プロローグ
街から街へ、国から国へ、渡り歩く行為を旅という。
旅をする者を旅人という。
旅という行為がほとんど実行に移されず、旅人という人種が常に絶滅の危機に瀕しているこの世界で、その二つの単語がどこでも通じること。
ルカにとってはそれが自身の存在証明だった。
また次の土地で、旅の者がやってきた、とそう言われるときまで彼は曖昧な存在だ。
前に訪れたニェド公国を出てひと月と三日。あの国が辺境だとは地図でわかっていたが、これほどまで次の目的地が遠いとは思ってもみなかった。準備不足だったのは否めない。
緩い砂の地面が足を掴み、体力を奪っていく。
「あと四時間三十五分二十秒」
ルカは太陽の位置を見ながら言った。日暮れまでの時間をこうして予測することは、自分の背中を押す。制限時間を具体的に感じることで体が怠けることをやめるのだ。間違っていても構わなかった。
日暮れまでには眠れる場所を見つけなければならない。
高床式か煉瓦造りの壁がある住居が理想だが、周囲を見ても人影ひとつないこの状況では望み薄だろう。ぽつぽつと木が生えているのは、
今日はまだ水場にも出会っておらず、腰に下げた水筒はとうに空になっていた。唾を飲むと喉が痛む。熱暑が絶えず汗を垂らす。
「あいつら……」
さっきからルカの頭上で黒い影が隊列を組んでいる。イギャーリだ。ワニのような口を持つ鳥類で、強靭な顎の力で骨ごと獲物を噛み砕く。狩りの際は先頭の一羽に襲わせ、相手の技量を確かめる習性があった。
隊列が太陽の真下に差し掛かったとき、中の一羽が急降下した。ルカはすぐに足を止め、緩い土を均す。イギャーリはあまり小回りが効かない鳥だ。彼は襲いかかる鳥の軌道を読み、首を伸ばしても届かないぎりぎりのところへ跳び退いた。そしてすれ違いざま、その右翼に短刀を振り出す。負傷したイギャーリはふらつきながら夜具のように柔らかな砂の上に倒れた。
左の翼をばたつかせているイギャーリに近づき、ルカは首元に短刀を突き刺した。滴る血を水筒で受け、乾いた喉を潤す。肉は解体し、火を熾し、半分をその場で食べた。残りの半分は紐を通してバックパックにぶら下げ、また歩き出す。
血は、不味かった。
一連の手際の良さを見て、後続のイギャーリは降りてこなかった。だが彼らも飢えているのだろう。諦めきれないようでしばらくは先頭を定期的に変えながらついてきていた。
それから二時間ほど歩き続けると、地面が固くなり歩きやすくなった。少し足を止めて軍用ブーツに入った砂を出す。執念深いイギャーリの影もない。ルカの口がごく自然に歌を歌い始めた。囁くように、そよぐように。
「結局のところ、どうにかなるように出来てるんだろうな」
石転子は馬鹿じゃない。分不相応な石は普通見向きもしないはずだ。それでも手に入れたいということは、貴重な石なのだろう。路銀の足しになるかもしれない。
ルカは緑の石を指でつまみ、バックパックに入れた。石に全体重をかけていた虫は背中側に転がり、体を起こすのに難儀している。
「ごめんな」
流れる汗が一刻一刻と時を刻み、日を傾かせる。
人工的に削った岩の塊が見えてきた。近づくとそれは古い都市の残骸のようで、柱や集会場らしき広場の痕跡もある。何千年も前から湧き続けているのだろうか、泉から溢れた水がずっと西のほうへ続いている。
風の重みが肩に触れた。
「——これを辿れってことか」
空はもう赤から紫へ、そして黒へと変わるのも時間の問題だった。巨大な骨を組んで作られたドーム状の家がある。今夜はこれで我慢するしかないだろう。
泉に惹かれ、大型の野獣が来ないことをルカは願った。
街から街へ、国から国へ。
それぞれの共同体が決して交わらない世界で。
ルカは自分の中の地図に従い、ひたむきに前を向いて歩いていた。
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