第28話・リリスという幻想

 「その日から、リリス様は徹底的に変わりました。」


 「先ず自分の遊び相手だった従者たちを解雇し、それから公爵様に優秀な教師を雇ってほしいと頼みました。最初はまた三日坊主になると、皆誰も期待していませんでした。公爵様も同じで、また以前のように一番優秀な教授を呼んで、そして怒らせて辞められる様なことにはしたくなかったので、普通の家庭教師しか雇いませんでした。」


 「ですが、お嬢様は本当にすっかり変わりました。授業は真面目に聞き、授業が終わった後も先生の出した練習問題を何度も解きました。更に予習もして、その内容に対応する問題も前もって解きました。」


 「その日から、お嬢様は厳しく体型管理をし、体重を迅速に減らしただけではなく、スタイルもどんどん美しくなり、かつてのサリス様のようになりました。」


 「わずか1ヶ月後、家庭教師は公爵様に、お嬢様が本来半年かけて学ぶはずの授業内容をすでに終え、ほぼ満点を取っていると、恥じ入りながら報告しました。誰もこの事実を信じられなかったのですが、紛れもない事実でした。魂が入れ替わったほどにお嬢様は変わったのです。」


 「その日は、恐らく公爵邸で最も幸せな日だったと思います。公爵様の笑い声は止むことなく、体調の優れない奥様までもずっと笑顔でした。家庭教師の先生もリリス様を褒めちぎり、有名な教授を次々と勧めて来ました。公爵邸は幸せと希望に満ち溢れていました。」


 「その後は言うまでもなく、リリス様は公爵様により多くの高名な教授を呼んでほしいと頼みました。そして貴族マナー、ダンス、音楽、政治、歴史、数学、どんな科目でも、等しく真剣に勉強しました。朝7時から夜10時まで、食事以外の時間は殆ど勉強に没頭しました。そして時間ができると奥様とお話をしていました。」


 「でも、お嬢様はご自身のために休息を取るということはありませんでした。この様な日々が毎週、毎月、毎年と続きました。」


 【「お嬢様はよく笑うようになり、誰にでも優しく笑える様になりました。」】


 「人は常にお嬢様を見ているわけではないので、奇跡的な速さで優秀になった思うようですが、それは間違いです。お嬢様は本当はとても怠け者で縛られたくない方なんだと思います。ですが、あの頃のお嬢様の予定はあまりにもタイト過ぎて、ゆっくりお茶を飲む時間すらありませんでした。」


 「私はお嬢様にお仕えしているのでよくわかります。朝6時に起きて、夜12時に就寝するという人間の摂理に反する様な活動時間は、私でもとてもきついのに、常に高い集中力を維持しなければならないお嬢様には尚更だったでしょう。普通の人が耐えられる様なことではありませんでした。」


 ロキナは苦笑いをしながら、悲しみと困惑に満ちた目をしていた。


 「でも、お嬢様が文句を言うのを聞いたことはありません。疲れたなんて言ったことはなく、たまに体調を崩したとき以外に疲れを見せることもありませんでした。お嬢様はまるで完璧な機械の様に、来る日も来る日も勉強を続けていました。」


 「お嬢様は人にとても優しく接していました。誰とどんな話をしても、常に暖かい微笑みで、屋敷中の人を癒し、温もりとモチベーションを与えてくれました。誰もがお嬢様の昔の姿を忘れ、皆仲良く笑い合っていました。」


 「これは恐らく良いこと、でしょう。」


 「お嬢様は本当に、幸せだったでしょうか。」


 まるで胸の中の苦しみを押さえつけるかのように、ロキナは自分の胸に手を当てた。


 「周りに人がいなければ、お嬢様は直ぐに無表情になります。いつもの優しい表情と比べると、全く生気のない、虚ろで悲しい表情です。」


 「社交界デビューしてから、お嬢様のスケジュールは少しだけ緩まったのですが、相変わらずやせ我慢をしていました。どんな困難に遭遇したとしても、誰かに話したことはありませんでした。」


 カシリアは無言だった。ロキナの言うリリスが今まで経験してきた自然の摂理を無視した生活は、幾ら王太子として父王の厳しい教育を受けてきたとはいえ、その様な生活に耐えられる自信はなかった。


 しかし、少しだけリリスの気持ちが分かったような気がした。


 自分のわがままのせいで、サリス夫人は実家に帰っていた。


 そしてこれが間接的に、祖父母の死と、母サリスの半身不随の原因となった。


 無関係な他人から見れば、これはただ偶然の重なり、運命に刻まれた不幸に過ぎなかった。


 しかし、両親の愛情あふれる家庭で幸せに暮らしていたリリスは、それは必然の中の必然であり、自分の手で犯した許されない罪だと思い込んでしまった。


 【リリスは自分の手で、自分の最愛の母親を不幸と苦痛のどん底に落とし、幸せな公爵家を一夜にして粉々に壊してしまった。】


 リリスにとって、リリス自身こそが、全ての不幸の源だった。


 リリスは全ての不幸を、自分のせいにしていたのか。


 過去に大きな過ちを犯したから、今命を張ってまで優秀になりたいのか。


 本当に


 どうしようもなく可哀想な人だ。


 「私は多分メイドとして無能だと思います。だから何も役にも立っていません」


 ロキナは悔しそうに胸に手を当て、頭を下げて独り言を言った。


 「いや…もう十分だ。礼を言う。これからも、リリスのそばにいてやってくれ。」


 カシリアは釈然としない思いでリリスの可憐な寝顔を見た。


 カシリアとリリスは真逆に近い存在だった。


 リリスが人前で完璧な笑顔を作って、人々の期待に応え、果てしない孤独と苦しみを一人で味わっているというのなら、


 カシリアはリリスの気にしていることをどれも気にすることなく、自分に近づいてくる若い貴族には笑顔どころか、逆に嫌悪感を直接叩きつけ、笑顔は真に認めた者にしか見せない人だった。


 カシリアが太子に選ばれることはほぼ確定事項であり、父王の認可と三大公爵の支持さえ有れば、他の貴族派閥等は言うほどの価値もなく、幾ら力を合わせたところで所詮は烏合の衆、故に彼らに取り入る必要はない。王位を継げば、全ては利害の争いになり、それは、地位や名誉しか考えていない貴族少女たちと少し笑うだけで解決出来るようなものではない。


 だがリリスは違う。広い領地を統括管理している公爵令嬢のリリスには、上流貴族たちとの関係を強めることは義務と言える。良い関係を築き上げれば、彼らが将来家を継いだ後も、互いに利益交換をすることが出来る。この様なやり方は、自分自身を複雑な関係の中に置かなければならないが、公爵家の未来の発展にとっては、非常に有効な方法である。


 生徒会長になるのも同じ理屈だ。組織の指導者になれば、貴族たちの動向をより把握しやすくなる。自分の地位を表からも裏からも固めることは、彼らがまだ未熟な学生期であれば、より実現しやすい。


 でも妙なことに、リリスは自分と同じように、社交界に顔を見せるだけで、権力を求める者達は次々とやってくるというのに、常に貴族共と距離をとり、誰とも深く付き合うことはない。


 本当に矛盾した話だ。もしリリスに社交界で自分の勢力を固める気があれば、彼女の影響力なら、凄く簡単に、リリス本人が出るまでもなく、幾つか曖昧な世辞さえ送れば、無知で愚かな貴族少年少女たちが集まるだろう。そうすれば、彼らが爵位を継いだ後、公爵家もその関係網から多くの利益を得られるというのに。


 リリスの才智を考えれば、彼女は断じて将来のことを考えない人ではない。


 ならばなぜリリスはそんな矛盾したことをするのだろう?


 もしリリスに野望があるなら、貴族の交際を上手く利用できないことは致命的な失敗だ。


 もしリリスに野望がないなら、なぜそんなに必死になって自分と生徒会高等部会長の座を争うのか?


 矛盾極まりない。


 理解できない。


 「公爵令嬢リリス」はまるで水の中の月の様に、


 手を伸ばして触ろうとすると、消えてなくなる。


 目の前で寝ている少女は青白い顔をして、無力で可哀想に見えるが、意外にも現実感があった。


 それに比べて、数日前に母を亡くしたというのに、壇上で自信満々に立候補演説をして、観客全員を沸かせた完璧無欠なリリスは、まるで幻のようだった。


 現実に逆らう幻想のようだった。

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