手の触れる距離

味付きゾンビ

病院にて

 コツコツと足音のする方に目を向ける。

 空気の動き、物の引っ張る音、ギシっと鳴る椅子。

「平井先生?」

「……よくお分かりですね」

「見えない分、他の事はよく分かるんですよ」

 何度目か分からないやり取りなのだけどつい自慢げに答えてしまう。

「秋村さん、今日の調子は如何ですか」

「何時も通り……と、言いたいのだけれど。なんだかとても眠いままね」

 ひどく穏やかで緩やかにだけれど昨日思い出せたことが今日思い出せなくなり、明日やろうと思っていた事を忘れていく。自分の中で思い出せる事を手探りで探す。

「そう言えば髪の毛を梳いてくれないかしら……なんだかぼさぼさな気がして恥ずかしくて」

「ええ、分かりました」

 立ち上がる気配とゆっくりとベッドの背もたれが上がるのを感じながら話題を探す。思い出せる事を一つずつ確認しながら。

 両親はとうに亡くなった、兄も同じように。自分の娘達はどうなったのか。

 ――娘達と孫達は安全に過ごせているのか。

 髪の毛を梳られる心地よさにそぐわない気もしたし、何度も同じ事を聞いたのかもしれないが思い出した時点から気になってつい口をついた。

「あの、平井先生。私の娘達は……」

 一瞬髪の毛を梳く手が止まりまた再開される。

「先週来られましたよ。お孫さん達も一緒に」

 少し悲しげに聞こえる口調で答えが返ってきた。ああ、そうか自分はもう先週の事も思い出せないのかと言う落胆と娘達も孫達も元気であるという事実から大きく息を吐いた。

「ひょっとして何度も同じことを聞いてるかしら……?」

「いえ、そんな事はないですよ。お孫さん達は先週来られました。今週から高校が始まるのでその前にと言っていましたね」

「ああ、高校……学校が開けるようになったのね……じゃあ、戦争はもう終わったのかしら……?」

「ええ終わりました。今は私たちの住む星を再建している最中です」

「良かった」

 ほうと大きく息を吐いた。

 そう長女に娘が――私の初孫が生まれて暫く経った頃、とても大きな戦争が起きたのを思い出した。最初の頃は何てことないニュースで遠くの話で、あの大きな国が勝つだろうあの国はいつ降伏するのだろう、早く終わってくれないか。

 なんとなくそんな気持ちで遠くから眺めていたのを思い出す。でも、一日一日、次の日のその次の日、次の週の次の週、次の月の次の月と戦火は広がって行き隣の国にまで及んで初めて私は気づいたのだと思う。この戦争からは逃げられないのだと。私達の国も戦争に参加することになり、軍隊は出動して戦争の当事者になった私はこう思ったのだ。世界は燃え尽きるんじゃないか、と。

「……本当に良かった」

 また一つ大きくほうと息を吐いた。

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