5 湖と森
*
ソイユたちに寝ると告げた後も、ナバルは家でじっと調査隊の報告を待っていた。
彼の頼みと聞いて、所属の内3人が夜中にもかかわらず現場の調査に入ったのだ。
そしてルカも眠りについた朝方、黒い蛇のある痕跡を手に、ナバルは家を出た。
——ヤな臭いだぜ。
マスク越しにも発酵臭が鼻に届く。廃棄物処理プラント群の一番手前が食品類の処理場になっているのは、この臭いで侵入者を撃退するためだと言われる。
野良の動物たちも、ここには近寄らない。
奥へ進むと、金属屑を集めて加工する再生プラントがある。観音開きの扉は閉ざされているが、円柱形のプラントの裏側に回り込むと不自然に石を組み合わせた壁がある。その下側の大きな石を外すと、プラント内に隠された地下室に下りる階段が現れた。
灯りのない階段に悪態をつきながら、ナバルは慣れた足取りで下っていく。
「お前か。こんな時間に珍しい」
中には男が一人、背もたれの外れたソファで横になっていた。
緑色の瞳を持っている。
「気になることがあってな——もう少し清潔にしたらどうだ」
ソファも、その隣にある机も、部屋のあらゆる調度品が捨て置かれた廃品にしか見えない。
「好きにさせろ」
男はじっと天井を眺めている。「俺に用事があって来たんだろ?」
ナバルが机に黒い薄片を置いた。
「ツルデ、これを見てくれ」
調査隊がソイユのアパート付近で拾ったものだ。横目でそれを見たツルデの表情が一瞬変わった。
「これがどうかしたのか?」
「夜のうちにソイユが襲われた。黒い蛇みたいな怪物だ。恐らくこれは、そいつの皮膚だ」
「怪物、か」
「他人事ごとみたいな態度だな」
「他人事だからな。イリ研究所に持って行ったほうが早い。成分でわかる」
「時間がかかるんだよ。別の方面からも探っておきたい」
「あの娘を守るために? まぁお前の頼みなら断れないな」
ツルデは体を起こし、長いこと洗っていないだろうグラスに水を注ぐ。
「それともう一つ――」
ナバルは棚から新しいグラスを取り出し、ツルデが水を入れたグラスと入れ替える。水はそのまま排水溝に投げ捨てた。
ツルデが舌打ちと共にナバルを睨めつける。
「お前、昨日ソイユのアパートの近くにいただろ。何してた」
「今でもたまに野良拳闘を覗きたくなる。昨日はどこでもやってなかったが」
「ルカがお前の姿を見てる。ソイユを助けた、うちの運び屋だ。お前を怪しいと見て追ってるぞ」
「構わないだろう。疚しいことは何もない」
「あいつは旅の人間だ。お前の事情も、この街の事情も知らねぇ。変にこじらせねぇためにも目立った真似はやめてくれ」
ツルデはナバルの出したグラスに水を注ぎ、一気に飲み干した。
「何も知らない? それはむしろ俺には都合が良いかもな」
「ツルデ。リトリテにも歴史があり、伝統があり、文化がある。それは俺よりもお前の方がずっとよく知ってるはずだろ? 受け継いできたものをむやみに壊すべきじゃねぇ。俺にもまだこの件はさっぱりわかんねぇんだが、何か、嫌な予感がするんだ。慎重にやるべきだ」
「伝統……」
ツルデは黒い薄片を指で挟み、蝋の光に当てた。
未知の怪物ということであれば、皮膚や
「俺は肉体がオーブの奴隷だとは考えない。二つは補完し合っているだけだ」
ナバルはツルデに背を向け、階段に足を掛ける。
「それを証明したいんなら、こんなとこで仙人ぶってねぇで研究所に願書を出すんだな」
任せたぞ、と言ってナバルは地下室を去った。
ツルデはロングコートを羽織り、ポケットに薄片を入れる。
*
翌日、誰かがソイユの生活に必要な食料や日用品を買いに出る必要があった。
キッツがその役を買って出たが、ナバルに却下された。どうせ仕事をサボりたいだけだ。
というわけで、代わりに指名されたのはルカだった。
ルカは朝になってからシャワーを浴び、昨日の汚れを落とした。肩の傷はかなり染みたが、体を拭いて薬を塗るとまた嘘のように痛みが収斂していく。
短刀を失ったことが今さらながら悔やまれた。
——結構気に入ってたんだけどな。
建物を出て朝日を浴びると嫌な経験も少しだけ薄まる。明るい中で市街地を回ってみるが、どこにも被害は出ていないようだ。ルカが路地に入った後すぐ、蛇は諦めたのだろう。
「また買い物リストか」
これでは運び屋というより買い出し屋じゃないか。こうやってことあるごとに買い物を押しつけられる人間を、確か他の街では——何だったか——特別な呼び名があった気がする。
商店街に入るとそこかしこの店前で昨夜の騒動が話題に上っている。しかし話しぶりは井戸端会議程度のもので、深刻さは感じられない。五年前、湖でクワッカが一匹も獲れなかった日のほうがよっほど恐ろしかったという男もいた。
街での生活も慣れたものだ。
瞬く間にリストは×印で埋め尽くされた。
「あとは薬だな」
リトリテは心の揺らぎに敏感だ。ソイユのオーブは昨日の経験の後でわずかに濁ってしまっていた。それを治せる、唯一の薬があるのだという。
薬屋は金物屋手前の脇道を入り、野良ノ箱(野良猫等のために商品にならない廃棄食材を入れる木箱)を超えた先にある。木製の扉を削って「クスリヤ ドウゾ」と大文字で書かれていた。
商店街で入り口を常時閉めている店は珍しい。開けるとカウンターに立つ子供が威勢良く歓迎の挨拶をする。十歳ほどの男の子だ。
奥に白衣の老人がいて、ずらりと並んだ木箱から薬草や薬剤を出し入れしていた。
「ドウゾ、ドウゾ! お兄ちゃん、どんなもんをお探しだい?」
薬など決められたものを適量買う以外に選択肢はないと思うのだが、この少年は魚屋のように高価な薬を次々紹介する。説明用の薬のアルバムには、しかしどれも「※オーブには無効です」と注釈が添えられていた。
「悪いけど欲しいやつは決まってるんだ。〈
「なんだい。兄ちゃんが使うんじゃないんだね。了解っ!」
少年が注文用紙に薬品名を書き付ける。
背後で扉が軋み、閉まる音がした。
「〈
赤髪を後ろで束ねた、背の高い女。運び屋仲間のアユタだった。左手首に白い腕輪を付けている。
「同じだろ。グ・ヤ・ク。この子もそう言ってたじゃないか」
「これだからヨソモンは、わかっちゃいねぇんだからな。おい、あたしは愚薬をプラス8、十本だ」
「プラス8だって?」
求薬はプラス・マイナスの値でその濃度を指定する。マイナス5が最低の値で手軽な精神安定剤として使われ、プラス5までが症状によって通常使用される。
プラス6以上は、オーブの濁り具合とは関係のない別の用途があった。
「なんだよ、わりぃかよ。ちょっとした気分転換さ」
アユタは常連なのだろう、用意されていた紙袋が少年によってすぐに手渡された。
彼女はその場で袋を開け、束になったスポイトから一本を抜き取る。斜めがけした鞄からオーブを取り出すと、ぎっしりとつまった鱗と鱗の間を指で押し広げ、スポイトから一滴の愚薬を落とした。
ソイユのオーブに比べると、半分の大きさだ。
薬に触れた瞬間から鱗の中のオーブが橙から赤へ、また橙へと色相を行き来する。鱗もわずかに上下に動いており、それはまるで心臓が拍動しているようだった。
アユタの肉体は白目を剥き、頭を後ろに傾け倒れる寸前の姿勢でかろうじて静止している。
「あんま使いすぎは良くないよ、姉ちゃん」
少年が心配そうに言った。
ルカが会計を済ませている間に、アユタの目には黒さが戻っていた。オーブも鱗を下ろし静かにしている。
「何言ってんだい。そこの研究所で実験済みだろ? ヤバいやつなら売ってねぇっての。ほら、見ろよこのオーブの美しさを! たまんねぇな」
求薬はオーブに作用するリトリテ専用の薬品で、プラス6以上は嗜好品として近年急激に評価を高めていた。それを使用したときの肉体の反応を揶揄して——あるいは使用者たちも面白がって——愚薬とも呼ばれている。
効用は多幸感と、一時的な身体能力の向上。プラス8ともなれば痛覚も遮断されるため、拳闘では薬自体がドーピングとして禁止されている一方、
「俺も同意するね。さっきの白目剥いた顔、見れたもんじゃないよ」
「じゃあ見んなよ!」
「はいはい。次からは気をつけるさ」
アユタが片手に載せたオーブを鞄に戻す。
「オーブも見んな! こいつはデリケートなんだ」
アユタが恥ずかしそうに鞄の蓋を閉じる。
——オーブの大きさはどのようにして決まるのだろう。
「なんだよ。何か言いたいことがありそうだな」
アユタの表情はまだ
「なぁ——オーブは成長するのか?」
「けっ。あたしのがちっせぇって言いたいのかい」
「いや、そういうつもりで聞いたんじゃないんだ。悪い。ただの興味本位だよ」
「初々しいねぇ、ヨソモンは」
アユタは胸の前で腕を組み、やれやれ、といったふうに話し始めた。
「——大きさが変わるのかって意味で聞いてんなら、その通りだ。ただし、肉体より成長期はずっと短い。個人差はあるが生まれて五年くらいすりゃ止まる。生まれたときのオーブの大きさはみんなほとんど一緒だ。どうして差が出るのかはわかってねぇ。肉体がどれだけ肉を食おうが、オーブが太るわけじゃねぇからな」
言ってアユタは鞄越しに自分のオーブを撫でた。
「肉を山ほど食ったとして、肉体はどうなるんだい?」
「それが太るんだな、残念ながら」
「明らかに肉体に不利益な傷は治すけど、脂肪は肉体のエネルギー源として貯蓄する必要があると判断してるわけだ」
「そこは普通の人間と同じってことさ」
「オーブの大きさで、肉体への影響力が変わったりするのかな?」
これは少しデリケートな話題だったかもしれない、と聞いてからルカは後悔した。しかしアユタはさほど気にする様子もなく、
「オーブは小さいほど濁りやすいって言われてる。濁りは肉体の活動にも影響しちまって、
それでソイユも、できるだけ早く濁りを解消しようと思っているのか。
「そんじゃ、暇だし。輝かしいヨソモンにもう一つ教えてやろう。こいつの名前知ってるか?」
アユタがオーブの入った鞄を軽く。ルカがその発言を咀嚼していると、
「アユタレリウ」
と本人が言った。
「君の名前だ」
「そう。あたしらは肉体に名前をつけるんじゃない、オーブにつけるんだ。そして肉体はその名を借り受ける」
アユタが薬屋の中をゆっくりと歩き回る。
「あんた、ナバルに何か言ったのか? 今日の荷物がやけに多いんだよ」
「俺が? まさか、何も。多い分には良いじゃないか」
「もちろんそうだけどよ。気持ち悪いだろ、いきなりそういうのは」
ルカがくすりと笑う。
「そうだね。俺が急に休みを取ったからじゃないかな。キッツに任せたって、全然
「そうなのか? つうかあんた、休み取ってリトリテの薬買うってどういう状況だよ。その買い物袋の中身も、どう考えても一人分じゃねぇし」
外でソイユの話はしないほうが良いだろう。
「ちょっとしたパーティだね。俺だってたまには息抜きしたいときもあるのさ」
「へぇ。あんたにもそういう明るい交友関係があるんだな。ま、楽しんで来なよ。あたしはこれからたっぷり働いて稼がなきゃなんねぇ」
去って行く際、彼女の瞳にようやく光が戻ってきたのを見てルカは安心した。
店内は急に静かになり、時が止まったようだった。他に客も来ていない。
老人が奥から退屈そうに出てきたので、ルカは話しかけた。
「昨夜のこと、聞いてるかい」
「ああ。奇妙な生き物が暴れたとか、幻だとかの」
「幻? 住宅街にはいくつか痕跡が残っていたらしいけど」
「そうなのかい」
老人はあまり関心がないようだ。少年もよくわからないといった顔をしている。
「街のみんなは色々と噂してるけど、人通りは普段と全然変わってない。怖くないのかな」
老人は伸ばした白い髭をさする。
「得体の知れない巨大な蛇が人を襲う。そんなことがこの街で起こった、という」
老人の言葉に、ルカは頷く。
「だが、それは儂らに起こったことではない。だから儂らは儂らの生活をする。それだけじゃよ」
老人は少年の頭をぽんと叩いた。
店を出てクフタ商会に戻る際に、ルカはあえて行きとは異なる道を選んだ。
彼がこれだけ無防備に歩き回っても、黒い蛇は現れない。
彼とソイユが繋がっていることは、相手にもよくわかっているはずだった。
誰かがつけている気配もなく。
あの、怪しい男も見つけられなかった。
*
昨夜、ソイユはオーブを抱いて眠った。
オーブを置いて顔を洗い、オーブを抱いて休憩室に戻った。
朝、運び屋たちが一斉にオルトラのエンジンを掛ける音。
散らばっていく人々への手紙。
シェードから漏れてくる細い光に、体がぶつ切りにされている。
——守られているんだ、いつも。
ソイユは思う。
母のお腹の中で守られて生まれた。
父の勤勉さに守られて育った。
ナバルおじさんの逞しさに守られて甘えた。
ルカや、クフタ商会に所属するたくさんの人たちに守られている。
自分で自分を守る方法はないのかな。
彼女は早くシェードを上げて、部屋を出て行きたかった。
放っておいても、彼女の巾着袋にはお金が入ってくる。
そのことがとても惨めに思えることが、彼女にはあった。
*
ルカが戻ると、ソイユは事務室にいた。オーブの鱗を布で拭っている。
夜通し警備をしていたキッツは眠っており、代わりの運び屋が一人、落ち着きなく腰の銃に触れていた。
「何をしてるんだい?」
買い物袋を置きソイユに尋ねる。
「汚れを取ってるの。オーブには自浄能力があるんだけど、鱗は外から取れにくい汚れをもらっちゃうことがあるから」
「まるごと洗えないのかい?」
「洗剤だと痛むし、中が染みるの……それが気持ちいいって子もいるけど、私は苦手で」
ナバルは調査だと行って出たきりだという。
ルカは買ってきた食料を冷蔵庫に詰め込んだ。
求薬をすぐソイユに渡すべきだったが、気が進まず隅のテーブルに置いておいた。
「ルカ、これみて」
オーブの掃除を終えたソイユが新聞を広げた。「終末の蛇 現る! 知られざる夜の支配者」という見出しの下に、ルカたちが見たものとは似ても似つかない翼の生えた大蛇の絵が描かれている。
「『空飛ぶ大蛇、預言書と一致』だって——預言書ってのは、このコグレダ紙を発行している団体が大昔に発刊した本のことなの。こうやってよく自分たちの本の宣伝をしながら、噂に尾ひれをつけちゃうんだよね」
「この新聞のせいでみんな危機感がないのか」
「それもあるかも。他にもオルトラ商会長の不倫記事とか、イリ研究所の地下では非道な人体実験が繰り返されているとか、廃棄物プラントに集められた食品廃棄物が再加工されて店頭に並んでるのがビッグ・ハムだとか」
「どの街にもそういう新聞はある」
ソイユは頷く。だが内心は、昨夜の蛇がこの新聞の絵のようにコミカルであったり、嘘だったりすれば良いと思っていた。
「買い物ついでに街を見て回った。俺をつけてるやつはいないし、襲われもしなかった。もちろん黒い蛇も見てない。理由はわからないけど、前からあった噂のことと合わせると、相手は夜にしか動かないのかもしれない」
ルカは彼女の隣に座る。
「現場は調査隊が調べてくれてるらしいからその報告を待つとして。昨日俺と会う前の状況が知りたいんだ。教えてくれるか? あの蛇が出てくる前、そうだな、夕方頃からで良い。関係なさそうな話でも何かに繋がっているかもしれない」
ソイユが切りそろえた前髪に触れる。
「昨日は学校のあと、母さんの墓参りに行ったの。北東の、リトリテの墓地。友達のお母さんがやってる店で花束を作った。いつもは日が暮れる前には墓地を出るんだけど、墓守のクエンさんと小屋でお話をして帰ったから、牛乳を買って家に着いたときはもう真っ暗だった。家では晩ご飯を食べただけで、他に変わったことはしてないよ。
窓を開けていたの。
夜の風は気持ちいいから、いつもそうしていて。
でも、ふと窓のほうを見たときにカーテンが不自然な膨らみ方をしていることに気づいたんだ。風を孕んだんじゃない、棒が当たっているような。何だろうと思って見てたら、風がカーテンをまくり上げて、中からあの蛇がにょきって伸びてきたの」
ソイユがぎゅっとオーブを抱いた。
「夜の闇に溶け込むような黒さで——ルカと逃げているときに見たのと同じだけど——そう、頭? っていうのかな。先端のほうから何かが生えてきていたわ——あれは——そう、舌じゃなくて手だった」
「手?」
「うん。手が、私に向かって伸びてきたの。そのときは怖くて、慌ててリュックをつかんで逃げたから考える余裕もなかったんだけど」
「それは、俺たちが持ってる人間の、この手の形か?」
「うん。猫でも猿でもなかった。人間の、小さな手」
「その手も頭と同じ質感だった?」
「そうだと思う」
ルカは黙り込み、次を促す。
「部屋を飛び出してからは逃げるだけで、すぐにルカが助けにきてくれた。それくらい、かな」
「わかった。これまで同じようなものに襲われたことはなかったんだな? 見たこともない?」
「もちろん、全然」
「これまで他に身に危険が迫ったことは?」
「そうだね……ううん、私には、特に何も……」
しばらく沈黙があった。
私には、何も……
できるだけ考えたくないことを、考えさせてしまったようだ。
「ごめん」
ルカは立ち上がり、事務室の中を歩きながら昨夜の出来事を頭の中で整理する。追いかけられている間には、人間の手のようなものが蛇から出てくることはなかった。腹から生えてくる新しい頭も、もしかすると手のような役割を持っているのかもしれないが、明らかに別物だ。
黒い、人間の、手?
小さな……ざらつきのある体。
「湖の少女像。あれはどうだい、似てるかな?」
ぴんときてルカが尋ねる。
「湖——エルダ湖のこと?」
「ああ、西側にある大きな湖だ。湖上にぽつんと置かれている、女の子の像だよ」
「エルダ湖にそんなのないよ」
何だって?
「いや、あるじゃないか。幼い少女の形をしていて、俯いている。遠いから表情まではわからなかったけど、何か、祈りの仕草みたいにも見えた」
ソイユはかぶりを振る。ルカは建物に残っている運び屋や事務員にも聞いて回ったが、誰もそんなものは見たことがないし、ありえないという。
「だって、漁の邪魔になるじゃないか」
そういう答えだった。
ルカは記憶を手繰ってみた。あの少女像が見間違いや幻だったとは到底思えない。
「確認してくる」
ルカが事務室を出ようとすると、ソイユが上着の裾を引っ張った。
「湖に行くの? 私も連れて行って」
「駄目だ。まだ昼間なら安全と決まったわけじゃない。ここにいるべきだ」
「でも、もし湖にルカの言う少女像があったとしても、それが私の見た手とまったく同じだってわかるの? ルカはあれを直接見てないでしょ。私の目が必要じゃない?」
「それはそうだけど」
「閉じこもってばかりで、守られるだけじゃ嫌なの。少しは協力したい」
ソイユは彼の瞳から目を離さなかった。
「——わかった。行こう」
午後の日差しを受け、エルダ湖は眩しいほどに煌めいていた。クワッカ漁を終えた船が桟橋に並んでおり、仕事を終えた漁師たちはのんびりと湖岸でひなたぼっこをしている。対岸には米粒のように小さな家がぽつぽつと建っていた。趣味の釣り人たちが共同で借りている別荘だ。
湖に視界を遮るものはなにもない。
にもかかわらず、黒い少女像は存在しなかった。
「ほら、やっぱりないでしょ?」
ルカは頷く。
「確かにあの辺りにあったはずなんだけど」
彼が指差す方にソイユは目を細める。何かあるとすれば、それは空気と呼べるものだ。
「少し湖の周りを走ってみよう」
ルカはゆっくりとオルトラを走らせる。
後部座席に座るソイユが、二つの湖について話した。
「街には大きな湖が二つあるの。西側にあるこの湖がエルダ湖で、〈恵みの泉〉とも言われてるんだ。私たちがよく食べる魚、クワッカが棲んでいるのはここだけ。その北には〈明るい森〉が広がってる。そこに流れている川も含めて、一帯が動植物の豊かな生息地になってるの。
そして東側——リトリテの墓地のさらに東にあるのがアルダ湖。アルダ湖は深い森に囲まれてるし、エルダ湖よりずっと小さいから外からじゃ見えないの。その辺りは森も含めて〈嘆きの泉〉と言われて、立ち入り禁止区域になってる」
「立ち入り禁止?」
「うん。アルダ湖の底には特殊な鉱石が埋まっていて、それが水に溶け出しているらしいの。その鉱石は人間や、特定の動植物には有毒なんだ。昔から毒をばらまいてたんじゃないみたいだけど、イスラの木も
「クワッカもそっちにはいないのか?」
「たぶんね。でも、立ち入り禁止で誰も見に行かないから、ほんとはいるかも。クワッカって体が強いし」
少女像があったすぐ近くまで来たが、その痕跡もない。風にわずかに揺られている湖を覗くと、クワッカが群れを為して泳いでいた。
背後にあるイスラの木が風にそよぐ。
初めて見る小鳥が三羽、森から飛び立つ。
「すぐそこが明るい森だよ。少し寄って行かない? 案内したいな」
ソイユの言葉に彼は頷いた。
森は散策できるように整備されていないため、オルトラを置いて二人は徒歩で中に入った。
イスラの木は太いもので直径三メートルにもなる。縦にも長く伸び葉量も多いため、イスラが生い茂る明るい森は、その名に反して昼でも日光があまり入ってこない。
漁師や猟師が通って出来た自然の道を辿り、二人は奥へ進んだ。
「この森には
「道を外れないようにしないとな」
「うん。穴牙は人とか動物を食べないから、嵌まったからどうなるってこともないんだけど。なんかムカってなるでしょ?」
ソイユが笑った後、狙ったかのように鹿が通りかかり穴牙の群れに足を取られた。すぐに跳び上がって脱出すると、ソイユを一瞥してぷいとそっぽを向き、森の奥深くへ駆けていく。
まとまってイスラの樹皮がめくられているところがある。ソイユによると、街灯用の樹液を取る場所は決められているらしい。ルカは道のそばにある木の樹液を吸ってみた。人間にはとても苦く飲めたものではなかった。
「もうすぐだよ」
ソイユが言ってすぐ、木々の合間からぼんやりとした灯りが見え始めた。それはどんどんはっきりとした点に変わる。
澄み切った川のほとりで、数え切れないほどの発光虫が飛び回っていた。
「発光虫は毎晩、ここから街にやってくるの。この子たちもちょっとした旅をしているんだよ」
「明るい森——こういうことなんだな」
発光虫の優しい橙の灯りは、どれだけ集まっても決して目に痛くない。雄と雌がペアになって飛ぶというそのダンスが、交差し合って未知の楽譜を記しているように——頭の中を心地よくさせる。
「私、街でここが一番好きなの。危ないから一人で行くなって、ナバルおじさんには言われてるんだけど——今日は、ルカが一緒だから良いよね」
ソイユがおもむろに靴を脱ぎ、川に入る。足下を
彼女が両手を開くと、驚いたことに周りに発光虫が集まってくる。
「見て! イスラの樹液を手に塗っておいたの」
川でソイユがくるりと体を回すと、それに合わせて発光虫たちが軌道を変え、新しいダンスの型を生み出す。
「すごいな。本当に綺麗だ……」
そのときルカとぴったり目が合い、ソイユは少し照れた顔をした。
「噛まれたりしないのか?」
「うん、でも、舐められてちょっとくすぐったいかな。発光虫はね、歯がないの。他の虫や動物が樹皮に穴を開けてくれるのを待つんだ」
ルカもブーツを脱ぎ、川に入った。水は冷たく、けれど優しく肌を撫でて流れる。
旅をするということは、新しい風景と出会うことでもある。
美しさに魅入ってしまったときにしか、洗われない心の一部分もある。
ルカとソイユは一度クフタ商会に戻った。森でついた汚れを落とすために、シャワーを浴びる。
少女像はなかった。誰かが移動したとしか考えられない。
だが、誰も少女像自体を見ていないというのはどういうことだろう。
何を目的として、あんなところに少女像が一時的に置かれたのか。
――いや。
置かれたんじゃなく、やってきたんだ
ソイユを襲った蛇のように、好きな場所に移動することができる像。
もし同じものだとすれば、形も自在に変えられると考えられる。
像——銅などの素材を元に作られる。あの黒い蛇は、特定の鉱物を自在に操っていたのかもしれない。それなら短刀で切りつけた時の感覚と一致する。器官がなくて当たり前だ。
オルトラに使うような加工技術が発展したこの街なら、そういうことが出来る装置もあり得るか。
——あったとすれば、誰かがすぐにそれと指摘しそうなものだ。
ルカはまたソイユと話すため事務室に向かった。しかし中から知らない女の声がして、足を止める。何とか先生が言うには云々、よく通る声だった。
「学校のお友達ね。心配して来てくれたみたい」
受付に立っているロズが教えてくれる。ルカは邪魔をしないよう自分の部屋に戻り、仮眠を取ることにした。
次に事務室を訪れたとき、彼女は一人でまたオーブを拭いていた。
「ソイユ。訊きたいんだけど、この街に特定の鉱石を自由に遠隔操作できるような装置はないかな?」
自分で言っておきながら、とんでもない話だと思う。
「誰かが黒い蛇を操ってる、てこと? ええと……そんなすっごい機械はないと思うよ」
「だよな……」
この街は内紛状態にあるわけではない。そんな兵器みたいなもの、どう考えても不要だ。
机の上はソイユの友達が食べ散らかしたお菓子で汚れている。ルカに見られてソイユが今まさにそうしようとしていたというふうに片付け始める。すっかり綺麗になった後で、彼女はあ……と口を開いた。
「黒くないんだけど、一つだけ、動く石っていうのはあるよ」
「本当かい? どういう石なのか、教えて欲しい」
「〈
ゆっくりと、時間をかけて化生石は死者の声を聞き、故人に最適な形に変わっていく。墓地は見たことあるんだよね? 形だけじゃなく色も変化するんだよ」
「あれは誰か職人が作っていたわけじゃないのか。色も変わるなら黒色になることも?」
「それは絶対にないの。ほとんどどんな色にもなり得るけど、黒にだけはならない。実際に墓地に行って見てみたらわかるよ。一つもないもの」
「その化生石ってやつは、俺たちが自由に動かすことは出来ないのか」
「無理だよ。化生石はね、この街で採れる鉱石の中で一番硬いんだ。簡単に曲げられるものじゃない。それに墓石だって一度変化して形ができあがったら、もう変わることがないもの。土に埋めてから七日くらいで形が変わり始めて、種が芽を出すように地上に伸びていく。二ヶ月から三ヶ月経つと形が決まって墓石が完成する。だから、あの蛇みたいに自由にぐにゃって動かし続けるのは不可能だよ」
一般的には、そういうふうに思われている。
でもそれが真実かどうかは、別の話だ。
あの墓守の老人なら、何かわかるだろうか。
*
—―十二年前。
イリ研究所の本塔に辞表を出した帰り道、ナバルは力なくベンチに腰掛けているエナクを見つけた。三号棟の巨大な影がその丸まった背中にのしかかっている。白衣はすっかりくたびれていた。
「気分転換なら日の当たるとこでやれよ。こんな場所じゃ余計気が滅入る」
「考え事をするには、太陽はまぶしすぎると思わないか」
エナクは俯いたままナバルを見ない。
「何日泊まり込んでるんだ。今日はソイユのとこに戻ってやらないか。あの子もさみしがってる。お前は自分の個人的な研究が、人を救うと言う。だがな、すぐそばにいる娘の幸せを、まずは考えてみるべきじゃねぇか」
「君に何がわかる。僕だってすぐそばにいる娘を救ってやりたいさ」
エナクが語気を強める。そして、少し間を置いて続けた。
「——
ナバルはエナクの肩を掴む。
「やめとけ。オーブの核の一部を切り取り、接続枝を人工的に作る——そんなことはできはしねぇ。核にメスをちょっとでも入れてみろ。死ぬぞ」
「ナバル。リトリテの肉体には脳がある。心臓もある。だが、どちらを破壊しても再生する。脳が失われ再生しても、記憶は保持されている。これはどういうことだろう? やはり肉体はオーブにより人間を模して作られた道具でしかないんだろうか。リトリテは、もはや、人間ではなく——あらゆる肉体は抜け殻に過ぎないんじゃないのか」
「人間かどうかなんて些細な問題だ。リトリテとそうじゃない俺たちは友達になれる」
「だが
エナクが顔を上げ、ナバルに落ちくぼんだ目を向ける。
「そう、それが生命なのかどうかは、確かに重要だ。だからお前には慎重に考えて欲しい。命あるものを幸せにする方法を。俺はここを去るけどよ、協力出来ることがあればいつでも言ってくれ。つまらねぇことでも良い、誰かに話したいことがあればいつでも言ってくれ。俺も、連絡する」
その後エナクとは何度も連絡を取り合ったが、ソイユに関するものばかりで、自分の研究については一切語ろうとしなかった。
あれから十二年。
——結局あいつは何でも一人でやろうとするんだ。
ナバルは昔のことを思い返しながら、ソイユが襲われたアパートを訪れていた。蛇は窓から室内に侵入し、階段を下りて表まで追ってきたという。だがアパート内には蛇の痕跡がほとんどない。話に聞いた通り表皮の硬い生き物であるなら、壁や床に擦れて損傷しているはずだ。だが、ソイユの部屋のドアに少しぶつけたような跡が残っているくらいだ。
器用にも障害物を避けてソイユを追ったのか。
「ナバルさん。こっちに来てください」
調査隊員に呼ばれ、アパートの裏手に回る。シャベルを持った男たちが地面に大穴を掘っていた。
「おいおいお前ら。墓を掘れと言った覚えはねぇぞ」
「違うんです。ここを見てください。地表から地下に向かって、黒い石が細く伸びています。まだ掘り始めたばかりですが、あまり深くは達していません。途中で方向転換し、北側へ向かっているようです」
地中で不自然に伸びている石の層。それはまさに光沢のない、黒い蛇と一致していた。
「他の場所はどうだ」
「はい。地中から突然飛び出してきたという場所にも、同様の痕跡がありました」
「なるほどな……解析は?」
「イリ研究所に依頼してますが、一週間はかかると……」
「何? 人の命がかかってんだぞ!」
「私はそう伝えているのですが……どうやらオルトラの最新モデルに使う混合石の配合に問題が生じたらしく、担当者の手が空いてないとか」
「ちくしょう! 相変わらず融通の利かねぇやつらだな」
ナバルはアパートに隣接する家の扉を叩く。昨夜ソイユを目撃したという老女の暮らしている、質素な家だ。
「何だいいきなり」
「悪いが電話を貸して欲しい」
そういうとナバルは返事も待たず中へ入っていく。荒っぽくダイヤルを回し、応答を待った。
「あー、どうも、僕ちょっと忙しいんで。後にしてよね」
眠そうな声が返ってくる。
「待てカムファ。俺だ。ナバルだ」
「おっと。珍しいね、君から電話なんて。はじめてかも」
「嬉しいだろ。早速だが頼みがある」
「こういうときは思い出話から入るとかさ、前フリ入れないと……要件だけのつまらない男の願いを誰が聞くのかな?」
相変わらず面倒臭い男だ、とナバルは思う。
「お前だよ、お前。要件以外のつまんねぇ話なら、今度そっちに言って嫌ってほど話してやる。とにかく急ぎたいんだ。ソイユに関係してる」
受話器の奥で一瞬、沈黙があった。
「ということは、エナクにもってことだね。聞こうか」
「お前んとこに黒い石の破片を持って行ってる。それがどういう石なのか調べてくれ。オルトラが云々とか言って、後回しにされてんだ。
その石は昨日の夜、ソイユを襲った奇妙な蛇の一部分だ。石の姿をした生き物なのか、もしくは石で作った化け物を誰かが操ってんのか。とにかくその石は、犯人に繋がるヒントなんだよ」
「へぇー。僕の予想した感じとは違うけど、興味深い話ではあるね。了解。所内を捜して、ささっと調べちゃうよ」
「助かる」
受話器を置くと、ナバルはまたアパートの裏に戻り掘削作業を手伝った。
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