第1章 出会いとはじまり

第1話 犬と猫の出会い


 四月一日。新しい部署での仕事が始まる日。田口は自分の中では、一番いいと思われるスーツに袖を通した。姿見の前で、身支度を整えた後、大きくため息を吐いた。


 寡黙で表情も変わらない田口だが、環境が変わることに、彼なりに緊張しているのだ。


 ——どんなメンバーと一年間、一緒に仕事をしなければならないのか……。


 職場の人間と深い付き合いをするタイプではないが、職場の人間関係の良し悪しで、仕事のしやすさが左右されるのだ。気にならないと言ったら嘘になるだろう。


 田口は前職で上司に随分と苦労させられた。なにをするにもいちいち難癖をつけてくる、面倒な男だった。異動により、あの男から解放されたことは幸せだが、世の中がそう甘くないことも知っている。


 ——今度の上司は、あの男以上の人材かもしれない。社会とはそういうものだ。自分のペースで仕事ができる環境だといいんだけど……。


 そんな思いを胸に押し込めながら、田口は職員玄関から中に足を踏み入れた。



***



 昨日まで通っていた農業振興係は一階に配置されていたのだが、新しい部署は二階にあった。ずっと一階の部署を回っていた田口にとったら、二階はなじみのない場所である。


 梅沢市役所の本庁舎は昭和初期に建築された、歴史ある建造物だ。当時はこの広さで間に合っていたのかもしれないが、この複雑な現在の行政業務をこなすには、なにせ手狭すぎる。


 健康福祉部や水道局などは、別の場所に分かれて事務所を構えているため、市民からは苦情の声が上がる。本来であれば、一箇所で用を足せるものを、あちこちに足を運ばなければならない。当たり前に上がる苦情で


 本庁に至っても、建物自体が手狭で、すべての部署が入るのも難しい。敷地内にはプレハブの別棟が建てられ、余りにも効率が良い庁舎とは言えなかった。


 昨今の耐震性の問題も手伝い、梅沢市役所は建て替えの準備を進めている最中だ。


 田口は、職員玄関のところでIDパスをかざすと、両手に抱えた段ボールを持ち直して、廊下を進んでいく。


 一階は市民がよく利用する窓口業務関連の部署が入る。二階は市長室や議会場、内部部署が入っている。田口が新しく配属された教育委員会は、その二階に事務所があるのだった。


 田口は、異動が決まってから教育委員会について学び直していた。それを繰り返し脳内で再生する。


 教育委員会は市役所の中にあっても組織が違った。市役所とは市長をトップとした組織体制だ。


 しかし教育委員会のトップは教育長になる。行政と教育は分けるべきだという。教育行政の政治的中立化だ。教育に政治的な関与をしてはならない。戦後、国がとってきたスタンスだ。

 

 実際に教育長の意見を市長がどれくらい聞き入れるかは、田口にはわからない。トップが違えど、下っ端の自分達は市役所職員であることも変わらないし、異動と言われても、市長管轄の部署を異動することと、大差ないような気がしていた。


 ここ一週間くらいは新しい部署に関する法令を読んでみたり、部署の沿革なども目を通してみたりしてきたところだ。多分、大丈夫。基礎知識は入れた。後は与えられる業務を淡々とこなす。それだけだ。


 不安をかき消すように、自分自身に言い聞かせながら二階に続く階段を上る。


 上り切って見ると、まだ早い時間なのか、廊下は静かだった。まっすぐに前に進むと、そこは中央棟。この先には議会場や、総務課が入る。左に伸びている西棟には市長公室と秘書課が入る。田口の職場は右に伸びている東棟。ここに教育委員会が入っているのだ。


 ——早く来すぎたのだろうか。


 新人が重役出勤するわけにもいかないと思って、早めに出てきたのはいいものの、誰もいなかったら、どうしていればいいのだろうか。荷物が入っている段ボールを抱えて迷っていると、後ろから、小柄な男が階段を上ってきた。


「お、早いな。あまり早いと困るものだ。新人君は、もう少し遅く来てもらわないと」


 彼は八重歯を見せて笑った。


 ——誰? 同僚か。


 田口よりも若い職員のようだ。自分が新人だとわかるということは、自分の部署の同僚ではないか。田口はそう判断をして、「おはようございます」と頭を下げた。


 年下でもなんでも、初対面の人には敬語。これは田口の鉄則だ。余程のことがない限り、馴れ馴れしい話し方はしない。


「随分とお堅い奴だな。おはよう」


 彼は片手を上げて田口を見ていた。


 ——それにしても、こんな職員が市役所にいたのだろうか。なんてだらしのない恰好だ。信じられない。


 田口は少々開いた口が塞がらなかった。漆黒の髪は寝ぐせだらけ。ワイシャツのボタンは二つ目まで外され、瑠璃紺色るりこんいろのネクタイは緩められている。


 まるで飲み会帰りのおっさんではないか。田口にとったら戦闘服でもあるスーツを、こんなにも着崩している職員を見たことがない。「嘘だろ!」とと叫びたくなる。


 しかし田口は勤めて平静を装う。


「荷物はそれだけか?」


「はい。あの……」


「まあいい。さあ、入れ」


 男は銀色の右に回すタイプのドアノブを握ると、事務室の扉を開けた。


 廊下は静かなのに、事務所内はもうすでに仕事が始まっていた。中は広いフロアだが、四つの島に分かれており、そのどこの席にも職員が着座しら電話をしたり、書類を見ながら話し込んだりしているのだ。


 ——この部署は朝が早いのだな。


 田口はきょろきょろとするばかりだ。


 ——振興係はどこだ?


 天井からぶら下がっている部署名が書かれているプレートを見上げる。『振興係』とかかれたプレートを見つけてから、下に視線を戻すと先程の男がそこに入っていくところだった。


「おはようございます」


 男は中年の男たちに声をかけられて、にこやかに挨拶を返す。どうやら男と同じ部署のようだ。この、いい加減な風体の男と一緒に仕事ができるのかと不安を覚えていると、そこにいた三人の男たちが、一斉に田口を注視した。そこではっとする。


 ——そうだ。自分はここで働くのだ。


 田口は段ボールを持つ手に力を込めてから、自己紹介をした。


「おはようございます。本日付けで配属になりました。田口銀太ぎんたです。どうぞ、よろしくお願いいたします」


 段ボールを抱えたまま頭を下げると、男たちはにやにやと笑っているばかりだった。



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