私は思う。だがこの功績によって私が何をしていようが責め立てる同僚はいなくなった。娘のためにより一層尽くせると思うと力が湧いてくる。

 シエナは時折目を開けて瞬きをする。それ以外の動作は一切ないが、もしかすると視覚は正常なのではないか——そう思って目が開いたときは絵を見せたり、文字を教えてみたりする。これまでは聴覚にしか希望が持てなかった。わずかだが進歩している。


   七九七年、いつの月、九日。


 ナバル。僕はずっと彼の優しさに頼って、心を傷つけている。オーブがなくてもわかるんだ。彼の心は群青色に痛んでいる。

 せめてこの仕事だけは、自分でけりをつけなきゃいけない。僕一人でやり遂げるんだ。

 彼はいつだって僕よりも賢く、正しく、思いやりに溢れていた。なぜ僕のような人間と仲良くしているのだろう。彼に、僕は、何を返せるのだろう。

 彼が研究者を辞めたのは非常に残念だ。続けていれば僕よりずっと優れた成果を出したはずだ。彼はオーブの仕組みを、本当はかなりの部分理解しているのではないかと思える。学生の時からリトリテにオーブを借りて色々と試していたのを見ていた。

 たぶん、彼は、持ち前の頭の良さで、シエナの救済プランは中止すべきだと結論付けたのだ。リトリテやオーブは、ブラックボックスであった方が良いと悟ったんだ。

 それはやはり残念なことではある。

 でも僕は彼の友人だ。彼も僕を友人だと思ってくれているはずだ。だから僕は、彼が傷つくことをしたくはない。例え彼がシエナを救うための知恵を持っていたとしても、彼には頼らない。これは、僕が、僕の責任において向き合うべき問題だ。

 ナバル。僕は君のその決断が、真摯に現実と向き合った結果だと信じている。


 日記と言っても日付はかなり飛び飛びだった。研究の記録としてではなく、単に個人的なものとして書いていたのだろう。

「今は何年?」

 ルカが尋ねる。

「八〇六年だ」

「約十年前か」

 前後五年ほどとはいえ、日記をきちんと読めばシエナについてより詳しい情報が得られるだろう。だがそれは後でも構わない。ソイユにシエナという妹がいるという事実も、ナバルがこの辺りの事情をかなり詳しく知っているということも、クフタ商会に戻ってからで良い。

 今ここでしか調べられないこと。

 この地下室には、ベッドがない。

 カムファが新調したらしいベッドはどこに置かれたのか。

 もう一度部屋を見回す。水槽のある側の壁の左手が直角になっている。正六角形の建物なので、もし地下も同じ形状で建てられたのだとすれば、そこの角度は百二十度になっていなければならないはずだ。

 奥に別の部屋があるんだ。

 壁が直角になっている箇所の、ちょうど反対側に扉がある。トイレか倉庫かと思って後回しにしていたが、そこから回って水槽の裏側の部屋に行けるのかもしれない。

 扉は木製の簡易的なもので、重厚な石壁を持つ部屋にはひどく不釣り合いだった。ただ傷だらけの表面が——まるで爪でひっかいたような傷がたくさんある——床に散らばった書類上の微細な文字と同じように研究者の異様な精神状態を思わせた。

 中は暗く、照明のスイッチを探したが見当たらない。

「いかにもお宝がありそうじゃねぇか——って暗ぇな。燭台取ってきてやるよ」

 アユタが階段のすぐそばに掛けた燭台を取って入ってくる。

「狭いねぇ。せっかく地下室なんて手間かけて作るんだから、もっと生活しやすい構造にすりゃよかったのにな」

 一緒に潜入することになって良かった、とルカは思う。彼女の緊張感のなさがルカの体の強ばりを取る。狭くなりそうになった視野が、少し明るく広がった気がした。

 通路はルカの予想に反し、隠し部屋には通じていなかった。錠の掛かった鉄柵が二人の行く手を阻む。柵の奥にある牢獄のような四角い空間には、拭ったり滴ったりした血の跡が残っていた。

「これは――」

 鉄柵の手前には円形の小さなテーブルがあり、その上に使い古したクッションが置かれている。蝋燭の火が大きく揺らめく。

「おや、おや。大きな虫が、二匹も……」

 はっとルカが振り返ると、背後に白衣を着た男が立っていた。

 包帯を巻いた左手で銃を構え、右手で頭を掻く。

 カムファだ。

 アユタは動かず、ルカは両手を挙げた。

「僕は夜型だって、言わなかったかな?」

 カムファの指は引き金にしっかりと接し、銃口には少しのブレもない。

 撃ち慣れている。

「受付ではいないって言われたんだけどね」

「可笑しいねぇ、ずっとここにいたんだよ。別の部屋だけど」

「あんた、拳銃が脅しになると思ってんの?」

 アユタが額から汗を流しながら言う。ショルダーバッグは背中側に回してあるため、オーブが正面から撃ち抜かれることはない。彼女はそう判断し、踏み出そうとした。

「やめろ!」

 ルカの制止の声を聞き、彼女は固まる。

「賢明だね、旅の少年。彼女に理由を教えてやったらどうだい?」

「俺は心臓を撃たれたら死ぬ」

 カムファはルカに照準を合わせている。端からアユタを狙うつもりはなかった。リトリテへの脅迫は何の抑止力にもならないのだから、きちんと死んでくれるルカのほうを人質にしてしまうのが得策だ。

「なんだよ! むかつく野郎だな!」

 この状況下でも態度が変わらないのはさすがだ。ルカは感心する。

「さて、僕はここが嫌いだ。こんな狭苦しい場所からは早く出たいんだよね。その前に何か言いたいことはあるかな?」

「シエナについて、知っていることを教えて欲しい」

 ルカはカムファの表情を読み取ろうとした。しかしアユタの持つ蝋の灯りは、その顔をはっきりとは照らし出すには力不足だ。

「その牢屋については聞かないんだね」

「これはリトリテの隔離部屋だろ? テーブルはオーブを置くために用意されたものだ。それはもうあんたから教わってる」

「なんだ、つまらないね。もっと驚くかと思ったのに、僕のミスかな。あのときはまだ太陽が出てたから——頭が回らなかった」

 そのとき、アユタは蝋の火を手で握って消した。わずかな火傷は痛みを一瞬伴ったが、すぐに皮膚は再生される。視界を奪われて動揺したカムファが後退る。ルカがすかさずアユタの脇を抜けて彼の左手首を掴み、そのまま体を床にねじ伏せた。

 右手はナイフを抜き、その刃をカムファの首筋にぴたりと当てている。

 ——引き金を引かなかった?

 ルカはカムファの背中にのしかかる形になっていたが、手から拳銃を奪うと体を起こし、隔離部屋の外に出た。

「え、ちょ、おい!」

 その行動を理解できず、アユタが慌ててカムファの上に乗って押さえる。彼が抵抗する様子はなかった。

「離してあげなよ、アユタ。銃には弾が入ってない」

「もう銃弾なんてものは僕たちに必要ないからね」

 フ、ヒ、ヒ、とカムファは床に顔をつけたまま笑った。

「珍しいお客さんだから、つい遊びたくなったんだよ。知りたいことは教える。それをどう使うかも君たち次第だ。ただし、僕から聞いたとは言わないという条件でね」

「わかった。俺たちはこの施設に無断で侵入し、機密情報を盗んで出て行った。これで良いだろ?」

「愚薬のプラス9の情報込みなら、あたしもわかってやるよ」

 アユタの声色は、しかし全然納得していない。

「ああ、うん、わかったよ」

 解放されるとカムファは青白い部屋に戻り、整頓された机の上を指で触れながら本棚の方へ歩いた。

「若いって良いねぇ。僕は、もう二度も慣れないことをしちゃってさ。疲れたよ」

「シエナが来たんだろ」

 ルカは机に上に拳銃を置き、水槽の中のオーブを眺めている。カムファのものだろうか。

「床の痕跡を見て言ってるのかな……」

 カムファが指を掛けると、壁の一部が左に少しずれた。それが錠になっていたらしい。片手で押すと簡単に壁は奥側に回転し、隠し部屋が現れる。

「来なよ」

 壁際に子供一人分のベッドがあり、枕の側にサイドテーブルが置かれている。部屋の隅に正方形の机と高価そうな背もたれ付きの椅子、椅子から少し離れた位置に年季の入った点滴用のガートルスタンドがあった。カムファは正方形の机の引き出しから、代赭色のスポイトを取り出しアユタに投げる。

「それがプラス9だ。使う前にこの紙を読んで決めるんだね」

「何だよめんどくせぇな」

「後悔するよ」

 渋々彼女は紙に目を通す。愚薬プラス9の臨床試験の結果だった。被験者はここの研究者だ。プラス9をオーブに自ら投与し、昏睡状態に陥ってそのまま死亡。享年二十六歳だった。

 声が出ない。アユタの指先から力が抜け、報告書がひらひらと床に落ちていく。無駄のない事務的な筆致が狂気を思わせた。

「プラス9が製品化されたというのは真っ赤な嘘だよ。あれは人をポンコツにする」

「人が死んでるのにやけに冷静じゃねぇか」

「そりゃ彼は覚悟の上でやってるからね。僕たちは自分自身を被験者にして、研究を行う。仕方のないことさ」

 カムファはベッドの上に腰掛けた。

「さ、君のお願いはこれで完了。次は旅の少年だね」

 彼は破顔した。

「なぜ笑う」

「いやぁ、なんとなく。日記は見た?」

「ああ」

「後で持って帰るといいよ。もう隠し事なんてしてられないし」

 その言い方が気になったが、ルカは先を促すことにした。

「そのベッドでシエナは眠っていたのか」

 カムファは肯定も否定もせず、枕元を一瞥して話しはじめた。

「シエナはソイユの双子の妹だ。母ヨルハは双子を孕み、命を賭けて産んだが、オーブは一つしかなかった」

 その声にはこれまでの茶化すような調子は一切なかった。

 オーブが宿っていたのはソイユの方だった。彼女は一つしかないオーブをしっかりと握りしめ、産声を上げた。どのリトリテも無意識にやっている、誕生の儀式だ。一方のシエナは母胎を出てからぴくりとも動かない。医者の診断は〈落珠らくじゅ〉だったという。

「落珠の末路は知っているかな、旅の少年?」

 オーブなしに生まれてくる肉体。それもまた埋葬されるのではないだろうか。

「燃やされるんだよ」

 アユタが不機嫌そうに横から割って入った。

「落珠は廃棄プラントに送られて、専用の設備で燃やし骨だけにする。そしてその骨はエルダ湖に沈められ、クワッカの餌になるのさ」

「……それを君たちは平気で食べているのか?」

 その質問にはカムファが答える。

「落珠は生き物じゃない。人の形をしたモノだ。リトリテの本体はオーブであり、僕や、彼女にとってさえもこの肉体はオーブの生命維持のために存在する道具に過ぎない。それが僕たちの常識。

 使い手のない道具はゴミと一緒だ。しかし、僕たちはそれをクワッカの餌として有効利用する。褒められるべきことじゃないかな?」

 カムファはアユタに同意を求める。

「あたしは菜食主義者だよ」

 彼女は拳を強く握り、怒りを抑えた。

 ルカがさりげなくアユタとカムファの間に入る。

「だけど……母親は胎児とずっと一緒にいるんだ。出産まで何ヶ月も。そんな簡単に、ゴミだなんて言えるのか」

「それが伝統というものだよ。僕たちはそういう考え方しか出来ないようにしてきたし、これからもそうする」

「あんたは?」

「僕はそういう伝統があるという事実を認識している。それだけだ」

「それが問題だとは思わないのか?」

「それに救われる者もいるんだよ。エナクは君と——そこの赤髪の子と同じように、落珠に感情移入してしまった。そのせいで相当に苦しい思いをした。あの姿を見たら、そう簡単には落珠という考え方を否定できないはずだ。

 シエナの話に戻ろうか。落珠と診断されたシエナは本来、そのまま廃棄プラントへ運ぶ手続きが行われるはずだった。だがエナクとヨルハは書類を偽装し、彼女をこの地下に隠す。シエナを育てることを選んだんだ。ヨルハは彼女がこの地下に無事運ばれたことを知ってまもなく、病院で息を引き取った。持病の核縮症かくしゅくしょうが——オーブが徐々に小さくなり、最後には死に至る不治の病だ——末期だったのさ。

 エナクは信頼できる友人の力を借りて、何とか二人を育て上げた。彼は平行してシエナを落珠でなく人間として発表できるよう準備しはじめる。シエナは落珠であるにも関わらず体が成長した。視覚が機能しているという可能性さえもあった。食事がとれないから、点滴で栄養を与える必要はあったけどね。

 だがソイユの父親としての生活と、シエナの父親としての生活、二つを両立するのは並大抵のことじゃない。エナクはオーブの移植や人造オーブの可能性についても考えていた。彼が何時寝ているのか、不思議で仕方なかったね。そしてシエナはどれだけ語りかけても返事をせず、彼を父親として認識しているのかどうかすらわからない。このベッドで人形のように横たわっているだけさ。

 ただひたすら見返りのない献身を続けていたために、エナクの心は疲弊していった。やつれた父の姿を見て、悲しむのはむしろもう一人の娘、ソイユの方だったようだ。

 ソイユのオーブは濁りやすかった。母と同じ核縮症ではないとは言え、遺伝的にオーブの寿命が短いのかもしれない。エナクがそのことを心配して開発したのが求薬だ。オーブに直接作用する薬というのは、画期的だった。これをきっかけにして、核縮症の治療法も確立されるかもしれない。オーブの寿命も延びるかもしれない。少なくとも、娘があの残酷な隔離部屋に詰め込まれるという経験はなくなる。彼ははじめ跳ぶように喜んでいた。しかし、すぐにその副作用に気づき後悔した。求薬は、常にオーブを綺麗にすべく、清く正しい振る舞いをする、というリトリテの行動規範を破壊する。実際に勤勉と言われていたリトリテが求薬によって堕落した例は一つや二つじゃない。

 まったく、彼は、多くのことを抱えすぎていた……」

「ひとつ良いかな」ルカが言う。「落珠が成長することはそれが生き物であるという一つの証にはならないのかい? その時点で公表しておけば、もっと周りの人たちが助け船を出せたかもしれない」

「うん、まぁ、問題が山積みなんだよ。

 まずさっきと同じ話になるけど。落珠が生き物だと発表されると、苦しむ人も出てきてしまう。落珠も生命ではないかと考えられる証拠を突きつけられた後、もし自分の子が落珠として産まれてきたら、どうすべきなのだろうね。エナクのように微動だにしない娘の成長を眺め続ける? それとも知らないふりをして今まで通り殺害する?

 落珠が成長するということが、まさかこれまで一度も検証されずにいたなんてことがあるだろうか。僕たちみんなが落珠について何の先入観もない状態でいるとして、誰一人育てようと試みることなく、それがモノに過ぎないなんて考え方を定着させたとは到底思えない。知った上で僕たちの先祖は知識を封印したのさ。その封印した箱を開けることには責任を伴う。つまり、今後落珠を産んでしまって苦しむだろうリトリテたちを救う手が必要だとエナクは考えた。だから、シエナが他のリトリテや人間と同じように生活できる術を見つけるまで公表は避けたかった。

 二つ目。双子のうち姉にオーブが宿ったのかはどのタイミングなのか、という問題。今の僕たちの技術力では胎内でどのように胎児が成長しているのか観察することができない。はじめからオーブとソイユが結びついていたという証拠はないんだ。発生から出産までの間に、オーブがどちらかに接続されるという手続きを踏んでいるのだとすれば。ソイユがオーブを持っているのは、胎内における争奪戦の結果なのかもしれない。ソイユにとってその可能性は非常に厳しいものになるはずだ。自分が妹を殺して生き残った、という罪の意識が芽生えるかもしれない」

 カムファが一呼吸置いた時に、ルカが後を継いだ。

「だけどシエナは眠ったまま目覚めることはなく、オーブが肉体に宿る仕組みもわからず、彼は最後まで公表できなかった。そういうことか」

「そう、そう、ご明察」

「その後シエナは?」

「姿を消した。エナクによって処分されたんだと僕は思っていたよ。シエナを置いて自分が死ぬと、誰かが世話をしなきゃいけない。頼れる親類は娘のソイユだけだ。彼女に重荷となることは明らかだからね。

 でも、そう、今日シエナは再び僕の前に現れた。外見だけは人間と等しく、中身が空っぽな落珠から彼女は無機物の姿に変わり、一方で人間らしい感情を表現した。皮肉なことだ——なぜ、そんなことが起こったのか——君は知ってるんじゃないのかい? 黒い化生石とは何だろう」

 これが聞きたかったのか、とルカは思った。カムファはベッドの上で仰向けになった。大人の男には小さく、踵をフレームの上に置いている。

「落珠がもし、俺たちの言う〈生〉を受けて生まれてきているのだとすれば。これまで俺が集めた情報から考えるに、シエナは化生石に包まれどこかに埋められている。化生石は生きたリトリテを埋めた場合、その手足となり埋葬されたリトリテが自由に動かせるようになる」

 カムファは黙ってかさついた天井を見ていた。なんか言えよ、とアユタが堪えきれずに発言する。

「仮説ではないんだろ? 実際にそういうことがあった、と」

 今度はルカが黙る番だった。しかしその沈黙はわずかに終わった。

「公に知られているアルダ湖の話は嘘だ。あそこには湖なんてのは存在しない」

 目を剥いて発言しようとするアユタを彼は制止する。

「聞いていてくれ——アルダ湖だと街の人たちが思っているのは、巨大な黒い化生石の塊だった。それはかつて、生きたまま埋められたリトリテが化生石を操って人を襲った名残なんだ。なぜ真実が隠されているのか、俺は実際に聞いたわけじゃないが、悲劇を繰り返さないためだろう。きっと。墓守の一族しか化生石を使えないようなルールを作り出したことも、そのためだ」

「僕や彼女が知らない話を、なぜつい最近ここを訪れたばかりの君が知っているのかな?」

 ルカはソイユやキッツに話したように、やや事実と異なる説明をした。墓守の息子の評判を、これ以上落とすようなことはあってはならない。

「旅人だから、だろうな。風域の東側には等間隔に杭が打たれている。その先は深い森だ。何があるのか気になったんだよ——禁忌だと知っていたけど、俺はこのことは誰にも言わず街を出るつもりだった」

「そしたら湖のあるはずの場所に、黒い化生石があった、と」

「そう。黒い蛇そっくりのね。あとは墓守の息子に無理矢理聞き出した。どうやらあの一族にだけ真実は継承されているらしい」

 言いながらルカは心の中で苦笑した。ツルデがあの森で、秘密を漏らせばすぐお尋ね者だと言っていたことを思い出す。なんとも稚拙で、効果的な嘘だ。翻訳すればルカもツルデも、面倒臭いことになるからあまり突っ込んで聞くな、俺が困るから知らないふりをしてくれ、という意味のことを言っているのだ。

「無理矢理、ね。その果物ナイフを使って?」

「もっとまともな刀もあったんだよ。蛇に壊されたけどね」

「ふむ、まぁ、いいさ。オーブとは関係なくリトリテが生きている。面白いね」

 ハ、ヒ、ヒ、とカムファが笑う。

「化生石を扱えるのは墓守だけ。シエナを埋めたのはクエンで、墓地にその墓はあるだろう。エナクはヨルハの死後、精神面ではクエンにかなり助けられていたからね。親交が深いんだ。あの堅物爺さんが落珠を埋葬するなんて本来はあり得ないけれど、彼の頼みなら聞いたかもしれない」

「けどじじいはその伝承を知ってんだろ?」

 アユタに対してはルカが答える。

「落珠なら大丈夫と判断したんじゃないかな」

「ああ、そう、だろうね。生命の宿っていないモノを埋めたところで、何か悪さをするとは考えられない」

「あの墓地は一通り探したけど、黒い墓石は見つからなかった。どこかに秘密の墓地があるのか? 地下墓地みたいな」

「化生石に包まれたリトリテは、地上からは見えないように埋められる。その後種が芽吹き花が咲くように、石の一部が変形して地上に顔を出す。クエンが変なところに隠したというよりは、シエナが地上にそのような墓石を造っていないだけじゃないかな」

「この話をそっくりそのまま墓守の爺さんに言って、信じてもらえると思うかい? あの広大な墓地を自力で掘って探すのは無理がある」

「ん、まぁ、信じはしないかもね。だけどシエナのことを知ってるって言えば、墓の場所くらいは教えてくれるんじゃないかな。君の得意な脅迫込みで、ね」

 カムファはまだベッドにいて、天井から目を離さない。

 壁の向こう側で、電話のベルが鳴る音がうっすらと聞こえた。

 彼は気だるげにベッドから起き上がり、鈍い動作で隠し部屋を出ていく。

「どーも。僕だよ」

 最初軽い口調で電話に出たが、相手の話を聞いているうちに真剣な表情に変わった。しばらく聞く側に徹した後、カムファはまた剽軽な態度に変わり、

「それならちょうど良い客人がふたり来てるよ。今すぐ向かわせるから、安心してくれ」

 安心して、のところで彼は受話器を置いた。

「というわけで、行ってきてくれるかな?」

「どこへ! なんで!」

 アユタは徹底的にカムファと合わないらしく、さっきからずっと苛々して貧乏揺すりをしている。

「旅の少年が言うアルダ湖の悲劇が、もう一度起ころうとしている。ってところかな。墓地の地下から黒い怪物が飛び出してきて、近くにいたクエン、ナバル、ツルデの三人を襲った。恐らくそれは本気でソイユを狙いに行くだろう、と」

「くそっ!」

 すぐ走り出したルカの手首をカムファが捕まえる。

「その前に、これを持って行ってほしい」

 彼が白衣のポケットから出したのは、一枚の古びた写真だった。

「良いタイミングだ、ソイユに渡してくれ。僕が持つべきものじゃないからね……君には期待しているよ。旅の少年」

 ルカはその写真を一目見て、頷いた。

「アユタ、ここにはどうやって来た? オルトラは?」

「公園に止めてある」

「乗せてくれ」

「ああ?」

 ルカは強引にアユタの手を引き、階段を勢いよく上がっていった。

 カムファは彼らの足音が聞こえなくなってから、ゆっくりと階段を上りはじめた。

 疑問が彼のオーブを隅々まで浸していた。旅の少年がここに来てどれくらいだろう。わずか二、三週間というところか。

 なのにここで生まれ育っても知り得ない嘆きの泉の秘密を知り、シエナというイレギュラーな存在に幾度も出会い、彼女と密かに関わりを持っていた全ての人間と結びついている。

 まるで運命が彼をこの奇妙な事件に無理矢理巻き込んでいるようだ。

 そしてそのことを彼自身も薄々気づいているのではないか? 誰かのために働くことに、一片の躊躇もない。そのために生まれてきたかのように振る舞う潔さ……

「僕がもっとも苦手なタイプだね」

 三号棟を出るとカムファは、昔よくやっていたように、むき出しの木板の上に土をかけた。

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