7 仮面と鏡

   *


 どうして。

 あなたは私を見ようとしないの。

 どうして。

 あなただけが色彩を持つの。

 どこまでも黒いこの世界に果てはない。いつも何かの途上にいて始まりにも終わりにも手が届かず、迷っている。

 ——迷っていても、声は聞こえていた。

 毎日私に声を届けてくれる人がいた。

 私はその声が憐憫れんびんに満ちているのがわかった。

 可哀想だという想いが届くことを願う人がいるのだろうか。

 それならば言葉のわからない犬とじゃれているほうがいい。

 もしも。

 もしも言葉が通じるのなら、私はあなたと他愛のない話がしたい。

 だから私は努力した。


   *


 ナバルは調査のためと言って一日中外を出歩いている。昨日に引き続き今日もルカについて行こうと思っていたのに、彼は何も言わず出かけてしまった。キッツや他の運び屋が代わる代わる警護を務めていて、クフタ商会から出るのも難しい。

 ソイユは大きなため息をついた。

 休憩室は飾り物が何もなくのっぺりしているのが嫌だった。できる限り事務室のソファに座って過ごすようにしている。試しにお茶を自分で淹れてみると美味しかった。淹れる人の問題であって、茶葉は結構良いものを使っているのだ。

 せめて外の赤い花を、ここに持ってくれば良いのに。

 ソイユはリュックからオーブを取り出した。縛っている縄をほどき表面を観察する。金属が錆びたような色の斑点がところどころに見られる。核も明らかに濁り青っぽくなっていた。ここ最近は急に悪い方への変化が起こることが多い。

 求薬ぐやくを垂らしぎゅっと握りしめるが、オーブに反応は見られない。布でどれだけこすってもわずかに脱皮した皮が剥がれるだけで、綺麗にはならなかった。

(私もあなたと同じものを飲んでみたいわ)

 どこからか声が響いた。ソイユは顔を上げるが、部屋には事務員が二人いるだけだ。声は女の声だったけれど、二人とも真剣に書類と向き合っていて、声を出すようには見えない。

(あなたと同じ色を見てみたい)

 また聞こえた。その声は外からではなく自分の内側から響いているように思えた。恐ろしくなってソイユは体を縮こまらせる。幻聴だ、と言い聞かせた。

 大丈夫、幻聴よ。

 だってこの声は私のものだもの。

(なぜあの男は銃を持っているの?)

 それでも声はソイユに話しかけ続けた。耐えきれなくなりキッツのそばにいようとしたが、部屋を出ても誰もいない。がらんどうの廊下が広がっているだけだ。

 さっきまで確かにここに立っていたのに。

 夢。

 暗い牢獄のような部屋に、かすかな白煙が揺らめいている。

 頭の中に入り込んできたその映像をかき消して、ルカの姿が浮かんだ。

(少し勘違いしていたけれど、あの人は本当は良い人なのね。今も私に近づこうとしている。あなたは惹かれているの?)

 ソイユはオーブが明滅していることに気づいた。橙から赤へ、紫へ、とグラデーションを描いてめまぐるしく色が変わっている。

(その色の変化も私には見えない)

 ——私に語りかけているのはオーブなの?

(私はただあなたに会いたいだけなの。話がしたい)

 事務室に戻ると、様子がおかしいことに気づいた事務員がソイユに話しかける。

 だがその声は彼女に届かない。

 ソイユの瞳には裏口の扉だけが映っている。

 扉の奥に気配がある。

 外で誰かが音のないノックをしている。

 彼女はオーブの糸に引かれ、裏口を開けた。

「あれ、ソイユさん?」

 裏庭には満開の赤い花。そして右手から建物を回り込んでくるキッツがいた。拳銃を退屈そうに手の中でもてあそんでいる。

「どうかしたんすか? 一応周りも見てきましたけど、なーんにもない。平和なもんっすよ」

 ソイユは額の汗を拭う。

「ううん。大丈夫。なんでもないの」

 声はもう聞こえなかった。


   *


 ソイユが一人暮らししていたアパートの部屋は、三階の端に位置する。扉を出るとすぐ階段なのは、あの日逃げ切れた理由の一つだ。

 夜が夜らしく深い。今は住人のいない一室を、ルカは窓枠に腰掛けてざっと見回した。一度服などの生活必需品を回収しているものの、部屋は襲われたときのままの状態をほぼ維持している。見える範囲には争った後は見られない。黒い蛇は外で追いかけてきたのと同じように障害物を器用に避けていったのだろう。カーテンの端に汚れがついていて、床に土がこぼれている。窓は北向きで隣り合う家は一階建てだ。視界をさえぎられる環境ではないが、西の崖側の地面から這い上がって侵入すれば、外出している人が見上げない限り黒い蛇の存在には気づかないだろう。

 そこまで考えて動けるのも、生きた人間が操っているからか。

 顔のない白い肉体がまだ橙色に輝くオーブを胸に抱き、石の中に閉じ込められている様をルカは想像した。リトリテをどのような体勢で包むのかは聞いていなかったが、胎児のようなその姿が一番ふさわしいように思えた。石の中でリトリテは思考することが出来る。自分を埋めた人物を憎み、傷つけたいと願う。

 ——もしも自分の意志で埋められたとすれば?

 埋めた者と埋められた者が共犯関係にあり、化生石けしょうせきの性質を利用して悪事を働こうとしている。

 そうだとして、犯人たちがソイユを狙う理由はなんだろう。

 なぜ、あの夜から今まで一度も襲撃して来ないのだろう。

 そもそも——俺がやるべきなのは犯人捜しなのだろうか?

 ルカは奇妙な違和感を覚えていた。それはあまりにも健全な黒い蛇の振る舞いに、一つは由来している。

 黒い蛇は本当にソイユを襲い、傷つけることを目的としているのか。

 犯人なんてものは存在せず、蛇の出現はとても珍しい偶然の積み重ねの結果なんじゃないのか。

 この街の人々の圧倒的な敵意のなさが、ルカのこの考えを強烈に支持していた。

 楽観的過ぎるだろうか。

 そうかもしれない。

 風域ふういきが俺をここに呼んだということは、放っておけばこの街の全ての人が死んでしまうのは確かだ。そのきっかけになる出来事を潰さないと、手遅れになる。

 ルカは訪れた土地で幾度となく見てきた血の惨状を思い出し、吐き気がした。

 たった一羽の鳥の死が、内乱を引き起こすことがある。

 ——平和のための戦いで、平和とはほど遠い兵器が死体の山を築く。

 何気なく川に捨てたゴミがもとで、人が鬼に変わることがある。

 ——人が人を喰うことだけで、腹が満たされる世界が生まれる。

 だが、この街はまだ間に合うはずだ。

 風域はまだ俺の肩を叩いてはいない。

 白銀甲しろがねこうの鳴き声が一瞬収まった時、ルカは室内に別の音が流れていることに気づいた。靴のまま部屋の中に入って台所に行くと、糸のように細い水が蛇口から途切れることなく流れ続けている。

 彼は蛇口を閉めた。

 しばらくその位置から部屋を眺めていたが、結局彼は他には何も手を触れることなくアパートを後にした。

 黒い蛇がどのように生まれ、操られているかはわかった。加工法は表向き墓守しか知らないとは言え、盗む方法はいくらでもある。

 生き埋めにするとすれば、目立たないところを選ぶだろう。今はそのヒントもない。

 であれば、次に調べるべきは動機だ。

 ソイユが狙われた理由を探ろう。


   *


 ミラは毎日、分単位で同じ時間に起きることが出来る。母親譲りの能力だという。そしてその起床時間は早すぎるので、学校がある日は遠回りになるにも関わらずソイユのアパートに寄ってから一緒に登校する。登校にちょうど良い時間になるし、運動にもなって一石二鳥だ。さらに、そうやって稼いだ歩数は何とか大先生の何とか理論のための宇宙との交信に役立つらしい。

 街の中心から南北に直線を引くと、クフタ商会はちょうどソイユが一人暮らしに選んだアパートと線対称の位置にある。ミラはご機嫌な様子でソイユを迎えに来た。

 二日間の休みを経て、今日からまた学校が始まる。

「ったく、なんであたしが他人のガキの世話しなきゃなんねぇんだよ……」

 アユタはオルトラを手で押して、ソイユとミラの隣を歩いていた。朝、クフタ商会の倉庫に入ったところをナバルに捕まり、そのまま二人が下校するまで守るよう言いつけられたのだ。

「そんなこと言って、私たちとほとんど変わらないでしょ? 何歳なの?」

「十八だよ」

「ほら! 私たち十六歳なんだよ。二つしか変わんないじゃん!『そんなものは誤差範囲だ』ってルーイー先生も言ってたよ」

「ルーイー先生って?」

 また新しい先生だ、とソイユは思う。

「占星術師だよ、知らないの? あの氷拳・ジェドを顧客に持ってる、今最も当たる占い師と言えばルーイー先生をおいて他にいないよ!」

「占い師が誤差範囲とか言ってたら終わりだろ。あんた、ほんとに高等部の試験受かったのか?」

 アユタがうんざりして言う。

 クフタ商会から学校までは歩いて十五分だ。

 たった十五分の距離を――

「たった十五分の距離を誰かについてきてもらわなきゃいけないなんて、子供みたいだよね」

 小さな声でソイユが言う。その後のため息のほうが、ずっと大きく聞こえた。

 アユタはソイユの背中を叩く。

「そ、わかってんじゃねぇか。それにあんたたちは一人じゃねぇ、二人だ。友達二人でいりゃあいつだって最強、そうだろ? じゃ、あたしは戻るわ」

「待ってよ! 職務放棄だよ。もしアユタが帰った後で私たちが襲われたらどうするの?」

 ミラがアユタの服を掴む。

「あんたがそうやって大声で喚かなけりゃ、ヘンテコな蛇もあんたらの居場所はわかんねぇだろうよ」

「何よもう、殺されたら恨んでやるんだから! 私は呪い方なんていくらでも知ってるんだからね、この――」

 といってミラが鞄に入れた手をソイユは押さえる。分厚い革装の本が隙間から覗いた。

「大丈夫だよ、ミラ、すぐそこなんだから。それに、この道は人通りも多いし。あの蛇は来ないと思うの」

「うん……でも……私は心配なの。今日はあの救世主もいないんでしょ?」

「ルカのこと? 今日は運び屋の仕事が忙しいって言ってたけど」

「こんなときに姫を放っておいて?」

 ソイユが顔を赤らめる。

「やめてよ、姫だなんて。私は平凡な学生だよ——だから、私なんかを特別襲う理由なんてないの。きっとたまたまだったんだよ、あれは。だから、ほら、行こう?」

「そうかなぁ……」

 ソイユの言い方は、まるで自分に言い聞かせるようだ。ミラはそう思った。

 アユタに手を振って別れる。彼女は今日もたくさんの人の手紙を運ぶだろう。

 誰よりも多く、想いを運ぶだろう。

 勉強は好きだし、これからのために必要だとはわかっている。しかしソイユは、彼女がやっているような、人のためになる仕事が早くしたくて仕方なかった。

 ミラがキャスケットを頭から外し、飛んでいる目回し蝶を捕まえようとする。蝶はその薄っぺらな体からは想像もできない速度で飛び去り、街の喧騒に消えた。

 ミラが、キャスケットを被り直しながら言う。

「救世主は昨日、私のところに来たよ」

「えっ? ほんと?」

 少し前を歩いていたソイユが振り返る。

「ほんと、わかりやすいね」

 ミラが口に手を当てて笑った。

「——ソイユのことを聞きに来たの。私なんて眼中にないから、安心してよねっ!」

 ソイユが安堵の表情を浮かべたので、ミラは茶化すように脇腹を突いた。

「もうっ、やめてよ。何を話したの?」

「ソイユの友達とか、ご近所さんとか。あと、お父さんと、お母さんのことも。ソイユだけが狙われる理由がわかれば、蛇の正体がわかるかもって言ってた」

 どうして直接私に聞かなかったんだろう。

 ソイユは昨日の夜を思い返す。

 ルカは遅い時間に帰ってきた。ソイユは事務室に置いてある古い絵本をめくっていた。まだ父が生きていた頃、父の帰りが遅いのを見かねて、ナバルが暇つぶしになるだろうと色々な本を持ってきてくれた。中でもその絵本は特にお気に入りで、表紙の文字がすり減るまで読んだものだ。

 青く、深い湖の中。男の子がたった一人で底を目指して潜っていく。片手に持った小さなもりを武器に、襲い来る貝殻の化け物を撃退し、沈没船が作りだす迷路を通り抜け、岩の隙間を縫ってどこまでも深く。やがて湖面からの最後の光が閉ざされたとき、彼は不思議な水流に流され意識を失う。目が覚めたとき、彼は色鮮やかな古代魚の群れの中にいる。古代魚に連れられて水の中を光のほうへ泳いでいくと、そこは見知らぬ湖面だった。周囲の木々が踊り出し、男の子を歓迎する。銛はいつの間にかなくなっており、実のところそれは、彼が元々目指していた湖の底の底にぽつんと取り残されている。

「ずっと青一色だった絵本が、古代魚の登場と共に極彩色に変わる。その瞬間が大好きだった——ううん、今も、一番好き」

 ルカにそんな話をして、ミラの母親が持ってきてくれた弁当を開けた。ルカと、食事を一緒に取ろうと思って待っていたのだ。彼は唯一遅くまでやっている屋台で野菜と羊肉の串を一本ずつ買っているだけだった。ソイユは前日ルカが買ってくれていた材料で即席のスープを作った。ミラの母親が気合いを入れて作り過ぎた弁当の具を分けてあげた。二人で遅い夕食を取っている間も、ルカはソイユに交友関係や両親のことを尋ねることはなかった。

 そのことがとても悲しいような悔しいような感じがして、胸が痛む。

 この感じは、ときどきある。

 ナバルおじさんといるとき、父さんといたとき。自分の知らない何かを二人は常に頭の中に抱えていて、その薄青いもやのようなものは決して口から出てくることがない。

 私には見せてくれない秘密の靄。

 閉ざされた口には優しさばかりあって。

 私はそれを無理矢理つかみ出すことはできない。

「やばっ! ソイユ、薬草学の宿題やってる? 見てこれ、問題集一枚抜かしでやっちゃってる! 助けて!」

 ミラに空欄だらけの問題集を思い切り顔に押しつけられ、ソイユは現実に戻った。

「うん、やってるよ。ええと……ほらこれ。早く返してね」

 校門が目の前に迫っている。

 二人がらしく歩けば、三十分もかかる道のりだ。


   *


 飾り気のない灰色一色の石壁が周囲を覆っている。

 イリ研究所の受付には警備員が二人いた。一人は眼鏡を掛けた若者で、来客の素性や予約有無を調べて入門可否を決定する。もう一人はナバルよりもずっと体の大きな男で、身長は二メートルを超えている。左手の警棒をちらつかせながら、ルカが淡々と要件を述べるのを聞いていた。

「——というわけ。ナバルからの使いだって言ってくれればわかるよ」

 研究所の入り口はスライド式の鉄柵になっており、所員証を首から掛けた人がぽつぽつ中に入っていく。広大な敷地を持つ割に、研究者は少ないようだ。

「確認しましたが、あなたの言う黒い石は鉱物課にはありません」

「そんなことないさ。ちゃんと聞いてくれないかな」

「今し方電話で話していた内容を、あなたも聞いていたでしょう?」

「じゃあどこにあるんだよ。調査隊から解析に回されているはずだ」

「それはあなたに依頼したナバルという人物に聞いてください。私からは何も言えません」

「頼むよ。急ぎなんだ」

「急ぎであればなおさら、あなたの聡い上司に今すぐ尋ねるべきでしょうね」

 なおも食い下がろうとすると、警棒の男がルカの肩を掴んだ。

「兄ちゃん。さっさと帰りな。あんたのイカす顔が台無しになっちまう前にな」

「おっと……この街にも乱暴な人がいるんだね」

 ルカは振り向きざま、肩を掴んでいる男の腕を取る。右足を払うと男はくるりと宙で反転し、地面に倒れた。

「つい手癖でね……こりゃあ懲罰小屋行きかな? どうぞ、中に連行してくれて構わないよ」

 倒れた男がルカの手を弾く。

 激昂し、荒々しく立ち上がる。猛牛のような鼻息だ。

 ルカは男が振り回す警棒を避ける。

 大ぶりで、隙だらけだった。

 受付の若者が慌てて誰かに電話し、助けを求めている。

 一旦引き返そうか、と考えているところに痩せた白衣の男が近づいてきた。

「おや、おや。何事かな?」

 警棒の男はその姿を見て動きを止めた。

「駄目じゃないか。ここは、飽くなき探求に身を捧げる、人々が集う場所。軽率な暴力というのは、その対極に位置する、恥ずべきものだ」

「すみません。カムファさん。しかしこの怪しい若者が、入門許可を取れとしつこいもので……」

 カムファが白髪を掻き上げ、ルカの顔を覗く。

「君は、運び屋の若者じゃないか。そうか、やっと僕の荷物を持ってきてくれたんだね……遅いじゃないか」

 彼は言うと鉄柵を通った。

「ほら、何してるんだい? 入りたまえ」

 ルカは内心唖然としていたが、表情を変えずに中に入った。

 質素で堅実な外壁と同様、敷地内には庭がなく六角柱の建物が六つ、バランス良く並べられている。窓がないのでわからないが、高さから推測すると3階建てだ。

 ハ、ヒ、ヒ、とカムファはやや顎を上げて笑う。

「これで一つ貸しだね——僕が待ちわびているプレゼントがどこにあるのか、きちんと調べておいてくれよ」

「死後の世界にあるってのはわかってるんだけど」

「じゃ、死んでからでも構わないよ。僕は長生きしないとね」

 以前会ったときよりもずっと滑舌が良い。あれは寝起きだったからだろうか。

「あんたがここの研究者だとは思わなかったよ。いつもあの地域に配達するとき、家にいたから」

「僕は夜型なんだ。日によっては夕方まで家で寝てる」

「俺もそういう働き方をしたいね」

「そうかい? なら僕の被験者になりなよ。実験は夜からにしてあげるからさ。それまでは眠り放題だ」

「それだけは御免だ」

 正面にある建物が一号棟。一号棟を囲むように合計六つの建物が建っており、右から二号棟、三号棟、四号棟……と六号棟まで続く。六号棟の隣、つまり研究所の入り口を入ってすぐ左手には瓦礫の山があった。

 カムファは一号棟の扉にシリンダー状の奇妙な鍵を差し込み扉を開ける。ここは本塔とも呼ばれ来客と話しをしたり、複数の棟にいる研究者が集まって会議を開くときなどに使われていた。

「僕が働いているのは三号棟でね。特殊な研究をする変わり者が集まっているんだ。お金にならなかったり、何に使うのかわからなかったり。たまに真面目なやつが異動させられてくるんだけど、そういうやつらがつけた通称が監獄棟。僕みたいなのといるのは、まるで罰ゲームってわけだ。ひどいよね」

 そりゃあ罰と思わざるを得ないだろう、とルカは思った。

「左手に見えた瓦礫は元七号棟。僕が幼い頃に研究者が実験に失敗してぼかん! 崩れたんだ。今もその悲劇を忘れないよう、残骸をそのまま残しているのさ」

 一号棟に入ってすぐ正面に受付があり、白衣の女性が座っていた。カムファに言われて面倒臭そうに紙をめくり、空いている部屋を指示する。ここで働いているのは警備員を除き全員研究者なので、こうして交代で受付を押しつけられるのだという。

「で、君はここに何の用で?」

 中央に机が一つ、向かう合う椅子が一脚ずつ。通されたのは殺風景な部屋だった。

「調査隊が黒い石の解析を依頼しているはずだから、その結果を知りたいんだ。鉱石課ってところでやってるらしい」

「鉱石課は六号棟——だけどその石はあそこにないよ」

「なぜ?」

「僕が持ってるからさ。さっさと解析しろとナバルに頼まれてね」

 カムファが白衣のポケットから黒い薄片を出した。

「わかってて俺を入れたのかい?」

「まぁね。君みたいな人と関わると面白そうだし」

 白衣の人間と向かい合って座っていると、尋問されているような気分になる。

「こいつの解析結果が知りたい、ということでいいかな?」

「話が早いね。その通りだ」

「これは化生石だった」

「やっぱり……」

 ルカは、カムファが平然としていることが気になった。

「不思議には思わなかったのかい」

「何を?」

「存在しないはずの、黒い化生石だよ」

 カムファが薄片を机に置き、ルカのほうに滑らせる。

「確かにこれまで黒い化生石は存在しなかった。けど、これから永遠に存在し得ないという証拠もなかった。化生石の性質上、むしろどこかにあって然るべきだったんだ。だから僕としてはね、ああ、やっぱりあったんだというくらいの感想だね」

 研究者らしい答えではあった。嘆きの泉に関する情報は、どこまで厳重に管理されているのだろうか。

「色以外に何か異なる点はなかったかな? この黒い石だけが特異な性質を持っているとか」

「今のところそれはないね。これはただの、どこにでもある化生石だよ」

 心底つまらなそうにカムファは言った。

「この石にご執心みたいじゃないか。ソイユを助けたのは君なのかな」

「ソイユを知ってるのか?」

「生まれたときから知っているよ。僕が出不精だからね、もう長いこと会ってないんだけど——無事高等部の試験に通ったとナバルに聞いた。さすがエナクの娘だけあって、真面目みたいだ。

 エナクは知ってるかな。ソイユの父親なんだけど、彼は僕と同じ三号棟で働いていたんだ。亡くなったのは本当に残念だよ」

「同僚だったんだ。彼とどんな研究を?」

「彼と? 僕とエナクは同じ建物にいただけで、やってることは別だったよ。研究内容については機密事項だから答えられない。さっきも言ったように、誰が得をするのかわからないような研究をしている場所だからね。秘密にすることもないんだろうけど、規則なんだ」

 機密、か。無理に食いつくのはよそう。

「ソイユを襲った黒い蛇の動きから考えて、明らかに標的はソイユ個人だ。黒い化生石については謎が多すぎるし、動機から犯人を探りたいと思ってる。今のところソイユが狙われる理由は見つからない。となれば、父親。エナクに恨みを持つ人間が、その娘であるソイユを狙ったというのは考えられるんじゃないか、と思ってるんだ」

「エナクに恨み……」

 カムファは部屋唯一の窓から外を眺める。そこからは三号棟が見えた。

「研究に自分の時間のほとんどを捧げながら、男手ひとつで娘を育てた人間だよ。恨みを買う暇なんてあったとは思えないけどね。彼の実績からして、むしろ感謝されるべきだろう。そうだ、これはもう市販されてる薬の話だから言っても良いんだった。

 彼の研究成果の一つに、特筆すべきものがある。三号棟所属としては珍しく非常に有用なもの——〈求薬〉というオーブに直接作用する薬の開発に、初めて成功した」

「あの求薬をソイユの父親が?」

「そうだよ。リトリテの健康状態は、心の動きに大きく左右される。オーブの色の変化を見たことがあるかな?」

 ルカは頷く。

「リトリテが精神的な負担を受けると、オーブの核は徐々に青に近づき濁っていく。この濁りは肉体にも大きな負荷を与える。つまり、肉体に対する精神的負荷が、オーブに対する負荷となり、オーブに対する負荷は肉体に対する強力な肉体的負荷になるという流れだ。オーブと肉体は、そのために濁りが極限まで至ると身を守る術を取る。肉体の異常行動だ。

 異常行動中の肉体は非常に暴力的になり、本来の人格は完全に失われる。周囲の人間に危害を加えたり、自分のオーブを破壊するという暴挙に出ることさえある。異常行動には自らの死のリスクがあるんだよ。

 これまでは濁りを根本的に解決する方法がなかった。だからリトリテは他の人間より精神的負荷を抑えるような工夫を日々の生活で送ってきた。気の合わない人間と無理に付き合わない、釣りや狩りといった趣味を持つとかね——この街で拳闘が発展したのも心の健康維持に役立つという理由からさ。奔放で自己中心的だとか、言われていたこともあったね。

 それでも濁りは止められるものじゃない。だから求薬が開発される前は、濁りが発生する直前にリトリテを拘束してオーブや他の人々から切り離す。リトリテの家には地下室や、母屋と分かれた堅牢な倉庫があるだろう。今では別の用途に使われているけどね、あれは元々〈暴走〉したリトリテのための隔離部屋だよ」

 ルカの頭の中にクフタ商会の懲罰小屋の様子が浮かんだ。

 あれもリトリテを隔離するためにあったのではないだろうか。

「それが今では求薬によってほぼ異常行動のリスクはなくなった。街の人々はみんなエナクに感謝していると思うけどね」

「そりゃあすごいや。英雄じゃないか」

 だが彼の口ぶりからするに、エナクの仕事はそれだけではない。

 極秘裏に人道に反するようなことをしているということも――

 いや。穿うがち過ぎだろう。

 俺もあのコグレダ紙に影響されたのかな。

 ルカは昨日の夜、ミラからエナクが病死だと聞いていた。それから二年もソイユは何の被害にも遭ってない。

 何らかの恨みから親子共々、という推測はそもそも無理があるんだ。

 それでも。

 それでも、念押しは必要だ。

「もう少しいいかな。ここには鉱石課があるけれど、化生石の研究はしてるのかい? 詳しい内容はいいんだ、ただ、やっているかいないのかだけでも教えて欲しい」

「化生石の研究は禁止されてるよ」

「墓守しか化生石で遺体を包むことが許されないってのは、本当のことなのかい? その方法も墓守しか知らない?」

 ハ、ヒ、ヒ、とカムファが笑う。

「そんな、遠回しに言わなくても良いだろう。鉱石課の人間が——いいや、この研究所の誰かが——化生石を自由に操ってソイユを襲えないか、と聞きたいんだろう? 答えは否だ。墓守は特殊な溶剤を使って化生石を加工するらしいけど、その材料も製法も墓守の一族以外には一切漏れてこない。例えこんな小さな薄片でも、」

 とカムファは机の上の化生石を指す。

「僕たちが形状を変えることは不可能さ」

 それは事実だろうか?

 ルカは時折感じる。自分がその土地に溶け込むことが出来ず、嘘で塗り固められた客人向けの世界を見ているのではないかと。

 そこでは誰も自分に真実を語らない。

 そういう仮面の上の世界にいる限り、自分は何者かに、何事かに影響を与えることは出来ない。

 人を助けることなどもってのほかだ。

 仮面の裏にはもっとむき出しの街がある。そこで、自由に人々と対話がしたい。

 黒い蛇の尻尾を掴んで、引きずり出したい。

 ルカの頭にソイユの俯きがちな顔が浮かんだ。

 彼女はこの街で生まれ育っている。だが、自分と同じように何か表面に膜のかかっている世界を生きているというふうなそぶりを——ごくわずかだが――感じる。

 昨日の夕食のときもそうだった。

 でも昨日のあれは、自分のせいではなかっただろうか。

 ソイユが狙われているのは、ソイユ自身やその両親に原因があるのだと疑っていることが後ろめたかった。

 それで本人には何も尋ねず、自分が何をしているのかも話さなかった。

 仮面は、俺自身の体に、ぴったりと吸い付くようにあるのかもしれない。

 それはどうすれば剥がすことが出来るのだろう。

「ありがとう。参考になったよ」

 カムファは意外だというようにわずかに口を開いた。その口はすぐいつもの奇妙な笑みに変わり、席を立って部屋のドアを開ける。

「僕が感謝されるなんて、気味が悪いね」

 彼はつかつかと前を歩き、受付に部屋を使い終わったことを告げる。石畳になった玄関を抜けて外に出ると、爽やかな空気が心地よかった。窓がある建物はこの一号棟だけのようだが、それもすべて開閉できないようになっている。

 ルカから言わせれば、どの建物も監獄のようなものだった。

「じゃ、僕はここで。何か知りたいことがあったら、僕の家に来ると良いよ。ここの連中は頭が固いからね」

 そう言って三号棟に向かおうとするカムファの背を見送る。

 その先にある六角形の建物の右手に、見覚えのあるものがあった。

 少女を模した、黒い像だ。

「ん?」

 カムファも見つけたようだ。少女像は建物の入り口とは反対側の壁に手をついている。そしてその手をゆっくりと下に動かし、しゃがみ込む形になった。そこで視線に気づいたのか、二人のほうに首を回す。

 すでにルカは走り出していた。明らかに人間ではなく、生き物とも思えない黒い像が動いている、その様はどう考えてもあの黒い蛇と同種だった。

 そしてあれは湖で見た少女像でもある。

 ルカが近づくのを見て、少女像はその形態を崩しながら奥の壁へと消えた。声を上げても無駄だと思い、ルカは黙って建物の奥に回り込む。

 だがそこにはもう何も残っていなかった。

 辺りの地面を指で掘り出すが、それらしい黒い石は出てこない。

 もう、この地面の下にもいないのだろう。

「面白いものを見た」

 後ろからのんびりとカムファがやってくる。

「ずいぶん落ち着いてるんだな」

「これでも興奮しているんだけどね」

「この奥には何が?」

 ルカは少女像が触れていた壁に手を当てる。当然ながらぬくもりなどなかった。

「机と椅子が並んでいるね」

「ここじゃなくても大体そうだよ」

「んー、すまないね。並んでいるわけじゃなかった。好き放題に置かれているよ」

「そういうことを聞きたいんじゃない。何をする場所なんだ?」

「研究者が計算したり、考えをまとめたり、議論したり、一服したり、する、ところかな。二階と三階が実験室になっているね」

「地下室はあるのかい?」

「この下は地面だよ。あれが例の黒い蛇なのかい? ずいぶん可愛らしい少女だったけど」

「襲ってきたものはもっと太くて丸い、顔のない蛇みたいな外見だった。だけど、あれと同じ少女の形をしたものも俺は一度見てるんだ」

「そうかい。なら二体も危険な生き物がこの街にいるってことだね。こりゃあ、恐ろしい。君にはぜひとも頑張ってもらいたいところだよ」

「二体……そうなのか。でもさっきのは」

「ソイユにそっくりだ」

 後を継ぐようにカムファが言った。

 そう、あまりにも似ていた。湖で見たときは遠目だからわからなかったが、今回は間違いない。

「どうして彼女と同じ姿に」

 ソイユを襲うことに関係しているのだろうが。

「いい顔だねぇ。悩める男——君はエナクに似ているようだ」

 ルカはちらりとカムファを見た。そしてまた三号棟と地面との境界辺りに視線を落とし、尋ねる。

「何故黒い化生石があんなふうになるのか、知ってるんじゃないか? あれは誰かが操ってるんじゃない、それ自体が意志をもって動いてるみたいだ」

 カムファが顎に手を当てて考える仕草をする。

「化生石がなぜ形と色を変えるのか、本質的なことを僕たちは知らない。だからなぜあんなふうに動けるのかもわからない。ただ、この街の地下の至る所に化生石は存在している。それをうまく使って、ああいう像を造っているのかも、ね」


 研究所を出てからは、当てもなく街を歩いた。どこも運び屋として通ったことのある道ばかりのはずだが、オルトラに乗って通るのと、歩いて通るのとでは景色は随分違って見える。蛇のことを考えながらも、ルカは屋根の上に散った花びらや、錆びて壁と一体化しているように見える三輪車などに心惹かれていた。

 蛇と、ソイユそっくりの少女像。

 二つは同じものではないのだろうか。

 左手に石材で作られた古い階段が映る。崖の上には小さな霊園があり、下からでもいくつかの墓石の頭が見えた。

「おぅ。サボり魔二号じゃねぇか」

 正面からオルトラに乗ったアユタがやってきて、ルカの隣で停車した。

「俺はサボりじゃない。ちゃんと休暇申請をして、ナバルに受理されているよ」

 オルトラの背中にはもうほとんど荷物がない。これからクフタ商会の倉庫に向かうところなのだ。

「そんなに休んで大丈夫なのか? あんた、金がねぇから働かせてもらってんだろ?」

「鋭いところを突くね……実は結構きついんだよ、今も。おごってくれるかい?」

「っざけんなよ。自分で稼げ」

 だよね、とルカは笑う。霊園から幼い子供が三人下りてくる。誰が一番先に下りきれるか競争していた。後ろからまだ若い両親がその様子を見守っている。

「今日はソイユの近くにいるんじゃなかったのかい?」

「お守りのことか? アホらしいぜ。もうずっとお前らの言う蛇は襲ってきてねぇじゃねぇか。それに街中にいりゃ人の目もある。何かあったとしても自警団か、野良拳闘の新星か、そういうちょっと腕っ節に自信のあるやつらが守ってくれるさ」

 街全体に善意の目がある。

 この街なら、確かにそうだ。

「それにあのソイユってガキも、うんざりしてそうだったしな。ほっといてくれって雰囲気ばりばりだ」

「彼女自身、あまり怯えていないようだしね」

 事態に変化がない以上、彼女の意思を尊重すべきだというのも一理ある。

「ナバルもあんたもびびりすぎなんだよ。あんた、何とかっていう旅人なんだって? あの口うるせぇ親父から聞いたぜ」

「ヤドリだよ」

 黙ってくれとは言っていないが、ナバルがアユタにそのことを話したのは少し意外だった。

「で、なんかごちゃごちゃした理由であの箱入り娘を助けたいんだろ?」

「ごちゃごちゃはしてないよ。この街に悲劇が起こり、多くの人間が死んでしまうのを未然に防ぐためさ」

 言ってルカは苦笑した。こんなふうに軽い空気の中でヤドリの使命について話すことはなかった。悲劇とか死とかいう大仰な台詞は、この場にはまったくふさわしくなく、恥ずかしささえあった。

「よし、あんたにはこいつをやろう」

 アユタがズボンのポケットから出したのは、愚薬ぐやくのプラス8だった。

「人間でも頭にぶっさせば効くんじゃねぇか? そのこんがらがった頭がすっきりするぜ」

「良いのかい? じゃ、遠慮なく」

 冗談だとわかりながら、ルカはさっとアユタの手から愚薬を攫う。止める間もなく頭に薬を落とした。

 冷感が少しあったものの、特別な変化は起こらない。

「おい、マジで使うなよ! それ高ぇんだからな!」

「君がくれたんじゃないか。本当にオーブにしか効かないみたいだな。脳みそに皺が増えて賢くなるとか?」

「てめぇ……」

 握った拳をなんとか抑え込み、アユタは腕を組んだ。

「——今度色つけて返しな。二本だ。絶対二本だからな」

 大きく鼻で息を吐き、憤りを表す。

「で、そのヤドリさんってのの働く理由はともかく、進展はあったのかよ。色々と調べてるんだろ。気持ち悪い化け物のことをよ」

「亀の速度で前進中。ソイユを狙う動機の方から探ろうと思って、さっきも生前の父親について話を聞いてたところなんだ。たいした情報はなかったんだけど」

「あいつの父ちゃんって言えば、愚薬を発明した凄腕マッド・サイエンティストだろ。すげぇよなぁほんと。感謝感謝」

「やっぱり有名なんだね」

「変なやつとしても有名だけどな。ずっと地下室から出てこねぇで、何やってるか同じ研究所のやつでも知らなかったらしい。それが突然愚薬を発表して大騒ぎ、一体どうしたんだってみんなしてそいつの研究室に入りたがったんだけど見せもしねぇ。

 愚薬は別の研究の副産物だとかそういう話だったな。もし生きてたら愚薬よりもっとすげぇ薬が出来てたかもしれねぇのに、死ぬ前に研究成果を全部破棄しちまったんだよ。あー、もったいねぇ!」

「副産物、ね……」

 一体何の研究だったのか。

「あたしは会ったことないけどさ、ちょうどあそこに墓があるらしいぜ。ちょっと挨拶でもしてきたらどうだ」

 アユタの言葉に従い、ルカは階段を上った。急勾配で手すりがないという不親切な設計だ。崖には華奢な黄色の花がぽつぽつと咲いていた。

 霊園は下から見て想像できるよりも一回り小さかった。崖を途中で無理矢理切り取って、正方形の足場を作ったようだ。

 この霊園の墓石にはそれぞれ名前が付けられている。

 エナクの墓は中央やや奥にあり、単純な凸型をしていた。他の墓と比較してもとても綺麗だ。

 最近ソイユが来たのか、供えられた花束はまだ元気にしている。ルカは墓の前で目を瞑り、語りかけた。

 あんたは地下に閉じこもって、何をしてたんだ。

 娘を放ってさ。


   *


 ナバルは落ち着かない様子でクフタ商会の事務室内を歩き回っていた。倉庫での仕事を終え、裏庭の花に水をやってからはずっとそんな調子だ。事務員のロズはソイユが学校で無事でいるのかどうか気になって仕方がないのだと思っていた。それでいつもの薄いお茶を何杯も何杯もコップに継ぎ足し、その度に仕事や天気や巷の女性たちの噂話など、普段通りの話題を提供した。今日も何も変わらない、平和な日じゃないですか。こんな日に何が起こるっていうんですか、と暗に伝えているつもりだった。

 それでもナバルは一分とじっとしていられず、窓を開けて意味もなく体を乗り出しきょろきょろと辺りを見回したり、来月の拳闘の対戦表を見て毒を吐いたりしていた。嫌いなんだったら、そんな表見なければいいのに。ロズや他の事務員たちにとって最も厄介なのは、普段は気に留めることのないあらを指摘して直させることだった。

 おい、おめぇら。食器棚の上が埃だらけじゃねぇか。

 ロズ、聞いてくれ。誰がこの本棚を管理してるんだ? せめて一巻の隣には二巻が来るようにして欲しいもんだな。

 そういった振る舞いにうんざりしながらも観察していると、どうやらナバルは誰かからの電話を待っているらしいとわかった。時間を持て余しているとき、彼はよく自治会や自警団の誰かと電話して実りのない話をしている。それがないにもかかわらず、本人は電話をちらちらと見ていかにも受話器を取りたそうにしているのだ。

 誰でもいいから早く電話が来ないものか。ロズが待ちわびているとようやく、待望の呼び鈴が鳴った。仕事の早い運び屋たちが帰ってきはじめる時間だ。

「俺だ」

「誰だい?」

「ナバルだ!」

 受話器に向かって怒鳴った瞬間、部屋にいた全員がびくりとした。

「そんなに怒らないでくれよ。とても、とても、忙しい僕が、どうにか時間を作ってかけてるんだ。あのへんてこな石の解析結果は聞かなくてもいいのかな?」

「——悪かったよ、カムファ。報告を聞かせてくれ」

 ナバルが頭を掻く。

「あれは化生石だ。黒いものなんて見たことないし、化生石は色も形も不定——つまり成分もまちまちだから断定するのはどうかと思ったんだけど、硬度から考えて間違いないと思うよ。同じ硬度を持つ化生石以外では傷一つつかない、かちかち山の黒い石さ」

 ナバルは何も言えなかった。カムファが続ける。

「薄々感づいてたんじゃないかと思ったけど、違ったかな。ま、いいや。この薄片は一応保管しとくから、回収したいなら誰か寄越してよ。じゃあね」

 電話が切れた後もしばらく、ナバルは受話器を耳に付けたままだった。

 その後、彼は急に裏口から事務室を出て行った。右手に曲がったので自宅に帰ったのだろうとロズは思った。

 これで落ち着いて仕事が出来る。

 部屋にいる全員が一息ついた。

 ナバルは自宅に帰るとクリーム色の電話機のダイヤルを回し、ツルデにかけた。七コール目でようやく取ったツルデは眠そうな声をしていた。

「お前、わかってたんだな」

 受話器の先には沈黙だけがあった。

「わかってたんだな? あの石が化生石だって」

 少し待つとようやく頭が回ってきたのか、ツルデは肯定とも否定ともとれる曖昧な返事をした後で、言った。

「俺は墓守の息子だからな。触ればわかる」

「じゃあなんで黙ってやがった!」

「お前が旅のやつにすべてを話したがらないのと同じことだ」

 悪びれる様子もなくツルデは言う。

「物事には知るべきタイミングと、範囲がある。俺はお前がまだその情報を知る時期じゃないと判断した、それだけだ」

「てめぇ! 一枚噛んでやがんだな。化生石を扱えるのはてめぇかあのジジイしかいねぇだろうが」

「待てよ。そうやって俺たちを犯人扱いすると思ったから、言わなかったんだ。確かに化生石の加工法は俺か親父だけが知ってる。だが、だからといって俺たちが化生石を自由自在に動かせるってわけじゃない。せいぜい人間の手に扱いやすいように軟化させて、遺体を包み、また硬化させる。それだけだ。それ以外の方法は伝えられていない」

「じゃあ誰が! どんな方法で!」

「それがわかったら苦労はない。だからせっせと足を使って今も情報を集めてる。もう切っていいか」

「くそったれ――」

「いい加減にしろよ、ナバル。古い付き合いだし、過去に助けてもらった恩もある。お前がソイユを守りたくて焦ってる気持ちも理解する。だが、今のお前の態度は到底許せるもんじゃない。調査隊にだって同じように乱暴にあれこれ指示して、疲弊させてるんじゃないのか。そんなやつの下には誰もついてこない。それは結局、問題の解決から遠ざかることになる。冷静になれ」

「てめぇが俺に説教するとはな――」

「旅のやつも、蛇が黒い化生石だってことはとっくにわかってる」

 また荒々しい声が喉の先まで来たところで、ナバルは飲み込む。

「お前は、自分の声を自分で聞いたことはあるか。相手の態度は、お前が相手に何を与えたかを写す鏡だ。感謝すれば感謝される。罵倒すれば罵倒される。単純な話さ。信頼すれば、信頼してくれる」

 そう言ってツルデは一方的に電話を切った。ナバルは乱暴に受話器を置き、そばにあった木椅子を思い切り蹴り上げた。

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