瓦木探偵事務所-2

――


 中央線で御茶ノ水の駅に降り立ってみると、聖橋のたもとには丸ノ内線の鉄橋が走り、その下には抹茶のような深い緑を湛えた神田川が流れている。現代東京の名所の一つだろう。

 しかし、そんな名所からひとたび顔をあげてみると、外堀通りに挟まれ、神田川岸にへばりつくように立ち並ぶ、一昔前の建築を目にするはずだ。

 名所を眼下に控えているだけあって、そこからの眺めは格別に違いない。しかし、その古さは否めず、いささか心もとない……。いや、無理してきれいな言葉を並べる必要はないだろうか。はっきり言ってぼろくて、おおよそ人間が住には不便しそうな建築がちらほら。その一つに足を踏み入れると、ギシギシと音を立ててきしむ階段を上って、その取っ付きの部屋。鉄の扉に磁石で張られた粗末な紙。「瓦木探偵事務所」。少し斜めになっている。私はそれを見るとほっとしたように扉を叩いた。ここには呼び鈴も無いのである。二、三秒部屋の中でゴトゴトと音がすると、次に扉に手をかける音、錆びた鍵の音、そしてようやく軋りながら扉が開いた。

「ああ、先生。お待たせしました。どうぞどうぞ、入ってください」

 中からひょっこりと顔をのぞかせたのは瓦木紗綾である。私は頭を下げると、招かれるまま瓦木紗綾の事務所に足を踏み入れた。

 ふと涼しい風が吹き抜けると、廊下の壁がバサバサと音を立てた。壁には一面、新聞の切り抜きが貼りつけられているのだ。それだけで、ここが女子大生の住まう場所とは思えない。それでも瓦木紗綾はこの音が気に入っているのか、くすぐったそうに笑いながら私を奥の部屋へと通した。

「いや、すみません。急に呼び出しちゃって。ちょっと今日は先生に聴いてもらいたいものがあるんです。あ、えっと、その前に、暑いでしょう」

 瓦木紗綾はそう言いながら私にソファを勧めると、奥の台所に向かって、オレンジジュースとクッキーを持って戻ってきた。私が立ち上がってそれを受け取ろうとすると、瓦木紗綾はなぜか面白そうに、

「いや、今日は先生がお客さんですから。お客さんは座っててくださいよ」

 と、いたずらっぽく笑って見せた。私にはまだ、今日呼ばれた理由がわからなかった。ただ、面白い事件について私の意見を聞きたいと瓦木紗綾は言うだけだった。しかし、私は素人の探偵作家であって、瓦木紗綾に対して犯罪を説くというのは変な話だと思った。いつもは逆である。私は瓦木紗綾から事件の話を語り聞かせてもらい、それを文章にしているのだ。だから、私に事件の意見を聞きたいというのはどうにも不思議だ。瓦木紗綾は私を座らせるとその前にオレンジジュースを置いて、私の向かいに腰を下ろした。

「先生、昨日のニュースはご覧になりましたか?」

 私がストローに口をつけるかつけないか、瓦木紗綾はそう切り出した。はて、昨日のニュースというと……ああ、そう言えば五反田のとあるアパートから首なし死体が見つかったっけ。その事件のことだろうか。

「ひょっとして君が関わってるのは、あの首無し殺人の事件かい?」

 ぱぁっと紗綾の顔が明るくなった。

「ええ、そうです、そうです。先生、知ってましたか。それはよかった。知っているなら好都合です。でも確かニュースではそこまで詳しいことは伝えられなかったと思いますから、ちょっと重複するかもしれませんけど説明させてください。今日に至って分かったことも少し、これからすることの予備知識として知っておいてほしいんです」

「はぁ、確か……、バンドのボーカルが殺されたんだっけ。確か被害者は三条さんと言ったね」

「そう、それでメンバーへの聞き取りをしたら、被害者三条昭代には双子の姉晴代が居るという証言が出てきたんです。駅の花屋でバイトをしているという証言で、今日になって警察が調べたんですね。そしたら確かにその駅の花屋には、昭代によく似た晴代という女性が働いているとわかったんです。そして晴代は事件のあった日から無断欠勤を続けていると」

 瓦木紗綾はそう言って、私に試すような瞳を向けてきた。私はオレンジジュースのコップを置くと、ウームと唸った。

「なるほど……。確かに双子だったらDNA鑑定での判別は難儀するな。それで、警察はその晴代の行方を?」

「ええ、そうです。それに晴代はいつもバイトの終わりに、売れ残った花を全部引き取っていたことまでわかったんです。それが現場に落ちていた沢山の花々と大体一致した」

「花々? なんだい、現場には花が散っていたのかい」

「ああ、そこは御存じなかったですか。そこまではニュースもまだ流さなかったんですね。ええ、そうなんです。現場は一面の花畑といいますか、たくさんの花が敷き詰められていたんです。そしてその真ん中に、花畑に眠る首なき姫君が。そしてその胸には一本の青い薔薇が置かれていたんですよ」

「青い薔薇……?」

「そう、そんな現場ですから、花屋がこの事件に関わっているんじゃないかと推測された。そこに行方不明の双子の姉、しかもそれが花屋に務めているとわかったんです」

「なるほど面白そうな事件だね。でも、それじゃあ、この事件もう片が付きそうなんだね」

 私が事もなげにそういうと、瓦木紗綾は何がおかしいのかアッハッハと笑い出した。


 ぐぅ。


 瓦木紗綾のお腹が鳴った。

「すいません、クッキー一ついただきますね」

 そういうと紗綾は私に持ってきたクッキーを一つ摘み上げると、口の中に放り込んでオレンジジュースで流し込んだ。

「片が付いたかどうか、うん、さあ、それは犯人が捕まってみてのお楽しみというところでしょうか。でも、その結論の前に、先生に聴いてもらいたいものがあるんです」

 瓦木紗綾はそう言うと、急に立ち上がって、横に掛けてある手提げかばんの中から黄色い袋を取り出した。

「事件がニュースになって、なかなか探すのに苦労したんですよ。ほらこれ」

 瓦木紗綾はその黄色い袋を私に差し出すと、嬉しそうに笑ってソファに腰かけた。私は紗綾の顔と黄色い袋を見比べると、その袋を開いた。中に入っていたのは一枚のCDシングルだった。

「亡くなった三条昭代がボーカルを務めていたバンド、『B・C』のデビューシングルです。最初で最後のシングルですね」

「これを……?」

「ええ、先生に聴いていただきたいんです。私は所詮音楽というとクラシックとか、一昔前の音楽とかしか聴きません。最近の音楽だったらまだ先生の方が詳しそうですし、歌詞を読んで何か発見するかもしれません。だから、今ここで先生と聴いてみようと思うんですよ」

 瓦木紗綾はそう言って再び立ち上がった。どうも節操がない。瓦木紗綾は私の手からCDを受け取ると、部屋の隅のオーディオにそれを入れて、歌詞カードを私に手渡した。

「最近の若手アーティストをこれでかけるのは初めてですよ」

 瓦木紗綾が三度ソファに腰を下ろしたところで、オーディオが空気を振動させ始めた。瓦木紗綾は眼を閉じて腕を組むとそのまま深くソファに沈みこんだ。一曲目は静かな始まりだった。それがぷっつりととだえると、堰を切るように高速のギターのフレーズが、深い残響音を伴って流れ始めた。吸い込まれるような音は確かに心地よかった。確かに、バンドの初めてのシングルとしては面白い曲だった。その音が広がり消えていくのを見届けると、瓦木紗綾は閉じていた眼を開いて、どこからともなく取り出したリモコンで再生を止めた。

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