膨らむ小指と勝手に膨らむ夢
椅子の足を思いっきり蹴り上げた。指先に激痛が走り思わず顔をしかめたが,やつの視線はこちらに移った。ハトが豆鉄砲を食らったみたいな顔をしてこちらを見ている。鼻の穴を膨らませたままキョトンとした表情がまた腹立たしい。
「痛え,何すんだよ」
「何すんだよ。じゃねえよ。お前の視線が教室の風土と民度と日本男児の誇りをブラジルの方にまで押し下げているのを食い止めたんだよ。ほんで,痛えのは私の足だよ!!」
「何言ってんだよ! 別に,なにも見てねえし!」
「鼻の下伸ばして目ぇ見開いてふがふが言いながら何も見ていない訳ねえだろうが! ほんで何テンパっているんだよ。見てたことちゃっかり認めてんじゃん! まあ,お前の視線の向かっていた先の人に,今後の無防備な動きは横に変態がいないか確認してから行うように伝えておくから。脇の中の汗腺まで覗き見ているようでこっちまで鳥肌立ちまくって気持ちが悪いからな」
悪かった,勘弁してくれよ。などと言いながらシャツをつかんで引き寄せてくるが,言いたいことを言えたことと,本人が低俗で自分がした行いの愚かさと不埒さに気付いていることに満足して,あとのことはどうでもよくなった。
ただ,もう一切こんな気持ち悪いやつには関わらないと決めたその時,相手は無神経にもほどがある厄介者であることを思い知らされた。こいつとは去年も同じクラスだったが,全くつかみどころがない。こちらの逆鱗によく触れてきて,ほかの女子たちも良く激高している。質の悪いことに,悪気のないこの男はその時は本当に済まなさそうに顔をして遠慮の一つは見せるのだが,ほんの少し時間が経つとそれまでのことはなかったかのように距離感を一気に詰めてくる。この空気の読めなさやへたくそな距離感の詰め方はどうなっているのだとよく話題に上る。愛されキャラでもあるため深く人の恨みを買うわけではないが,いかんせん当事者はイライラさせられる。このドツボにはまった人を見ているとけらけらと笑っていられるのだが,はまった当の本人はたまったもんじゃない。エロがっぱに至っては何に笑われているのかも腑に落ちていない。ほんと幸せなやつだ。
今日もその能天気さが爆発した。
「なあ,お願いがあるんだ。美月ちゃんに,おれのこと言い風に言ってくれない? さっきのことを黙っていてほしいって言っているわけじゃないんだ。ただ,恋のキューピットっていうか・・・・・・そういういい役回りをしてほしんだ。なあ頼むよ!!」
なあなあうるさい。そして,どこまでも図々しい。さっきのこと黙ってほしいわけじゃなくて,ただ恋のキューピッドになってほしいってどんな言い分だ。こいつの思考回路にはほとほと呆れる。怒りを通り越してあきれ果てた。仲を取り持つなんて面倒なことをしてやるつもりなんて毛ほどもない。第一,昨日ほんの少し,しかも他人行儀で話をしただけで仲が良いとは言い難い。「鬱陶しいから!」と言っても安易に引き下がらないこのメンタルはどこから来ているのやら。
わざわざ足の指を痛めてまで感情を撒きに行ったことを心底後悔した。私はいつも押しの弱い。どれだけ腑に落ちなくても,納得がいっていなくても最後は必ず折れてしまう。先に相手が折れることも無いわけではないが,そんな時はいつも自分の中で相手に妥協をさせてしまったという罪悪感が尾を引いて,首を絞めてくる。そうして呼吸が苦しくなってこらえきれなくなり,自分が折れると言いに行く羽目になる。思えばこれまでの人生で我を通しきったことがない。自分がないと言われたらそれまでだが,どうしても一時の感情を貫き通したり,相手を言い負かしてでも我を通すということが出来ない。「お前は勝負に向いていない」とよく少年野球の監督に言われたが,本当にその通りだ。男の子混じって野球をやっているということに劣等感を感じたことはなかったし,むしろ初めの頃は体も力も男子よりも強かったために誇らしかったくらいだ。それでも道具を誰が使うだとか,ヘルメットのサイズが合わないからだとかくだらないことで大喧嘩になっても,男の相手に本気で言い合って泣かしてしまう。そうしてそのあとで自分が折れてサイズの合わないヘルメットで打席に立ち,頭の上を上下させながらグランドを駆け回る羽目になるのだ。母にはあのサイズ違いのヘルメットで空振りをするたびに顔が隠れたり,打った後に走りながら頭を押さえて必死に走る姿がたまらなくいとおしかったらしいが。
高校生になってもその性格は変わらない。今回もそうだった。エロがっぱの理不尽な要求を断り切れず,「なんでもいいから」という訳の分からない抽象的な要望を受けて間を取り持つことになった。
まあ,一回でもどこかにお茶でも行って,自分とこの美少女は何かの間違いがあったとしても釣り合わないのだということを実感してもらえたらいい。そうして自分の生まれと育ちの違いに勝手に絶望すれば良いのだと割り切り,乗り気ではないことを前面に押し出した生煮えの返事をした。
伝わっていないとは到底思えないのだが,「よっしゃ!」と見当違いにもほどがある喜びの感情を表に出して意気揚々とトイレへと向かっていった。
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