2 風域

   *


 眠っている間に雨が降ったのだろう、土が湿り気を帯びている。

 墓守のクエンは今年五十歳になる。年齢を感じさせないしっかりとした足取りで、丘がよく見渡せる祖母の墓前に立った。

 早朝、誰もいない墓地の真ん中を眺めるのが日課だった。丘の頂点を中心に緩やかに波打ちながら並ぶ死者の墓。それらはすべて故人の生前の人柄を表すように、それぞれが異なる姿形を持っている。銅の艶を持つ皿状の墓もあれば、巨大な一角獣の角のごとく、突き立っている墓もあった。

 祖母も、父も、同じようにこの場所から丘の頂点を眺めていた。

 夜のうちに濯がれた空気に包まれながら、先祖の墓の名を唱えることで、クエンの一日は始まる。

 墓守として父の後を継ぎ、働き始めてもう三十年近く経つ。リトリテとしては長寿であり、そろそろ自分もこの丘の真の住民になることを考えておかなければならない。

 彼の一番の悩みは、自分の死後誰が墓守を継ぐのかということだった。

 一人息子はとうに家を出て行った。誰かの子を養子に迎えるという手段はあるが、血縁者のみで継承してきたこの仕事を、部外者に任せるのは気が進まない。

 このまま後継をうやむやにして死んでしまえばどうなるのか。

 あの〈裁きの泉〉の物語は、やがて失われてしまうだろうか。

 答えのわかりきった問いを毎日繰り返している。

 外の空気を吸って目が覚めると、いったん宿舎に戻って朝食を取る。アグァ(塩味の蒸しパン)と春鳥のスープ。壁には墓泥棒を撃退するための猟銃が立てかけられていた。

 ——若い頃はこの銃で自ら、鳥を狩っていたものだ。

 散歩に出ていた番犬のタッカスが戻り、クエンの足元に寄ってきた。体が衰え警備に支障が出始めたので、少し前に知人に譲ってもらったのだ。大人しいが体格は良く、体重はクエンと同じだけある。運動好きで勝手に墓地中を走り回り、怪しい者がいたら吠えて知らせる。

 賢く、手間のかからない優秀な犬だった。

 タッカス用の冷蔵庫から肉片を出し、皿に載せる。別の皿には羊の乳に栄養剤を溶かしたものを作った。番犬はそれを瞬く間に空っぽにしてしまい、クエンの食事が終わるのをそばで待っていた。

 枕元に置いてあるオーブの鱗は、少しずつ光沢を失ってきている。先端が欠けているところもあり、掻き分けると中で弱々しい光を発している核が覗けた。

 オーブをつぶさに観察すれば、医者ならだいたいの余命がわかるものだ。だがそんなことは知りたくないと、彼は病院に行くのを頑なに拒んでいた。

 壁のモルタルが剥がれかけている。大工を呼ばなければならない。

 自分の皿を片付け、クエンは屈んでタッカスと目線を合わせた。

「一緒に行くかね」

 さっき散歩に出ていたばかりなのに、番犬は尻尾を振って先に扉を開ける。

 気持ちのいい晴天の風が、みるみるうちに土を乾かしていく。

 墓守の仕事は墓泥棒から墓を守るだけに限らない。遺族のいない孤独墓への挨拶と清掃も重要な役目だ。

 リトリテは死者との繋がりを大切にする。死者も生者との繋がりを持ち続けたいと願っている。

 リトリテは常に二つの世界を結ぶ糸電話を持っていて、いつだって語り合えるのだ。

 クエンは先導するタッカスの後ろについて仕事をこなしていく。やがてタッカスが一番最後に取っておく、お気に入りの場所にたどり着く。そこにある墓石は土の中に埋まっていて見えない。

 タッカスは墓石が埋められた場所の真上に伏せる姿勢を取り、目を閉じる。時にはその上で飛び跳ねたり、土の匂いを嗅ぎ舌で舐めることもある。

 クエンにはその行動が理解できなかった。

 毎日多くの墓を見ているので、最近はクエンも、自分が死んだときどのような墓石が生まれるのか考えるようになっていた。

 どの墓も魅力的な姿をしている。しかし、彼はここに眠る墓、日に当たることを拒むように引きこもっている墓石と同じにはなりたくないと思っていた。

 横になっていたタッカスが急に耳を立て、吠えながら丘を下っていく。

 クエンがその行く先に目を遣ると、〈風域ふういき〉の前で男が一人、すっかり乾いた芝の上に座っていた。


   *


 この世で唯一、透明という色を持つ物質。

 時に風域はそう形容される。風域は決して破ることのできない壁であり、純粋過ぎる竜巻のように、渦を巻きその内部にあるものを綺麗に覆い隠してしまう。

 なぜ、透明なのに中が見えないのか。

 触れれば確かに皮膚には運動する物体の感触がある。

 だがなぜ、我々はただ遠くから眺めただけでそれが渦を巻いているとわかり、そこに在るとわかるのか。

 誰が作った訳でもなく、持ち込まれた由縁もなく、ただあらゆる街や国に初めから存在し、歴史を共にするもの。ある街では崇められ、ある国では畏れられ——ある都市では、単なるオブジェ以外の何ものでもない。

 鼻を利かせても無臭。

 あらゆる疑問に対し、風域は自ら語ってはくれない。

 ルカが丘のふもとでそんな風域を観察していると、後ろから呼吸を荒くした大型犬が走ってきた。裏白の赤毛で、尻尾の先だけが黒い。犬は素早くナギの周囲を一周し、匂いを嗅ぎ、目の前に黙って座り込んだ。

「俺にも匂いはないだろ。気味悪いくらいに、さ」

 同意の仕草か、犬は一度だけ舌を口の中に引き戻して頭を下げ、また元のように荒い呼吸をした。

「こら、タッカス! 待たんか!」

 髭を伸ばした老人が丘を下ってくる。

 風域の周辺には墓が建てられないため、クエンがここまで来ることは滅多にない。

「あんた、こんな朝早くに何をしとる? すぐそこは墓地じゃろうが。ここは気分転換に来るような場所じゃあない」

 ルカは不思議そうな顔でクエンを見た。

「俺は墓地が忌むべき場所だとは思っていないよ。晴天の朝、気持ちの良い丘の上で友達とおしゃべりをするのは、悪いことかな」

 ルカが風域を指差す。タッカスはその指を舐め、クエンの元に戻った。

 ——指に味はあるのだろうか。

「何を言っておる。あれは風域といって、ただの背景に過ぎん。昔から何の理由もなくあそこにある」

「理由もなく存在するものがあり得ると思う?」

「当然のことじゃ。すべてのことに理由があって、すべてがそのために生まれ、結果が今現在であるのならば、世界はこんなにごちゃごちゃしておらん」

 この老人の言う「世界」とはどこだろう。街の中心部のことだろうか。それとも、街の外側の見知らぬ土地を想像しているのだろうか。

「そういう考え方も、ありかもね」

「で、ここで何をしておる」

 そこは理由にこだわるんだな、とルカは思った。

「だから、友達と話をしているんですよ。風域に呼ばれて、俺はここに来た。次にどうすれば良いかなって、相談中でね」

 クエンはルカの表情を見て、からかっているわけではないと悟った。だとすれば本当に風域と話せると信じ込んでいる変わり者だ。

 命なきものと会話するという幻想。

 若いな、と思う。

「それで、次に取るべき行動はわかったのかね」

 だが悪人という感じでもない。クエンは態度を改め、変わり者の話に付き合うことにした。

「いいや。まったく口を利いてくれなくてね。いつものことだけど」

「冷たい友達じゃの」

「そうなんだ。時が来るのを待つしかないんだよ、結局。爺さんは——ここの墓守とかかい?」

 クエンは頷く。

「こんなに広い墓地を一人で?」

「ああ。墓荒らしなんてのは、百年に一人いるかどうかじゃからな。儂が引き継いでからはもう一人捕まえた。後は落書き目的で来る子供たちをとっちめるくらいじゃよ。相棒もおるしの」

 クエンがタッカスの頭を撫でる。

「この墓地に眠るのはリトリテだけじゃ。なのに、墓荒らしに来るのも、落書きに来るのも、リトリテだけじゃ。三十年この仕事をしとるが、そのことは今でも悲しい」

「リトリテ以外はみんな、南のほうの墓地だね」

「市街地の周辺に点在しておるな」

 しばらく沈黙が続いた。ルカは風域のほうに顔を向けたまま、動かない。得体の知れないものを観察しているのではない。彼が自分で言うように、友人の真意を知りたいと願う、熱心なまなざしだった。

「形だけがあるものに期待するというのは、どういう気分じゃ。それは、ないはずのものを信じるという愚かな行為とは思わんか」

 思い立ってクエンが尋ねる。急に真剣な口調になり、ルカは驚いた。

「形だけのものなんて、ないと思うな」

 ルカがそう言うと、晴天に似合わない重たい風が、一度だけ丘を吹き過ぎた。


 リトリテの墓地は街の北東部に位置する。そこから中央の市街地との間はリトリテが多く住む居住区になっており、市街地の北側は生活必需品を売る店が並ぶ商店街。その商店街は東西にうねりながら長く延びていて市街地から耳のように外側へ広がる二つの居住区を繋いでいる。

 この街には集合住宅がない。そして一戸建ての多くは平屋だ。郊外に行けば庭付きが多いものの、市街地に近い家はどこも門を持たず、直接扉を叩いて入る。

 外から見ると違いはわからないが、リトリテの家には地下室があることが多いという。多くのリトリテはその心臓であるオーブを常に持ち歩いているが、一部の慎重な者は頑丈な金庫や秘密の部屋に隠しておく。肉体は、オーブから離れても活動可能なのだ。

 ルカは今日一日、ナバルから休暇をもらっていた。街を散策するためあえてオルトラは使わず、のんびりと歩いて居住区を通り、商店街に向かう。朝食の匂いが広がっていて、腹が鳴る。家々の窓から家族団らんの声が届く。学校の話、隣家の息子の結婚の話、給料の話、昨日の拳闘場での話……早くも食べ終えた子供がふたり、公園で遊んでいた。ルカを見つけると右手の親指と人差し指を立て、銃の形にして撃つ真似をする。

「ぼうそう! ぼうそうだ! パーン!」

「ぐあぁぁぁぁ……」

 心臓を撃ち抜かれたふりをしたときに、また腹が鳴った。

 ——商店街で何か食事を取ろう。

 市街地の道はオルトラが発明されるまでは石畳だったという。オルトラでは走りにくいという理由で、平らに舗装されたのだ。だが好き勝手に人々が家を建て、道を作りをしてきたせいで、街中は入り組んでいる。新入りめ、邪魔をするなと言わんばかりの顔で、路地から義足の猫が出てきた。義足は木材と石材を組み合わせてある。猫は軽快に跳ねながら商店街の入り口を通り、果物屋の林檎を盗んでまた路地に消えた。

 耳に喧騒の塊がどっと入り込み、一瞬めまいがした。両側にひさしをつけた出店がずらりと並んでいる。うまくすれ違うのも難しい混み具合で、肩がぶつかったとしても誰も気にとめない。大抵の店は屋号を書いた旗を立てていたが、人々は品揃えを直接見て目的の店を探し当てていた。

 猫が消えた路地を覗いてみたが、その姿はない。

 ルカは羊肉の串焼きとアグァを買い、頬張る。腹を満たしつつ野菜と果物を調達していく。自分の分だけではなく、ナバルに頼まれた買い物リストもあった。ナバルは独身で、一人暮らしだと聞いているが、リストの食材すべて合わせれば大人三人分はまかなえそうだ。亡くなった友人から任されて保護者になったというから、その女の子の分も入っているのか。

 時々近づいてくる怪しい客引きを振り払いながら、着々とリストに×を付けていく。あー、うー、とまだ言葉にならない声を上げている赤ん坊が母親の腕の中から手を伸ばし、ルカの頬を突く。立ち止まるとそのふっくらとした可愛らしい指は母親の持つ新聞を撫でた。澄んだ瞳で意味を伝えようとしている。

 さすがに無視することが出来ず、一部もらった。


   珍獣、研究所に寄贈 信憑性高く


 二百年前から各地で目撃例がありながら、一度もその存在が証明されていなかった幻の肉食動物、バヤンカ。丸々太った体躯に似合わない二本の短足と、三百六十度を見渡す五つの眼球、指は器用で我々と同じように火を熾すことも可能だという。世代を超えた壮大なデマだとされてきたそのバヤンカが、ついに捕獲された。捕獲者はこれをわが街の研究所に寄贈し、その生態の解明に期待するという声明を……


「おやおや。新聞なんて読むんだね」

 喧騒の中でもひときわ響く甲高い声。ルカが街に来たばかりで金がない頃、魚を恵んでくれた店だ。

「文字の勉強、かな」

「へぇ、熱心じゃないかい。この街に住み着くつもりがあるのかい?」

「うーん。ここは平和で過ごしやすいし、そう考えたくもなるけどね」

 女店主の隣では、幼い娘が商品の魚を手のひらでぺちぺちと叩いている。

 ルカは新聞を丸め、ズボンのポケットに差し込んだ。

「おすすめは?」

「今日のぶっきぎりは憂魚ういぎょだね。西の川に棲んでる天然の魚で、今の時期はとくに脂がのってるんだ」

 価格を見てルカが驚く。

「クワッカ(エルダ湖に棲む最もポピュラーな白身魚)が二十匹も買える値段だ」

「そりゃあ湖でぬくぬく育った安物とはモノが違うからね。クワッカなんて増えすぎてタダでも食べてもらえるだけありがたいくらいだよ。憂魚の子は弱いからなかなか増えないんだ。稀少も稀少、見つけたら即買いしないとすぐ売り切れちまうんだから。取り合いだよ」

 まだ売り切れていないのはなぜだろう。

「俺には勿体ないから、後の人に譲ろうかな。これは? クワッカ・ルー。憂魚に似てる気がするけど」

「そいつも湖産。憂魚とクワッカをむりやり交配させて作った品種だね。けどそいつはクワッカに毛が生えたくらいの代物だからね。まるで——」

 と、何か言いかけたものの、店主はすっと口をつぐんだ。買い物リストを見るが、魚屋で買うべきものはない。

「貧乏人には、やっぱりこいつしかないね」

 ルカは自分用にとクワッカを二尾籠に入れる。女店主がそれを重りにつるし、クワッカの絵が描かれたボタンを押すと、画面に金額が表示された。通うほど値段が下がっている。常連客用の秘密のボタンでも隠れているのだろう。

 魚屋の先は広場になっている。中央に噴水があり、その周辺で絵描きや手品師が毎日パフォーマンスをしていた。地面にはそれぞれの領域を表す線が色とりどりのチョークで引かれている。

 その中で観客のいない場所が一カ所だけあった。

 ルカがよく知った楽器を胸に抱き、浮かない顔をしている。

「一曲、弾きましょうか」

 彼の視線に気づき、男が顔を上げて言った。

「少しだけ聴いてみようかな」

 六本の弦を持つ撥弦楽器。屈曲した木を組み合わせ、深海のような重たい青の塗料で表面を彩色している。材料の木である螺旋木らせんぼくは、この複雑な形状をした手持ちの琴——螺旋琴らせんごとを作るために厳重に隠された森の一角で育てられているという。

 唯一、螺旋琴を扱うことが許される一族。

「君は、奏螺そうらだよね」

「ええ。ご存じなんですか」

「昔会ったことがあるんだ」

「それはそれは。では、短いものを一曲。お付き合いください」

 奏螺の男はゆったりとした指の運びで、春の音色を響かせる。滑らかなテノールの歌声は心地よく、自然と人が集まってきた。ここが商店街の中心であることを忘れさせる。

 曲が終わると、その雰囲気を壊さないように静かな拍手が広場から捧げられた。

「どうでしたか?」

「感動したよ。黙って客を待つよりも、歌って集客したほうが良いんじゃないかな」

 ルカはポケットから硬貨を投げる。投げ銭入れも螺旋木で作られていた。

「私たちは誰かのためにしか歌わないことになっているのです。受け取る者がいるからこそ、捧げることができる。歌を虚空に投げ入れてしまうと、罰となって私たちに返ってくる」

「その話は初めて聞いたな」

「すべての奏螺がこのような考え方を持っているわけではないのかもしれない。私たちも長い年月をかけて変わってきました。それぞれが勝手気ままに暮らしていますから、継承すべきものもされなかったりする。あなたたちのように」

「俺たち——?」

「ええ。さん」

 奏螺の男は自分の声と調和するように、弦をつまびく。

「よくわかったね」

 ルカは驚きを顔に出さないように努めた。

「ここの住民なら、クワッカを二尾だなんてケチな買い方はしませんから」

 くすりと笑う音を男が奏でる。ルカの左手の先で、透明な袋に入った魚が必死にえらを動かしていた。

「この世界で旅をするのは奏螺かヤドリくらいのものです。あなたがいてくれて良かった。きっと運命は良い方に向かうでしょう。私も安心だ」

 ルカは荷物を地面に下ろし、そばにある花壇の縁に腰掛けた。

「俺たちのことに詳しいみたいだな」

「私も旅は長いですからね。といっても、あなたが奏螺について知っているのと同じくらい、表面的なことだけだと思いますよ」

「知らないほうが良いこともあるしね、お互い。ここにはどれくらい?」

「四ヶ月ほど。私の腕が悪いのか、なかなか投げ銭が集まりませんので。悔しくてここで武者修行している次第です」

「四ヶ月の間に、何か変わったことはなかったかい? 事件、事故、どっちでも良いんだけど」

「変わったことですか……」

 男は低音を響かせながら少し考え、

「先に言っておきますが、眉唾物ですよ。『夜が動く』と」

 声とともに鳴る音は、体内を犯していく毒のおぞましさがあった。

「街灯のない夜道で時折、視界の端を何かが動く気配がする。それは夜の漆黒とほとんど同じ色をしていて、初めて見たものは夜そのものがのっそりと動いているように感じるという」

「夜行性の黒い動物か何かじゃないのか?」

「実際はその類いでしょう。さっきのはこの街では悪名高いコグレダ紙の言い回しですね。実際に見た人のいいでは、大蛇のように動く黒い怪物がいると。それは地面を這うだけではなく、中空を自在に移動することが出来るようです」

「空飛ぶ蛇ってことか?」

「飛ぶ、というより空を這うという表現が近いみたいですね」

「バヤンカと比べれば、まだマシな情報かな」

「多少は。私もここで盗み聞きしただけですので、あまり自身を持って言えるわけではないのですが。それでも、少なからぬ市井しせいの人々が口にしています。空を飛ぶとまではいかなくとも、跳躍力の高い大蛇ならいそうなものですし。調べてみる価値はあると思いますよ、ヤドリビさん」

「ありがとう。探ってみるよ」

 ルカは去り際にもう一枚、硬貨を螺旋木の器に入れた。

 男は別の客のリクエストに応えて、明るい曲を歌い始めた。


 クフタ商会本部の屋上で、ルカはぬるくなったス・ピートを飲んでいた。薬草の匂いに惹かれて羽虫が寄ってくる。真夜中の静けさに、羽音が耳の奥まで届いた。

 街中に配置された街灯が、地上にいくつもの星座を形成する。その光源は洋燈らんぷでなく発光虫はっこうちゅうだ。仕組みはとても単純で、昼のうちに柱の先端にイスラの木の樹液を塗っておくだけ。夜になると好物の樹液を求め、森から一斉に発光虫が寄ってくる。

 同じように発光虫を飼育し、屋内照明として使用しようと考える家庭もあるが、ことごとく失敗していた。飼育下では発光虫は原因不明の病で死んでしまうのだ。

「必須栄養素に自由ってのがあるのかな」

 ルカは鼻から抜けるス・ピートの匂いを楽しむ。

 それから街灯と街灯の間の暗闇に意識を集中した。

 ——夜が、動く。

 蛇に似た新種の生き物だろうか。バヤンカという獣とは特徴が一致しないので、別物と考えた方がいいだろう。だが、仮にそれが野生の生き物で、大きく、街中を平気で動き回るのだとすれば。どこかで甚大な被害が出ているに違いない。家が壊れたり、誰かが襲われたりして然るべきだ。

 あの奏螺の話しぶりからすると、物理的な被害は出ていないのだろう。とすると、他愛のないいたずらに過ぎない可能性が高い。

「それでも確かめないわけにはいかないな」

 クフタ商会は市街地の東南部、端に近い位置にある。周辺にある建物の中では突出して背が高いので、市街地を良く見渡すことができた。

 人を喰らうのであれば、すぐにでも襲ってくるだろう。

 そのまましばらく待ってみたものの、ルカの前にそれらしき生物が現れることはなかった。

 一匹の羽虫がまつげに触れ、反射的に手を出してしまう。

 握りつぶした手の中には赤黒い血が広がっていた。

 ——光る生き物のほうが、珍しいんだ。

 屋上から身を乗り出し、クフタ商会門前の灯りに目を遣る。発光虫のダンスが夜に動線を引き、美しかった。

 明日の夜、足を使って調べてみよう。

 梯子を下り、窓から建物に入る。ナバルの好意で二階にある従業員用の休憩室を宿として借りていた。長机を三つ並べた上に布団を敷き、簡易ベッドにしてある。

 寝る前に汚れた手を洗おうとしたが、水が出ない。一階まで下りてすべての蛇口を試したが同様だった。

 夕食後にシャワー室を使ったときは、異常はなかった。

 仕方なく手のひらの血をちり紙で拭い、布団の上で横になった。

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