第六章
平成二十四年五月二十一日午前七時、杜夫は家を出ると、待ち合わせ場所である公園へ向かった。手には二組の日食観察グラスが握られていた。気象庁の発表ではすでに食は始まっており、七時半前後で本格的に日食が開始するとのことだった。
各種報道機関の盛り上がりとは裏腹に、普段通りの平板な平日の空だった。日食といえば朝焼けにも黄昏にも属さない幻想的な空が有名であるが、この日の空にはそういった神秘や幻想はなかった。ところどころ灰色の雲が間隔を空けて流れているが、それほど発達していなかっため観測は可能であった。もっとも富士山だけは雲に隠れて確認できなかった。
公園に着くと、一人の少女が砂場の上でくるくると踊っていた。少女は両腕を水平に伸ばし、爪先立ちで身体のバランスを崩しながら周回している。首も円軌道に沿って忙しなく動いている。杜夫は公園内を見渡した。旗手星哉の姿はどこにもなかった。
少女の小さな足が、沈みやすい地面を踏み締めるたびに砂粒の軋む音が鳴る。彼女は首に絡まるイヤホンコードを物ともしなかった。この日の踊りは一段と激しく、そのせいで片耳のイヤホンが外れため、漏れ出る「禿山の一夜」は大音量だった。
「ね、言った通りでしょ。星哉くんはここには来ないって」響は踊りながら杜夫に話しかける。「彼はあたしたちとは住む世界が違う。距離が違いすぎる。彼はずっとずっと遠くにいて、あたしたちはただ眺めていることしかできないんだよ」
「おれと天宮さんにだって距離はあるけど」
「そりゃあるでしょうよ、人間なんだから」響は急に冷たく言った。
月が太陽の中心へと近づいていく。太陽は月の侵食を受け入れ、ゆっくりと三日月状に変形する。じきに月と太陽が重なることは明白だった。
「で、天宮さん。世界はいつ滅びるの?」
「もうすぐよ、もうすぐ。まだ重なってないわ」
「ほんとに信じてるの?」
「信じてるよ。嘘なんてつかないもん」
日食の進行に合わせて、響の踊りは一層激しさを増していた。さきほどまで砂場の上で踊っていたのが、杜夫の周囲をぐるぐると回るようになっている。彼女の乱れた呼吸音が聞こえてくるし、時折、暴れ狂うイヤホンコードが彼の腕を強襲した。
「ところで天宮さんは日食ってどういう現象か知ってる?」
「月が太陽を覆う現象。闇が光に勝利する聖なる瞬間。どうしてそんなこと聞くの?」
「闇が光に勝利、ね」
「なんなの急に」
「月が太陽を覆うってのは皆既日食の説明としては合ってるよ。でも日食にはもう一つ種類があって......」
「そんなのどうでもいい!」響が声を張り上げた。公園で彼女が叫ぶのはこれで二度目だった。「あたしクラスでいじめられてるの」
「なんで今その話するの?」
「いいから聞いて。毎日消しゴムをぶつけられたり、体操服をびちゃびちゃにさせられたり」
「知ってるよ」
「それだけならまだ許せるわ。問題はいじめが繰り返し行われてることよ。毎日毎日、順番にやられて。一周したかと思えば、二周目が始まって。少しいじられるくらいなら我慢できるわ。でも、繰り返しされたら気持ち悪くて吐きそうになる。自分が惨めで死にたくなる」
「先生に相談したら?」杜夫が言った。
「そんなことしたら、ほんとにいじめられてることになっちゃうじゃん」
「なっちゃうって......」
「それにあたし、いじめのことは全然気にしてないよ?」
「え?」
響は腕を後ろに組んでくるんと一回転した。
「男子ってさ、女子にちょっかい出したくなるのよね。そういう生き物なの。だから仕方ない仕方ない。それにかわいそうだよ。彼らだってある意味被害者なんだから」
「被害者って?」
「あの子たちは操られていたのよ。所詮は実行犯。あたしが憎いのは背後でほくそ笑む主犯格よ。そいつが許せない。散々自分は楽しんで、ばれたら罪を他人になすりつけ、最後は救いの手を差し伸べる。偽善者。あの人こそが真の悪よ」
「偽善者って誰なの?」
「竹田くんもよく知っている人」
「だから誰なんだって」
「それは言えない」響はそう言うと、ポケットに入っていたiPodをいじって一時停止した。
「なんで?」
杜夫は何度でも響に問い続けるつもりだった。彼女の言ういじめの主犯格、偽善者とは誰なのか、彼女自身の口から答えさせるために。
「だってそれは、――」
その瞬間、太陽と月が重なった。白く光る円の前方に黒円が入る。しかし、太陽が闇に蔽われることはなかった。月が覆うにはわずかに径が足りず、縁に沿うように日光が顔を覗かせていた。
無論、世界が滅びる予兆はなかった。地の底が揺れることも、雷鳴を伴う豪雨も発生することもなく、これまで通り平板な平日の空に金環が浮かび上がっているだけであった。
日食という現象は響が期待していたような非日常ではなく、退屈な日常の延長に過ぎなかった。百年に一度のイベントも二人を抑圧された世界から連れ出してくれる訳ではなかった。
「うわああああっ!」
突然、響が痛みに苦しみ始めた。両目を押さえ地に伏せ、号泣した。なぜ彼女が苦しんでいるのか。太陽光を直視したからなのか、世界が滅亡しないという現実に絶望したからなのか。杜夫には判断できなかったが、彼女の精神が発作的に乱れていることは定かであった。
「響!」
突然、後方から声が聞こえた。旗手星哉が公園の入口に立っていたのである。杜夫は響の頭越しに星哉を見た。響は小柄な杜夫よりもさらに小柄であった。杜夫と響を結ぶちょうど一直線上に星哉は立っていた。
星哉は駆け足で二人の方へ近づいてくる。普段はそっけない星哉が、自分の方から近づいてくるなど大変珍しい、というよりありえないことだった。寄ってくる彼の腕には真っ白な白衣と水の入ったペットボトルが携えられている。
「響、大丈夫か?なんでこんなところに......とにかく一緒に戻ろう、父さんが心配してるんだ」星哉は素早く駆け寄ると優しく介抱した。
「気分悪いんでしょ。さあこれ飲んで。父さんが出してくれた薬」
星哉の指示に従って、響は処方された精神安定剤を含んで水で流し込んだ。
「あ、ありがとう、星哉くん......」響は俯いて礼を言った。
旗手星哉は約束通り来てくれた。しかし、それは杜夫の意図したシチュエーションとはまったく異なるものであった。
杜夫は彼らに関して二つの点で驚いていた。一つは二人が下の名前で呼び合う仲であったこと、いま一つは星哉が「父さんが心配してるんだ」と言ったこと。
「旗手、なんでここに?」杜夫は尋ねた。
「響はうちの病院の患者さんなんだよ」
「病院って?」
「メンタルクリニックのことだよ。知ってるでしょ? まあ、竹田はうちにあがったことないけどね」
杜夫は少なからず傷ついていた。星哉の父が医師であることは知っていたが、自分の知らないところで二人が繋がっていたことに嫉妬しないわけがなかった。
杜夫が勝手に落ち込んでいる間にも、星哉は響の頭を撫でていた。男子が女子の髪に触れるという極めて危険な行為も星哉にすれば造作もないことだった。
「まあおしゃべりするようになったのはあのいじめ事件のあとからだよな。おれももっと早く気に掛けるべきだったよ」
「そ、そんなことないよっ! 星哉くんのおかげでいじめも収まったし」
星哉と会話しているときの響はどことなく緊張していたが、乱暴な言葉遣いをせずワンオクターブ高めの音域で発声していた。どことなくしおらしい態度も見せていた。
「響って普段は大人しいけど、竹田と二人きりだとあんなに楽しそうにするんだね」
「は、はしゃいでたかな......?」
「凄かったよ。竹田の周りをぴょんぴょん跳ねてさ。踊ってるみたいだった」
「は、恥ずかしいな。見られてたのは」
「おれには見せてくれないの? さっきのくるくる踊り」
「いや、できないよ。恥ずかしい」
「ふーん、できないんだ。まあいいや。で、竹田とはいつから友達なの?」
「えっ竹田くん? 違うよそんなんじゃないよ。ちょっと話が合っただけ」
「だってさ、竹田。友達だと思われてないぞー。ハハハ」星哉は高らかに笑った。あの愛くるしい笑窪が金環日食の淡い光に照らされて浮かび上がる。
「竹田もさあ、せっかくそれ持ってるんだから彼女に貸してあげなよ。ほんと気が利かないよな」
杜夫が握りしめていた観測グラスに目線が注がれる。普段の様子とは異なり、星哉の言動は責め立てるかのようなだったが、言ってることは十全に正しく、反論の余地などなかった。天体観測などより身体の健康を優先することは自明であった。
しかし、杜夫は納得できなかった。彼の内ぐるぐるとどす黒い、名前のない感情がに芽生えていた。名前のない感情はみるみる杜夫の内部で燻り出し、残酷な衝動へと変化した。
「大丈夫だよ竹田くん」響はそう言って涙を拭った。「あたしもう平気だから」
「響、帰ろう。みんな心配してる。気分が悪いでしょ。うちの父さんがまた薬を出すからそれを飲んでゆっくり休むんだ」星哉はそう言って、響の肩を抱いた。
「でも、日食が」
「竹田の誘いなんて別の日にすればいいよ。今はそれどころじゃないし。だいたいさあ、響と竹田ってほんとに友達なの? 響がいじめられてるとき竹田は何してた? ただ後ろで見てただけなんじゃないの?」
「え、えっと、そ、それは、ハハハ」
「おれを無視するなよ!」
怒鳴ったのは杜夫だった。怒号は竹田杜夫を発信源に同心円状に広がり、公園を飛び出すと近隣住宅群を貫いた。
「言いたいことがあるなら直接言ったらどうなんだよ! こそこそ嘲笑いやがって。おれのことは無視かよ! 馬鹿にするなよ! おれだってここにいるんだぞ!」
杜夫はなおも怒鳴る。一度爆発した怒りが飛び火して、溜まっていた鬱憤が次々と残酷な衝動となって放出される。バスケの試合のとき同様、声が上ずって甲高くなってしまい、それによる羞恥心が怒りに変換され、ますます癇癪に歯止めが効かなくなっていた。あまりの大声に近隣住民が窓を開けて公園の様子を伺い始めていた。
「竹田、急にどうしたんだ。そんな大声出して。迷惑だよ。落ち着けこう、な」星哉は先ほどとは打って変わって、宥めるような優しい調子で言った。
「もううんざりなんだよ! 馬鹿にされるのは」
「竹田、とにかく落ち着こう。お前ちょっと変だよ。近藤の家に迷惑かけたり、試合中に突然シュート撃ちまくったり」
「そうだよ、竹田くん。一旦落ち着こう?」響も星哉に同調して宥める。
「天宮さんもなんで旗手に従ってるんだよ。いじめの主犯格って旗手のことなんだろ? 偽善者だって批判してたじゃん」
「響、本当なの?」星哉は再び声色を変えた。今度は嘲笑するような調子ではなく、言葉で人を刺すような低い声だった。
「竹田くん、何言ってるの......?」響は震えた声で言った。「あたしそんなこと言ってない。あたしはみんなにいじめをやめてほしくて。特定の誰かを犯人だなんて言ってないよ。ましてや星哉くんは助けてくれた恩人だよ。ヒーローだよ。そんなこと言うはずないじゃない」響は星哉の誤解を解こうと必死に弁解した。
「嘘だ! さっきそう言ってたじゃないか」
「嘘はやめよう竹田くん」響は穏やかに、それでいて鋭い口調で言った。「星哉くん、ごめんね。あたしのせいで竹田くん誤解しちゃってるみたい。でも彼のこと怒らないで。悪いのはあたしだから」
「天宮さん、おかしいよさっきから。星哉が来てから全然態度が違うじゃん。一緒に世界を抜け出そうって天宮さんそう言ってくれたよね。おれ天宮さんのことずっと馬鹿にしてた。可哀想な女の子だって馬鹿にしてた。でも、違った。おれと天宮さんは一緒だったんだ。似た者同士で、だから引かれ合ったんだ」
「違うよ、あたしと竹田くんは」
「なんで?」
「竹田くんは優しいね。価値は悪いけどすっごく優しい。でも優しい人とは、あたし一緒になれない」
「な、なんだよ、それ」
杜夫は響に詰め寄ろうとしたが、星哉が立ちはだかった。
「彼女を責めるのは違うだろ」
「おれは今、天宮さんと話してんだよ。天宮さん、天宮さん!」
杜夫は衝動を力に変え、拳を握りしめた。こうなれば戦争しかなかった。暴力によって己の存在証明をするしか方法がなかった。こうなった以上、人間をやめて怪物になってやる、という覚悟で星哉にぶつかってった。
しかし、杜夫が掴みかかろうとすると、あれほど噴出していた衝動が急激に萎んで、たちどころに腰が引けてしまう。威勢よく啖呵を切っていたのが嘘のように、杜夫の全身から力が脱けていく。一八〇センチもあるバスケ部キャプテンに小兵の杜夫が勝てるわけもない。そのような厳然たる事実が彼の闘争心を削いだのだろうか。結局杜夫は、星哉の片腕に押し返されて惨めに倒れた。情けない終戦だった。
「響、こんな奴放っておいて帰ろう」星哉は響の腕を引いた。
ちょうどそのとき、一台の車が公園の入口で停車した。車種はメルセデスベンツ。銀色のエンブレムがきらりと光っている。
「父さんの車だ。迎えが来たよ、さあ帰ろう」
星哉は携えていた白衣を肩に掛けようとしたが、響は「待って」と制止した。
「少しだけ時間をください」
響はそう言うと、戦意喪失している杜夫に近づいた。
「竹田くん」
杜夫は返事をしなかった。今の彼には返事をする気力すらなく、ただ地面に突っ伏していた。砂利が唇に当たる。不愉快な舌触りで、杜夫はこれが屈辱の味なのだと悟った。
「今まで仲良くしてくれてありがとう。そして、ごめんなさい。今日の日食が皆既日食じゃなくて金環日食なことくらい、テレビをよく見ればわかったのにね。あたしってほんとに馬鹿」
響はiPodを取り出して再生ボタンを押す。彼女の愛した「禿山の一夜」が流れる。
「これ竹田くんにあげる。友情の証に貰っておいて」
杜夫は与えられるがままにiPodを受け取った。それと同時にベンツのエンジンが掛かり、時間が来たことが告げられる。日食も気が付けば終了しており、太陽と月は再びそれぞれの軌道へと旅立っていた。
「それじゃ行くよ」
星哉の手によって、響の震える肩に白衣が掛けられる。
「さよなら」
響は明るく、落ち着いた調子で言った。
ここでようやく杜夫は顔を上げた。別れを告げる彼女がどんな顔をしているのか、最後に拝んでおこうと思ったからである。蔑んだように笑っているか、嫌悪感を示しているか、あるいは無表情か。三択のいずれかに思われた。
しかし、彼の目に映った天宮響はそのどれでもなかった。
彼女は笑っていた。それもただの笑顔ではなかった。どんな悪意や憎しみも浄化させてしまうような、聖母の慈しみと無垢な幼女の信頼を示した、一〇〇パーセントの笑顔だった。
これほどまでに感動的な心暖まる笑顔というものを杜夫知らなかったし、未来においても出会えることはないと言い切れるほどに、百点満点の笑顔だった。そして次の瞬間、微笑はたちどころに消えてしまった。
杜夫の喪失感をよそに、すでに星哉が響を後部座席に乗せていた。間髪入れずベンツは発車する。杜夫は一人だけ公園に取り残された。
杜夫はなんとなく彼女のiPodを手に取り、イヤホンを耳に当てる。再生ボタンを押すと流れてきたのは、静寂な朝のメロディーだった。夜が終了し魔物たちが退散すると静かな鐘の音と共に暖かな光が差し込んでくる。
「嘘ばっかりじゃん」
杜夫はそう呟くとその場でくるりと回ってみた。砂場や照明灯、その他様々な事物がが杜夫を中心に回転しているように見えたが、実際は彼自身が回転しているだけであった。そして、そのまま勢いよく倒れ込む。地面に叩きつけられる寸前、彼の目には取り囲む風景すべてが上昇しているかのように映った。
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