8 籠を出る

   *


 次のクラスはミラとは別だ。ソイユは教科書を両手で抱え、一人で三階の廊下を歩いていた。そのまま突き当たりの階段を下りていると、踊り場のところで急にめまいがして壁に手をつく。しばらく目を瞑って待ってみるが、体が重くなって立っていられない。

 しゃがみ込んで目を開けた。

 焦点がどこにも合わなかった。

 オーブに異常があるんだ、きっと。ソイユはリュックサックを背中から下ろした。案の定鱗が激しく上下しており、核は赤から紫色の範囲で色相を変えながら明滅していた。求薬ぐやくを垂らそうとリュックの横にあるポケットから出すと、またあの女の声が体の中から響いた。

(そんな汚いものを飲ませないで)

 ソイユの体は硬直し、動かなくなった。

(それは父さんが作ったひどい毒薬だわ)

 私の、声だ。

 ソイユの額から汗が流れ落ちる。この不快な幻聴に負けまいとしたが、彼女の唇は痙攣けいれんするだけだ。ただ心の中の思いとして声は響く。

「父さんは街の人を助けるために求薬を作ったのよ。そしてそれは実際に、多くのリトリテを救っているわ」

(それはあなたの本心ではないわ。嘘はだめよ、わかるんだから。あなたはその薬を嫌っている。どうしてこんな、汚らしいものを父さんが作ってしまったんだろう。

 求薬はただリトリテの苦しみだけを和らげる。

 でも、父さんはリトリテじゃない。

 なぜ自分の体を大事にしないんだろう。

 なぜ自分のための薬を作らなかったんだろう。

 どうして、私のために長く生きようと思わなかったのだろう)

「違う!」

 音のない声が鼓膜を震わせる。

(ええ、父さんは苦しんでいたわ。私のそばで動かない手を握り、語りかけている間ずっと苦しんでいた。床ずれを防ぐために姿勢を変えるときも、骨と皮ばかりの体に触れて苦しんでいた。私の点滴をやめようと、何度も考えていた。

 私のそばにいるとき、父さんはずっと苦しんでいた。

 求薬はそれを和らげることがなかった。

 求薬は私たちを救わなかった)

 まだ頭の中が揺れているソイユには、その言葉の意味がすぐには入ってこなかった。

(どうして?

 私は父さんの娘なのに。

 どうして、私にやつれた顔ばかりを見せるの?

 どうして私が苦しみの元になるの?)

「なにを——言っているの」

 ソイユは声に背き、オーブに求薬を垂らす。すると鱗はより一層激しく動き、核は濃紺に明滅する。うまく鱗の下の核に薬を落とせなかったのだ。

(私は、誰に望まれて生まれてきたの?)

 震える腕を左手で押さえて、次はスポイトの先端を核に直接つける。そのまま薬を出すと、ようやく鱗の動きは緩やかになる。核は急激に青から橙に戻っていく。

 ——アユタにプラス8をもらっておいて良かった。

 クフタ商会を出る時、どうしてもソイユの見送りをしたくないアユタにプラス8の愚薬を渡す代わりに同行したという嘘をついてくれ、と頼まれたのだ。元々付き添いなんてものが恥ずかしかったソイユは喜んで同意した。結局ナバルにばれて、その取引はアユタの大損で終わってしまったのだが。

 戻ってくる視界に教師の姿が映る。

 もう次のクラスが始まっているわよ。

 謝罪の言葉を述べながら、急いでソイユは教室に向かった。


 一日の授業を終えて校舎を出ようというとき、急にミラがマーリン先生の講義があると言って先に門をくぐってしまった。

 走り去る背中を不思議に思って見ていると、門に背中を預けているルカの姿が視界に入る。

「ソイユ。クフタ商会まで一緒に行こう」

「待っててくれたの?」

 軽く頷き、ルカは彼女の隣について歩き出す。

「このまま一人で帰る姿をナバルが見たら、運び屋全員怒られそうだ」

 そんな理由なんだ、とソイユはひどくがっかりした。

 その後ルカは話題を提供することもなく、静かに隣についていた。ソイユは今日の午後の声のことを話そうか迷った。昨日の声も。だが今、自分が何者かに狙われているという状況でこの話をするのは良くない気がした。混乱を招くし、みんなの不安が増すだけだ。声があの黒い蛇と関係があるとは決まっていない。むしろ、自分の精神状態に問題があると考えられる。黒い蛇が出る前から、あの夢はあったし、声はしていた。

 話すべきじゃないわ、とソイユは結論づけた。

 そしてその後で、ルカもきっと、同じように喋るべきかどうか迷っていることがあって、結局喋らないことにしたんじゃないかなと思った。

「授業はどうだい?」

 その思いつきを支持するかのように、ありきたりな質問が出てきた。

「うん。楽しいよ。大抵のクラスはミラと一緒だし、そうじゃないクラスも、薬の原材料の知識とか、実験とか、興味あるものばかりだから」

「父親と同じ道に行こうと思ってるのか?」

「そこまではっきりとは決めてないんだけど。薬膳学やくぜんがくっていうのがあってね、毎日の食事に薬学の考え方を取り入れるの。それで病の元となるものをあらかじめ排除して、健康でいられるように工夫するんだ。薬の原材料はどれも味に癖があるから、食事の材料として使うのは難しいんだけど、その組み合わせを考えたりするのが面白くて。どうにか美味しく健康でいられるものが作れれば良いなって、思ってる。先生がやってる食堂があるから、この前ミラと言ってみたの。どれも不味かったなぁ」

 ソイユが笑う。

「けど、始まったばかりの試みだからやりがいはあるんだ。ミラと一緒に、薬膳をすごく美味しくすることを目指すっていうのも、面白そうなの」

「それは楽しみだな。うまい飯を毎日食ってるだけで、苦い薬を飲まされずに済むなら最高だ」

「でしょ?」

 ふと気づいたことがあって、ソイユの笑みが消えた。

「でも、ルカはそうなってももうここにはいないよね」

「さすがにひとつの街に何年も、とはいかないからね」

 気まずい雰囲気が流れた。その空気を振り払うように、ルカはクフタ商会へまっすぐに行く道を外れる。ス・ピート缶がなくなったので、買い足したいということだった。

「でも覚えてる。俺はこの街で、君が未来を語ったことを覚えてる。そして何年かしたら、きっと君がそれを成し遂げて、新しい食堂をミラと切り盛りしている姿を思い描く。そういう楽しい夢を持ってる人が俺の通ってきた街にいるということが、嬉しいんだ」

「そっか。でも、決めたわけじゃないからね。もしかしたら父さんと同じように、あの飾り気のない研究所で何のためになるかわからない研究をしてるかもしれないし。そういうことになっても、ルカはわかんないね」

「そう——だな」

 ルカの表情は悲しげに映ったが、顔はしっかりと正面を向いていた。

 彼は絶対に旅をやめないのだとソイユは理解した。

「ねぇ、黒い蛇のことはどう? 昨日も今日も、調べてたんだよね?」

 ルカはス・ピートの缶を四本買った。そのうちの一本をソイユに渡そうとしたが、彼女は断った。それがなくなってしまったら、ルカは出て行ってしまうような気がしたからだ。

「肉体派の俺にとって、これは難しい問題だ」

 言葉を選びながら話しているのがよくわかる。

「肉体派って……そういうのは拳闘士みたいな体格の人を言うんだよ。私で何か手伝えることがあれば言ってほしいな」

「そうだな——拳闘士。墓守の息子のことを知ってるか?」

「ツルデのこと? リトリテ級の」

「そうだ。本人に会ったんだけど、詳しい話は聞けなくてね」

「あまり話したくなかったのかもね。訳ありだから」

「墓守の爺さんも言ってたな。何かあったのか?」

「うん。以前、〈絶対王者〉って言われてる拳闘士がいたのは知ってる? ミリアムっていう人なんだけど。リトリテ級でデビューから八十三戦だったかな、全勝だったんだ。今の〈氷拳〉よりずっと人気があったんだよ。ある日、そのミリアムとツルデの試合が組まれたの。当時ツルデは絶対王者の後継者って言われていて、ミリアムと同じようにデビューから全勝してた。そして、その試合でツルデが勝ったの」

「すごいじゃないか」

「うん、最初はみんな大歓声で、地震が起こったんじゃないかってくらいの騒ぎだったんだって。でもツルデはリングの上でレフェリーを突き飛ばして、血を流して倒れているミリアムの元に駆け寄ったの。私、見てないのに、ここのところ何回も聞いたから覚えてるの——ツルデはミリアムの頬を叩いて、肩を掴んで何度も揺り動かしてた。泣きながら。レフェリーも観客も訳がわからなかった。戦っていたツルデだけが気づいていたの。彼がリトリテじゃない、普通の人間だったって」

 ルカの足が止まった。

「ツルデが最後に相手に与えたパンチは、ミリアムの顔を完璧に捉えてた。でも、リトリテ同士の試合じゃそんなのよくあることなの。ミリアムだけが特殊だった。あの人は、相手の攻撃を極力防ぎ、避けて、的確な一撃を胸に与えてダウンを取る。そのプレースタイルが人気だったの。リトリテらしくないところ。

 それは本当にリトリテじゃなかったからだって、ツルデは気づいた。リトリテならすぐ立ち上がるもの。ツルデが叫んで、救急隊がようやく動き出した。ミリアムは意識を取り戻すことなく、三日後に亡くなったわ。

 もちろん、リトリテだと偽ってリングに上がったミリアムを非難する声はあった。遺書にももしこういう事故があっても相手選手のせいじゃない、俺がリトリテ級でやりたかったんだって書いてた。でも、ミリアムに擬装用のオーブを提供していたリトリテが自殺しちゃって——それで、何も知らずいつも通り戦っただけのツルデが非難の的になったの。ツルデは引退してしばらく身を隠してたわ」

 ルカは拳を強く握りしめ、唇をしっかり閉ざしていた。ソイユにもその気持ちが痛いほどわかった。この憤りをぶつけられる相手は、どこにもいないのだ。

「だからナバルおじさんは拳闘が嫌いなの。あんな事件が起こる可能性のある拳闘。それでも平然と続けられている拳闘が」

「ツルデを悪人に仕立て上げることで、拳闘という競技は大きな傷もなく存続することに成功したってことだね」

 ルカの言葉にソイユは小さく頷いた。二人は自然と、またクフタ商会への道を歩きはじめていた。

 やがて商会の外観が視界に入ってきたとき、ソイユは自分がとてもずるいことをしているという気分になった。他人の傷口を平気で人にさらしておいて、自分は安全な籠の中で守られている。触れられないようにしている。

 そう、ルカが触れられないように。

「少し話したいことがあるの」


   *


 ルカはキッツと出会った時のことを思い出していた。

 街にたどり着いた最初の夜、街灯が映す二つの人影が互いに殴り合っているのを見た。ルカは昼間から継続して街の地理を知ろうと歩き回っているところで、後からわかったその位置は拳闘場からそう遠くない空き家ばかりの区画だった。

 喧嘩だと思い駆け寄った。しかし角を曲がって視界に入ってきたのは、赤と青のグローブを身につけてステップを踏む若者二人と、二人を円形に取り囲む二十人ほどの観客だった。

 見世物だ、とすぐにわかった。

 真夜中に路上で行われる格闘技の多くは違法で、賭博要素を含んでいる。ルカは経験上これも同じだとはじめ思った。しかし片方が倒れて試合が終わっても誰も金を出さなかったし、胴元らしき人物はいつまで経っても出てこない。どころか試合の仕切り役もいない。一つの試合が終わると観客の中にいた若者がおもむろに前に出る。その若者の姿を見て、俺が行くと別の観客が中央に出て行く。コインで赤と青のグローブの割り振りが決められ、ごく自然に次の試合が始まる。観客はどちらにつくとでもなく、野次を飛ばしたり声援を送ったりする。

 ルカは観客の輪からやや離れた位置に立ち、その様子を観察していた。殴り合いに関心があったからではない。観客の振る舞いや、この競技自体について学ぶことは土地柄を知ることに繋がると思ったからだ。

 試合が二つ終わった後、それまでずっと輪の最前線で楽しそうに試合を見ていた若者が突然ルカを指差した。

「おいお前! そんな安全地帯で見てねぇで、こっち来いよ!」

 まだ体が小さく、ルカよりも五つほどは年下に見えた。

「俺はやらないよ」

 結果は目に見えていたし、挑発だともわかっていた。ルカはそう言って場を離れようとしたが、観客の一人が手首を掴んで引き留めた。すると他の観客も次々にルカの体の一部を掴み、あれよと輪の中に放り込む。若者は黒い短髪を掻き上げる仕草をし、赤いグローブを点けた。

「俺は赤しか着けねぇ。絶対王者の色だからな」

 ルカはグローブなんて持ってないぞ、と身振りで示した。お節介なことにさっきの試合で倒れた男が青のグローブを輪の中に放り投げた。

「グローブも持ってねぇのか? 相当鍛えてるし、初心者じゃないよな?」

 この街では鍛えているということがこの競技をやっていることとイコールなのか。

 ここまで来るともう逃げられない。

 ルカはこれまで見てきた選手の戦い方を真似、ファイティングポーズを取った。

 結果だけ言えば——あまりにも一方的な戦いだった。ルカは若者の拳を一つずつ丁寧に避けた。そして手数の少ないルカの拳は、すべて確実に相手にヒットした。

 試合が終わり、観客が散り散りになった後。ルカは街灯の下に座って傷を消毒している若者の隣に腰を下ろした。

「少しやり過ぎたかな」

 若者はかぶりを振った。

「いんや、そんなことないっす。拳は本気でしたよね。それが、俺、嬉しかったっす。チビだからって遠慮されることもあるんで」

 嬉しい、だって?

 ルカは驚いた。一発見舞うごとにふらついたり倒れたりしていたのでその時は攻撃を止めたし、急所は打たなかった。それでも拳の力を弱めることは侮辱になると思い、やらなかったのだ。

「意外としぶといからびっくりしたよ」

「体は丈夫なんすよ、こう見えて」

 いてててて、と消毒液を塗りながら若者が叫ぶ。

「俺、キッツって言うっす」

「俺はルカ。あれはなんていう競技なんだ?」

 ルカの質問をはじめ理解できず、間が出来た。

「拳闘っすね。その中でも、こういう場所でやってるのは野良拳闘で——拳闘場でデビューしたい若手がこうやって集まって腕を磨くんす。もしかして、ほんとに、知らないんすか?」

「ああ。俺はこの街に今日来たばかりなんだ」

「マジっすか! 旅の人ってことっすよね。すげぇ、はじめて見たっす!」

「珍しいからね」

 それからキッツに前の国、その前の街、そのまた前の——と質問攻めにされた。その間に彼は体中包帯だらけになり、ルカは久しぶりに笑うことでそのやり方を思い出した。

「でも、びっくりしたっす。戦い方が俺の尊敬する拳闘士とそっくりなんで」

「プロと似てるなんて、光栄だね。君は、将来、その拳闘場で試合をしたいんだ?」

「いんや、俺は諦めてるっす」

 キッツが唾を吐くと、血が混ざっていた。

「俺、背がちっせぇんすよ。見たらわかると思うっすけど。それで普通の人間だし」

「普通じゃない人間がいるのか?」

「たぶん、旅の人にとったら。リトリテって言うっす。この街の人間には二種類いて。そのリトリテは、俺たちと同じ肉体を持ちながら、もう一つ心臓みたいな不思議なもの——オーブって球体を持って生まれて来るんす」

 リトリテは打たれ強い、ということをキッツは丁寧に、やや嫉妬を込めた言い方で説明した。

「でも、拳闘場で試合をするとして、君はリトリテと一緒のリングに上がることはない。身長は確かに不利だけれど、それを活かした戦い方だって出来るじゃないか」

「そうなんっす」

 とあっさりキッツは認めた。

「でも、俺が尊敬する拳闘士はリトリテ級だったんすよ。あの破天荒で打たれることに少しも臆病じゃない、野蛮な階級で戦ってたんす。俺もそういうリングで試合がしたい。そのためには圧倒的な才能か、リトリテとして生まれてくるか、どっちかが必要なんす。どっちもない俺は、本当は見て楽しんでるのが一番っす」

 プロになるとリトリテ級はほぼ丸裸の拳で戦うのに対し、通常の拳闘はクッション性のあるグローブを使う。そういう違いも彼にとっては譲れない拘りのようだった。

「どう思うっすか。他の土地から来た人には、拳闘ってのは」

「——わからないな」

 ルカは正直に言った。

「幼い俺にとっては、暴力は日常だった。貧しい土地だったんだ。強盗、殺人、いつだって危険はつきものだった。そんな世界にいたら、遊びで殴り合おうなんて思わない」

 血は、勲章にならない。

 ただ悲しいだけだ。

「そうかもしれないっす。でも、俺は、——かっこいいと思わないっすか?」

 自分でもなぜ拳闘に惹かれるのか、整理しきれていないのだろう。混乱してはいるようだが、拳闘への切実は思いはしっかりとルカに伝わっていた。

「もちろん、君たちを否定する気はないよ。だって、君の目は、試合の間中ずっと輝いてた。だから俺たちは、結構良いダンスを観客に見せられたんじゃないかと思う」

 キッツはその言葉をとても喜んで、全力で握手をしてきた。ルカは複雑な思いでその手に応えた。

 この出会いがきっかけで、ナバルを紹介してもらい、運び屋として働きはじめたのだった。


 ソイユからツルデの過去を聞き、ルカは複雑な気持ちだった。拳闘というものに対する憤りと、キッツの輝かしい瞳の間で、それを本当に非難できるものかどうかわからなくなっていた。そしてそのような感情は旅人である自分よりも、街の人がより強く感じているであろうと想像した。

 クフタ商会にナバルはいなかった。少し前に誰かから電話が来て、家に戻ってしまったという。ルカは二人で話すために、ソイユが仮宿としている部屋に入った。

 女の子が寝泊まりするような部屋じゃないな、と今さらながら思う。

「もう少しマシな場所がないか、ナバルに相談してみるよ。ここの近くで、ある程度人目につくところなら彼を説得できるだろうし」

「いいの、それだとまた誰かに迷惑かけちゃうし。私、この部屋は気に入ってるの。一人分ちょうどの大きさで、余分なものは何もない。扉を開ければ必ず誰かがいる、自分の場所と、他の人の場所が繋がってるところ」

 嘘と本当が混ざっている、とルカは思った。

 ソイユがシェードを開ける。

 ルカは椅子に腰掛けて、彼女が話し始めるのを待った。

「——夢を見るの」

 ゆっくりと、一言ずつ舌をどう動かし、喉をどう震わせるか考えながら出しているような声だった。

「暗くて、悲しい夢。私は色のない真っ黒の球体の中にいて、浮かんでるの。どっちが上か下かもわからずに漂ってる。そこには白い煙の亡霊がいて——まるで意思があるみたいにその暗闇の中を泳いでいるわ。そのうちに、煙は人の形に変わる。絶対に女の子なの。赤ん坊のときもあるし、私と同い年くらいのときもあるけど——私にそっくりなの」

 そっくり——

 あの少女像のように。

 ルカは驚いたが、話を遮らないよう冷静に、頷いて先を促した。

「その夢は昔から見るんだ。父さんが生きてたときから。でも、最近はそれに加えて幻聴が聞こえるようになった。その声は体の中から響いてるみたいなんだけど、オーブとも関係があるみたいなの。幻聴が聞こえるときは必ずオーブの鱗が波打っていて、色も悪化してる。声も、私と同じ声なの。

 今日の午後、また幻聴が聞こえて目眩がしたわ。私はどうしたら良いかわからなかったんだけど、きっとオーブの不調なんだと思って、愚薬を垂らした。それで収まったんだ」

 本当は愚薬ぐやくなんて使いたくなかった。父親が自分を放っておいて、地下室に閉じこもって作り上げた薬。それに頼ることは娘をないがしろにしていたことを肯定するようで嫌だったのだ。

 けれど、最近は使わざるを得ないことが多い。

「ずっとただの悪夢だと思ってた。誰でも見るものなんだって。でも、幻聴が始まって、それと夢が繋がってるんだってわかった。最初の幻聴の時に言えば良かったんだけど、蛇が出てきて——それとはきっと関係ないことだし、余計心配かけるかなって思ったの」

「関係はある」

 ルカははっきりと、だが出来るだけ優しく聞こえるように言った。

「少女像を探しに湖に行っただろう? 結局見つからなかったけど、あのとき俺が見たのは君にそっくりな像だったんだ。今日、研究所でまったく同じものを見てわかった。あれは黒い蛇と同じ材料で出来ていて、誰かの意思で動いてる」

「嘘……」

 ルカの喉から堰を切ったように言葉が出てくる。

 何が、街の禁忌なのか。

 悲しい過去を隠し続けることは、今、目の前の人が苦しみ続ける理由になるかもしれないのに。

「わかってることがまだある。あの蛇は、黒い化生石けしょうせきだ。存在しないと思われていた黒い化生石は、生きたものを埋めたときだけそうなると聞いた」

 ルカは化生石と墓守、ツルデ、研究所で聞いた話をかいつまんで話した。

「俺は少女像と蛇は同じものだと思ってる。けど、どこで、誰が生きたまま地下に埋められているのか。ソイユとの関係は。わからないんだ。そこで君の聞く声がそのヒントになり得る。声はなんて言ってた?」

「私は父さんの娘だって、言ってた」

「君のことだね」

「そうなの。私が父さんの苦しみの元になってたとも」

「苦しみの元。研究に関わってる?」

「わからない。父さんが何をしていたのか、全く教えてもらってないの」

 その研究が鍵だな、とルカは思った。

 何とかして聞き出さないと。

「自分からその声に話しかけたことは?」

 ソイユは首を横に振った。

 声が少女像と繋がっているのであれば、コミュニケーションを取れれば情報を引き出すことが出来る。

 だがそれだとソイユにかなりの負担がかかってしまうだろう。

「やってみるね」

 ルカの内心を読んだのか、ソイユが自らそう宣言した。

「良いのか?」

「怖いけど——やってみたい」

「せめて求薬を用意しよう。ここにあるのはマイナス4だけだ。もう少し濃いものを探してくる」

 ルカは部屋を出て、事務室に向かった。ロズに聞いたが救急箱に求薬のストックはないと言う。仕事を終えた運び屋が次々に報告して帰って行くが、アユタの姿もない。とっくに荷を運び終えて、どこかをドライブしているのだろう。薬屋に買いに行くには、距離がある。

 倉庫に行ってみると、明日配送する手紙を詰めた木箱の山に背中を預け、キッツがス・ピートの缶を飲んでいた。

「キッツ。今日は真面目に働いたのか」

「心外っすよルカさん。俺はいつだって全身全霊を捧げるっす」

「冗談だって信じてるよ。悪いけど急ぎで求薬を捜してるんだ。プラス3以上のものを持ってないか?」

「ふっふーん。じゃじゃーん!」

 キッツがズボンの尻ポケットからスポイトを一本取り出す。

「さすがだな」

「これ、愚薬を模したお菓子で最近流行りの『プラス9』っていうんすよ。すっげぇ甘いくせに、喉を通ったときにツーン! って刺激が来てくせになるっす」

「またボコボコにされたいらしいな……」

 ルカが指の骨を鳴らす。

「ちょっ! ルカさん! これこそ冗談じゃないっすか。実際、俺はリトリテじゃないんだし愚薬なんて常備しないっすよ。でも近所に野良拳闘の知り合いがいるっすから、今から頼んで一本借りてくるっす。たぶんプラス5を良く使ってたと思うんすけど…ちなみになんでそんなに急ぎなんすか?」

「ソイユのオーブに使うんだ。事情は後で説明する」

「ソイユさんにまた何かあったんすね。すぐ戻ります!」

 キッツは五分でクフタ商会に戻ってきた。その手にはプラス五が三本も握られていた。アユタにもらった愚薬と合わせると、結構な額になる。

 その優しさも含めて、俺はちゃんと返済できるのか。


 休憩室でルカはソイユの夢、幻聴のこと、黒い化生石のことを包み隠さず話した。話している間に自分の周りにある膜が剥がれていって、少し自由になったような気がした。キッツも他言無用の秘密を教えてもらって気分が良さそうだ。

「うっす。じゃ、さっそくそのヤバい女の子に接触してみましょう」

「どうやればいいんだろう……」

 ソイユが俯いて自分のオーブを見つめる。

 実はルカも、手段についてはまったく考えていなかった。

「そうだな。向こうから声が届いたときの感じを、もう少し具体的に教えてくれるか?」

「具体的にって言っても——声が一方的に届いてくるだけだから——自分でオーブの鱗を動かしたり、目眩を起こしたりはできないし」

 と、ルカは以前キッツに聞いた拳闘士の瞑想術を思い出した。

「キッツ。リトリテの拳闘士がやる瞑想はどうだ」

「なるほど! ちょっと試してみましょう」

 ソイユも頷く。キッツはソイユの真正面に立ち、左手を胸の中央辺りに当てた。

「これはリトリテの拳闘士が、試合前にやる儀式みたいなもんっす。ただ、肉体からオーブに影響を与えられる数少ない方法として認められている手法でもあります。オーブを活性化して身体能力を高めることが狙いなんすけど、成功するとその人は自分とは別の何かと接続された、という実感があるって聞くっす。その接続される先が、ソイユさんの場合、幻聴の主であれば良いんすけど——本来、リトリテは自分自身と接続することを目的としてこれをやるっすから、ソイユさんは声と繋がることを意識してやれば可能かもしれないっす。

 まずこの部分。接続枝せつぞくしのあるところの上に手を置くっす。そして頭を楽な位置にして目を瞑ってください。

 接続枝の形はわかるっすよね。下から上へ、途中で三つに分かれてる小さな枝を思い浮かべるっす。このとき肉体を意識からなくしてしまうのがポイントっすよ。何もない空間に、自分の接続枝だけがあることをイメージします。

 枝の三つの先端——中央にあるやつと、左のやつと、右のやつとが、上に向かってゆっくり伸びていきます。ここで言う上ってのは、必ずしも空だとか頭だとかの方向だと思わなくても良いっす。ただ、枝が自然に高く伸びていくというイメージを持ってください。

 それぞれの枝はこれ以上枝分かれすることはないっす。そのままずっと枝先を長く伸ばしていると、どこかで三つの枝が絡み合いはじめるはずっす。

 いつの間にか一本一本の枝が、太く、ごつごつしているはずっす。

 まだ止めないで。

 三つの枝が絡み合いながら頑丈な糸を紡ぎます。それはまるで一本の黒い巨木みたいに、それがまだまだ、もっともっと、上に伸びていく。最後にはその先端が、自然と開いて——」

 白い靄に触れる。

 枝——すでに巨木となったものはその靄を包み込むように広がり、樹冠を形成し始める。

 それから、徐々にあなたの視点は白い靄に近づいていき、靄の中に入り込む。

 白だけの世界。

 あなたはいない。

 そして誰かになる。

 共有、する。

「聞こえる?」

「あなたは誰なの?」

「——私なの?」

 真っ白な世界でソイユは語りかける。体の感覚はまったくなく、思考だけが残っている奇妙な状態だったが、不思議と心地良さがあった。窓から差し込む光が映し出す、部屋の中の埃になったみたいだなと彼女は思った。

 埃だって。

 自分をそんなふうに例えてしまうほどには、彼女にはまだ余裕があった。

 けれど彼女の声は誰にも届いていないようだ。何度繰り返してもその音は無重力の世界に取り残されるだけで、つかみ取ってくれる優しい手はなかった。黒い手もなかった。

 どうしていいのかわからずそのまま声をかけ続けていると、遠くに黒い地平線が見えた。それは猫目型に徐々に広がっていき、瞬く間に周囲は真っ暗になった。

 いつもの暗い球体だ。

 また白い煙が出てくるのだろうか、とソイユは身構えた。しかし次に起こったのは、急激な痛みだった。暗い球体全体がひび割れるような幻影が一瞬現れ、それから見覚えのある顔が浮かんできた。

 カムファだ。父さんの同僚の、変わりものの研究者。

 映像はモノクロだった。カムファの後ろには実験用と思われる機材がずらりと並び、床も書類であふれかえっている。なぜかソイユはカムファよりずっと視線が高く、見下ろすような格好になっている。

「助けて、と言われてもね」

 カムファがソイユに——いや、ソイユが視覚を借りている誰かに向かって言った。彼は拳銃を手にしている。急に銃口に焦点が合って、ソイユは慌てて叫んだ。

 ——逃げて!

 しかし彼女の声は一切その視覚の主には届かないようだった。

 これはあの声の持つ視覚なのだろうか。

「どこに消えたかと思ったら、化け物になって帰ってくるだなんて」

 カムファが話を続けている。左手前から黒い手が伸びて、彼の手首を払った。カムファはかろうじて腕を動かし避けたが、拳銃を落とし、親指の根元付近から出血している。

「怒ったのかい? 君に、感情がある……一体どうなっているんだ」

 また痛みが——脳みそが紙切れのように破られた気分だった。ソイユは意識が朦朧とし、視界は揺らいで焦点が合わない。遠いところから耳慣れた声がする。

 ルカと、キッツだ。

 私を呼んでいる。

 冷たい滴が染みて、体の感覚がはっきり蘇る——

「ソイユ!」

 目を開けるとルカとキッツの必死の顔が映った。大量の汗を掻き、体中がべとついて気持ちが悪い。ただ痛みはまったく残っていなかった。

「大丈夫だよ」

 いつの間にか布団の上に横たえられていたようだ。ソイユは体を起こし、異常がないことを示すようにその場でぐっと伸びをした。オーブは机の上に置かれている。閉じた鱗の隙間から見える核の色は、若干紫寄りになっていた。

「私の声は届かなかった。でも、別の人の見ているものが私にも見えたの——たぶん幻聴の主の目と一緒になったんだと思う。カムファさんと話してた」

 ソイユは会話の内容をできる限り正確に伝えた。

「彼に話を聞いてくる」

 ルカが部屋の扉を開ける。

「俺も行くっす」

「キッツはソイユのそばにいてあげてくれ。これから体調がどう変化するかもわからないんだ。周囲の状況から考えて、研究所にいるんだろう。その後すぐ帰ってきて報告はする」

「——わかったっす」

 ルカはまっすぐ研究所に向かった。しかし受付は「彼はいない」の一点張りだ。

「いやね、お客さん。何度も電話してるんですよ。でも出ないんです。誰も。今日はもう帰ったんじゃないですかね」

「ないですかねって……まだ所内に残っているかどうか、記録は取っていないのか」

「そんな面倒なことしませんよ。してどうなるんです?」

 警棒の男が懲りずに後ろで殺気を放っている。

「ったく、どこに行ってるんだ……」

 外はもうすっかり暗くなっている。研究所の敷地内を歩く人影も見られない。入り口の鉄柵は閉められている。もうこの時間に出入りする人間はほとんどいないのだ。

 ソイユが見た映像が同じ時間に起こった出来事だとしたら、まだ中にいるはずだ。わざと電話に出ず隠れているのか。

 それとも、別の時間に起こった映像——記憶をソイユは見ただけなのか。

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