第16話 水と炎

薄く目を開ければ、雨のような細い銀糸が光をまとって輝いているのが視界一杯に広がっていた。


「おはよう、私の黄金草」


「……? えれす……?」


よく見ると銀の光はエレスの髪だった。

エレスが既に起きていて、リリアの寝顔を眺めていたらしい。


完璧に整った美貌に穏やかに微笑まれ、妙な居心地の悪さを覚えながらリリアは慌てて体を起こす。

身体を動かさないとリリアこそいつまでもエレスに見惚れてしまいそうだった。


「やだ、そんなに寝ちゃったのかしら。ごめんなさい、今支度するわ」


「いや、私が寝ていないだけだ。まだ朝も早い。リリアはもっと眠るといい」


「寝てないって……」


精霊でも人の形をとれば眠る必要があると言ったのはエレスだ。

よくよく見ると朝日に照らされて浮かぶ白い顔のその目の下に、うっすらとだが隈が透けているように見える。


「まっ心配しないでいいよ! 肉体を得た後はしばらく慣れる必要があるってだけだからさ! 限界まで起きて眠れば次からコツが掴めるさ!」


足元で文字通り羽を伸ばして寝ていたアエラスが会話を聞いたのか、パチリと目を開けて起きた。

起きてすぐ飛びあがり、羽音を響かせながらすさまじい勢いで喋る様子にリリアは少々面食らう。


「おはようアエラス。その限界まで起きているのが心配なんだけど……。あなたもそうなの?」


「おはようリリア! ボクはこの姿に慣れてるから普通に寝るよ! 王様も心配いらないって! 別に死ぬことはないんだからさ!」


では、出会った日に一緒に眠った時エレスは起きていたのだろうか。

確かに眠ったのを確認したわけではないが、そもそも確認のしようもない。


寝不足の辛さはリリアもよく理解しているつもりだ。

どうしたって心配になるが同じ精霊の事はリリアには分からない。

同じ精霊のアエラスの言う事なのだからそちらを信じるべきだろうか。


「アエラスの言う通りだろう。人の形を取っていても普通のヒトとは違うようだな。どうもあまり疲れないし、やたら頑丈に出来ているとでも思ってくれ」


「そうなの……? でも、辛かったらすぐ教えてね」


「ああ。私の乙女は優しいな」


エレスはリリアの手を取りうっとりと優しいまなざしを投げる。


「あ、当たり前の事よ」


「いやー精霊を心配するって相当珍しいよ!」


当然の事をしてもどうやらそれは当然ではないらしい。

不勉強が明かされるのは正直恥ずかしい。


「それよりご飯食べようよお腹減ったなー!」


「アエラス」


無邪気な物言いに、たしなめるようにエレスが名前を呼ぶ。


「そうね、私もお腹減ったわ。今準備するわね」


アエラスの言葉でベッドから降りて外へ向かう。

汲んでおいた水で顔を洗い、伸びをすると気持ちが良い。


そういえば私もこの小屋に来てから随分すっきりしているわね。


ここへ来てから用事を言いつけられる事もなくぐっすり眠る日々だ。

身体が軽いし、気力に満ちているような気がする。


エレスもゆっくり眠れればいいけど。


そのまま暖炉へ向かう。

孤児院ではキッチンが別にあったが、この狭い小屋ではむき出しの暖炉が台所だ。


「アエラス、お前は自分で用意できるだろう」


何が気に入らないのか、不機嫌そうにエレスがアエラスを横目で睨めつける。


「でもリリアのご飯を王様が夜中これでもかって自慢してくるからさー! ボクだって食べたい!」


これにはリリアも焦った。

人が寝ている間に何を吹き込んでいるのだろう。


「ちょっとエレス、何を言ったの? 私はそんな期待してもらうようなものは出せないわよ」


「そうかもしれんな。期待以上のものだから想像するだけ無意味だ」


困った事にどんどんハードルが上がっていく。

勿論自分の料理が美味しくないとは思わないが、どうやらエレスは久しぶりに人の身体で料理を食べた事で必要以上に感動しているようだ。


しかし今の姿に慣れているというアエラスはきっと素直に感想を述べるだろう。

そこでけちょんけちょんに言われてしまったら落ち込みそうだ。


あ、落ち込みそう、だなんて。

……私ったらこの短い間ですっかりエレスに甘やかされるわね。


先回りして落ち込んでおく事で心を守るのはリリアの癖だ。

だが、村にいた時はそれが常態だったのでその癖を意識した事があまりない。


先に崖から落ちておけば誰かに「突き落とされる」事はない。

それがリリアなりの処世術だったのだが、この短い間に少し優しくされただけで心の鎧が剥がれている。


だめね。しっかりしないと。


リリアはひっそりと気合を入れなおしながら、昨日仕込んでおいた鍋を取り出す。

鍋の中にはリリア特製の肉の煮出し汁を仕込んであった。


もう食べる所がない鶏と牛の骨を乾燥させたもの、クズ野菜を布に入れて煮たものに孤児院の裏庭で個人的に育てていた香草ハーブを入れたものを、灰汁を取って一晩ゆっくり煮出した。

それを丁寧に濾すとリリア特製の出汁になる。


この特製出汁はリリアが偶然見つけたものだ。

孤児院では夜中まで起きていたリリアはお腹が減る事が多かったのだが、院の共有財産である食材に手を付けるわけにもいかない。


そこで目を付けたのが温かいスープだ。

白湯でもお腹は落ち着くが、いらない食材を入れてみたらどうだろうと思ったのだ。

村では食事に使った後の骨は普通捨てているが、それを入れてみた。


うっすらとだが肉がついているし、美味しいかと思ったのだが当然というか、さすがに美味しくはなかった。

生臭いし、油が浮いている。味もついていない。香りの強いハーブを入れてみてもだめだった。

良い考えだと思ったリリアだったが、意気消沈してその日は眠る事にした。


しかしうっかり片付け忘れていた鍋の中を翌朝見てみると良い香りがしていたのだ。

その残り汁を使ったスープは大人気。

美味しいスープと皆の反応に凄まじい手ごたえを感じたリリアはそれから少しずつ改良を重ね、今に至る。


その出汁に刻んだ土玉ねぎ、エーコンを入れ火が通るまで数分煮る。

味を調える為に岩塩をひと振りと蜂蜜酢を少し。


ここに芋や豆をいれればそれだけでメインになるが今回は黒パンを使う。

黒パンをちぎってスープ皿に入れておき、チーズをふりかけてそこへ熱々のスープを入れる。


こうすれば硬い黒パンがスープをよく吸ってふかふかとろとろになって美味しいのだ。


他人が作ったものを食べる機会は少なかったが、美味しくなるように研究した積み重ねがリリアのちょっとした自信になっている。

料理を始めた頃はマチルダ院長にズタボロに貶されたが、そんな院長がどんどん何も言わなくなっていったのが証拠と言ってもいい。

マチルダ院長は隙あらばリリアで憂さ晴らしをするので、それをしないという事は充分以上に合格ラインを超えているという事だ。


「出来たわよ」


「良い匂いがするーっ!」


調理中も落ち着きなくリリアの手元を眺めていたアエラスは、今度は配膳されたお皿の周りをぐるぐるしている。

なぜかエレスもリリアの傍に立ち、手際を見つめていた。

どうやら二人は待ちきれずお皿をテーブルに運びたいらしい。

対した距離ではないし、運ぶだけなのだから座ってくれていてもいいのだが、その気持ちが嬉しい。


リリアも席について食前の祈りを唱える。


「あっそれ知ってる! 人間がよく言ってるやつだ!」


「ふふ、そうよ。私たちのお祈り、ぜひ受け取ってちょうだい」


「うん!」


「熱いから気を付けてね。ふーふーするのよ」


「待てアエラス」


「ふーふー?」


エレスが止めたがアエラスはもう目の前の料理しか見ていない。

リリアを真似て小さな口をめいっぱい開ける。


「おやおや、風の精霊にそんな事をさせてはどうなるか分かりませんよ」


そしてアエラスがふー、と息を吐く前に、スープとアエラスの間にひらりと涼やかな青色が舞った。

翻る尾びれの優雅な、青い金魚だ。

金魚は見た事がある。

ただし目の前の金魚は空中を泳いでいた。それにどうやら帽子のようなものを被っている。


な、何かしら? 精霊様?


「ウォネロじゃん!」


「ご無沙汰しております」


アエラスが元気よく名前を呼ぶ。ウォネロ、という事はどうやら水精霊のようだ。

空を泳ぐ不思議な金魚は水そのもので出来ているかのように、ひれや帽子の先が透けている。


「初めまして乙女。水の大精霊のウォネロと申します。いやあ、驚かせてしまって申し訳ない」


ウォネロはその場でくるりと回ってひれで器用に帽子を持ち上げる。

孤児院に寄付をしにきてくれる人の挨拶のような、紳士然とした金魚だ。


「あたしにも挨拶させてくれよ」

そしてそんなウォネロの隣で、何もないのに溌剌とした声と共に炎が燃え上がった。


「初めまして乙女。あたしは炎の大精霊フォティア」


炎が収まるとそこに現れたのは真っ赤なドラゴンだった。

ドラゴン。院にあった絵本でしか知らない存在だ。

大きさこそアエラスとそう変わらないが、艶やかなウロコや口を開けるたびにちらちらと炎が見える。


「いえこちらこそはじめまして……。リリアと申します」


「あっはは、そんな畏まらなくてもいいって」


炎の大精霊、フォティアは小さい手をリリアに差し出す。

快活な女性を思わせる精霊は、そっと握って握手をするとほんのり温かくぷにぷにしていた。

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