ジーマスター(自慰御三家の憂鬱)

七聖

第1話 粗末なプロローグ

 斉藤悟志は,社会人3年目にして,初めて迎えた一人暮らしを満喫していた。

 それまでの悟志の人生においては,全てを安易に親元から通える場所で選択していたため,小中学校,高等学校は言うまでもなく,大学までも通学できる場所だった。その上,就職先も,歩いて通勤可能な圏内に位置する地元官公庁に公務員として就職できたのだから,ある意味,悟志は,非常に恵まれているような,恵まれていないような人生を歩んでいた。しかしながら就職3年目の今年の春,会社の人事異動で,県内の比較的大きな地方都市での勤務を命じられ,初めての一人暮らしをせざるを得ない状況となった悟志は,身の回りのこと全て自分で行うという一人暮らしに,当初は,言いようのない不安ばかりを覚えていたのだが,始めてみればこんなに快適な生活はないと感じている昨今だった。自分の好きな物を自分の好きなときに食べ,周囲の環境も自分合わせて快適に調整でき,テレビの番組についても自分の見たい物をいつでも見,帰宅時間についても毎日誰に気兼ねすることもなく,自由に過ごしていた。ある意味,自堕落な生活のかもしれないが,「どうして俺は,こんなにも快適な生活をもっと早くに選択しなかったのだろうか?」と,悟志は,過去の自分を後悔をもって振り返るほどに,今の毎日の生活を楽しんでいるのだった。

そんな日常にある週末のある日,悟志は,仕事帰りに弁当屋に立ち寄り,大盛り唐揚げ弁当とグリーンサラダをセットで購入した。言うまでもなく,グリーンサラダは,悟志なりの自分の身体に対するささやかな配慮である。そして帰宅途中のコンビニにおいて,週末の自分へのこれまたささやかな御褒美として,ストロング系酎ハイを一本購入し,自宅に帰ると,パソコンと一体型となっているテレビの電源を入れると同時に,間髪入れずにその酎ハイを口にしていた。

 「プハぁーッ!」

 『この瞬間がたまんねえ!』そんな大人としての嗜みの瞬間を楽しみながら,ネクタイを緩めると,部屋着に着替える悟志だった。

 『…市内では,この1か月で,強盗による被害が複数回確認されており,市警においては,市民に対する警戒と施錠の確認を強く呼び掛けています。特に,強盗殺人が2件続いた明神地区においては,市警が特に厳重な警戒を呼び掛けており…』

 「2度もあったら,犯人も警戒するって,普通3度目はないでしょ。」

 悟志は,着替えながら,テレビのニュース番組のチャンネルを変えていた。自分が今,その明神地区に住んでいるにも関わらず。

 悟志は,部屋着に着替え終わると,くつろぎながら,アツアツの唐揚げと酎ハイのコラボを楽しんでいた。そして,お気に入りの動画など視聴しながら,ささやかな至福の時を楽しみ終えると,やおら立ち上がり,ズボンとパンツを脱ぎ捨て,下半身のみを露出させ,パソコンの画面に向き合った。そう,これからが悟志の本当のお楽しみの時間の始まりだったのだ。

 自宅暮らしの間,悟志は,自慰をするにも親の目を盗むようにして活動していた。確かに,思春期の男子としては,自慰をすること自体は当然の行いなのかもしれない,しかし,だからといって,親の目の前で堂々と自慰をする奴は,多分この世には存在しない。仮に目の前でやっていたとしても,それでは本人の気持ちが盛り上がらないだろうし,第一親としても,そんな子どもに何と声を掛ければよいのか,まさに適当な言葉が見当たらない事態である。知り合いで,自宅の自室で自慰をしていて,天井まで精子が飛んでしまい,その後自分で天井を拭いたと豪語する奴がいたが,そんな場面を親が目にしたとすれば,親として,何と言えば良いのだろうか。「たーまやー!(なんとなく,「かーぎやー」ではないような気がする)」なのか,「凄いなあ,赤ちゃんが出来やすいぞ(関心する)。」なのか,「あんた,ちゃんと自分で天井拭いときな!」なのか,いずれにしても,当事者に深い心の傷を残すほかない,苛烈なシチュエーションである。

 悟志は,一人暮らしにおける自慰を,痛く気に入っていた。自らのペニスの思うままに自慰ができる,一人暮らし万歳というような心境だった。確かに,マニアックなところでは,自宅で人目を盗むような緊張感が楽しいとも言えなくもないが,少なくとも悟志は,今の自由な自慰生活に十分に満足していた。

 悟志は,下半身裸のままで,お気に入りの動画を選別していた。そして,期待感が間延びしないようなタイミングで,今夜のターゲットに狙いを定めると,動画の視聴を始めた。今夜のターゲットは,お気に入りの素人モノの東北編だった。悟志の気分的に東北が萌える気分だったのだ。出会いから始まり,素人が脱ぎ出すまで,悟志は興奮が冷めてしまうのに注意しながら,高ぶる時を待った。このじれったさ,高まる緊張感こそが,男の自慰の醍醐味である。そして,女性が脱がされる頃には,自からのペニスに右手で刺激を与え,絶頂への前奏曲をなめらかに奏で始めていた。

 そんな大事な時だった,悟志は,背後のシステムキッチンからおかしな気配を感じた。人の気配なのだ。気のせいかとも思いながら,踊る右手をふと休め,少しばかり振り向いたその先には,見知らぬ若い男の姿がそこにはあった。パーカーで顔を隠したその男は,痩身の体型ではあるものの背が高く,手には光る物,刃物を持っているように映った。

 普通人間は,下半身が露出している状況では機敏に動けない。しかし悟志は,完全に下着等を脱ぎ捨てていた上,先ほどの強盗に関するニュースに関する情報も素早く脳内に喚起されていた。自慰している姿を母親に見られた男子のように,素早く反応し,勃起したペニスもそのままに立ち上がった。そして,やおらその見知らぬ男に飛びかからんとしていた。

 見知らぬその男も,悟志の行動に素早く反応した。しかし,勃起したペニスを振り乱し,若い男が己に飛びかかって来る鬼のような様相は,想像以上にインパクトがあった。そのため,その反応は,悟志のそれよりは若干遅れてしまったし,その上,悟志の行動がいかんせん早すぎた,まさに電光石火という動きだった。男が身構えて,刃物を振りかざす前には,悟志は男の懐に飛び込んでしまっていた。そして,悟志は,力の限りに,男を突き飛ばしていた。見知らぬ男は,高身長ではあったものの,小柄な体躯である悟志の余りの勢いに,そのまま吹き飛ばされた。そして後方2メートルほどあるトイレのドアまで弾き飛ばされていた。そして衝突の大きな破裂音を響かせると,そのままドアにもたれ掛かかり,動けないでいた。悟志は,その様子を好機と捉えた。そしてそのまま追撃の態勢に移ると,その場から,拳を振り上げて男に飛びかかった。

 「クシャ!」 

 悟志の拳は,下から突き上げるようにして,男の左顎から頬に掛けてを見事までに捉えた。しかしその衝撃音は,重い物を捉えた鈍い音ではなく,軽い紙でも捉えたような乾いた音だった。

 殴った悟志も,まるで段ボールでも叩いたような手応えに戸惑い,思わず自らの手を見つめてしまったが,その手は驚くほど真っ赤に染まっていた。どうも殴られた男の血液のようだった。悟志が,慌てて男の様子を伺ってみると,男の顔の左半分は,見事なまでに崩れており,元の人相が分からないほどであった。この後に至って,悟志のペニスと悟志自身は,見事までに萎えてしまうのだった。

 

 悟志が連絡した警察が現場に到着すると,悟志はすっかり容疑者扱いされていた。

 「それで,アナタは,暴漢が来たと思って殴りかかったんですね。」

 「そうなんです。」

 「それで,男はふっ飛ばされ,顔が崩れるまで殴られた,ということで良いですか?」

 「ええ,それはそうなんですが,咄嗟なことなんで,よく覚えていません。殴ったのも,1回だけだと思います。なんかおかしいんです。」

 「金属バットとか,何か道具を使って殴りませんでしたか?」

 「いえ,手で一回殴っただけだと思います。」

 男が吹き飛ばされていたトイレの周辺には,男の物と思われる大量の血液が四散していた。

 「斉藤さんは,格闘技とか,そのような経験はありますか。」

 「いえ,全くありません。お巡りさんの目にも,そんな身体には見えないでしょう。」

 「そうですか。それにしては,男の怪我の具合が普通じゃなかったんですが,何か心当たりはありませんか。」

 「僕も必死だったもので,素直に,良く記憶がないんです。何でしょうかね。男の顔を殴ったとき,全く手応えがなかったんですよね。まるで段ボールでも殴ったかのような,そんな感じでした。もしかしたら,あの人は,骨が異常に弱い体質だったんじゃないんですか。」

 悟志は,血にまみれたその右の手を,理解を求めるかのようにして,警官に差し出してみせた。

 「なるほどですね。それで,斉藤さんのズボンに,血の手形が付いているのは何故ですか。」

 「えと…,殴ったあと,血の付いた手で,ズボンを履いたからです。」

 「ズボンを履いた?そうすると,パンツ姿で男を殴ったんですね。」

 「ええ,そうです。」

 悟志は,悪いことをした訳でもないのに,何故だか本当のことを口にできないもどかしさを感じていた。まさか,「下半身裸で男を殴りました。」などとも自白しようものならば,あらぬ誤解を,自ら口で関係各所にばらまくような気がしたからだった。

 「なんでパンツ姿だったんですか?いつもなんですか?」

 「暑かったからですよ。」

 誤魔化すような軽薄な照れ笑いで,その場をやり過ごそうとする悟志だった。

 「それより,あの男はどうなったんですか?自分で言うのも何ですが,凄い怪我だったし,全く動かなかったから,心配なんですけど…。」

 「まあ,男につきましては,今病院で確認していますが,恐らく,駄目でしょうね。」

 「あの,その駄目とは?」

 「少なくとも,我々が確認した時点では,心肺停止の状態だったということです。」

 「すると,もしかして,死んじゃった,んですかね。」

 「それは,医師が判断することですから,私の口からは何とも言えません。」

 「そうですか…。」

 悟志は,沈痛な面持ちのまま,頭を垂れた。

 「そういう訳ですから,署まで来ていただいて,今からお話をお伺いして良いですか?」

 「今からですか?えと,ああ,それは構いません。」

 いきなりの展開に,戸惑いを禁じ得ない悟志だった。

 「それでは今から,警察まで,御同行願います。」

 「あの,着替えとか…,この格好,血まみれで,着替えたいんですけど。それに身体とかも洗いたいですし。それからで良いですか?」

 できれば,ズボンだけでなく,パンツまでも血にまみれているところを見られたくない悟志は,下半身が裸であったことの証拠隠滅を計ろうと,それらしく提案を試みた。まさか警察まで行って,「あなた,パンツにまで血が付いてますね。これはどういうことですか?」などど問い詰められたくはないという,悟志なりの必死の提案だった。

 「人が心肺停止になったような事態です。今からすぐにお願いします。血が気持ち悪いかもしれませんが,それも大事な証拠になります。検証するためにも,そのままで,今すぐにお願いします。」

 「そうですか。」

 感情を全く表に出さない警察官の真剣な面持ちに,何も言えないまま,そのまま警察に連行されてゆく悟志だった。近くの警察無線からは,

 『容疑者の身柄確保,ただ今より署に向かい事情聴取する。』旨の報告が流されていた。

 

 「それであなたは,自宅で,下半身裸の状態で,パソコンの動画を見ながら,オナニーをしていた。そこに男が現れて,咄嗟に殴りかかったということでいいですね。」

 「ええ,そうですよ。もうそれで良いですよ。でも,それってそんなに大事なことですか。」

 「斉藤さんのお気持ちも分かりますが,まずは正しい事実を把握することから始めないといけません,そうしないと何も判断できませんから。」

 「ええ,もうそれは分かりましたから。」

 警察の取調室での執拗な聴取に堪りかねて,早く帰りたい一心で,事実をありのままに語ってしまっている悟志だった。

 「それであなたは,自宅で,下半身裸の状態で,パソコンの動画を見ながら,オナニーをしていた。それでいいですね?」

 「さっき,良いって言ったじゃないですか。」

 「『もうそれで良い。』と言いました。事実と間違いないということですね。認めますね。」

 「はいはい,認めます。」

 なんで,こんなに薄暗くも辛気くさい部屋で,男からこんなに激しい恥辱の言葉責めを受けないといけないのかと,理不尽な怒りを感じる悟志だった。

 「それで,オナニーは,どのようにやっていましたか?右手ですか?それとも左手ですか。」

 「そんなことも関係あるんですか?」

 「斉藤さん,さきほど,被害者の死亡が確認されたと私に報告がありました。これは殺人事件なんです。捜査に協力願います。」

 「分かりましたよ。多分,右手ですよ。俺,右利きですし。」

 「それで,どんな感じでやってましたか?この場でやってみてください。」

 「それも捜査に関係あるんですか?」

 「人一人が死んでいるんです!斉藤さんも真剣にやってください。」

 「分かりましたよ…」

 悟志は,冴えない眼差しで取り調べの警官の目を見た。

 「まさか,『下半身裸になれ。』とまでは言いませんよね。」

 「着衣のままで結構です。私も,そこまでは見たくありません。」

 悟志は,椅子に座ったまま,幸福だったときの仕草をその場でやってみせた。もはや羞恥を越え,何か変な液体が体中に巡るようだったが,一言で言えば『情けない』に尽きる心情だった。

 「斉藤さんは,いつもそんな悲しげな表情で,オナニーをしているんですか?」

 『この状況でニタニタしてたら,それこそヤバイ人間でしょうが!お前がこの場でオナニーの真似ごとすれば,否が応でも今の俺の気持ちが分かるわい!』と,怒鳴りたくても,

 「いやあ,まあ,もう少し楽しそうにそうにしているかなあ,なんて…」

 と,笑って言葉を濁す人間味溢れる悟志だった。

 そんな時だった。

 「すみません,警部よろしいですか。」

 「なんだ,今取調中だぞ。後にできないのか。」

 若い警官が,取調室に入ってくると,警部と呼ばれた取り調べをしている警官に2言,3言と小声で耳打ちをした。

 「本当?」

 警部の驚くような声が,小さな取調室に響いた。

 「分かった,じゃあ…」

 警部は,悟志の方を振り向くと,

 「ちょっと今,緊急に,あなたに面会の要請があったとのことです。大事な用件のようですから,取調べはその後にさせていただきます。そのままこの場で,お待ちください。斉藤さん,良いですか。」

 「良いですが,その面会って誰なんですか?」

 「それは,その人に聞いてください。私からは紹介できません。」

 それだけ言い残すと,警部はその場を後にしてしまった。

 そして,それと入れ替わるようにして,軍服を着た二人組の男が取調室に入ってきた。明らかに偉そうな年配の男と,その付き人という感じの二人組で,その年配の男は,悟志を見るやいなや,『間違いない,ジーマスターだ。』と小声で呟くと,付き人を見て,一瞬だけ相好を崩した。

 「あの,どちら様でしょうか?軍隊ですよね,自衛隊の方ですよね?」

 「私は,朝倉中尉と申します。そして,こちらが…」

 「織田一佐だ,よろしく頼むよ。正面に,座って良いかな。」

 「あっ,どうぞ。」

 自分の家でもないのに,正面のパイプ椅子を二人に勧める悟志だった。すると二人は,軽く会釈をして,正面に並んで腰掛けた。

 「早速だけど,こちらの朝倉中尉の方から,色々と確認をさせていただくけど,いいかな。」

 「ええ,それは構いませんが。今日は,どのような用件で,僕に面会に来たんですか。もう,なんだか色々ありすぎて,何が何だか,もうさっぱりなんです。なんで軍隊が俺に用があるんですか?ほんと,さっぱりです。」

 「詳細については,朝倉から説明させる。きっとそれで,納得できるはずだよ。」

 微笑みながら,机上に書類を広げる朝倉中尉の方を見やる織田一佐だった。

 「それでは,私,朝倉の方から説明をさせていただきますが,その前に,一つだけ確認をさせてください。」

 「はい,どうぞ。」

 「あなたは,手淫をしている最中に,暴漢に襲われた。それで間違いありませんか。」

 朝倉の手淫という言葉に,軽く目眩を覚える悟志だった。

 「あの,手淫って,いわゆるオナニーのことですか。」

 「そうです。」

 朝倉は軍人らしく,鉄壁の真顔のままだった。

 「もうそんなこと,いいじゃないですか。なんで軍隊に対してまでそんなことを話さないといけないんですか。さんざん警察にも話しましたし,もう嫌ですよ。」

 「斉藤さん,これは我々軍としても大事なことなんです,協力願います。」

 「そうですそうです,僕はオナニーをしていましたよ。それがそんなに大変なことなんですか。あなただって,誰だってやっているでしょう。もういいじゃないですか。」

 それでも一切相好を崩さない朝倉の鉄仮面が,悟志にはとても憎たらしく映った。

 「それで,暴漢に殴りかかったところ,想定外の力が発揮され,男の顔が破壊されてしまった。それも間違いありませんね。」

 「そうですよ。あり得ないけど,それだけは信じてください。」

 「ところで斉藤さん,ペニスが何故あんな形をしているか知っていますか。」

 この朝倉という男が,突然何を言い出すのかと悟志は己が耳を疑った。大体くそ真面目そうな軍服の男が,『ペニスが何故あんな形をしているか』と真顔で尋ねているとすれば,これはもう,自分の耳を疑うのが自然の選択といえよう。

 しかし仮に,そんな質問を本当にされていたとしても,普通そんなことに疑問をもって,回答を準備している人間などは存在しない。想像するにしても,アレはキノコの形に似ているから,キノコと効用は近いはず。そうすると,キノコは胞子を飛ばすためにあんな形をしていると考えられるから,同じようにアレが精子を飛ばしやすいように,あんな形に…,とすれば,人間のアレは精子を空中に漂わせるためにあんな形をしているのか!いやいや,そんなはずはない,そんな愛の無い世界は嫌だ。そうすると,なぜキノコに似ているのか。もしかすると,キノコ,松茸に擬態して高価なフリをしているのか。そうすると俺のアレは,国産だ。凄いぞ,市場価格は気象条件にもよるが,高値で安定しているぞ。しかし,俺の松茸の香りはそんなによくないぞ。

 「御存知ですか。」

 悟志の心の葛藤をよそに,やはりペニスの形に関する回答を真顔で求めてくる朝倉だった。

 「知りませんよ。そんなこと。」

 「そうでしょうね。実は,他人の精子を掻き出すために,あんな形になったそうです。」

 「本当ですか。それって,誰が言ってるんですか?出所が怪しいガセ情報じゃないんですか。ネット情報でしょ。」

 怪訝そうに朝倉を伺う悟志だった。

 「アメリカの科学者が,ペニスのモデルと女性器のモデルを作成し,女性器の中に精子に似せた液体を入れて実験した結果です。れっきととした科学的事実であり,通説です。」 

 「マジでそんなそんな実験をする人がいるんですか。アホみたいですね。それが何の役に立つんですかね。…で,それが僕と何の関係があるんですか。」

 思わず笑ってしまう悟志をよそに,

 「それと,なぜ人間の女性は,性交のときに嬌声を上げると思いますか。」

 と,朝倉は,悟志の戸惑いを意にも介さず,普通に質問を続けてきた。しかも,同じく少しイカれた質問である。

 「なんでそんなこと男の俺が知ってるんですか。知りませんよ,そんなこと。」

 「人間とは,古来から集団で生活する生物です。ペニスの形から結論は推測がつくかとは思いますが,人間のメスは集団で暮らす中で,性交時に嬌声を上げ,自分が生殖可能であることを集団の男たちに伝えます。そして男たちは,一人の女を奪い合い,最終的に勝ち残った者が,他者の精子を掻き出し,勝者の遺伝子を未来に残すわけです。全ての生物にとって,食事と,自らの子孫を残すことは,もっとも大事な行為です。ここまでは分かりますね。」

 「繰り返しになるかもしれませんが,それが俺と何の関係があるんですか。そんな話を聞かせるために,軍隊が,わざわざやってきたんですか?」

 もはや,苦笑いしか浮かべることができない悟志だった。 

 「ここからが大事です。」

 朝倉は,表情を崩さずにそのまま続けた。

 「要するに,人間のオスにとっては,狩猟のときと同じくらい,生殖のときは生命体としての一大事なのです。狩猟の際に,心拍数が上がるのは,身体が素早く動けるようにするための身体的な反応です。それと同じように,人間のオスにとっては,女性の嬌声が聞こえた際には,ノルアドレナリン,ドーパミン等の副腎ホルモンを体内に放出し,興奮し,これからの争いに備える必要があったのです。」

 「何を言いたいんですか?」

 「つまり,人間のオスは,生殖体勢に入るときに,争いに備え,身体能力が飛躍的に向上するということです。この向上率は,狩猟による興奮の比にならないほどです。集団内のオス同士の争いに勝つために,まさに秘められた力が解放されるのです。この力の向上率は個体差がありますが,人間のオスの中で,人とは思えないほどの能力向上ができる者も存在します。その者は,生殖体勢に入ると,人より5倍ほどのスピードで動くことができ,局部だけでなく,全身まで硬化させ,超人的な強さを有することができます。我々は,その者をジーマスターと呼んでいます。」

 「それって,もしかして,今回の件と関係しているんですか。もしかしたら,その超人的な強さを有するジーマスターって…。」

 「これを見てくれないかな。」

 横に座っていた年配の織田一佐が,突然懐から一枚の写真を取り出した。悟志がその写真を覗き込むと,そこには,笑顔の迷彩服姿の男たちに紛れて,どこかで見覚えのあるような男の姿が写っていた。しかし,その見覚えのあるような男は,写真の中心付近に座しているものの,なぜか一人だけTシャツ姿の上,なぜか一人だけ下半身を露出させている。そしてその下半身は,なぜか御丁寧にも黒マジックで,申し訳程度に塗りつぶされている。

 「君の父さんだよ。私も若い頃,大変お世話になったんだ。君を見て,すぐに分かったよ。父さんにそっくりだ,君もジーマスターだよ。おめでとう。」

 その織田一佐の言葉に,絶望するほかない悟志だった。

 「この生殖体勢,言いにくいので,以後,勃起時と呼びますが…,勃起時の身体能力の向上は,誰にでも認められることですが,超人的な身体能力の向上については,誰にでも認められるものではありません。我が国においては,とある特定の家系の者にのみ受け継がれる極めて遺伝的な特性とされています。その特性を有する家系の者については,国家的な機密事項とされ,古くは江戸時代から幕府に勤め,明治維新後は,明治政府に勤め,国家的危機に対し,常に暗躍をしてきました。」

 「それが,君の家系なんだ。」

 『おかえりなさい』とでも言わんばかりに,満面の笑みを浮かべる織田一佐に対し,なぜだか『ごめんなさい』とばかりに意気消沈してしまう悟志だった。

 「君の父さんには,中東で大変にお世話になったんだ。だが,今から25年ほど前,急に消息を絶ってしまって,ずっと探していたんだよ。父さん,明倫は,今も元気にしているかい?」

 「あの,色んなことが起こりすぎて,頭の整理が追いつかないんですが,ちょっと整理させてもらっていいですか。」

 「どうぞ。」

 一通りの説明を終えた朝倉は,両手を机上に置いて,ゆっくりと構えた。

 「まずは,人間のオスは,その,勃起するときは,身体能力が向上する。」

 「そうです。」

 「それで,俺の場合は,特に向上する体質で,人より5倍ほど早く動けるし,身体も堅くなると。」

 「検査の必要もありますが,おそらくそのように推察されます。」

 「でも,それっておかしくないですか。俺,そんなことに今まで気づきませんでしたし,第一そんなに運動も得意じゃなかったですよ。人より5倍早く動けるなら,大体のスポーツは楽勝でしょ。サッカーとか,野球とか,バスケでも,とんでもないヒーローになって,こんな俺みたいに普通のサラリーマンをやっているはずないでしょう?」

 「それでは斉藤さん,あなたは今までサッカーとか,野球とか,バスケをやるときに勃起していたことはありますか。ないですよね。」

 なるほど,勃起時限定の身体能力向上であれば,日常生活であまり露見しないことも合点がゆく。

 「まあ,確かに,勃起しながらスポーツはしませんよね,普通。」

 「そうでしょう。」

 「まあ,仮に,そういう特殊な身体能力を俺が持っていたとして,軍隊の方が何の用なんですか,そんな俺に。」

 「私,朝倉も,ジーマスターとお会いするのは,実は初めてです。しかしジーマスターは,国家の機密事項として軍が確保する必要がありますし,今後の国家危機に対する備えとして軍において運用する必要もあります。そのように,防衛大学の講義では教えられています。」

 「それで,具体的に,俺にどうしろと言うんですか?もう訳が分かりませんよ。」

 「今から我々に同行願います。そして今後は,自衛隊の特殊部隊の一員として,特殊任務,研究等に御協力していただきたい。」

 「あの俺の仕事はどうなるんですか。無断で休めないですし,俺,公務員だから,兼業できませんよ。」

 「大丈夫だ。」

 織田一佐が,横から割って入ってきた。

 「地方公務員から国家公務員への身分の異動だから,共済に言えば,ちゃんと厚生年金も継続扱いになる。心配はいらない。」

 「あの,それって,もしかして,今の仕事を辞めろと言ってるんですか?」

 「それはそうだろう。君の仕事は予備自衛官のようなものじゃない。特殊任務に従事してもらうんだから,今の仕事は辞めてもらわないと,とても勤まるものじゃない。」

 織田一佐は,さも当然と言わんばかりの様子で,悟志の様子を伺っていた。

 「いや,そっちの言いたいことも分かりますが,俺の意志も少しは尊重してくださいよ。今の仕事は,そんなに気に入っているわけでもないですが,それなりに努力して,ようやく手に入れた仕事ですよ。そんなに急に手放せるわけないじゃないないですか。それも,今さっき現れた軍隊の人から,『お前は今日から特殊任務に従事しろ。』と言われて,すぐに『はい,そうですか。』なんて言えるはずないでしょ。それくらい分かってくださいよ。」

 「君のお父さんも,国のために,長年そんな努力をしてこられたのだよ。分かるよね。」

 織田一佐は,まるで聞き分けのない子どもを諭すかのような眼差しで,悟志を見つめていた。

 「あの,うちのオヤジも,その特殊任務を自分から進んでやっていたんですか?」

 「それは,残念ながら,私も知らない。私が特殊任務に着任した頃には,すでに現場におられ,我々を数々の危機から救ってくれていたよ。だから私にはよく分かるんだ,ジーマスターの価値が。ひっきょう紛争なんて,同じ能力の人間同士の争い,そこに,スーパーマンとも言えるジーマスターが存在するだけで,どれほど現場に安心感があることか。だから,君の父さんが失踪してから,どれほど長くその行方を探していたことか。」

 「あの,いろいろと聞きたいことはあるんですが,そのジーマスターってなんの略称ですか?Gだから,グランドマスターってことですか?」

 「いや,自慰マスターだ。ジーマスターと言った方が格好良いだろ。そう思うだろ。」

 聞かなきゃよかっと,心から後悔する悟志だった。

 「そんな事やって虐めるから,オヤジも軍隊から逃げ出したんでしょ。大体さっき見せてもらった写真でも,なんでオヤジだけ下半身を露出してるんですか,特殊任務だとか言っても,あれは明確な虐めじゃないですか。だから,オヤジだって逃げ出したんでしょ。」

 「それは誤解だよ。ジーマスターは,世界の紛争地域,危険地帯で勃起しないといけないんだ。これがどれだけ大変なことか分かるか。人間の勃起は,刺激を持続しないとすぐ萎えてしまう。だから,写真に写った君の父さんの姿は,いつでも勃起出来るようにとしたジーマスターとしての正装なんだよ。彼の名誉のためにも,誤解しないでくれ。」

 「ますます,その特殊任務とやらに着きたくなくなったんですが…」

 普段は,全く父親思いではない悟志が,若き日の父の姿を目の当たりにして,思わず憐憫の情を浮かべてしまうのだった。その姿には,パワハラというか,この世によくあるハラスメントの類が,往々にして,当事者の認識の差異に起因することが如実に描かれているようだった。

 「あの,一佐,自分から少しよろしいでしょうか。」

 常に冷静な朝倉が,発言の許可を織田一佐に求めると,織田は,軽く頷きその発言を容認した。

 「斉藤さん,あなたが言われるように,一佐の提案は,あなたにとってあまりに唐突で,容易には受け入れがたい提案かもしれません。しかしです,提案を受けなかった場合のことも考えられた方が良いと思いますよ。」

 「それって,どういうことです。軍隊の特殊任務に着かなければ,今までどおりに普通に生活するだけじゃないですか。違います?」

 「果たして,そんなに上手く事が進むでしょうか。」

 朝倉は,机に肘をついたまま,両の手を口の前で合わせた。悪役がよくやる,悪巧みのポーズである。

 「あなたは,今殺人の容疑者として警察の取調べを受けている。そんな状況を,職場が知ったらどうすると思いますか。よくあるじゃないですか『事実関係を精査の上,厳正に対処します。』とか言って,偉い人が頭を下げている記者会見。それに,あなたも少しは公務員をやっていたら分かるでしょう?組織は一従業員を守るより,組織を守ることを優先するって。組織に害を及ぼしかねないと判断したら,よっぽどの偉い人でもない限り,すぐに切られるに決まっているでしょ。要するに,あなたが失職するのも時間の問題ということです。今まで地道に積み重ねてきた努力も,たったのこの一夜で失うわけです。その後は,仮に殺人罪の減刑を受けたとしても,公の法廷で,下半身露出して男に襲いかかった男として裁きを受けるわけです。その後の人生もあったもんじゃないと,私は思いますよ。」

 「それで,俺にどうしろって言うんですか。あなたの言うとおりだったら,俺はもうお終いじゃないですか。どうしようもないじゃないですか。」

 朝倉は,重ねた手の向こう側にある口元を微妙に歪めた。まさに,悪役の『したり顔』である。

 「それが嫌なら,今から我々と一緒に活動するべきじゃないですか。暴漢に対する殺人に対しても,国防上の機密事項扱いで,不問に付することも可能ですし,なにより斉藤さん自身の身分の保証もそのままです。しかも,地方公務員から,国家公務員の特別職に転職することになるんですから,一夜にしての大出世ですよ。どうです,冷静に考えてみると,我々の提案は悪くないでしょ。不安はあるかもしれませんが,斉藤さんが,これからのことを悩む余地はないと,私は思いますがね。いかがです?」

 「…じゃ,じゃあ,俺って,これから軍隊で何すれば良いんですか。まさかオヤジみたいに,下半身を露出して戦地に向かえなんて言い出しませんよね。」

 「それは,今から検討することです。我々だって,失われたジーマスターが発見されたという情報提供を受けて,この場に飛んできただけですから,これからのことは,今から検討するほかありません。しかし,仮に,そんな仕事であったとしても,今のあなたには拒否することはできないと思いますが。今から逮捕されて,変質者のレッテルを貼られて一生生きるよりかは,ナンボかマシだと思いますけどね,どうです?」

 「分かりました,分かりました,分かりましたよ。今からあなた達に付いて行けば良いんでしょ。そうすれば,全ての問題が解決するんでしょ。でも,付いて行っても変態扱いされることには変わりはないんでしょ。最悪ですよ。」

 「そんなことはありませんよ,ジーマスター。我々は,あなたをこの国の守り神として尊重します。」

 相変わらず真顔の朝倉が,何故だか人を馬鹿にしているように見えるのは,色々なことがありすぎて,悟志の魂が穢れきってしまっているからだった。

 「歓迎するよ,ジーマスター。」

 笑顔で握手を求めてくる織田一佐の手が妙に力強く,熱を帯びていた。

 二人に連れられて警察署を出てみると,アメリカ映画で見るような軍の護送車が悟志を待っていた。後部鉄の扉を開けると,二つの長椅子が向かい合って配置されており,そこには体格の良い二人の軍人が,軍事的なフル装備で悟志を待ち受けていた。

 「まあ,今から宿泊所,宿舎に御案内しますので,斉藤さんはこちらでお掛けになっていてください。」

 「あの,もしかして,この二人は,俺の護衛ですか?」

 「いいえ。」

 珍しく朝倉が微笑んだ。

 「斉藤さんが,手淫をして,超人的な能力を発揮し,逃亡することを防ぐための護衛ですよ。」

 朝倉は,笑顔になれば笑顔になったで,非常に悟志の勘に触る男だった。

 「こんなところで俺は興奮できませんよ。大丈夫ですよ。」

 「まあ,用心のためです。それから,斉藤さん,携帯を預からせてもらっていいですか。」

 「どうしてですか。俺だって,これから色んな所に連絡しないといけないですよ。オヤジにも話を聞きたいですし,職場にも何か言っとかないといけないでしょ。困りますよ。」

 「斉藤さん,まだ状況が分かっていませんね。あなたは,存在自体が国家の機密事項なんです。勝手な通信など,今後は許されません。分かってます?」

 「いや,そしたら俺はこれからどうすれば良いんですか。何の連絡も取れないじゃないですか。」

 「斉藤さん,あなたは,いわば人間兵器なんです。勝手な行動は許されませんし,それ自体が国家の脅威なんです。必要な職場への連絡は,こちからやっておきますから,心配は不要です。大丈夫です。」

 「分かりましたよ。」

 悟志は,渋々手にした携帯を朝倉に手渡した。

 「御協力,ありがとうございます。実は携帯をお預かりするのは,あなたがエロ動画を見ることを防ぐという意味もあるんです。」

 「そんなモン,人前,こんなごっつい男の居る前で見る訳ないでしょ,普通。」

 「それも用心ですよ,仮にあなたが勃起しようとしても,あの屈強な男達が,勃起する前に,あなたのペニスを精一杯握りつぶします。これも用心。いかな超人ジーマスターでも,勃起できなければただの人なんです。」

 なぜだろう,朝倉の勝ち誇ったようなその顔を見ていると,非常に苛立ちを覚え,無理にでも勃起させてやろうかと思う悟志がいた。

 「斉藤さん,そんなに悲観する必要はありません。むしろ現実を受け止めて,現実を楽しむようにした方が得ですよ。過去のジーマスターの例にならえば,多分あなたはこれから,見たいAVをいくらでも見ることができます。考えようによっては,誰もが羨む仕事じゃないですか。いいじゃないですか。」

 朝倉は,事務的に悟志の背中を押すと,後部の座席に悟志を押し込み,その鉄の扉を閉めて,施錠をしてしまうのだった。

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