第43話 迷いの逃亡劇

「ロンドの残存抵抗勢力はもういないのか?」


 グローソン公ハウルは、ネルカ城の執務室で、豪奢な長椅子にだらしなく座りながら問いかけた。


「はい。南方にわずかに残っていた敵軍勢もすでに殲滅せんめつしたとの報が入っています」

「ロンドの領内からの援軍の動きは?」

「今のところ確認されていません」


 それを聞いて、グローソン公ハウルは、面白なさげに「チッ」と舌打ちを漏らす。


「……少し急ぎすぎたか」


 ネルカの城下町ではとっくに戦闘は終結し、平穏を取り戻していた。

 ネルカでグローソンに弓を引いた者たちは、逃げることも許されず、皆殺しにされたといってもよい。


 また、ネルカだけでなく、グローソン軍が占領した地のあちらこちらでロンドの残存勢力が示し合わせて、いっせいにグローソンに対して攻撃を仕掛けてきたのだが、グローソン公ハウルはネルカ城下の敵を殲滅せんめつしたあと、嬉々として、一軍を率い彼らとの戦いにおもむいた。


 その時の行楽にでも出かけるような軽く楽しげなグローソン公ハウルのさまは、ハウルにとっていくさというものが、どのようなものであるのかを端的に表すものであった。


 そして、ハウルが率いるグローソン軍の動きは疾風のごとく速く、その攻撃は苛烈を極め、グローソン公の占領地にいたロンドの残存抵抗勢力をわずかな日数で、次々に踏み潰していった。


 グローソン公ハウルは、占領下でのロンド残存勢力の蜂起に呼応して、ロンドの領内からも再び援軍が来るだろうと予測していた。

 いや、ハウルはロンド公爵に決定的な打撃を与えるべく、そうなるように仕向けていたのだ。


 しかし、ハウルは少々戦いを楽しみすぎた。あまりにすばやく、苛烈に占領下で蜂起した敵を殲滅してしまった結果、ロンド側は援軍を送り込むことを躊躇ちゅうちょしてしまった。


「……仕方がないな。あまり加減しては、せっかくのいくさが面白くなくなる。そのあたりのバランスが難しいところだ」


 グローソン公ハウルはつぶやき、引き続き面白なさげな顔をしながら、しかし、と考える。


「だが、おかしい。我が領内にいる愚か者どもが、この機に乗じて踊り出すようにも細工をしていたはずだ。

 あの連中が我を裏切り、このネルカに向けて進軍してきたのなら、ロンドも援軍を出しただろうし、もっと楽しい戦いができたはずなのだがな」


 ハウルは信じがたいことに、自分がいくさを楽しみたいがために、わざわざ自分に剣をむける者たちが出るよう、敵味方関係なくあちこちでいろいろと細工を施していたらしい。

 しかし、ハウルが思っていたようには事態が動かなかったようだ。


 ハウルが首をかしげながら呈した疑問に、横に控えている家臣の1人が答える。


「殿。おそれながらそのことに関して、報告があがってきております」

 ハウルは少し気だるげに首を回し、その家来を見る。

「……申せ」

「はっ」


 ハウルはその家臣の報告に口をはさまず、耳を傾けていた。


――――


「チッ!」

 グローソン公ハウルは、その報告を聞き終えて、不機嫌そうに舌打ちをした。


「我が領内の裏切り者どもは、未だトードラスの小城を越えることができないでいるというのか」


 ハウルのいうトードラスの小城とは、このネルカを含めた新たに占領した地域との境にあるグローソン領内にある城である。


 ハウルはロンド側だけでなく、自分の支配下にいる腹に一物抱えているであろう者たちにも、この機に乗じて自分に対して剣をむけるように、秘密裏に仕組んでいた。

 ハウルの予想では、彼らはトードラスの小城を越えて、自身を標的にして攻め込んで来ているはずだった。


「あの程度の小城も落とせぬとは、情けないにもほどがあるな」

 どうやらハウルの中では、トードラスは捨て城であったらしい。

「しかし、思っていたよりトードラスに押し寄せた裏切り者どもの兵が少ないようだが」


「殿」

「……バルモアか、どうした?」


 そのグローソン公ハウルの疑問に答えるべく、ここまで口をはさむことなく控えていた参謀兼精霊法術師のダークエルフのバルモアが進み出てきた。


「殿、裏切り者どもの一部が、いまだトードラスに達することなく、サミワの砦に足止めされているとのことです。

 それがためにトードラスも未だ落ちず、裏切るであろうと考えていた一部の貴族、土豪たちも、兵を動かすことなく、様子見を決め込んでいるようです」


「ふむ、詳しく話せ」


「申し訳ありませぬ。あの方面で情報収集にあたらせている者がまだ戻ってきておらず、おそらく今日明日中には詳しいことがわかるかと」


「そうか、ではわかり次第報告せよ」

「はっ」


 ハウルは相変わらず長椅子にだらしなく座ったまま、もう邪魔だと言わんばかりに、居並ぶ家来たちに手を振ると、バルモアをはじめ家臣たちは、次々とハウルの前から消えていった。


 ハウルはテーブルの上に置かれたワインの入ったグラスに手を伸ばし、つまらなそうにゆっくりとそれを飲み干した。





 グローソン公ハウルは私室に置かれた大きなベッドの上で横になっていた。

 彼の頭は、枕代わりのたくましい筋肉のついた彼の小姓の若い男の太ももの上に乗っている。


 その若い小姓は、太ももがむき出しになる ぴっちりとしたショートパンツを履いている。

 上半身は肌着を一枚着ているだけで、腕を隠す袖部分はなく、胴体はお腹の半ばぐらいまでしか布に隠れておらず、大剣をも自在に操れるであろう逞しい両腕と、板チョコのようにいくつもにも割れた腹筋が露になっていた。

 

 その若々しい筋肉質な体を持つ小姓の顔は、そのいわおのような肉体とは対照的に、中性的な実に綺麗な顔立ちをしている。

 彼は、ベッドのうえで自分の主君であるハウルの頭を自分の太もものうえに乗せて、なまめかしい微笑を浮かべていた。



「アンコウだと?あいつはローアグリフォンの餌になったんじゃなかったのか」


 ハウルがベッドのうえで、小姓に膝枕をされたままバルモアに問うた。


「いえ、食われたのではなく、サミワ砦の近くで落ちたようで」

「……あの男、悪運は強いようだな」


 そのままハウルは、バルモアの報告に時おり質問をはさみながら耳を傾ける。


 報告を続けるバルモアの声とは別の声が、ときおり混じる。

「ううんっ、」

 バルモアの話を聞きながら考えをめぐらしているハウルの手が、膝枕をしてくれている小姓の腹から胸へと這い上がり、逞しい胸筋についている敏感なふたつのピンクのボタンのひとつを刺激し、若者はビクリと反応を示していた。


「ああっ、ハウルさまぁ」


 ハウルは意外だった。サミワの砦守将が裏切り者どもに討たれたという報はすでに聞いていた。

 しかし、その砦守将の後を任されたヒルサギという男が、予想以上の働きを見せて裏切り者どもをサミワで食い止めており、しかも、それになぜかあのアンコウが力を貸しているという。


「あのアンコウが、敵の中心的な将を討ち取ったことが大きいようです」

 バルモアは淡々と報告を終えた。


「……チッ、アンコウめ。余計な真似を」

 グローソン公ハウルは少し不愉快そうに眉をひそめた。


「あっ、」

 再び小姓の若者から声が漏れ、ハウルの表情はすぐに緩む。


 ハウルはロンドの残党狩りだけでなく、ロンド本領からの援軍や配下の裏切り者どもとの戦いも楽しむつもりだったらしい。

 むろん、その三方から攻撃をうけたらハウル率いるグローソン軍といえども、確実に勝利できる計算は立たない。


 しかし、(だからこそ、おもしろい)というのがハウルの嗜好しこうだ。グローソン公ハウルは、まさに戦争享楽者といえた。


「殿。我が手の者が、途中でサミワの砦からの援軍を求める伝兵を拾い、このネルカまで同伴しているようなのですが」

「……そうか」


 ハウルはしばらくそのままで、考えをまとめているようだった。


「……バルモア、サミワに返答の伝兵を出す必要はない。この後もサミワからの伝兵が来るようだったら、すべてこの地に留めおけ。サミワには、余計な情報はもたらさず、いきなり兵を派遣する。

 バルモア。お前もその援軍に同行せよ。アンコウとの遊びはもういい。連れ戻せ。興がそれたわ」


「はい。承知いたしました」


 バルモアがハウルに、うやうやしく頭をさげる。

 頭をさげたバルモアに、ハウルはベッドのうえから、もう下がれと手を振った。


「はっ」

 バルモアはもう一度頭をさげてから、部屋の扉にむかって歩き出した。

 バルモアの歩く床には、派手なバラの刺繍が施された豪華な絨毯が敷きつめられている。


 このネルカ城のグローソン公の私室は、すでにハウルの趣味一色に染めあげられており、じつに無駄に派手で、妙に怪しい雰囲気が部屋全体に広がる空間となっていた。

 ハウルが寝転がっているケバケバしいベッドもまたしかりである。


「……アンコウめ。まったく余計なまねを……」

 ハウルが気だるげにつぶやく。


 しかし、特別怒っている様子でもなく、ハウルは、もはやバルモアがもたらした報告には興味がなくなっているようだった。


 バルモアが部屋の外に出ようと扉を開け、もう一度グローソン公のほうに向き直って頭をさげたとき、ハウルは若い小姓の両ももを広げ、そこに顔をうずめようとしていた。


「ああ、ハウル様、」

「このいくさはここまでだな。別の遊びをするとしよう。のう、フフフッ」

「あああっ」


 若き小姓の漏らす低い声が部屋中に響きはじめたとき、バタンッ、とバルモアが扉を閉める音が響いた。





「くそーっ!」


 アンコウはサミワの砦の外壁に駆け上がり、山をくだったところに広がる光景を確認して吼えた。


 見張りの兵の報告どおり、小さく見える砦のある山の裾野で、すでに大規模な戦闘がはじまっていた。アンコウは強い焦りの表情を浮かべながら、その光景をにらみつけるように見ていた。


「どういうことだっ。あれはグローソン軍だ。援軍の情報なんて何も入っていなかったのに!」


 アンコウは、未だひとりでこの砦の周囲に広がる戦闘地域から逃げ出す機会を得ることができずに、今日という日を迎えていた。


 今の今まで、援軍が来るなどという情報はまったくなく、アンコウはまだしばらく逃げるための方策を講じる時間に余裕があると考えていた。

 それなのに何の前触れもなく突如グローソンの援軍が現れ、休息することもなく山麓に陣を構えていた敵軍にむかって一気に襲いかかった。


「……ちくしょう」

 眼下の光景に見入るアンコウの額から、大粒の汗が流れ落ちる。

 その時、背後からアンコウを呼ぶ声がした。


「アンコウ殿!」

 

 アンコウは、その声がしたほうを振り返る。そこには、ヒルサギが後ろに兵を引き連れ、急ぎ足でアンコウのほうに近づいてきていた。


 アンコウは先日、ヒルサギに彼の妻であるカエラを夜伽よとぎ役としてあてがわれ、ヒルサギの妻であるカエラをもう少しで抱いてしまうところだったのだが、すんでの所でその事実に気づき、怒りと共にヒルサギにカエラを突き返すということがあった。


 しかし、その翌日には、ヒルサギたちは夫婦そろって二日酔いのアンコウに許しを求めて、頭をさげにきた。

 そしてアンコウは、昨日の今日で内心まだ怒りはおさまっていなかったが、それを表に出すことはなく、そのふたりの謝罪をすんなり受け入れた。


 アンコウは、今後ヒルサギには絶対に女の世話は頼まないと心に誓いはしたが、それ以上ふたりの関係がギクシャクすることはなく、これまでどおりヒルサギとの良好な関係を維持することができていた。


「ここにおられましたか!アンコウ殿!」


 ヒルサギの顔にも声にも隠しようもない喜色が浮かんでおり、同時にヒルサギの武人としての闘志が、全身から噴き出していた。


「アンコウ殿!ついにハウル公爵様からの援軍が到着しましたぞ!いやはや公爵様の采配にはまったく驚かされます。これだけの軍勢が突如現れるとは」


「というと、ヒルサギ殿も知らなかったのですか?」


 ヒルサギはアンコウの前まで近づいてきて足を止めた。


「ええ。あの援軍が到着するまで、公爵様とはまったく連絡すらつかない状態でした。しかし、あれだけの軍勢が、このサミワまで来たということは、ネルカ城のほうは最早問題がなくなったということでしょう」


 ヒルサギは、山の裾野で繰り広げられている戦闘の光景を目を細め、遠望しながら言った。


( くっ、よくわからないが、ロンドの反撃もこの裏切り者たちの目論見もくろみもうまくいかなかったってことか)


 アンコウも山の麓を遠望しながら、額の汗をぬぐう。

 アンコウは考える。グローソン公との賭けに勝つため、まだ逃げるか。しかし、賭けに勝ったところで本当に自由にしてもらえる保証はない。


 この戦闘の混乱を利用して逃げるというのは悪い手ではないが、間違いなく命の危険も伴うだろう。それだけのリスクを負う価値があるのか。

 それとも賭けに勝つのは諦めて、少しでもこの戦いの勝利に貢献したように見せかけ、グローソン公ハウルの家来となったときの待遇を少しでもよくしてもらえるように、このままヒルサギたちと一緒に戦い続けるか。


 アンコウは脳細胞をフル回転させて考えていた。

 アンコウにとって、ここで死ぬのは論外で、辛くて苦しいだけの自由にも意味はない。


( くそっ!自由にはなりたい。だけど、どうするのが一番安全で、俺の得になるのか)


 その時、ヒルサギの元へ1人の兵士が駆けつける。


「ヒルサギ様!出撃の準備が整いました!」

「うむ。わかった」


 ヒルサギはその伝令兵に返事をすると、アンコウに声をかけながら、自らも動き出した。


「アンコウ殿、参りましょう!あの裏切り者どもに目にものを見せてくれる!」

 ヒルサギは武者の顔となり、怒りを吐き出すように言った。


 ヒルサギは、立場上その内心の感情を余り表に出すことをしてこなかったが、砦を囲む裏切り者どもに、敬愛していた砦守将や多くの仲間を殺され、ここまで守勢一辺倒に甘んじてきたことで、彼らに対する怒りや鬱憤うっぷんを相当に溜め込んでいた。


 それがついに到着した援軍と眼下で繰り広げられている裏切り者どもとの戦いを見て、抑えていたヒルサギの感情が一気に噴き出してきたようだ。


「アンコウ殿!反撃の時ですぞ!」

「あ、ああ」


 ヒルサギに促され、アンコウもヒルサギたちについて早足に外壁を駆け下りていく。


 そして、わずかな時間ののちには、アンコウも戦支度を整え、馬にまたがり、将兵の集団の中に身を置くこととなっていた。


(とりあえず、この戦陣に参加しないわけにはいかない。ここからどうするかだ……)


 アンコウは焦る心を必死に抑え、勝利の臭いを嗅ぎつけた出陣間近の戦士たちの興奮の中で、自身の生存と自由を思い、自分にとってのベストの選択肢を求め、考えをめぐらせ続けていた。


「……この砦のことはもうどうでもいい。あとは自分のことだけだ……」





ウオオオォォォォォーーー!!!!―――


 戦場に響き渡る音。怒声、悲鳴、罵声、爆音、多くの者たちが理性を放棄し、多くの者たちの命が潰える音が響く。


 アンコウたちが砦を出で、山の麓まで下りてきたときには、そこにはすでに凄惨な戦場が広がっていた。

 そして、馬を駆り、先頭を走っていたヒルサギたちの一軍は、休むことなくそのままの勢いで戦場に突っ込んでいった。


ウオオオォォォォォーーー!!!!―――



「アンコウ様!我らもヒルサギ様たちに続きましょう!」


 戦場の形勢は、援軍が駆けつけたグローソン軍が明らかに優勢な状況だ。

 それを見てアンコウのまわりにいる兵士たちも、この勢いに後れてはならじとばかりに興奮した様子を見せている。


 この目の前に広がる戦場は、彼らにとって、これまでの鬱憤を晴らし、手柄を立てる絶好のチャンスなのだ。


「ああ、そうだな」

 アンコウは鋭い目で戦場をにらみつけながら、しかし、妙に冷静な口調で答えた。


 そしてアンコウは、腰の赤鞘の魔剣をスラリと引き抜き、剣先を空に掲げ、自分の指揮下に配せられた兵たちにむかって叫んだ。


「お前たち!ここからは、作戦も何もない!すべての敵を屠り、思いのままに手柄をたてろ!」


「「オオォーーッ!」」


 アンコウの叫びに呼応して、多くの兵たちが興奮をさらに高めながら雄叫びをあげた。その興奮して、戦意をむき出しにした兵士たちにむかって、アンコウは号令をかける。


「ゆけ!ゆけ!行けぇー!」


 アンコウは叫びながら、何度も剣を持った手を大きく振りまわしている。

 しかし、アンコウ自身はその場に止まって動いておらず、そのアンコウを次々と味方の兵士たちが追い越し、目の前の戦闘へと嬉々とした興奮につつまれながら、突っ込んでいく。


 しばらく号令をかけながら、指揮下の兵たちが戦闘に参加していく様を見ていたアンコウであったが、皆が戦闘に入ったのを見て、ようやく自らも馬の腹を強く蹴り、戦場へと突っ込んでいった。


「うおおぉー!!」


 アンコウもまわりの兵士たちと共に、すでに明らかに逃げ腰になっている敵兵士たちを次々と斬り倒していく。

 圧倒的に有利な戦況の中で、アンコウはすでに味方の兵士を統率し、指揮をとる役割は放棄していた。


 アンコウの指揮下にある兵士たちも戦功を求めて思いのままに戦っており、アンコウに指示を求めてくる者もすでにいない。

 アンコウはそんな周りの状況のに変化を、血刀を振るいながらも冷静に観察していた。


 そしてアンコウは、大きな掛け声と共に再び強く馬の腹を蹴り、全力で馬を走らせはじめた。


「はいやっ!」

 アンコウは戦場からの逃亡をついに決意し、行動に移したのだ。


 味方の兵士も各々の戦いに集中しており、アンコウの行動に気をとられる者はいない。

 それに、アンコウは馬を走らせて前線からの後退をはじめたわけではない。


 敵軍の手薄になっていそうな箇所を突いて馬を走らせはじめたのであって、アンコウの行動に気づいた者にも、アンコウも自分たちと同じく戦功を求めて思うままに戦っているようにしか見えなかった。


 アンコウは、時おり剣を振るい、邪魔な敵を斬り倒し、馬で敵を跳ね飛ばしして、敵陣の手薄な場所を切り裂くように馬を走らせて行く。

 アンコウはひとりどんどん離れていく。


 そして、敵味方が密集した背後の戦場をチラリと見やる。

 その戦闘の最前線には、大剣を振りまわし、何やらまわりに指示を飛ばしているヒルサギの姿があった。


「……まぁ、いいやつだったな」


 ひと悶着ありはしたが、世話になったと、アンコウは戦場で一瞬優しい気持ちになる。

(死ぬなよヒルサギ)


 アンコウはヒルサギから目を離し、そのまま全力で馬を走らせつづけた。

 そうするうちに、いつのまにかアンコウのまわりには敵も味方もまばらにしか見えなくなっていった。


「はいやっ!」

 しかしアンコウは、走る馬の速度を落とそうとはしない。

 アンコウは前方に見える森に向かって、まっすぐに馬を走らせていた。


「よし!いけるっ!あの森に入れば、この戦場から離脱できるはずだ」


 アンコウは馬の速度をさらに上げ、森へと続く細い道を突っ走り、そのまま木々の生い茂る森に入っていった。


(やったぞ)

 アンコウは思い通りに事が進んだ喜びを感じながら、

(やっぱり、逃げ続けることを選んで正解だったな)

 と、笑みを浮かべながら、森の中でも止まることなく馬を走らせた。


 しかし、アンコウが、このままこの戦場から逃げ切ることは許されなかった。

 アンコウは馬を走らせている左右の森の中から、自分を追いかけてきているのだろう追跡者の気配を感じた。


「!?まじかよっ」


 アンコウが周囲から感じる気配の正体を確認しようと、馬を全力で走らせながら周囲に顔を動かしていると、突然アンコウの体が大きく宙に投げ出されてしまった。


「ヒヒィーンッ!」

「うおぉぉーっ!?」


 アンコウが走らせる馬の前に、一本の縄が突然、ピンと張られた。全力で走っていた勢いのままに、馬は倒れ転がり、アンコウは大きく宙を舞う破目になる。


 そして、宙を舞うアンコウの目に、一瞬森に潜む者の姿が見えた。

 それはダークエルフ。壮年の容貌をした見るからに精霊法術師風の風体をしたダークエルフの男。そして、そのダークエルフの顔に、アンコウは見覚えがあった。


(バルモア!!)


 それは、グローソン公ハウルがアンコウを捕まえる鬼の役目に指名した男。

 一瞬であったが、アンコウの目は、間違いなくバルモアの姿を確認した。


 せっかく逃げ続ける決意をしたのに、ここでバルモアに捕まったら、その時点でこの賭けはアンコウの負けで終わってしまう。

( くそっ!)

 アンコウは宙を舞いながら、器用に体勢を立て直し、いったん鞘に収めていた赤鞘の魔剣を引き抜いた。


 アンコウは地面にたたきつけられることなく、着地し、地面に足が着いたときには、すでに呪いの赤鞘の魔剣との共鳴を発動していた。


 そしてアンコウは動きを止めることなく、馬から投げ出された勢いのままに、今度は自分の足で全力で走り出す。

 追われれば、逃げる。それは生き物のさがだ。


 追われるということは、逃げなければという恐怖心を引き起こす。

 このときのアンコウの頭からは、逃げることをあきらめ、わざとバルモアに捕まるという選択肢は消えていた。


 1人ではない。剣を片手に全力で逃げるアンコウを複数の者が追ってきていた。


「くっ!」

 アンコウは走る!全力で走り続ける!しかし、アンコウの後ろを走るバルモアの姿は一向に小さくならない。

「くそっ!」


 アンコウの背中をしっかりと捉えながら走るバルモアは、何やらぶつぶつ口ずさんでおり、走りながら精神の統一をはかっている。


 そしてバルモアの口元に、ニヤリとした笑みが浮かぶと、走るバルモアの前方の空間がぐにゃりと歪み、風切り音をあげながら、歪んだ空気の刃がアンコウにむかって放たれた。風の精霊法術だ。


ビュンッ!

 目に見えなくとも、アンコウは背後から襲いくる風の刃の気配をはっきりと感じ取っており、走る足を止めることなく、斜め前方に飛ぶようにして、アンコウはその攻撃を避けた。


ザァンッ!

 地面に衝突した風の刃が地面をえぐりながらはじけ、周囲に土や砂をまき散らす。


「ちぃっ!」

 アンコウは、横顔に飛んできた土や砂をうけながらも走る。

 バルモアの風の精霊法術による攻撃は、1度だけで終わることは当然なく、連続してアンコウにむかって放たれる。


ビュンッ!ビュンッ!ビュンッ!

 ザァンッ!ズサンッ!ザァンッ!


 アンコウはその攻撃を必死で避け続ける。バルモアの放つ風刃の威力は抑えられているようで、アンコウを一撃で殺そうというような殺意は籠められていない。

 しかし、即死はないかもしれないが、まともにこの風刃をうければ、アンコウはただではすまないだろうことも間違いない。


 息をつかせぬバルモアの連続攻撃に徐々に追い詰められていくアンコウ。

 そして無情にも、森の中を走り続けるアンコウの視界の先に、林立する木々ではない別の自然の景色が見えてきた。


「か、川か!」


 そう、アンコウの進行方向を遮るように一本の川が流れていた。それほど大きい川ではないようだが、決して一足飛びに飛び越えられるほど小さいものでもない。


(ち、ちくしょうっ!)

 自分の行く手をさえぎるように流れる川を見て、アンコウの判断に迷いが生じる。


 このまま川に突っ込めば、間違いなくバルモアたちに追いつかれてしまう。

 川辺につく前に道を外れ、森の中に活路を見出そうにも、自分を追いかけてくる者たちは、森の民のひとつであるダークエルフだ。


(ダークエルフたちを俺が森の中でくなんてことは、)

「無理ゲーだろ…くそっ!」


 アンコウの迷いが、走るアンコウの足を若干鈍らせる。

 そのアンコウの心の動揺を見透かすように、バルモアはこれまでよりも威力も速度も大きい風刃をアンコウにむかって放つ。


ビフゥンッ!!


 アンコウは、背後から放たれたこれまでよりも強い精霊法術の気配に気づき、あわてて回避行動をとる。

「くくっ!!」


ドザァンッ!

 風刃が衝突した地面がはじけ、一瞬で地面をえぐり取る。


 アンコウは体勢を崩しながらも、からくもその風刃をかわすことに成功した。

 しかし、風刃を大きく飛び跳ねるようにして避けたアンコウの足が、地面に着地した瞬間、

「ぐわぁっ!!」

 アンコウの口から、意図せぬ苦痛の叫びが発せられる。


 そのアンコウの叫びの理由、地面に着地したアンコウの足のふくらはぎに、一本の小型のクナイが突き刺さっていた。


 バルモアが発動した強めの風刃は囮であり、本命は精霊法術ではなく、手投げの小クナイのほうであった。

 己が投げ打った小クナイが、思惑どおりに見事にアンコウの足に命中したのを見て、バルモアは走りながらほくそ笑んだ。


「ぐくっ!」

 アンコウの顔が、痛みで歪む。

 しかしアンコウは、倒れることも立ち止まることもなく、気合で痛みをこらえると、小クナイが足に刺さったままの状態で走りつづけた。


「ぬおぉっ!」

 アンコウは真直ぐに走り続ける。


 もはや右に行くか左に行くかなどと考える余裕もなくなっている。

 しばらく走り続けても、まだバルモアたちはアンコウに追いつかなかったが、必死の形相で走り続けているアンコウに対して、バルモアたちの表情には余裕があった。

 まるで獲物が弱るまでじっと待っている肉食獣のようだ。


 そして、そのまま真直ぐに走り続けたアンコウは、ついに川の近くにまで来てしまう。


(く、くそっ!)

 追い詰められたアンコウは、そのまま川に突っ込む決意をした。

 アンコウ自身も賢い選択だとは到底思えなかったのだが、他にどうしようもなかった。


「一か八かだ、がっ!?」

ドオォンッ!

「がぐぁーっ!」


 しかしアンコウは、その川に飛び込むという逃げ切れる可能性の低い賭けすらも打つことができなかった。

 アンコウの足元で、背後から飛んできた火球がはじけ、アンコウの体は宙を舞い、地面に投げ出されたのだ。


 その火球はバルモアが放った火の精霊法術。地面に転がるアンコウ。

 しかし、地面にたたきつけられはしたものの、アンコウに直接火球が当たったわけではなく、アンコウのダメージはさほど大きくない。


「……ふぐぐぐぅ、」

 アンコウは、苦痛をこらえた唸り声をあげながら立ち上がる。


 さらに追い詰められてしまったものの、立ち上がったアンコウの目つきは鋭く、強い怒りの色が浮かび、まだあきらめてはいない。


 川を背に立ち上がるアンコウにむかって、走ることをやめたバルモアが、アンコウの目に映るだけで背後に2人のダークエルフを従えて自然な歩調で近づいてきた。

 手に武器も持たず、精霊法術を発動する準備をしている気配もなく、無造作に近づいてくるバルモアは、アンコウにとって実に腹立たしい余裕を見せている。


(この野郎!)

 アンコウは心でバルモアに悪態をつきながら、小クナイが突き刺さった足へと手を伸ばした。

「ぐはっ!」

 アンコウは、足に刺さった小クナイを引き抜き、地面にたたきつける。

 そして、ギラリとバルモアをにらみつけた。


「バルモアぁ!卑怯だぞっ!俺を捕まえる役はお前だけのはずだろう!後ろのふたりだけじゃない!森の中にもまだいるだろう!」


 アンコウの大声の怒声にもバルモアは動じることなく、言葉を返す。


「相変わらず口の悪い男だ。貴様を捕まえる賭けの条件はよく覚えているし、破ってもいない。貴様に攻撃を当てたのは、このバルモア1人だけだ。今から貴様を捕まえるのも私1人。約束どおりであろう」


「なっ!」

 アンコウは怒りのあまり言葉に詰まる。

 確かにバルモアはウソをついてはいないが、きわめて勝手な物言いだ。


「後ろの者たちも、森の中にいる者たちも、ただ情報収集のために見ているだけ。縄には貴様が勝手に引っかかっただけだ。何なら森を散歩しているだけだと言ってもいいんだぞ?」


「ふざけたこと言ってんじゃねぇ!」

 アンコウが目を見開き吼える。


 アンコウの剣を握る手に力が籠もり、全身の筋肉が膨れ上がる。赤鞘の呪いの魔剣との共鳴の度合いを増していく。

 アンコウは追い詰められつつあるものの、体力はまだ十分残っており、ふくらはぎの傷も、さして深くはない。アンコウはまだ十分に戦う力を残している。


 アンコウ1人で周りを囲む者たちすべてを屠ることはできはしない。

 しかし、戦うことで、この危地から脱出する道を開くしかないと、アンコウは怒りを露にしながらも頭の冷静な部分で判断していた。


(……バルモア1人しか手を出してこないにしても、ここから逃げ切れる可能性は低そうだ)

 アンコウは目を見開き、バルモアをにらみつけながらも、その額や背中には冷たい汗が流れ続けている。

(後ろに川、前に森とダークエルフか)


 アンコウは、相当追い詰められている自分の置かれた状況を認めざるをえなかった。


「ほう、アンコウ。戦うつもりか?」

 バルモアが問いを発しながら、さらにアンコウに近づいてくる。


 バルモアは顔から笑みを消しはしていたが、その態度には、自分が明らかに優位に立っているという余裕が見えている。

 バルモアは歩きながらも、じっとアンコウを観察し続けている。バルモアはアンコウが表面的に見せている怒りとは別に、その心の動揺を正確に見抜いていた。


 そして、さらにそのアンコウの心の動揺を増すべく、バルモアは言葉を重ねていく。


「貴様が聞き分けなく、あまりに抵抗するようだったら、貴様を殺してもよいという許可も殿より得てきている。よいか、私が貴様を殺さざるを得ないと判断すれば、賭けの条件など気にすることもなくなるのだ。どういう意味かわかるな?アンコウよ」


 バルモアはチラリと背後に付き従う配下の者たちと左右の森のほうを意味ありげに見てから、再びアンコウのほうに目を戻す。

 アンコウは、そのバルモアの態度の意味するところをさとり、剣を持つアンコウの手が、かすかに震えながら下がっていく。


「……く、くそぉ、」


 アンコウの顔に浮かぶ怒りの表情が、徐々に苦悩を表すものに変わっていく。


 バルモアだけでなく、アンコウを囲むすべての者たちが、一斉に攻撃を仕掛けてきたのなら、とてもではないがすきをつくって逃げることなどかなわない。

 間違いなく殺されると、アンコウ自身もよくわかっていた。

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