3 私という夢

 ルカは夢を見なかった。

 ずっと、見なくなってしまっていた。

 眠りに落ちた次の瞬間には、朝がやってくる。

 体が少しだけ軽くなっていたり、寝違えて首が痛かったりする。

 眠りだけが目覚めのさきぶれなのだ。

 もしも夢を見る人だったら、夢にも色々な結末があり、色々な結末が目覚めのさきぶれとなるのだろう。

 夢を見られる人が、彼には羨ましかった。


 ルカが眠っている間に断水は騒ぎになり、有志による調査が進められていた。

 原因は水道管の破損だった。クフタ商会近隣の六百戸が被害を受けたが、午前中には応急処置を終え全戸で水が供給されるようになった。破損は劣化によるものと推測され、近々新しいものと管ごと交換するという。

 ルカはクフタ商会内の食堂で昼食を取りながら、運び屋の同僚からそのことを聞いた。拳闘場で会ってからは一度もキッツの姿を見ていない。心を入れ替えて真面目に働いているせいですれ違っているのか、懲罰小屋でずっと正座をさせらているのか。後者の方がありそうだった。

 食事を終えて倉庫に午後の配達物を取りに行くと、中でナバルと女の運び屋が睨み合っていた。女はよく見る顔だ。ぱっちりとした猫目で、赤い髪を後ろで束ねている。

「急ぎの荷物はしれてる。そんなに山ほど運ばなくてもいいだろ」

 ナバルが感情を押し殺しているのがわかる。

「やりたくてやってんだから良いじゃねぇか。あたしならこの量を三時間でさばける。二往復すりゃ他のやつもずっと楽になるだろ」

 女は感情を隠すそぶりもない。文句言うな、引っ込んでろ、という心の声が顔にくっきり表れている。

「そんなに運ばなくても、他のやつが楽できるくらいの荷物しかねぇって言ってんだ。何も自分から仕事の負担を増やさなくたっていいだろ。お前が働きもんなのはわかるが、たまにはもっとゆっくりしてみたらどうだ。そんなにオルトラの運転が好きなら、さっさと仕事を終わらせてエルダ湖の周りを走ってくればいい。気持ちいいぞ」

「おっさん。あたしはリトリテなんだ。そのへんのやつらと一緒にしないでくれよ。これだけ運んでもまだ余裕があるから、運んでやるって言ってんだ。あたしらがどんだけタフなのか、あんたも知ってるだろ? あたしが運んだ分、他のサボりたいやつの荷物を減らせばいいじゃねぇか」

「ここにはサボりてぇやつなんていねぇよ!」

 それは嘘だな、とルカは心の中で突っ込みを入れた。

「どうして毎回突っかかってくんだよ。あんたとしては今日の荷物がさばければオーケー。誰がどれだけ運ぼうが、最終的に支払う給料の総額も変わらねぇじゃねぇか」

 運び屋の給金は、運んだ荷物の数と重量で決まる。熱心に働けばそれは直接給金に反映されるが、体力仕事なので疲労はたまる。そこそこの給料で足りる独身者の多くは、無理しない程度の荷を選んで働いていた。

「金なんてどうでも良いんだ。ただ俺は、誰かが誰かの仕事の肩代わりをしてるってのが気に食わねぇんだよ。この商会に所属している限り、運び屋はどいつも平等だ。同じだけ働き、同じだけ稼げる。そういう場所にしてぇんだよ」

 女は肩にかけた鞄を指でトントンと苛立たしげに叩いている。そこにオーブが入っているのだろう。

「ちっ。そんなんだからみんなあんたについてこねぇんだよ」

「なんだと?」

 ナバルが女につかみかかろうとした時、ルカは素早く間に割って入った。

「まぁまぁ、おふたりさん。勤務時間なんだし、この続きはまた後でってことで。俺、今日は休み明けであんまり捗らないんだ。だからその分を君に頼むよ」

 ルカは手際よく荷台に荷物を載せ、女を連れて倉庫を出て行く。女は怒りが収まらないようで、小声で思いつく限りの侮蔑語を並べていた。

 荷台の荷物をオルトラの後部座席に括りつける。

「途中まで付き合ってくれないか。時間はあるんだろ?」

「まぁね」

 オルトラのエンジンをかけ、二人は南へ走り出した。

「俺はルカ。まだ新米でね——君は?」

「アユタ。アユタレリウで、アユタだ」

「この前もナバルと言い合ってるのを見た気がするけど」

「あたしはあんなやつに興味ないんだよ。向こうが突っかかってくるから仕方ねぇ」

「働きすぎだって? へぇ……その荷物量は、確かに尋常じゃないね」

「そりゃあんたにとっては、ってことだろ。あたしにはあたしの基準があるんだ。押しつけないでほしいよ、まったく」

 アユタがむすっとして腕を組む。ハンドルから手を離しても、下半身で器用にバランスを取ってオルトラをまっすぐ進ませていた。

 右手に拳闘場が見えてくる。外壁が大きく剥がれた箇所がいくつもあり、試合がない日の姿は廃墟のようだった。

「——あたしは、リトリテであることに誇りを持ってる」

 アユタはオルトラのメーターを拳で叩いた。

「リトリテは疲労の回復が早く、長時間労働にも耐えられる。あたしは、あたしが誇る能力を使って働いてるだけだ。誰にも文句は言わせねぇ」

 ルカはその静かな怒りの言葉を黙って聞いていた。修繕したばかりの道を滑るように、オルトラが二人を運んでいく。


    *


 またここにいる。

 ソイユは黒い球体の内部で膝を抱いている。空気が薄く、体は微動だにしない。声を上げようとしても、くぐもったうめき声がわずかに鼻から漏れるだけだ。

 上下左右も判然としない、永遠の箱に囚われている。

 そんな暗闇の中に、うっすらと白い煙が立ち上る。見えているはずなのに、それが奥から来るのか、手前から遠ざかっていっているのか曖昧だ。白い煙は長い時間をかけソイユ自身を象る。

 幼い頃は幼い自分の姿を、今は少しだけ成熟した自分を。

 鏡のように煙はソイユのものまねをする。

 ——大丈夫。いつもの夢だわ。

 白煙のソイユははじめ同じように膝を抱いていたが、ゆっくりと体をほどいて立ち上がる。彼女のほうがここでは自由なのだ。ぐるりと周囲を見回すと本物のソイユを見つけ、暗闇の中を泳いで近づいてくる。

 ——あなたが何をしたいのか、わからない。

 —―あなたが私だとしても、わからないわ。

 白いソイユの手のひらが、夢を見ているソイユの頬に触れる。

 唇が重なり合った瞬間に、夢は終わり、瞳は、現実を見ている。

 カーテンが膨らみ、窓の外から発光虫はっこうちゅうが入ってくる。

 発光虫は横になったソイユの髪に留まり明滅した。


 学校は街のほぼ中央に位置する。北東と南西に二つの門を擁するロの字型の三階建てで、門の前には必ず教師が一人立つ。校舎に囲まれた中央部には広大な中庭があり、多種多様な薬草が育てられている。中庭の植物の世話は高等部の生徒が交代で担う決まりだ。

 中庭の中心には石を削って作った時計塔。その時計は建物のどの位置からでも見えるよう、四方に一つずつ備えられていた。

 一日の授業を終え、ソイユは友人のミラと二階の廊下を歩いている。

 彼女はミラに、夢のことを相談していた。

「とっておきのおすすめがあるんだよ、ソイユ」

 ミラがキャスケットのつばを持ち上げる。

「夢と言えば、これでしょ」

 と言ってミラは鞄から『心の天秤〜あなただけの風見鶏』という広告だらけの綴じ本を開き、付箋のついたページを読み上げた。

「『——夢は心の天秤です。不安定になった精神に働きかけ、適切なバランスを保てるよう、肥大した劣等感をあなたに示すのです。天秤の傾きを知り、行くべき……』」

「その本、怪しくない?」

 初等部に入学したばかりの子供たちが追いかけっこをしていて、そばを走って行った。

「何言ってんの? 今一番売れてるカウンセラー・ムトラハ先生の本なんだから、間違いないって! 二十年前にここの高等部を卒業した大大大先輩でもあるんだよ。

 とにかく、ムトラハ先生によると。『自分自身の姿を見る夢は、どこかにほころびがある。そのほころびを見つけなさい。それがあなたを今一番苦しめている根本原因です。本物のあなたより、鼻が少し高くないですか? だとすればあなたは、』」

「手術して鼻を高くすべきです」

 ソイユが後を継ぐ。

「正解! ソイユもこれ持ってるの?」

「持ってないし、絶対買わない。だいたい、手術したってリトリテはそれを怪我だと判断して元の状態に戻しちゃうよ」

「だよねー。だから先生はそんなときのためにもう一つ解決策を提示してくれているのです! さすがだね!」

 頭を抱えるソイユに気づかず、ミラは続ける。

「つまり、低い鼻の魅力に気づくこと。これだよ、ソイユ。『その夢は、自分がまだ気づいていない魅力を教えてくれる、心の――』」

「天秤?」

「『風見鶏』だよ!」

「支、離、滅、裂。さっきは天秤だって言ってたし、鼻が低いのは駄目だから高くしろって言うわりに、すぐあとで低いのが魅力だとか言うし」

 ミラは昔からこういう怪しい話が好きだ。〈コグレダ紙〉も定期購読している。ソイユもコグレダ紙のほうは読み物として面白いとは思っているが、それは嘘だとわかった上でのことだ。ミラは書かれていることにのめり込んで、そのまま信じてしまうきらいがある。

「違うんだよ、ソイユ。それについてはこの三十七ページに――」

 ミラは校舎を出るまでムトラハ先生の主張を読み上げ続けた。

 ソイユとミラの出会いは小等部の入学式だ。父が急な仕事で参加できず、ソイユは一人だけ保護者なしで式を終えた。式の後には親と手を繋いで教室まで行く決まりになっている。泣きながら一人で歩き出そうとしたときに、ミラが手を取ってくれたのだ。

 右手をミラと、左手をミラの母親であるレトと繋ぎ、ソイユは教室に入った。席に座った後は、また違う涙が溢れてきた。それからミラは親友だ。

「ね、ソイユ、聞いてる?」

 ぼうっとしていたソイユを、ミラが横から覗き込む。

「ね、これからバヤンさんの店に行かない? あそこのモラージョ(カップに入った団子にたっぷりの密とクリームをかけ、フルーツ・チップをちらした南洋風デザート)がすっごくおいしいんだって」

「ごめん。今日は母さんの墓参りに行くの」

「そっかー。なら仕方ないね」

「よかったら母さんのお花を一緒に選んでくれる?」

「もっちろん! あ、聞いてよ、この前拳闘場でジェドのポスターがいっぱい貼ってあってさ――」

 ミラの母は花屋を営んでいる。

 店内で無駄話をしながら、できるだけ華やかな花をふたりで選んだ。

 赤に黄色、緑に紫。まとまりがないような気もするが、色鮮やかな花束は元気が出る。

 墓地には悲しみではなく、楽しみを持って行ってあげたい。

 ソイユの父は生前、墓参りをする度にそう言っていた。


 年々、丘にある墓石の数は増えていく。

 人が死ぬという当たり前のことが、この丘の風景を作っている。

 ソイユの母——ヨルハリアナは彼女を産んでまもなく亡くなった。

 リトリテはオーブの物理的な破壊だけでなく、その衰弱や劣化によっても亡くなる。

 劣化はすなわち老化。

 衰弱は病を意味する。

 ヨルハはその中の病によって亡くなったのだ。

核縮症かくしゅくしょう〉。時間経過によりオーブの核が小さくなり、濁りやすくなる難病だ。核の色は健康な時は赤〜橙色をしているが、衰弱により徐々に青に近づく。青に近づく現象を濁りと言い、核の混濁が長期間続くと次は光度が衰え、黒に近づいてく。光のない完全な黒になると、核は活動を停止し、肉体は二度と動かない。

 生まれつき核縮症を患っていたヨルハにとって、妊娠・出産の負担は大きすぎる。間違いなく死期を早めると言い、医者は諦めることを勧めた。それでもなお、ヨルハはソイユを産むことを望み、父エナクもそれに応えたのだ。

 出産まで体が耐えられたのは奇跡だった。


 ヨルハの墓石は、二つの球体が宙に浮き、その周りで細い曲線が絡み合うような形状になっている。球体は母と父を表す。土台部分は皿状になっていて、落ちた水滴がミルククラウンを作る瞬間を捉えている。クラウンの中央やや上部に持ち上がった水があり、その先端にも球体が象られている。三つ目の球体、これがソイユだと墓守のクエンに教わった。

 他の墓地が殺風景なのに比べ、リトリテの墓地は様々な形状、色の墓石が立ち並び丘全体がひとつの芸術作品のように見える。

 エナクとソイユ、クエンの三人で早朝の絶景を初めて眺めたときのことを思い出し、ソイユの唇は震えた。

 そのエナクも二年前に亡くなってしまった。親族であってもリトリテ以外はこの墓地に入れないため、ソイユの父は西側にある別の墓地に葬られている。彼女の希望で父の墓はやや飾り気があるが、それでもあの墓地は色が灰色、さみしかった。

 母の墓前ではいつも父のこと、学校のこと、ナバルのことを話す。

 だが母には夢のことを話したことがない。

「心配ごとがあるようじゃの」

 後ろからクエンの声がして、追ってタックスの息遣いが聞こえる。

「私が?」

「君の母親じゃよ。君のことを心配しておる」

 クエンは墓の状態で、故人が何を伝えたいのかわかる。一度ある遺族と問題になってからは控えているものの、それが慰みになる者も多い。

「母さん……」

 ソイユはしかし、夢のことは話さないと決めていた。

「大丈夫だよ。私は、生きてる。ナバルおじさんは優しいし、新しい友達もできたの。高等部ではね、父さんと同じ薬学を勉強してるんだよ」

 ソイユが耳を澄ましても、母の声は決して届かない。

「すまんの。この隣に、君の父親の墓も建ててやれれば良かったんじゃが。葬儀の後、儂は遺体に触れることすら許されんかった」

「クエンさんのせいじゃないよ。元々リトリテと異種間の結婚はルール違反なんだから。父さんも母さんも、それがわかってて一緒になったの」

 この街はゆるやかな共同体であり、ルールとはすなわち伝統だった。

 タッカスが変えたばかりの花束の匂いを嗅いでいる。クエンは墓前に一つ、小さな化生石けしょうせきのかけらを置いた。

「そのルールは正しいと思うかね?」

 ソイユは少し考え、

「うん。理由があってのことだから。リトリテと異種の間で生まれてくる子供のうち、半分は〈落珠らくじゅ〉になってしまう」

 落珠とは、オーブを持たずに生まれてくるリトリテの子供のことだ。

 オーブを持たない赤子は母胎を出ても泣き声をあげない。

 肉体はあっても生きていないのだ。

 人形同然、脳も、心臓も、魂もない。

「私だって落珠のリスクはあったんだよね。正直言って、初めてその話を聞いたときは父さんと母さんを憎んだわ。自分が落珠だったらって思うと、怖くて、なんでそのことを考えて判断できなかったんだろう、大人の二人がって。

 でも、今は違う。二人が結婚したから、私は私として生まれてきた。二人は私が私として生まれてくることを信じてくれた。だから私はここにいる。そのことにとっても感謝してるの」

 タッカスがひと吠えし、丘の中腹へ向かって走った。仲のよい義足の野良猫を見つけたのだ。

「かっこいいよね、愛っていうのは」

 ソイユは墓石の球体に触れた。心なしかそれは温かかった。

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