魔都にて待つ

雨宮いろり・浅木伊都

第1話 バンダースナッチ

 目の前で緋色の槍がひらめくのを見た。


 長い鈍器と化した槍は、神性獣バンダースナッチの頭を上から思いきり殴りつける。別の標的を追いかけていたけものは苛立たしげに吼えて、攻撃してきた人間に突っ込んで行った。

 その様子をぼんやり眺めていると、背中からぐいぐいと押され、コンテナの中に雪崩れこむはめになった。小さなコンテナだ。そうたくさんの人間を収納できるとは思えないが、野菜みたいに放り込まれる人間の波に流されて、たちまち奥の方へ追いやられる。


「押さないで下さい」


 訴えたところで誰も聞いてくれないので、腕を突っ張ってどうにか居場所を確保した。その拍子に何か柔らかくていい匂いのするものを潰した気がした。多分横のおばさんが持っていたバゲットだと思う。


 コンテナの中はたくさんの人々が押し込められていて息が詰まりそうだった。真っ暗で視界がきかないのも何だか落ち着かない。

 緊急避難は致し方ないとしても、もう少し早めに教えてもらいたいものだ。神性獣が落っこちたらどうなるかくらい、「上」の人たちも分かっているだろうに。


 コンテナに押し込まれる前にちらりと見た神性獣は、ライオンによく似た形をしていた。大きさはひなびた村の教会くらい。つまりはそんなに脅威じゃない。

 とはいえ人など容易く噛み殺してしまえるだろう。それに彼らは、人間の武器では傷ひとつつけられない。空から落ちてきた神性獣を処理できる者は限られているのだ。

 しばらく剣呑な轟音が続いて、あたしたちは何度も身をすくめた。外にいる神性殺しスラッシャーが何事か叫んでいる。コンテナ内部は、どんな攻撃に晒されても絶対に安全だと言われているけれど、そんなのどうして信用できるだろう。


 しばらくたってから、神性獣の咆哮がいよいよ切羽詰まったものになってきて、狩りの終わりが近いことを悟る。

 コンテナががくん、と大きく揺れ、後ろの人がひっしとあたしの腕を掴んだ。ひっくり返るんじゃないかと思う程の揺れに、あたしも思わず腕を掴み返す。女性の押し殺した悲鳴があちこちで火花のようにぱっぱっと響いた。


 そう言えば神性獣による被害が最も大きく出てしまうのは、神性獣を追いつめたときに彼らが発揮する窮鼠の力のせいだという噂を聞いたことがあるけれど。その噂を信じるならば、今が一番危険ということになる。どうかつつがなく退治されてくれますように――。


 次の瞬間、ぎょっとするほど甲高い断末魔が轟いた。長く長く尾を引いたその声は、やがてふつりと途切れた。

 耳がつんと痛くなるような静寂と、人々の押し殺した息遣いがコンテナを満たしてゆく。


「……終わりました?」

「みたいですね」


 おずおずと手が離れてゆく。コンテナ内部にぱっと明かりが灯った。

 ずいぶん多くの人間が押し込められていたようだ。あたしはやっぱり腕で横の人のバゲットを潰してしまっていたようだが、素知らぬ顔で人ごみに隠れた。

 コンテナの扉が開け放たれた。市役所の職員があたしたちを安心させるように作り笑いをする。


「緊急避難警報が解除されました。もう出ても大丈夫ですよ」


 流れ込む空気に混じって、錆びついた血の匂いが漂ってくる。


「わ……!」


 真っ先に目に飛び込んできたのは緋色の槍だった。

 本物の神性殺しの槍だ。血の色にはまるで馴染まない、凛とした色をしていて、長さはあたしの身の丈の二倍くらいはあるだろう。柄の部分が透かし彫りになっているのはなるほど聞いている通りだ。

 穂先はどうだろう? こちらはガラスのように透明になっているのだが、見る角度によって映ずる模様が違うという。ほんとうかな。見てみたい。


 そこで初めて、槍が貫いている神性獣の種類に気づいた。


「獅子型かあ」


 青いたてがみに何筋か金色の模様が入っていて綺麗だ。槍の刺さった胸からは夥しい量の血液が流れていて、石畳の上を伝っている。断末魔の形相を残した頭部にはいくつも古傷があって、この個体が長く生きていたことを知る。

 見開かれた目は、神性を帯びた生き物特有のあでやかな金色をしている。けれどその色彩は、まるで風に吹かれた金の砂みたいにさらさらとほどけていって――。

 最後には海のような群青が残った。


 逃げ遅れた僅かな金色のつぶが、まるで天の川みたいに輝いていて、あたしはじっと覗き込んでいた。けれど死の概念を知り、もはや神性を宿さないこの体にはひとつぶの黄金色も許されていないようで、神性獣の目は完全な海の色に没した。

 たてがみもその色を変じている。青というよりはどす黒い紺色に染まっていて、流れる血もどんどん濃くなってゆく。こうなってしまえばもう神性殺しの出番もなく、あとはこの街の死体処理班がやってくるのを待つだけだ。


 長身の男性が顔をしかめながら槍を引き抜いた。ネジで孔を開けたあとのような傷跡から、ヘドロめいた血がごぷりとこぼれた。

 槍を持っている、ということはつまり、この人が神性殺しだ。細身のパンツに黒いシャツと、格好だけ見れば不良じみているけれど、この槍を軽々と操っているという事実が、彼の高い実力を保証している。


「しかし今回は酷い。死傷者こそいないが、落下警告を受領したのはこいつが落ちてくる僅か五分前だ! 最低でも三十分前に警告を出すように何度も申し入れているのに」


 応じるのは市役所の職員だ。


「連絡ミスだのなんだのと理屈をつけて、落下地点をなかなか伝送してこないのも悪質です。抗議申し入れすべきかと」

「抗議できる相手と思うか」


 男性は長い槍を軽々と振り回す。ガラス細工の如き繊細な穂先がぴたりと天を指した。


「アレと対話できると思うのか」


 穂先が示すのは、天下に誇る大都市アルハンゲリスクの、合わせ鏡のような都市だ。

 蒼天を阻み、まるでこの地を睥睨しているかのような天空要塞。重力など知らず、さかさまの都市としてそこに浮かんでいる。

 名をミネルヴァ。神性を帯び、不死となった生き物――オブシディアンの住まう場所である。


 石づくりの建物、尖塔の数々、荘厳な教会といった建築物は全てこの都市の模倣だ。彼らのオリジナルのものは何一つとして存在しない。アルハンゲリスクに古くからある尖塔の群れが、何も語らずミネルヴァに鎮座している様は、まるで喉元にナイフを突きつけられているかのようである。


 そもそも彼らは都市を必要としない。だって死なないし、あたしたちのように繁殖もしないのだ。群れあう義理も道理もないのだから、都市機構なんていらない。


 ま、それならそれでいい。不死なる美しき孤高のバケモノ、大いに結構である。


 問題は連中の血気盛んな気質にある。死なないんだから決着なんてつくはずもないのに、オブシディアンは互いを武芸で圧倒することに血道を上げがちな生き物だ。さっき落ちてきた神性獣をひっきりなりに作り出しては、その神性獣や別のオブシディアンを相手に、自分の芸を磨き続けている。


 厄介なことに彼らの闘争はミネルヴァ域内で完結しない。

 戦いがヒートアップしてくると、見境なく相手を攻撃して、普段ならば閉じているアルハンゲリスクとミネルヴァの境目を壊してしまうのだ。そしてその隙間から、手負いの獣だのうっかり足を踏み外したオブシディアンだのが落ちてくる。


 そう、落ちてくるのだ。この街に。人々の生活のただなかに。


 ちっくりちっくり積み上げた生活の上、神性を帯びたバケモノたちは無遠慮に落ちてくる。

 オブシディアンは死なないが、神ではない。そのような存在ではない。一応は人類から枝分かれした存在とされているので、会話は可能である。だからあたしたち人間は、境界が突破されてから即時の通告をするよう要請したのだが。


 結果がこれだ。逃げ遅れた人々は容赦なく神性獣に潰され、死んでゆく。今だって、奇跡的に死傷者は出ていないが、単に運が良かっただけの話だ。

 馬鹿にした話だと思うが、神性殺しの持つこの槍でさえ「落ちてきた」ものだ。オブシディアンは、あたしたち人間が神性獣を殺せるように―自分たちで始末する手間を省くために――槍を与えた。

 神性という不死の鎧を貫いて、獣を殺すための槍。


 徹頭徹尾ナメられている。それに中指を立ててやるだけの度胸も実力も、今のあたしたちにはないのだ。


「対話は、実力が拮抗きっこうする者の間でのみ成り立つ行為だ。……あのように空から軽々しくバケモノを放り出すような戦闘狂いに、どんな言葉が通じるってんだ」


 神性殺しはそう吐き捨てると、槍を軽々と担ぎ直してどこかへ行ってしまった。

 自分の殺した神性獣には一瞥もくれることはない。


 さて。

 神性獣が落っこちて来たのは災難だったが、それはそれ、これはこれ。コンテナ周辺は瓦礫の山ができていて、しばらく通行止めになると言うけれど、メトロが動いているのならば何の問題もない。


「いざっ、十四回目のハローワークへ!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る