4 夜が動く

 ひとり分の靴に、ひとり分の廊下。ひとり分の部屋に、ひとり分の衣装棚。ひとり分の音楽ディスクに、ひとり分の洗面台。ひとり分の手を洗う水の音。

 ひとりの、女の子の高さの目線。

 ひとりの、女の子よりも高い天井。

 ひとり分の冷蔵庫に、ひとり分のテーブル。ひとり分の皿とコップ。

 ひとり分の、隙間を開けた窓。

 ひとり分を、包み込んでくれそうなカーテン。

 ——ひとり分の空っぽになった皿。

 正面に父のいない夕食を終え、ソイユは静かに食後の礼をした。

 オーブの血肉となるものには常に敬意を。

 父は、「オーブ」を必ず「私たち」に言い換えていた。

 私たちの血肉となるものには常に敬意を。

 ソイユは台所で食器を洗う。高等部に入学する直前、父と暮らした家を引き払ってこの小さなアパートに引っ越してきた。ひとり分の狭さが、さみしさを和らげてくれるような気がして。

 でも、そんなことはなかった。

 血肉とは肉体だ。オーブがこの体を作り上げるために、リトリテは食事をするのだろうか。切られても、貫かれても、瞬く間に癒やして元の形に整えるために。

 オルトラの開発が進められていた頃、試作車が爆発して乗っていたリトリテの肉片が跡形もなく飛び散ったという。飛散した肉と骨は回収され、街の中央にある研究所で保管された。そして三ヶ月後、オーブは事故直前とまったく同じ姿の肉体を再生させた。

 似たような事例はいくつも記録に残っている。

 食器を洗う手。油が落ちてつるつるになったことを確かめる指先。台所を出て、テーブルに戻る素足。

 この体は確かに私が動かしている。オーブが動かしている。

 落珠らくじゅは糸のない人形だ。

 ソイユはそばに置いてあるリュックを抱きしめた。

 中に入っているオーブの鼓動を感じる。

 体の芯が温まり、ゆっくりと末端へぬくもりは流れていく。

 オーブは私自身であり、時に母のようになる。

「私にオーブがあって、よかった……」

 ソイユはオーブとともに生まれてきたことに感謝する。

 ひとり分のカーテンが膨らむ。

 ひとり分以上の膨らみ。

 突然部屋の灯りが消えた。

 そしてカーテンをめくって漆黒の蛇が顔を出し、ソイユに奇怪な舌を伸ばす。

 彼女はリュックを抱いたまま、叫び声を上げて部屋を飛び出した。


   *


 ルカはオルトラに乗って夜の街を探索していた。酒が存在しないからだろうか、暗くなると家の中で過ごす人が多い。発光虫の放つ優しい灯りにより浮かび上がる夜の風景には、人影がわずかしかなく、昼間と同じ街中だとは思えなかった。

 商店街もオルトラに乗ったまま悠々と走ることが出来る。

 閉店した八百屋の庇の上で、義足の猫が横になっている。広場では若い曲芸師が綱渡りの練習をしていた。地上から師匠らしき人物がその様子を眺めている。

 オルトラのバランスがとれるぎりぎりの速度まで落とし、ルカは今日ナバルが言っていたことを考えていた。

「アユタのことは、俺が口出しすることじゃねぇってのはわかってる。時間も体力もありあまってて、稼ぎたいって言うんだから、働かせてやればいい。いくらでも荷物を持ってけばいいんだ。

 これは俺の個人的な拘りだ。リトリテは、拳闘場で普通の人間よりも遙かにひどい痛みを負っている。この街自慢の鉱石群を採掘し、運ぶ重労働もほとんどがリトリテの仕事だ。あいつらは好んでその仕事を選んだのかもしれない。でも、そういう偏りは俺には気味がわりぃんだ」

 ナバルは苦笑した。

 絵がうまいからといって、誰もが絵描きになりたいと願うわけではない。

 リトリテだからといって肉体労働を選んでいるのではない。

 クフタ商会の顔役として、所属する運び屋への荷物の配分を強制的に決める権利がナバルにはある。そこまでしないのは、アユタが自分の選択によって運び屋になり、自ら働き方を決めているとわかっているからだ。

 ナバルとしては、結局のところそれを尊重するしかないのだろう。

 住宅街に入ると何軒かの家の窓が影絵になっていて、一家団欒いっかだんらんの時を過ごしているのがわかる。大人数でテーブルを囲み、食事を取る。子供が親の元で学び、巣立っていく。そのような経験のないルカには、無条件に微笑ましい光景だった。

 平和の空気だ。

 蛇は、やはり噂に過ぎないのか。

 住宅街を一通りまわり、街の中心部に繋がる道に入ったとき、急に辺りが暗くなったことに気づいた。顔をやや上げると、視界に入る範囲の街灯に発光虫はっこうちゅうが集まっていない。不審に思ってオルトラを停めた。

 男が一人、空き家の壁に背をもたせかけ、ルカと同じように街灯を見ている。

 ルカが声をかけると男は驚き、空き家の裏に消えた。

「何なんだ……」

 昼の間にイスラの樹液を塗り忘れたのだろうか。

 夜が、動く。

 街灯のないところに現れる、蛇。

 その時、すぐそばで悲鳴が聞こえた。

 ——三階建てのアパートだ。

 腰の短刀を抜き、正面玄関の扉を開ける。共用部分も発光虫による照明を使っているようだが、今は一匹も留まっていない。暗闇の中をまっすぐ進み、階段に差し掛かる。

「助けて!」

 上階から胸に大きなリュックを抱いた少女が下りてくる。

「表のオルトラを使え! エンジンはかかってる!」

 少女の背後から伸びてくる奇妙な物体を見て、ルカは目を剥いた。

 ——なんだ、あれは。

 それは夜とほぼ同化するような深い黒色をしていた。体つきは確かに蛇のようだが、翼もないのに宙に浮いたままするすると移動している。目も口も手足も見られない。

 ——これは生き物なのか?

 ルカは階段を駆け上り、接近してくる謎の物体の頭を避けた。そしてその横っ腹に刃を差し込もうとする。

 金属同士が弾き合う硬い音がした。衝撃でルカは短刀を落とす。すると蛇の腹から別の蛇の頭が伸びてきて、短刀を軽々と砕いた。

「嘘……だろ」

 二頭になった蛇の動きが一瞬止まる。標的をルカに定めたようだ。

 狭い階段をうまく転がり下り、宙に浮く蛇の下を抜ける。三つめの頭が横っ腹から生えてきて、ルカの右肩を叩く。完全に金属の硬さだ。

 痛みに構わず外に出ると、オルトラは無人のまま表に駐車している。少し先に走る少女の後ろ姿が見えた。

 黒い蛇も同じく少女を見つけたのか、どちらを追うべきか逡巡する仕草を見せる。

 ルカはその隙にオルトラに乗り、アクセルを目一杯踏む。少女を抜き去る際に左腕で体を掴み、持ち上げた。

「後ろに乗って掴まってくれ」

 ハンドルを右に切って細い路地に入る。負傷した肩が痛んだ。速度を落とさず石造りの階段を下り、住宅街の奥深くに入っていく。

 ——このまま行っても袋小路だ。

 振り向くが追ってきている気配はない。ルカは思い切って大通りに出て、市街地への最短ルートに入った。

 そのとき、視界の端にさっきアパートの前にいた男の姿が映った。

 だが今はそれどころではない。

「私、運転できなくて……」

 背後から少女の申し訳なさそうな声がする。

「気にしなくていい。むしろ置いていかれたら俺が殺されてたかもしれない。助かったよ」

「怪我してる。リトリテじゃないよね? 早く治療しないと」

「問題ないさ。リトリテと同じくらいには頑丈に出来てる。それよりあれは?」

「わからないの。急に私の部屋に入ってきて、襲ってきた」

「はじめてか。あれが噂の蛇だね。何が〈夜が動く〉だ、どう見てもただの化け物じゃないか……ん?」

 最高速度で酷使している車体の振動とは異なる、奇妙な揺れをルカは感じた。

 そしてその直後、地面からあの黒い蛇が飛び出してきた。

 しかも、さっきの個体よりずっと体が大きい。

 体を思い切り左に倒してぎりぎりのところで避ける。地上から夜空に向けて勢いよく伸びていく物体を、飛び去っていく発光虫が照らす。

 表面はややざらついている。

 外部から見える器官はないようだ。

 どうにか体勢を立て直したところで、後ろからあたふたとする声が聞こえる。

 少女のリュックからオーブが飛び出していた。オーブは太い縄でリュックの中にあるループにしっかりと結びついている。中空にぽんと投げ出されたオーブの縄を少女が手繰り寄せ、それが地面に打ち付けられる前に両手でしっかりと掴んだ。

 蛇が三つの頭を生やしてルカたちに襲いかかる。

 そのうちの一頭が後輪にぶつかる直前、オルトラはまた市街の路地に滑り込んだ。

 先ほどと同じく路地に入ると蛇は追ってこない。ルカはやや速度を落とし、複雑な裏路地を細かく曲がりながらクフタ商会にたどり着いた。


 クフタ商会にリトリテの少女——ソイユを預け、ルカは周囲の様子を確認しに出かけた。しかし怪しい男も、謎の黒い追っ手もいなかった。

 フード付きのロングコートに、暗闇の中で光る緑色の瞳。

 男とあの蛇は、関係がありそうだ。

 来た道を遡って捜すことも出来るが、ソイユと離れすぎるのは得策ではない。今のところは守りに徹するべきだろう。

 ルカがクフタ商会に戻ったとき、ソイユは奥にある事務室のソファでお茶を飲んでいた。やや落ち着いた様子でナバルと話している。

「どうだ。見つかったか」

 ナバルはさっきまで眠っており、まだパジャマ姿のままだ。体型にそぐわないサイズで、ボタンが一つ外れている。

「駄目だったよ。けど、近くにいないってのは良いことでもある。安全という意味だからね」

「どっかに隠れて隙を狙ってんじゃねぇか」

 ルカからの電話でソイユが襲われたと聞き、ナバルは隣の家から即座に駆けつけた。必死の形相でルカの肩を揺らし、事情を話せとわめき立てる。それから時間が経って今は、狼狽することに疲れたのか言葉に力がない。

「そうだとしても、相手の出方がわからない以上逃げようもない。この建物は頑丈だし、入るところも見られていないはず。とすれば、今はここにいるのが妥当だと思う。オルトラだって、似たようなのが表にずらっと並んでるしね」

 ルカはソイユの隣に腰掛ける。

「落ち着いたみたいだね」

 ソイユはオーブを膝の上に置いている。鱗がわずかに動いているのがわかった。

「うん。肩は大丈夫?」

「平気だよ。この程度ならよくある」

 ルカの右肩には大きな痣が出来ていた。浅い擦り傷もいくつか見られる。

「強がんなよ、新人」

 ナバルが救急箱を開き、薬草のクリームを数種類混ぜ合わせる。濡れタオルでしっかりとルカの右肩を拭き取り、作ったばかりの薬を塗り込む。

「手際がいいね」

「俺は元々、薬草の研究をしてた。専門なんだよ」

「リトリテの体に効く薬も開発してたんだよね」

 ソイユの言葉に、ナバルが一瞬苦い顔をしたのをルカは見逃さなかった。

 薬がしっかり定着するように包帯を巻く。処置が終わると肩が驚くほど軽く動くようになった。痛みも抑えられている。

「最近は調合済みのチューブばかり売ってるが、薬は出来たてに限るんだ。簡単な薬の作り方くらい、学校の小等部で教えるべきだと思うんだがな」

 ナバルは言うと、真剣な面持ちに変わった。

「——黒い蛇のことは、お前が出てる間にソイユから特徴を詳しく聞いた。自治会の代表に電話して調査隊を組織するよう頼んである。この時間だから明日になるが」

「仕方ないね。今夜はもう寝たほうが良い。俺が警戒しておくよ」

「馬鹿か、お前も逃避行で疲れてんだろうが。怪我もある。ボディガードはもっと元気で暇なやつに任せとけ」

 ナバルがどこかに電話をかけて怒鳴り散らす。五分も経たないうちに、裏口からキッツが飛び込んできた。

「あ、ルカさんもいたんすね! こりゃ心強いや」

 キッツは手に警棒を持っていた。

「ソイユを守るのはお前の仕事だ。従業員用の休憩室を掃除しとけ。一階の、女用の方だ。ルカは一緒に俺の家に来て、布団を運ぶのを手伝ってくれ」

「ちょっとナバルさん、人使いが雑過ぎないっすか?」

 キッツは文句を言いながらも、渋々休憩室へ向かう。

 ルカはナバルの後を追った。

「ソイユが襲われることがわかってたのか?」

 裏口を出るとナバルが言う。右肩に塗った薬の匂いが、鼻をつんと差した。

「全然。ただ街で奇妙な噂を聞いてね。暇なことだし、夜道をぶらぶらしながら探ってみてただけさ」

「ゴシップ好きなのか? それとも、他に理由があんのか」

「そんな、犯人を見るような目はやめてくださいよ」

 ルカはおどけたふうに言う。

「わりぃな。お前を疑ってるわけじゃねぇんだ。むしろソイユを助けてくれて感謝してる。ありがとな」

「二人はどういう関係?」

「古い友人の娘なんだよ。両親が亡くなっちまって、俺が面倒見てる。つっても遺産を毎月小遣いにして渡してるくらいで、あいつは何でも一人でやっちまうんだがな」

 以前話に聞いた女の子か。

 夜は深く、ナバルの表情は読み取れない。

「両親は事故で?」

「どっちも病気だよ。母親はあいつを産んですぐ、父親はたった二年前だ」

「そうか……まだ辛い時期に、こんな目に」

「ああ。運命ってやつがもしあるんなら、ひどい不平等だ。ぶん殴ってやりてぇ」

 ナバルの家は小さな一軒家で、外壁はくすんだ青の石で統一されている。中は彼の趣味なのか、装飾の凝った暖炉が目立つもののそれ以外は質素な作りだった。

「お前も手際が良いっつぅか……慣れてる。俺んことに電話してきたときだがな、あんまり冷静に話すもんだからソイユが襲われたとかなんとか、全然頭に入ってこなかったくらいだ」

 昔、メトロノームみたいだ、と言われたことをルカは思い出した。

 怖いこと、悲しいことも、メトロノームみたいに淡々と語れるのね。

「ここみたいな平和な場所は、世界的にみればとても少ない。危険な目に遭うのは、そうだね。慣れてるよ」

「噂を探ってたのは、旅人の勘か? ヤバいことが起きるっていう」

 ナバルが床板を外し、地下倉庫から予備の布団を取り出す。

 夜にはすべての店が閉まり、家で家族と過ごすのが普通の街だ。

 ちょっと前に来た旅人が怪しい噂を追って夜道を歩き回ると、怪しい男がいて、蛇の化け物が少女を襲っている。

 事件に関係してるんじゃないかと疑われても仕方がないだろう。

 どこまで話すべきか、ルカは考える。

「ヤバいことが起きる前にどうにかするのが俺たちの仕事だ。だから、一人で外を巡回してた」

「俺たち?」

 ルカはナバルから圧縮された布団を受け取り、両手で抱える。

「ヤドリって、聞いたことあるかな」

「知らねぇな」

風域ふういきによって指名され、その手足として働く人間のことだ」

「風域って、あの風域か? 墓地の北にある」

「そう。この街じゃ気にもとめられないみたいだけど、あれは街の守護者なんだ。世界中の街や国に存在してる。そして彼らは未来を視ることが出来る」

 床板をはめ直すと、ナバルは椅子に腰掛けた。ルカも布団を置き、その塊に体を預ける。

「なんだかでっけぇ話になってきやがったな」

「俺は、風域に頼まれてこの街にやってきた。風域が俺を呼んだってことは、この街で将来、何かとても悪いことが起こるのは間違いない。人が死んだりするようなことがね」

 ルカはそこで一呼吸置く。

「だから俺は、不幸が起こるきっかけになりそうな情報を集めて、真相を探る必要があった。怪しい噂の裏を取ろうとしていたのは、それが理由だよ」

「はいそうですかと簡単に言える内容でもねぇ」

「信じてもらわなくても良いんだ。そういうのはこっちの事情で、ナバルには関係ない話だとも言える。結果としてソイユは助かった。そしてこれから犯人を捕まえる。みんなが幸せな結末がやってくる。大事なのはそこだ」

「そう言われちまうと、何かむずむずするぜ。お前、風域の手足だって言ったな。それはリトリテにとっての肉体とオーブの関係と、似たようなもんなのか?」

「——どういう意味で言ってるんだい?」

「そのまんまの意味だ」

「ヤドリは元々は普通の人間だ。オーブみたいなものは持ってないし、風域とは何の関係もない人間。そして例えヤドリになったとしても人格は変わらず肉体に変化があるわけでもない。俺たちの体は独立した人間として存在し続け、心臓を撃ち抜かれたら、死ぬよ」

「なんだ、そしたら風域ってのはお前らにとっちゃ上司みたいなもんなのか」

「そうだね。ナバルと運び屋の関係と同じだ」

 ナバルは少し考える仕草をした。

「……その、街の守護者だっつぅ偉そうな上司の言う不幸は、ソイユが襲われるってことなのか?」

「風域は特定の人物を守るために俺たちを派遣するわけじゃない。具体的に俺たちも教えてもらえるわけじゃないんだけど——経験上、あの黒い蛇の正体を暴くってのがまず俺のやるべきことかな。そうしないと、将来的にもっと多くの人に被害が及ぶ」

 例えば、蛇が、街中の人間を食い尽くすとか。

 そういう残酷な、しかし起こりうる未来を語ることを避け、ルカは抽象的な説明に止めておいた。

「ソイユを守ったのは、上司に頼まれた仕事のついでってわけだ」

 ナバルの言い方には棘があった。

 ―—そう。

 大きな目的の前には、いつも、過程がないがしろにされる。

 例えその途上で倒れている人を救ったとしても。

 ゴールにたどり着くための手段に過ぎないと考えられてしまうのだ。

「だとしたら、俺は、リトリテと似ているのかな……」

 ルカは再び布団を抱え、ナバルと共にクフタ商会に戻る。

「似てねぇ。まったく似てねぇよ」

 ナバルは静かにそう答えた。


 ナバルが家に帰ってからも、ルカはしばらく事務室に残っていた。ス・ピートの缶を飲み干して部屋を出る前、ナバルの机の上の写真立てが目に入った。三人の男女が花屋の前で並んで写っている。エプロンを着けた女性が店員で、これがソイユの母親なのだろう。良く似ている。その左手に白衣を着たナバル、右手に同じく白衣を着た男がいる。ナバルは体格はそのままに髪を伸ばし、ひげを剃っている。今より十歳は若い。もう一人の男はかなり痩せ型だが瞳には強い力があり、むしろナバルより気丈な雰囲気を醸し出していた。古い友人——ソイユの父親は同僚の研究者だったということか。

 中央の母親のお腹はやや膨らんでいる。ソイユをはらんでいるのだ。

 ルカは写真立てをそっと元の場所に戻した。

 自分の部屋に戻る前に、ソイユの様子を見ておこう。

 休憩室の前ではキッツがうつらうつらしている。

「懲罰小屋はどうだった?」

 声をかけられ、キッツの体がびくんと上下に跳ねた。

「あ、ルカさん……いやーひどいもんでしたよ。これくらいの、みかん箱くらいの幅しかない牢屋なんです。座れるだけの空間もないのに正座しろとか言われるし、もうむちゃくちゃっす」

「今の居眠りを告発したら、またそこにお世話になるかもな」

「ちょっ! 待ってくださいルカさん! お願いだからそれだけは!」

 キッツがすがるように服をつかむ。

 旅人という響きが格好良いと思ったのか、キッツは初対面の時からルカのことを慕っていた。

「冗談だよ。ソイユは?」

蝋燭ろうそくが点いてるんで、まだ起きてると思うっす」

 ルカがノックをすると、寝間着になったソイユが出迎えた。

「今いいかい?」

 休憩室の窓には木製のシェードが下ろされている。机と椅子が部屋の隅に積み上げられており、廊下側の壁に沿って布団が引かれていた。

「眠れない?」

「ううん。ちょっと考え事してて……ルカ、ありがとう。助けてくれて」

 蝋燭の弱い光が、ソイユの顔を弱々しく浮かび上がらせる。

 彼女は布団の上にすっと座った。

「感謝されるほどのことじゃないさ。助けたって言うよりも、ほうほうの体で逃げ出したって感じだしね」

「ルカがいなかったら私、きっとあれに殺されてたわ」

 ルカは椅子の山からスツールを一つ取り、窓のそばに置いて腰掛ける。

「俺がオルトラに乗って君を掴んだとき、燭台を持った住民が二人、外に出てきていた。悲鳴を聞いたんだろう。そのうち一人は君を見つけてもう駆け出していたよ。俺が連れ去ったと勘違いされてなければいいんだけど」

 ルカが小さく笑う。

「この街の住民はみんな温かいよ。旅をしてきて、たくさんの街を見てきた俺が言うんだから間違いない。俺がいなくても、きっと君は助けられてた。むしろ俺のぶっ飛んだ運転に付き合わなくて済むんだから、そのほうが良かったかもしれない」

 少しの沈黙があり、ソイユからも笑みがこぼれた。

「あの運転は確かに、刺激が強すぎるかも」

 彼女はオーブをぽん、と上に軽く投げて、掴む。

「ねぇ、どうして旅をしているの?」

「呼ばれているからだよ」

「誰かから依頼があって? 『おい、困ったことになっちまった。やつらが動き出したんだ。ちょいと俺の街に来て、手を貸してくんねぇか?』みたいな?」

 考えることがミラに似てきたな、とソイユは思う。

「違う違う。俺を呼ぶのは人じゃない。風域さ」

 彼女は首をかしげた。

 ルカはまた——別の方面から、真実の片鱗へんりんを語ることにした。

「この街の北東部にもあるだろう。風域は街ごとに一つずつ、必ず存在している。何をするでもなく、誰も知らないうちにそこにある。俺はその風域に会い、扉を開くために旅をしている。俺たちみたいなのは世界中に散らばっていて、ヤドリと呼ばれる」

「ヤドリ? 扉を開くってことは、あの風域の中を覗けるってこと?」

 ルカは頷く。

「正確には風域が一時的に消えて、中の様子が明らかになることを〈扉を開く〉という。ヤドリとは唯一風域の扉を開くことが許されている者のことで、風域により選ばれるんだ。別に偉いとか強いとかいう理由じゃない。風域に気に入られた人間がなれる」

「ふうん。でも、あの風域に鍵穴なんてなさそうだよ」

「もちろんないさ。風域の鍵は物理的な形を持たない。だから俺たちは街を右往左往して、苦労してそのヘンテコな鍵を一から作り上げて、鍵穴のない扉を開かせるんだよ——どうするのかは秘密だ」

「なにそれ、知りたい!」

 一気に陰鬱な雰囲気が吹き飛ぶ。好奇心がソイユの顔を明るくしていた。

「そうだな……うまく伝えられそうなときに、教えるよ」

「んー、わかった。じゃあ、風域の中には何があるの? あれはすごく大きいし、たぶん、何かの周りを回ってるんだよね?」

「ああ、確かに風域の中には必ず何かが存在する。けどそれは各風域によって異なるから、俺たちは便宜的べんぎてきに〈シンボル〉って呼んでるんだ。複雑に絡み合う歯車だったり、古い家屋や、得体の知れない生物の化石とか、まぁ色々なモノだね」

「あ、そっか。ヤドリっていうのは、扉を開けて、その中のお宝をいただくお宝ハンターなんだね」

「まさか。シンボルは持ち出しちゃいけない決まりなんだ。俺たちはただ扉を開けるだけ。すると風域の中でぼろぼろになってたシンボルが再生される——それは美しい光景だ。その光景を見られるってのが、ご褒美だな」

「またわからなくなっちゃった……」

「俺たちの体の中には、目には見えない地図がある。その地図は風域から授けられたものだ。次にどの街、どの国に行くべきかは地図に示される。さっき言った呼ばれてくるってのは、このことだ」

「シンボルがぼろぼろだから、風域はルカたちを呼ぶの?」

「その通り」

「どういう仕組みで、シンボルは再生されるの? 扉が開くからってのは、理由になってないよね」

「まぁまぁ、それもまた追々話すさ。それより今日はもう寝たほうが良い」

 ルカの方から聞きたいこともあったのだが、ソイユの表情を見て、これ以上黒い蛇の話はしないほうが良いと彼は判断した。

「綺麗なものは好き。だから、ルカ、風域が開いたらそのシンボルっていうのを私にも見せてね」

「わかった。約束する。おやすみ」

「うん。おやすみ。また明日」

 ルカは頭を掻き、外に出ようと扉に手を掛ける。

 ソイユに背中を向けたまま言った。

「—―また明日」

 明日、また会えるよねという約束が、胸を刺すことがルカにはよくある。


 旅をしていると、骨だけになった死体に出くわす。

 そのほとんどは寝ている間に食われたものだ。

 だからこの世界で生きていける旅人は。

 優しく眠ることを諦めた、いびつな人間だ。

 ルカは東の空がうっすらと明るみ始めるまで、屋上から街の夜景を眺めた。すべての街灯で、発光虫はイスラの樹液を舐めていた。

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