1 接続枝

   *


 伸びた前髪が目に刺さる。

 母親譲りのまっすぐな髪が、しかしソイユは好きだった。

 目の上の位置ではさみを横に入れる。瞳が昨日よりも大きくなったように感じる。この目も、鼻も、口も、父親似だった。

 耳たぶは母さんに似ているよ、と父さんは言っていた。けれども、髪の長かった母さんの生前の写真はどれも耳が隠れているので確かめようがない。

 どちらにも似ていないのはどこだろう。

 ソイユは鏡に映る自分と向き合う。

 女の子だ。

 父と母、ふたりの間に生まれた子供。

 きっと、ふたりの色々な部分が私の中に詰め込まれていて、その隙間からいつか私らしさが芽を出すはずだ。

 まだ、その隙間が隙間のままあることがわかる。

「ナバルおじさんのとこ、行かなきゃ」

 ソイユは身支度をし、愛用のリュックサックを背負って家を出た。


 クフタ商会の駐輪場に並んでいる自動二輪車オルトラは、一台を除いてすべて点検中と書かれた紙が貼られている。運び屋は仕事に出ている時間だ。残り一人が誰なのか想像がつき、ソイユはくすりと笑う。

 イスラの木で出来た扉を開け、中に入る。事務員のロズが受付で商人と話している。

「あら、ソイユちゃん。ナバルさんね?」

 ロズは彼女に気づくとそう言い、奥の部屋に入った。商人は時計を見て、慌てた様子で商会を出て行く。

 虫の食った来客用のソファに腰掛けて待っていると、お茶が出された。ここのお茶はいつも薄い。毎回同じ人が淹れているわけではないので、もともとそういうお茶なのか、薄く淹れて節約するようなルールがあるのか。いつも残すことでソイユは意思表示をしているのだが、改善される気配はない。

 今日のお茶も一口飲んで、薄い、という感想だけが漏れた。

 石積みの壁には求人ポスターが貼ってある。クフタ商会、と大きく書かれた文字の下には、運び屋稼業のことがつらつらと書かれており、「思いやり」という言葉が六度も出てくる。文面を考えたのはナバルで、右下の猫の絵を描いたのはソイユの友人ミラだった。

 ―—運び屋が天職だって、ほんとなのかな。

 お茶のカップをくるくると回しながら、ソイユは呟く。父と同期の研究者だった彼が、なぜ正反対とも言える肉体系の運び屋に転職したのかさっぱりわからない。ナバルはいまだにソイユを子供扱いするため、そのことは「大人の事情」などと言ってまったく話してくれなかった。

 今年でもう十六歳になる。

 難関の高等部にも入学できた。大人だってそれだけの学力がある人は限られているのに。

 目回し蝶が窓に張り付き、ソイユの手元を熱心に見つめている。その青銅の羽を陽光が透かし、人のまばらな商会内に彩りを添えた。

 白銀甲しろがねこうの澄んだ鳴き声が街に響いている。

 カップの中のお茶が冷たくなった頃、ようやくナバルが奥から出てきた。

「わりぃ、待たせちまったな。ガガリさんとこの荷物が来てねぇってんで、倉庫の中をかき回してたんだ」

 彼の髪には埃の塊が付いていた。

「ううん、大丈夫。今日はいつもより静かだね」

「やっと建物の改築が終わって、工事の連中がいなくなったからな。ほら、今月の分だ」

 ナバルに手渡された巾着袋は、先月に比べ一回りは大きく膨らんでいる。両手にどっしりと硬貨の重みを感じた。

「数え間違えてない? もらいすぎだよ」

「お前は真面目だなぁ。くれるって言ってんだから、多けりゃ多いほど得だろうが。そんなのはわかってても気付かねぇフリしとくもんだぞ」

 ナバルは彼女の頭を優しく叩く。大きくて硬い手だ。研究者だった時も体はしっかりしていた方だったが、こんなにも力強くはなかった。

 強く、明るくいられること。理由は何であれ、この仕事に変わって良かったのは確かなのだろう。

「これは今月のお前の小遣いで、数え間違えは一銭もねぇ。割増分は高等部への入学祝いとして渡せとエナクに言付けられてる。お前が試験に必ず受かるって、親父さんは信じてたのさ」

 ナバルは言うと俯いて目をつむり、すぐに顔をあげた。

 ソイユの父親が死んで二年。遺言に従い遺産を管理し、ソイユに毎月小遣いという名の生活費を渡している。

「父さん……」

 ソイユの表情が陰る。鮮明に蘇る父の最期の姿。病気でやせ細った体、白濁した瞳、そして息を引き取る直前、語りかけようと動いた口。

「入学式のお前の姿、エナクにも見せてやりたかったぜ。せっかくめでたいことなんだから、貯金するなんて言わずにぱーっと使えよ。流行りの服買うとか、な」

 ナバルはソイユの晴れ姿を写真に収め、父母双方の墓前に置いていた。

「それより本が欲しいかな。古書店でね、二百年前の薬草図鑑を見つけたの」

「ったく、だから真面目過ぎるんだっつーの」

 ナバルは出されたお茶を一気に飲み干した。

「——キッツを見なかったか?」

 ソイユは首を横に振った。

「オルトラが一台残ってたね」

「あいつ、またサボってやがるんだ。昼休みはとっくに過ぎてるってのに、どこで油売ってんだ? 戻ってきたら懲罰小屋にぶちこんでやる」

「ナバルさんはやりすぎだよ。そんなに怖い顔してるから、逃げちゃうんじゃない?」

「逃げる? はっ! やれるもんならやってみろってんだ。二度とそんな考えが起こらねぇように……」

「だからそういうのが駄目なんだって」

 ソイユが巾着袋をリュックのサイドポケットに入れる。窓の目回し蝶は飛んで行ってしまっていた。

 ふいに、見ている世界がぐにゃりと曲がった。

 息を吸って、吐くと、また元のように世界は秩序立った線で形作られていた。

「そう言えば新しい人が入ったんだよね?」

 ゆっくりと、父と母がいないという事実に、ソイユは体を馴染ませていく。

「ロズに聞いたのか? お前と同い年くらいの男で、自称・孤高の旅人だ」

 ナバルは自分で自分のコップにお茶を注ぎ足す。

「旅人って、この街の外から来たの?」

「そうだ。物好きもいるもんだよな、外は奇獣怪獣てんこもりだってのに」

「狩りがうまいのかな」

「どうだろうな。世界中旅して回ってるわりにかっこつかねぇっていうか、次の街に着くまでの路銀を貯めたいんで雇ってくれ、ってよ。キッツの紹介で来たんだ。普通そういうやつは悪人を捕まえたり、化け物を退治したりして稼ぐもんじゃねぇか?」

「表向き運び屋をやりながら、実はこの街に潜む悪の秘密結社を壊滅させるために水面下で動いてくれてるのかも」

「そういうデマは〈コグレダ紙〉の仕事だ。あんな三流ゴシップ紙読むなよ」

「気分転換には良いよ」

 嘘だとわかっているからこそ楽しめる。まともな新聞は、本当のことを淡々と書いてあるので好きになれなかった。誰が、どんな理由で死に、いつ埋葬されるのかなどだ。

「信じない限りはな。ま、あいつは仕事ができる。飲み込みが早い。脳みそ半分キッツに分けてくれりゃ、ちょうど良いんじゃねぇかって思うぜ」

「ナバルさんのお気に入り、だね」

「俺は全組合員に平等だ」

 建物中に聞こえるような大声でナバルが言う。

「そうかなぁ?」

 さっきとは別の商人がやってきて、受付のテーブルにいくつかの粉末を広げた。薬師くすしだ。

 壁掛け時計は二時を指している。

 ソイユはリュックを背負った。中にはさっきもらった小遣いと、講義で使う教科書、そして大切な〈鱗珠オーブ〉が入っている。

 オーブは軽い。なのに生命力に満ち満ちている。

「オーブの具合はどうだ?」

 ナバルが落ち着いた声で訊いた。

「健康そのものだよ。鱗も核もぴかぴかで、まぶしいくらい」

 ソイユはリュックサックを叩いた。

 ―—彼女の母親は、彼女を産んでまもなく亡くなった。

 もともとオーブが小さく、体が弱かったので出産に危険が伴うことはわかっていた。それでも母ヨルハは出産を望み、エナクもそれに同意した。ヨルハの死後、エナクは周囲の助けを借りつつどうにか娘を育ててきた。

 その父親も二年前に亡くなり、精神的にはとても苦しいはずだ。しかしソイユはしばらく寝込みはしたものの、すぐに立ち直った。熱心に勉強をし、高等部への進学許可も得た。

 強い子だ、とナバルは思う。

 だが、その強さが故にひとりで抱えてしまうこともあるのではないだろうか。

 父が亡くなってからの勉強量は、まるで何かに取り憑かれたようだった。

 ナバルが保護者になり、同居して世話をすることを申し出ても、ソイユは一人で暮らすことを選んだ。

 はじめは年頃の女の子だからだと思っていたが、今はそうではないかもしれないと感じる。

 一人で自立することが、彼女にとって痛みを乗り越える方法なのか。

 だが子供を持ったことのないナバルには、こんなとき彼女にどう接することが正しいのかわからなかった。たまに顔を合わせるくらいのおじさんでいてはならない。そう思ってはいるのだが……

「じゃあ、そろそろ勉強しなきゃいけないから」

 ソイユが言って事務所を出て行く。背負ったリュックサックには、くっきりと丸いオーブの輪郭が浮かび上がっている。

 あれはあの子の命だ。

 なんとしても守らなければならない。


   *


 ルカはオルトラを気に入っていた。この自動二輪車は燃費が良く、足も速い。全長二・三メートルと大型で取り回しにコツはいるが、悪路に負けないタフさがある。

 ニェド公国の三輪馬車と比べて、あらゆる面で優れている。

 街の中心部を離れれば道はより広くなり、体全体で感じる風が心地よかった。

 ルカはクフタ商会に借りているが、多くの運び屋は自分用のオルトラを所有している。好きな鉱石でボディをコーティング出来るので、外見は三者三様だった。鉱石を種類に合わせた薬液で溶かし、塗料として使えるようにする技術はこの街自慢のものだ。硬化した際にはその鉱石特有の味がそのまま出る。金はかかるがオルトラ商会に所属する専門の塗装師に頼めば、複数の鉱石を組み合わせたデザインも可能だ。

 オルトラの駆動音に混じって、白銀甲の鳴き声が聞こえた。

 後部座席に積み上げた荷物は順調に配達が進み、次の住宅街で仕事が済んでしまう。今日のルカの配達量は少なかった。サボり魔のキッツにお灸を据えるため、彼の配分を増やしたとナバルは言っていた。

 住宅街に入っても道幅があまり変わらない。このあたりは一軒家ばかりで、どこも庭を広く取ってある。比較的裕福な人の住む地域なのだろう。

 紙の地図と睨み合いながら、ひとつずつ荷を手渡していく。

 この手紙は、砂漠の砂のような質感がある。

 この包みは、イギャーリの鼻面よりも柔らかい。

 仕事をはじめたばかりの頃は明らかに警戒されていたが、今では扉を叩くと快く迎えてもらえるようになった。できたてのパンを分けてくれることもある。

 どの街でも、どの国でも同じことが起こる。

 その土地で認められていくという感覚は、とても良いものだ。

 けれどどれだけ長く暮らしたとしても、その土地に馴染んでいく、ということはない。

 それが〈宿人ヤドリ〉というものなのだ。

「いつもありがとうね」

 最後の手紙を渡して、ルカはなんとなく尋ねてみた。

「おばさん、ちょっと訊きたいんだけど。この街の人はどうして手紙を書くのかな? 電話はどこでも通っているし、そう大きくないから直接会うことだって簡単だ」

 エプロンを着けた女は少し考える仕草をして、

「声は難しい、と思っているからかしら」

「難しい?」

「ええ。表情というのがあるでしょう。顔だけじゃなく、声にもね。その表情は、自然と外に漏れていくもの。私たちが頭の中で考えて発するメッセージと、表情が一致するとは限らないわ」

「それは、嘘をつくとすぐばれるってことじゃなくて? 自然に話せば、自ずと気持ちが伝わる、そういう利点のほうが大きい気がするけれど」

「もちろん良いところも多いわ。私たちも電話を使うもの、避けているわけじゃないのよ。ただ、嘘ではなくて、上手に伝える言葉の選び方というのがあるでしょう。本当の気持を伝えるために、ありのままの言葉を選んだつもりなのに、声は、時に誤った表情を見せることもあるのよ、ごくごく自然に、ね。

 伝えたいことを、ゆっくりと文字にしていくほうが、うまく伝えられることがある。私たちが手紙を書くのは、手紙のほうが伝わりやすいときがあるから。同じように、声のほうが伝わりやすいこともあるわ。手紙よりもずっとずっと相手を感じる、そういう魅力的な声だってたくさんあるのよ」

「へぇ、なるほどね。俺も今後書いてみようかな」

「ぜひそうしてちょうだい。うちに届けてくれたら、倍の分量で返事を出すわ」

「俺はその倍でまた、と言いたいところだけど、そんなに筆まめじゃないんだよね」

「この街じゃマメじゃない男はモテないよ」

 女が快活に笑う。

 ルカがオルトラにまたがり、クフタ商会に帰ろうと思ったところで、隣の家から男が出てきた。

「君、僕んとこに荷物はないかい?」

 男は白髪だが、老齢には見えない。四十代半ばほどだろうか。猫背で眠たそうな顔をしている。

「僕——カムファ宛ての荷物だよ。これくらい大きなやつなんだけどね」

 男が細長い両手を横に広げる。

「今日は預かってないね。そんなに大きいなら忘れるはずがないし、依頼主にきちんと発送したかどうか聞いたほうが良いんじゃないかな」

「依頼主? 彼はもう死んじゃったからね、聞くに聞けないよ。死人に口なしって、知らない?」

「死人じゃあ手も足もでないよ。荷物を発送するなんて不可能だ」

「いや、まぁ、そりゃそうだけどさ。生きてたときの約束があるからね。うん、ええと、僕の一方的な願いとも言うかな。まぁ、そう、いいや。ところで君、はじめて見るね」

 カムファが目を細める。

「この街にはつい最近来たんだ」

「なんだ、旅の人、ってやつかい」

 ハ、ヒ、ヒ、というカムファの独特の笑い方は、耳にざらつきを残した。

「おもしろいね。僕は、今、忙しいから。また話そうよ」

 男は言って家の中に戻った。

「変わってるわよねぇ、カムファさんは。でも、他人思いの良いひとなのよ」

「それも文通をすればわかるかな?」

「そうだね。その通りさ」

 たっぷりのためを作って、冗談っぽく女は言った。

 時間には余裕があったので、ルカは道を逸れ西側の湖を見に行った。街の水瓶とも呼ばれるエルダ湖は昼寝中の幼児のようにすやすやと、呼吸の波を打っている。周囲を山と森に囲まれており、対岸にはかつて別荘として使われ今では放置されている古い家が並んでいた。

 ぼんやりと湖を眺めながら一息ついていると、湖の右側で水面に立つ少女の銅像を見つけた。ちょうど水中に土台が隠れているのか。距離があるので細かい表情まではわからないが、顔は俯き、湖の中を覗いているように思える。


 帰り道にカフェに寄ったが、店主は早くも店を閉めようとしていた。

「もうお仕舞いかい? ス・ピート一杯、欲しいんだけど」

 ス・ピートは葡萄と薬草を炭酸水で割った飲み物だ。薬草の配合は作り手次第ということもあり、店ごと店員ごとに個性があるのが面白い。今一番流行っている飲み物ということで、どの店も力を入れていた。

「今日は拳闘場けんとうじょうが開く日だから、どこも早じまいよ。しかもこの後はメインイベント、あの氷拳ひょうけん・ジェドクリスの試合だっていうんだから、遅れるわけにはいかないじゃない?」

 拳闘場は街の南部にある。中央の丸いリングを囲むように、同心円状に観客席が設置された重厚な建物だ。月に一度そこで試合があるとは聞いていたが、ルカはまだ観たことがなかった。

「その氷拳なんとかってのは強いのかい?」

「ジェドクリスね。ジェドは〈絶対王者〉が引退してからずうっとランキング一位を争ってるベテラン拳闘士なの。強い上にプレイスタイルがクリーンでね。ちょっと年取ったけど、今でもビジュアルは拳闘士トップクラス。拳闘嫌いでもジェドのファンだって子は多いわよ」

 仕事は終わっているから、このまま寄っても許されるだろう。

 野良拳闘のらけんとう——夜の街で拳闘見習いたちが繰り広げる練習試合なら、彼にも経験がある。そのときから一度、拳闘場でのプロの試合を見てみたいと思っていたのだ。

「でも今日は相手が不足なのよねぇ。新人でさ、運営側が期待してんのはわかるんだけど……」

「電話借りるよ」

 ルカはカウンター越しに店内の受話器を掴み取り、クフタ商会に電話をかける。

 ナバルは筋金入りの拳闘嫌いなので、寄り道して帰るとだけ告げた。


 その熱狂は拳闘場の外にまであふれていた。会場内から漏れてくる声だけではない。チケットを買えない子供たちが点々と置かれた野外テレビの周りに集まって、やれそれと声を上げている。入場券を購入するために列に並んでいると、ファンなのだろう、氷拳・ジェドのポスターを壁から剥がして持ち帰る女が視界に入った。まだ若い。十五、六歳くらいだろうか。

「なんだ、結構取るんだね」

 少し渋る仕草をして、ルカは巾着袋から硬貨を出す。

「何言ってんですか、氷拳の試合ですよ。チケットが買えるだけ幸運ですから」

 入場係の男の瞳には、子供のようなきらめきがあった。

 ―—氷の拳、ね。

 席は最前列を除けば自由だ。施設内の売店でス・ピートを買い、空いている席がないか中段から探す。試合と試合の間だったが、観客はみな前の戦いのレビューをしていて賑やかだ。人気とは聞いていたが、ルカはここまでとは思っていなかった。

「人が人を傷つける姿を見て興奮する。人の皮を被った野獣の集まりだぜ、あそこはよ」

 ナバルはそう言っていた。外見だけみれば、彼もこの中に混ざっていてもおかしくないのだが。

 人気選手の試合とあって、観客はどんどん増えていく。空いている席を見つけてもそこに向かう間に他の客に取られてしまい、なかなか座れない。

 諦めて立ち見にしようと考えはじめていた時、客席に見覚えのある顔を見つけた。

「キッツ?」

 同じクフタ商会で運び屋をやっている少年だ。学校の初等部を卒業してすぐに働き始めたが、飽きっぽい性格から続かず、あちこち仕事を転々としている。

「ぬぉ、まじっすか、ルカさん! こっちっすよ、ほら、そこ空けて、そこ!」

 キッツが自分の隣を無理矢理押し開けてスペースを作る。

「なんだなんだ、やっぱルカさん、拳闘に興味津々なんじゃないっすか」

 嬉しそうに彼は言った。

「まぁね。仕事が早く終わって、氷拳の試合があるって聞いたし」

「そっすか! 氷拳! さっすがルカさん、お目が高い」

 キッツが大げさに自分の膝を叩く。隣で窮屈そうに座っている強面の男が睨んでいることにはまったく気づいていなかった。

 リングアナウンサーが中央のリングに上がり、これまでの試合結果を簡単に説明し始めた。そういえば、と思い出してルカはキッツに言う。

「ナバルから伝言だよ。『キッツ、おめぇ今日サボったらぜってぇ懲罰小屋行きだからな。今すぐ帰ってきて働きやがれくそ野郎!』だって」

 試合の興奮で火照っていたキッツの顔が、急速に冷めていく。

「ええええっ! 今さらっすよ。もう、こんな時間じゃないっすか。もっと早く言ってくださいよ……」

「キッツが昼間からずっとこんなところでサボってるからだ。会えなきゃ伝えられないだろ」

 キッツがぽん、と手を叩いた。

「それもそうっすね。俺も、ルカさんも、仕方ない。不可抗力ってやつです」

「いや君は違うけどね」何を言っているんだろう、彼は。

「違わないっすよ! 月にたった一度の拳闘なんっすから。毎月この日は休むって、ナバルさんにも言ってますし」

「それについてもナバルから伝言がある」

 ルカは勿体ぶって言った。

「『お前の休暇は先週のサボりの罰としてすべて取り上げた。言ったよな? 今月は休みなしで馬車馬のように働いてもらう。それが嫌ならクビだ』」

「マジひでぇ……」

 キッツは大げさに肩を落とした。しかし、その後東のゲートから氷拳・ジェドが入ってくると一転して歓声を上げる。この数分で聞いたことは、早くも記憶から消し去られたようだ。

 遅れて西側の対戦相手が登場する。歓声は少なくないものの、サポーターの差は歴然だ。

 体の線もジェドのほうがずいぶん太い。鍛え方が違う。

 ジェドと相手——マトリという名だが、試合後すぐルカは忘れてしまった——が上着を脱ぎ、リングに上がる。拳には色つきの革のグローブをつけており、ジェドが青、マトリが赤だ。

 リングの外側に二つの台座が運ばれてきた。台座には選手のオーブが置かれている。リトリテ級、と書かれた旗が台座の脇に立てられる。旗にはその選手の現時点でのランキングも記されていた。

 ―—真鱗珠族リトリテ、か。

 リトリテはこの街特有の人系種族だ。一見すると普通の人間と変わらないが、生まれてくる時に必ず一人につき一つオーブと呼ばれるものを抱いている。オーブは球形をしており、内部の核と周囲を覆う鱗の二層構造を持つ。鱗は核を守るための盾であり、ナイフで切れず銃弾さえ弾く。

 オーブはリトリテの本体であり、心臓とも魂とも呼ばれる。オーブから常に生命力の供給を受けている彼らの肉体の回復力は凄まじく、腕や足が切り落とされてもしばらくするとトカゲの尻尾のように何食わぬ顔で生えてくるのだ。一部の例外を除けば、オーブが機能停止しない限り彼らは死なない。

 しかし特筆すべきは守りの面だけではない。彼らの肉体は疲労を蓄積しにくいため、練習量も積み増しできる。そこから来る攻撃面での利点も多いため、拳闘では特別な階級が設けられていた。

 どれだけ深い傷を負っても、自然治癒する体。

 オーブへの攻撃がないリトリテ同士の戦いは必然的に負傷を厭わないものとなり、激しく、人気が高い。

 試合開始直後、ジェドの拳が相手の頬を切った。

 赤い血だ。

「リトリテ同士の試合はどうやったら決着がつくんだ? 肉体にいくらダメージを与えても、立っていられるんじゃないのか」

 ルカは素朴な疑問を口にする。以前キッツと拳闘の話をしたときには、詳しいルールは尋ねなかった。

「あそこを見てください。リトリテの試合になったら、リングの囲いが外されるっす。試合中リングの外に出ちまった方が負けになるんす」

 試合を食い入るように見ながらキッツが言う。

「もう一つあるっすよ。胸の真ん中から指を下ろしてくと、ぽこっと凹んでるとこがあるっすよね?」

「ああ」

「リトリテはその内側に特殊な器官、〈接続枝せつぞくし〉ってのを持ってるっす。名前の通り小枝みたいな形をしてて、そこを損傷しちまったら、オーブと肉体の連結が緩んで肉体が思うように動かせなくなるんすよ。治癒力も急激に落ちるっす。ジェドの拳なら、接続枝のとこに一発喰らっただけでもう立てねぇ。勝負あった、っすよ」

「なるほどね。それでボディを狙うパンチが多いんだ」

 序盤こそ押されていたが、赤いグローブの新人は着実に拳をジェドに浴びせ、前評判を覆す戦いぶりを披露している。一度焦ったのか足が出てしまい、反則が取られた際には会場が一体となって彼に非難の声を上げた。リング上には二人の血が飛散し、癒えた傷口がまた切られ……

 たとえ拳一つとは言え。

 どんな傷でも癒えてしまうとは言え、痛みはある。

 その痛みをリトリテは、一つ一つ背負って戦っているのだろうか。

 それとも忘れることが出来るからこそ、戦えるのだろうか。

 それからは二人の試合を黙って観戦していた。プロの試合のどこに観客は惹かれるのだろう。何があっても拳を繰り出し続ける男らしさだろうか。止むことのない血飛沫だろうか。想像以上に残酷な戦いに、ルカはそう簡単に入れ込むことが出来なかった。

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