光 第三章  作・奴

 合宿当日の朝は早くに部屋を出た。人がいればその人と話すし、いてもいなくても石川上一郎の『広い土地』を読んでいればよかった。すでに日は出て昇っていた。けれど仄暗かった。空気にはまどろみのような夜気が残り、山の端には紺色が残っていた。その一方でもう蒸してもいた。風もない中で熱だけが漂っていた。ふだん使っているリュックサックに無理に荷物を詰めたから妙に重く木橋を越え校舎を越えて進むと足は疲労し汗が出た。部活棟に着くころには汗で制服が体に張りついていた。

 部室にはもう彩さんがいた。大きな荷物を足元に置いて本を読んでいた。私もそれに倣って机の下にリュックサックを入れ込んで足に挟み読書した。扉のそばにある窓からわずかに日が差してはいたけれどやはり室内は暗かった。それでしばらく照明をつけていた。そう長くは本を読まなかった。私が無心に石川の書き表す情景を脳裡に映していたらふと彩さんが読書を止めて机の下を覗き込んだ。その姿が私の視界の端に動くから文の上に目を滑らせながら彼女のほうに気が傾いた。

 「今日もその派手なの履いて来たんだね」と彩さんが言った。

 「うん」

 「お姉ちゃんとお揃いのやつ」

 「えっ?」と私は返した。この「えっ?」が今度は彩さんの「えっ?」を引き出した。それで二人でまた「えっ?」と言った。

 「彩ちゃんもこの靴持ってるの?」

 「え? あ、いやそういうことじゃなくて、ほらゆいちゃんとお姉ちゃんと同じデザインの靴持ってるじゃん」彩さんは急に慌てた声を出した。

 「お姉ちゃんって、朝美さんのこと?」

 「うん。お姉ちゃんもそれの黒地にショッキング・ピンクのやつ持ってるけど知らない?」

 この話はまったく知らなかったから一人で驚いていた。すると彩さんはまた「お姉ちゃんが、ゆいちゃんに合わせたって嬉しそうに言ってたから、知ってるかなあと思ったけど知らんかったの?」と虚を突かれた顔をする。たしかに黒川朝美さんの足をまじまじと見ていなかったから分からなかったが、ここ数日は部室に来ていたしそこには朝美さんもいた。それにいくらか会話もした。夜に裏で話し合うことはなかったはずだけれど、それよりもむしろ何度も明るい室内で顔を合わせていたはずであった。それでも気づかなかったのはどうしてだか分からない。靴屋にはそういう色合いのものもあったと記憶している。私はより派手な色を選んで水色の地にショッキング・ピンクのものにしたが、横には黒川さんが履いているという黒地の靴もあった。私が履いている姿を見て自分でも気に入ったのだろうか。それなら私にそんな話をしてもよいだろうに。

 私はそうした不審から本人に聞き出せずにいた。一人また一人と部員が室に集まるときのざわめきの中で私は縮こまっていた。



 沖部長が手配したというマイクロ・バスが棟の前に着いた。部長に呼ばれるまま我々は下に降りて乗り込んだ。合宿に参加する人はそう多くもないから横の席に荷物を置いてもよかった。けれど多くの人はそうせずに友人と並んで座って荷物は全部後ろのほうの席に置いた。自然と前方に寄り集まった。私の隣には彩さんがいた。私は姉の朝美さんにさっきの話を聞きたかったけれど黒川さんは同じ三年生の人と一緒に座って談笑を始めたから声もかけられなかった。

 出発前に沖さんが注意事項を説明し、姉の黒川さんが補足した。午前十時には出発した。

 参加した部員は全部で十人だった。四年生はいず、五年生が一人、三年生が二人、二年生が四人、一年生が三人だった。もちろん黒川朝美さんと沖部長はいたし、私と黒川彩さんが一年生に含まれた。もう一人の一年生は東さんという人だった。彼女は頻繁に部室に来る一年生でのうちでは苦慮する新人の集団に伍していない数少ない人だった。東さんは沖部長と座っていた。二人はよく恋愛の話をして盛り上がっていたから随分親しいのかもしれない。私は行きすがらその二人がやはり性愛の話をしている後頭部を見た。車内は何だか二人の声だけが大きく響いているように思った。私はその声に圧されながら彩さんに運転手は誰かと尋ねた。知らないと返事された。それからしばらく世間話をした。ほとんどの時間は窓際の私は外の景色を見ていて、内側の彩さんは眠っていた。バスの動きに合わせて揺れる彼女の頭を気にかけながら私は学校を離れ町を抜け行く間の知らない町の景色を眺めた。路線バスも通っていないような片側一車線の道を進むと今度は駅前の大通りに出てまたそう広くはない道を山に向かった。合宿先は山あいにあるコテージだった。そこまではおよそ一時間で着いた。市のはずれにある学校を出て中心部を通り、平地を抜けてまた山に入るまでにいくつか町をまたいでいた。彩さんはバスに体を揺られながらもこちらにも向こうにも倒れずにいた。

 そばの駐車場で全員降りた。また明日の昼にそのバスが迎えに来るようだった。バスのエンジン音が背後に遠のいた。沖部長と姉の黒川さんと東さんが受付に向かい、残りは上級生の案内で借りるコテージに先回りして待った。そのときに受付に行く黒川さんの足を見ると本当に同じデザインのテニス・シューズを履いていた。

 室内は十人入っても狭さを感じないほどに広かった。全員が同時に座れるダイニング・テーブルのそばには大きなソファとテレビがあったし寝室にはキング・サイズのベッドが二つもあった。ソファやテーブルのある一間の階段から二階に上がるとロフトになっていてここでも寝られた。皆荷物を置くとそれぞれがやりたいことを始めた。二年生のうちの三人はテレビをつけたし三、五年生の人と東さんと沖部長は大富豪をやっていた。

私と彩さんと朝美さんは昼食の買い出しがあるからもうそこを出て近くの店に向かった。素麵にするつもりだった。店はそこから十五分もコテージの前の道を歩けば着いた。道は太い用水路に沿って向こうまでまっすぐ続いていた。水路は幅が三、四間あって水深も深く見えた。けれどむしろ清澄で底まではっきりと見通せるために深さが分からなかった。

「深いかな」と彩さんが底のほうを見下ろしながら言った。

「どうなんだろう」と私も歩きながら流れをのぞいていると朝美さんがそこらにあった小石を投げ落とした。石はどぷんと音を立てて底に落ちた。

「どう、深そう?」と彩さんが誰にともなく尋ねた。

「よく分かんないね」朝美さんが笑った。

遮るものがなく正面から昼近い夏の日差しを受ける道を歩いた。私と彩さんは何度も暑いと言い合って汗の流れる顔で見合った。先に歩く朝美さんは涼しげに見えた。「お姉ちゃん汗かかないんだよ」と彩さんが言った。朝美さんは黙ってうなずいた。地面から跳ね返る太陽の熱が脚の周囲に滞留して鬱陶しかった。けれど盛夏に近づく今はその熱が体の内側からも湧いて汗ばかり噴いている気がした。熱は私のうちにみなぎっていた。朝美さんはたしかにまったく爽やかな様子だった。うなじを雫が伝っているようでも服が体に張りつくようでもなく歩いていた。そこにはっきりいるにもかかわらず幽霊かと錯覚しすぐにそんなことはないと苦笑した。朝美さんが先頭を行き、三歩後ろから彩さんと横並びに行く私たちはしばらく無言で歩いた。黙っていても話していても暑さに変わりはなかった。彩さんはまた話を始めた。

「ゆいちゃんは、どんな話を書くの?」

「私は、どうだろう……ジャンルは……」

「石川上一郎みたいな?」と先に朝美さんが軽く振り向きながら言う。

「そうですね」と笑った。

「好きな作家の人?」彩さんがまた聞く。

「うん」

「有名な賞も受賞してたよね」朝美さんが付け足した。「へえ」と彩さんが感心そうに漏らした。

店では素麵の乾麺と醤油とチューブ入りのわさびを買った。麵を湯がいて大皿に移しおのおのがざる蕎麦を食べるように大皿から取って食べるつもりだった。薬味はわさびだけだった。「どうせ夜のカレーは具だくさんにするからそんなに栄養の偏りはないでしょ」と黒川さんたちは笑っていた。

買った後で急ぐ必要はないと朝美さんが私たちだけでアイス・クリームを食べないか提案した。彩さんはすぐに賛成した。私は曖昧な返事をしていたが二人が外の自動販売機で買っているのを見たら食べたくなったから買った。そこのベンチに座って三人で食べた。ベンチは店の影になるところにあったから幾分か冷えていた。我々は夏期休業でも世間は平日だから人はまばらだった。車もそう停まっていなかった。ただ子供を連れた母親か老人ばかり店に来た。学校によっては補講もあるから休業の最中でも学生はそう自由にできなかった。それで言えば私たちはその風景の中に異様な三点の染みだった。ただ無心にアイス・クリームを食べた。

「帽子持ってくればよかった」彩さんが惜しむのを朝美さんが何でもない声で「うん」と間延びする声で返事する。汗もかかない朝美さんはまぶしいだけの日射をどうとも思っていないようだった。その後で私は賛同した。端に座っていた私は彩さんをまたいで横にいる朝美さんの足を見た。膝までの丈の黒のジャージから血肉の通った薄橙色の脚が出ている。そして今私が履いているものと同じデザインのテニス・シューズを彼女も履いている。彩さんも似た格好で流行りのスニーカーを履いていた。姉に比べたら真っ白な足をしていた。

「彩って日焼けしないの」朝美さんが食べながら話しかけていた。

「まあ。そのほうがきれいだし。染みになったら嫌だし」

「ふうん」

「姉ちゃんも日焼け止めくらいはつけてるでしょ?」彩さんの言い方は「お姉ちゃん」と「姉ちゃん」の狭間にあって微妙だった。

「つけてるけど、焼きはしてる」

「焼いてるんですか」と私が尋ねた。

「全身ね、薄うく日焼けするくらいにしてる」朝美さんが答えた。「やっぱりそのほうが夏っぽいよね」

「篠崎ちゃんもそうでしょ?」と言われるままに「はい」と言った。中学生までは水泳の授業のときに水着の形に沿った日焼けの跡を作りたくないからクリームを塗っていたけれど、今年からはそうすることもないかと思ってそれほど跡が残ることに敏感になっていなかった。共学校ゆえに男子学生に見られるのを嫌っていたわけでも、女子校に進学したから気にしなくなったわけでもなかった。単純な心境の変化だった。だから夏の制服を着るときに日に晒される顔や手やふくらはぎはほんのりと小麦色になっていたが、それ以外の上半身やスカートに隠れる部位は青白い。

「靴」と彩さんが不意に言った。「姉ちゃんとゆいちゃん同じだよね」

「うん」朝美さんが言った。それだけだった。

「いつから履いてました?」

「最近かな」

「派手な色も何かいいね」と彩さんが言った。もうアイス・クリームは食べ終えていた。

コテージは冷房が稼働していて涼しかった。大富豪をやっていた人たちは物語を書き進めるか読書していた。テレビを見ていた二年生の人たちはロフトで談笑している。すぐに素麵を湯がいて準備した。もう正午を過ぎていた。

昼食が済むと私はその机で小説を書き進めた。二席離れた横で姉の黒川さんが何かルーズ・リーフに書きつけていた。彩さんは私の正面で読書している。沖部長を含めた二年生たちはロフトでリレー小説を書いていたし東さんやほかの三、五年生はニュース番組を見ながらとりとめなく話している。それぞれ好きにしていた。私は予想外に早く書き終えそうであったから集中して書いた。彩さんもそのうち部室から持ってきた共用のワード・プロセッサーを取り出して書ききった作品を打ち込んでいた。個人で所有している人はほとんどいないから、多くの部員はそれに内容を入力してまとめた。印刷して専用のステープラーで綴じれば一つの冊子になり部誌になる。学期末には印刷会社に委託してきれいに装丁された部誌を出した。彩さんの打ち込みは夕方になっても終わっていなかった。

そのうち日が落ちて空は濃紺になり雲だけが燃えているように朱かった。山の端は向こうに沈む太陽の光をたたえて黄金色に光り、鳥の黒い一群がその方角に向かって消えた。わずかに風が吹き始めて外の木が川流れのようにざわめいた。その音の間隙に蝉の音が途切れ途切れに聞こえた。もうヒグラシが鳴いていた。私は学校にいるとき蝉の鳴き声を一度も聞いていなかったように思っていた。実際はそうではないはずだがここで今ヒグラシの鳴き声を耳にするとその声が去年の夏の暮れ以来久しぶりに胸に沁みた。西日の輝きが残っていたような明るさが絶えて不意に暗くなるころから窓を開けると冷たい風が部屋に入って心地よかった。そのときだけは冷房の電源を切って窓を開けた。沖部長を除く二年生の三人ともう一人の三年生の人が夕食の材料を買いに出た。私はその姿を見送った後でまた書き進めた。もうじきに書き終わるつもりだった。

何を熱心に書いていたか真剣な顔を作っていた黒川朝美さんが顔を上げて体を伸ばした。それから風に当たりに行こうと私を誘った。まだ打ち込んでいる途中だった彩さんは来なかった。二人だった。外はもう星が見えていた。月もあった。それらの明かりとコテージの玄関灯だけでは周囲はむしろ暗く見えた。そこらを歩こうと黒川さんに言われるまま木々の生えるコテージの周辺をそぞろに歩いた。半袖のシャツに薄手のジャージを着ているだけではうすら寒かった。黒川さんも自分の腕をさすっていた。

「冷たいというよりは寒いね」

「ですね」

「コテージの周り一周するくらいで帰ろうか」

「はい」

光は木々に阻まれてむき出しの土には届かなかった。か黒い土はなおさら濃い黒に見え、星月の明かりをまばらに通す林の中は開けたコテージの付近よりずっと暗かった。遠くばかり明るく見えた。けれどそのおかげでコテージの位置はすぐに知れた。林を抜けながらコテージの周りを大きく一周すると正面から少し離れたところに出た。受付の小屋が近くにあるらしかった。「後はほとんどまっすぐ歩くだけだね」と言って黒川さんは私の手を握った。とうに血の流れが止まってしまったような冷たい手だった。私よりわずかに大きい手でもあった。

「寒いから」

黒川さんは私に擦りつくように体を寄せながら私と横並びに歩いた。幾分かゆっくりだった。別に手をつないだことも体を寄せていることも嫌ではなかった。私も肌寒く黒川さんに身を寄せて薄暗い中を湿っているような土を踏んで進んだ。熱があるのは自身と朝美さんの体だけのような気がした。不思議とつないだ手に汗をかいていた。

「寒かったでしょ」と五年生の人が言った。暖房も何もつけていないはずの室内は妙に暖かかった。夕食を作るのは買いに出た四人だからくつろいでいてよかった。彩さんはすべて打ち込み終えたかロフトから下りてくると「疲れた」と冗談めいた笑みを浮かべた。

買い出しに出た四人も薄着だったかやはり「寒い」と言って帰ってきた。その三年生の人が慌てて受付に米を買いに行き、残りの三人が具材を切り始めた。残った何人かは読書していたが、私と黒川さんたちと沖さんはちょうど放送していたコウテイペンギンのドキュメンタリー番組を見た。極寒の氷上で父親のペンギンは子を守り、子を産んで間もない母親のペンギンは餌を探しに海へ出た。ときには天敵のアザラシに襲われるかもしれない極限の世界で母親ペンギンはできるだけ多くの餌を蓄えて家族のもとに戻った。父親ペンギンは以前の蓄えを子に分けながらじっと帰りを待った。母親ペンギンが戻ると今度は逆のことが行われ、子が十分に成長すれば両親揃って海に出た。氷点下数十度の青白い氷の上にある壮絶な生活模様を私たちは凝視した。遠くに炒めた野菜の香りがした。

出来上がったカレーを食べた。にんじんとじゃがいもにわずかばかり芯があっただけで味は悪くなかった。甘口のルウを使ったわりにはスパイスが強く香った。何人かが二杯目を食べていた。私は一杯だけで満足した。食事のために体が熱を持ったか朝美さんは上着を脱いでまた薄手のシャツ一枚になった。足元を冷たい風が流れていた。

食事が終わってしばらく体を落ち着けていると九時になった。慌てて備え付けの風呂の浴槽に湯をため始め入浴する順番を話し合った。浴槽は一般的なものよりずっと大きく風呂場にはシャワーが三つあった。だから三人か四人ずつ入れた。学年ごとに固まり五年生の人は三年生とともに入るように決まった。それから先に五年生たちが入り、それから一年生が入って最後が二年生になることもすぐに決した。寮のユニット・バス式の風呂場だとわざわざ浴槽に湯をためたりはしないから皆足を伸ばして湯につかることを心待ちにしていた。合宿の目的は暗にここに据えられているようだった。そのうち三、五年生の先輩が入った。私はまた熱心に書き進めた。東さんも何か書いていた。二年生の先輩は着替えや風呂の道具を用意しながらまた歓談していた。彩さんはもう眠気があるのかソファにいる。私は手を休めず書き続けた。霧に隠れて不明瞭だった終局はここに際して細部まで見えるようになり、それを少しも漏らすまいと集中した。ところどころの停滞はありながら情景はほとんど連綿と進み続けたし時間の持続をはっきりと感じた。一つの別個な小世界としての物語が誕生した。それは生命のない胎児であるしめまぐるしい変化を内在しながら客観的には静止している須臾の持続だった。誰ものぞき込まねば静止したまま持続するし誰かが読めば主観的な流動によって持続した。腐りもするし消えもするような別世界である。そしてそれは場合によると、あるいは解釈によると同時に可算無限個も存在する外観だけが統一された新たな小世界を生み出しそしてそれもまた生命のない胎児だった。私は始原となるそれを生み出し始原はまた次の世界を作る。私は深く息を吐いて背を伸ばした。

ところへ黒川さんたちが風呂から上がって来た。私たちは着替えと洗面具を用意してすぐに交代した。横を通り過ぎるとき湯に温められた黒川さんたちの匂いと洗髪剤の甘い匂いの混じる湿った熱を感じた。

「ゆっくり入ってね」朝美さんが言った。

風呂場はまだ湯気が充満して薄白かった。石でできた洗い場も浴槽も三人で使っても余るほど広く彩さんは洗い場を歩き回って「広い、広い」と言った。私たちは先に全身を洗ってからその深く広い浴槽に浸かった。熱っぽい蒸気にむき出しの肌を晒して全身に汗をかき目眩みすらしそうなここではただ自分の体に触れる感覚と彩さんや東さんの声だけが意識の所在を明らかにした。私は自分が知らぬ間に意識を失ってしまわぬよう何度も手をさすり腿を揉んだ。それから自分の頬や胸を伝って流れ落ちる汗を拭った。不思議に汗が止まらず何度も顔の汗をタオルで拭き取った。「暑いね」と二人が言い、私は黙ってうなずいた。あまり暑いからか彩さんたちは早々と出て行った。足を伸ばし湯あみを楽しむほど気楽でもなく蒸される中で浅い呼吸と起伏する胸と噴き出る汗だけが繰り返し意識されそれ以外がまったく存在しないようだった。私は一人残った。湯から出てシャワーの前の木椅子に腰を下ろしてわずかな冷たさを感じて一瞬だけ自分の尻の感覚を持った。けれどやはり流れる汗と拍の短い喘ぎが夢見のような霧がかる淡い景色に幻のように投影される。顔から汗が出ないようにと手で覆い目をつぶった。そんなやり口は何の役にも立たなかった。背筋を伸ばして正面の曇った鏡に映る輪郭のない自分の全身に手を這わして生きているからこそ止めどなくあふれるぬめるような塩辛い汗を払いながら乳房の形や腰のくびれや尻の弾力やどこか筋肉質な張りのある腿の感触を脳裡に刻もうとした。絶対に記憶しなければならない気がした。ふくらはぎの手触りを憶え乳房や尻や腿に比べると肉の少ない骨張った足の硬い感触を憶え、内側の熱源から湧き出て身体にみなぎる生きている感覚と所在ない肉欲をもう一度全身を丹念に触れて理解した。それは抑え込むべきか発散されるべきかも分からなかった。ただ胸に手を当て次は鼓動を感じようとすると、肌にわずかに浮き出るような肋骨の下で心臓が今にも破裂すると思って怖くなった。それから自分の肺の位置を、肝臓の位置を、胃の位置を、腎臓の位置を、膀胱の位置を、性器の位置を想像し、それらが同じ場所にとどまり篠崎唯一の一部として活動していることに救いすら感じた。唯一は冷たいシャワーを頭から被り胸にかけ腿から足先へ水を流した。不意にさっきより視界が明瞭で柔らかい肉がついていた体が死に絶えたように硬くなるのが分かった。全身に汗と一緒ににじんでいるようなうやむやな交接の欲望が散り散りになってしまった。私はそれが以前からの自分のやり方だったと思い返し嘘のように立ち消えになったのを妙に感じた。生きているという実感だけがいまだに高鳴る鼓動と冷え切った肌の下で対流する熱で分かった。私は浴場から出た。

脱衣所に朝美さんがいた。「大丈夫?」と言った。大丈夫です、と答えた。彼女の後ろに全身が映る姿見があった。まだ水のしたたる篠崎唯一の体が映った。朝美さんは私が体を拭くのを心配そうに見ていた。私は何度も彼女の顔を見、奥の鏡に映る自分を見た。つい数分前には燃えるようだった体は冷えて鳥肌が立っていた。「寒かった?」と私からタオルを取って背中を拭いてくれる朝美さんが言う。私はそうじゃないと独りごとのようにつぶやき朝美さんがするままにした。朝美さんは私の背中を拭き終えるとつい今私が水気を取った髪をタオルの上から搔く。「早く服着よう」と言った。優しい声だった。「はい」と言った。朝美さんは私の脚を軽く叩くようにしてしたたる水を取り、足の指の間を拭いた。そうしてタオルをまた私に返した。私はまた朝美さんの目を見、鏡の篠崎唯一を見た。やはりあれも私なのだと思った。朝美さんが見ている前で股にタオルを当て毛が含む水を拭った。表面に水気を失うと皮膚は厚手のゴム生地みたいに気味悪かった。

「のぼせたんだよ」朝美さんが言った。

「そうですね」

「めまいはしない?」

「はい、大丈夫です」

「待っとく」

「ありがとうございます」

服を着ると急に体が熱を帯びた。朝美さんに手を引かれるようにして居間に戻ると夕方には感じなかった湿気があった。彩さんがまず「大丈夫?」と言った。東さんは今に私が倒れるのだというような顔をした。二年生の人たちはもう脱衣所に向かっていた。いつの間に買ったのか五年生の人がぬるい麦茶を出してくれた。私はそれをゆっくり飲みながらまだ心残りがある顔の朝美さんを見た。「ふだんシャワーだけで終わる?」と言いながら私の髪を梳く。温かく細い指が熱のない黒髪を撫でる。心地よかった。

一時は私の周りで様子をうかがっていた人たちもまたそれぞれ好きにし始めた。五年生の先輩は夜のニュース番組を小さな音量で見ながらいつの間に手に入れたのかビールを飲んでいた。すでにロング缶が二つ空いていて三本目を飲んでいるところだった。つまみも食べずに缶にばかり口をつけていた。この人は夕食のときにカレーを二杯食べた一人である。髪を短く刈り込んでいて鍛えているらしく腹筋が硬かった。腕は私たちと同じくらいの太さであったが引き締まった中に何か美しくも力強い筋肉の流動があった。彼女の体はどうなっているだろうと思った。彩さんや東さんの体は湯気の立つ中で見た。もちろんそう筋肉質な体の人はいない。彩さんはいくらか締まった体をしているが単に痩せているだけだった。その人の肉体はそれとはまったく別だった。意識的に作られた体だった。往きのバスの中でこの人は一人で座り眠っていた。バスがここに到着して停車するとすぐに目を覚まして荷物を取った。身軽だった。コテージでは最初から物語を書く算段がなかったようで着替えの服とタオルと洗面具だけ持っていた。私はこの人がどういう文章表現をしてどういう小世界を生み出すのか分からなかった。というのは彼女の名前がいまだに私に判明していないから、黒川さんからもらった冊子を読んでいても二人いた五年生のいずれが彼女であるか見当もつかない。たしかそこにあった名前は佐川と小宮山であったが彼女はどちらが似合うだろうか。私は缶を手に持ったままニュースを見る彼女に向かい声に出さず佐川先輩、小宮山先輩と一度ずつ呼びかけてみた。どちらでも正しいような気さえした。それに冊子にあった掌編もどんな作品だったか思い出せない。沖部長と黒川さんのものばかり思い出された。

十一時を過ぎたころにその五年生の人が寝室に入った。酔っているようではなかった。その後すぐに沖部長と東さんも寝室に行き、零時前には彩さんも寝室に行った。もう一人の三年生の人は黒川さんと話していたがそのうち眠くなったか黒川さんへの返事も曖昧になりとうとう会話を切り上げて寝室に行った。それでもうベッドは埋まってしまった。ロフトに布団があって敷き詰めたら五、六人は雑魚寝できそうだった。二年生の三人がそこでまだ何かしていたから、その横で寝る気にはなれず私は眠気を払いながら石川の『広い土地』を読んで静かになるのを待った。ロフトの穏やかなざわめきが寄せる波のように耳に届いた。黒川さんが戸締りを確認し窓を閉めて冷房の電源を入れた。ひと気のない真っ暗なコテージの周辺はむしろ何がいるか分からず怖かった。あの水路の方角から蛙の声が聞こえた。虫の音もそこらから聞こえていた。それも窓を閉めきれば遠い耳鳴りのようになる。私はまどろみ読んでいるかただ文の上に視線を置いているだけかも判然としなかった。もはや焦点も合わず不意に意識が遠のいた。頭に甘味すら感じるほどの眠気がたまりもう事を深く考えられなくなっていた。だからいつロフトのざわめきが絶えたかも分からなかった。一人でまだルーズ・リーフに何か書きつけている黒川さんに挨拶してからロフトに上がり眠った。



そのうち、夢を見た。もやのかかった森にいる。草木の茂る土を踏んでそこに立っている。裸足で土を踏んだのはいつぶりだろう? 湿った草や土の香りが鼻につき、生きている感覚がする。柔らかい感触すら足の裏に伝わる。獣道のような、草のしだれかかった一筋のむき出しの土を歩いていくと、建物にぶつかった。それは一面ガラス張りの建物だが、中に何があるのかはわからなかった。どういう感情もなくただ入ろうと思って中に入ると、中もまた、もやがかかっていた。ただ階段が見えた。もやに隠れて、どこに行きつくかはわからないけれど、それはたしかに、どこかへと延びる階段だった。階段のあたりには何もなかったはずだった。だが、ふと見ると、階段の陰に黒川さんが座り、うつむいていた。彼女は階段の陰から出てくると私のところに歩いてきてじっと見た後、「あなたには子供がいない」と言った。私にはいくつかの疑問が胸に湧いた。まず黒川さんは、私のことを「あなた」とは呼ばなかった。どうして彼女は私をふだんになく「あなた」と呼んだのだろうか? 次に、私がどうして森(のような場所)にいたのだろうか? それと、あの建物は何なのだろうか? 階段はどこへ向かうのだろうか? するとすべては唐突に黒い空間へと離れて行った。いやむしろ私がそこから引きはがされてしまったのだ。その階段のそばに黒川さんはまだいた。もう表情は見えなかった。しだいに私をも取り込んだ黒い空間は沸騰しているような暗い水中になって私を煮殺そうとした。息はできた。ただどうにもできないほど熱かった。体の内側にまで熱湯が浸潤して私を引き裂こうとした。私は喘ぎ叫んだ。けれどどうにもならなかった。抵抗するほど熱で全身が痛んだ。死ぬ、死ぬと思った。それから抜けられない、抜けられないと思った。体が反り暗闇にいるはずの私の体だけが薄橙色の発光体としてはっきりとそこに浮かび腹から裂けて闇に溶けた。自分すら闇の一部になろうとしていた。もう家も森も黒川さんもなかった。ただ色を失っていく自分の身体があった。そのうち皮下の神経は熱を受容し脳だけが反抗した。自分の頭だけがしぶとく生き残りながら消失を拒んだ。私は首から下をほとんど失ってもまだ熱い苦しいと叫んだ。



誰かの声に起こされた。その人は私の肩を揺すり、ささやくように篠崎さんと呼んだ。そこもまた暗闇だった。居間のテーブルに置かれた夜光灯の明かりが天井を照らしていた。自分の体は薄橙色には光っていなかった。代わりに全身が汗で濡れていた。たった今水を被ったように冷えた汗が体を覆い乾きやすい生地の服も湿っていた。布団も水気を吸って私が体を置いているところから汗の臭いが昇った。横で私を呼び揺すったのは黒川さんだった。彼女は私に下に降りるよう促した。冷えた水でもぬるい麦茶でもいいから喉を潤したかった私はその合図が出るのと同じ瞬間に中腰になってロフトを降りた。

テーブルに座った私にまた黒川さんは麦茶を出してくれた。「暑かった?」と尋ねられた。黙って軽くうなずいた。冷房の風が冷えた胸をさらに冷やした。熱が奪われているのが分かった。黒川さんはやはり汗をかいていなかった。

「シャワー浴びて、着替えたほうがいいよ。着替えある?」

「はい、大丈夫です」

何が怖かったのか私は着替えの服を何組も持ってきていた。用意してから一人浴室に行って脱いでいるときに黒川さんも脱衣所に来た。「私も暑い」と手をはためかせた。それから「一緒に入るの嫌じゃない?」と言った。「大丈夫です」とだけ返した。彼女の体の見えるところには汗の水滴はなかった。それからすぐに二人で立ってシャワーを浴びた。風呂場の明かりは妙に明るく目の奥が痛んだ。私は光の弱く届く足元に目を向けて自分の体を伝い落ちるぬるま湯を眺めた。自分の体はのぼせたときとも水で冷やしたときとも違って見えた。黒川さんは何度も頭から足まで一箇所ずつシャワーを当てた後で肩にかけたまま低いところについている小さな鏡で自分の顔を見ていた。まるでそこに映る顔が自分のものではないと分かったように。私はもう汗を落としたから風呂場から出たかったし眠りもしたかった。けれど黒川さんが待てと言い私に向かって真面目な顔を作る。それからまた自分の顔を手で触れながら何かを調べている。ぬるま湯は彼女の肩から背中へ流れ石張りの床に落ちて排水口に向かった。私はその流れを見、もう光に慣れたと気づいて風呂場の明かりを見上げた。それは不思議に皓々と光って私たちの体を照らした。

見る者が、在る気がした。

「ゆいちゃん」

黒川さんが呼んだ。

「唯一ちゃん」

また、呼んだ。

黒川さんはもうシャワーを止め立ち上がっていた。凄んだ顔で私の目を見つめたまま歩み寄って来た。ただ後ずさりする私になおも近づこうとしてついに石の壁に背をつけた私にほとんど重なるほど寄った。冷たい壁の感触に身震いする。浅い呼吸が聞こえる。

「唯一ちゃん」

黒川さんの手が私の肩を撫で腕をさすった。それから私の手を軽く握った。

その手をはたいた。

彼女の表情が、硬くなる。

手を、見ている。

黒川さんはそこを出て行った。しばらくすると脱衣所にあった音も途絶えた。足音が消えた。あれは何だったのか? 彼女の手の熱を思い出し「唯一ちゃん」と二度呼ばれたことを思い出した。さあっと鳥肌が立った。体が硬くなっているのが分かった。全身が死後のように硬直していた。動けなかった。排水口に流れている水の音もなくなりまったく無音だった。蛙の声も虫の音もなかった。ただ自分で肩から手までさするときのすでに乾き始めている肌の擦れる音だけがかすかにする。まだ扉を開けたら脱衣所に彼女がいる気がした。そうしてまた私の体に触れ、撫で、さすって「ゆいちゃん」「唯一ちゃん」と呼ばれると思った。また鳥肌が立つ感覚があった。

新たな服を着て居間にいっても黒川さんはいなかった。もちろん他の人はまだ眠っている。誰かの寝息がロフトからする。夜光灯だけの居間は複雑に陰影を作った。ただ光源の周囲だけがまぶしかった。私はその正面に座って光を眺めた。とても眠れそうになかった。黒川さんに肌をさすられたときから神経が高ぶり震えた。こうするうちにも暗闇から彼女が出てきて私を呼ぶかもしれなかった。長谷見さんの顔が思い浮かんだ。彼女に会いたかった。彼女の胸に飛びついて、すべて打ち明けたかった。彼女に呼ばれたかった。しかし長谷見さんの顔を思い出すだけで幾分か心が安まった。もうさっきのことは考えたくなかった。

夜光灯を傾けて闇に紛れる時計の針を照らした。二時半くらいだった。いつ夢から寝覚めたかもどれだけの間浴室にいたかも分からなかった。その静かな中で目に残るような強い光を見ているとまた眠気が湧いた。黒川さんがどこで何をしているかさえ分かれば、そうして眠っていればそこから離れて寝るつもりだった。ロフトに上がり暗い中に横たわる人を数えると四人いた。手前にいるのが黒川さんのようだった。また緊張した。今に起き上がって私に近づいてくる気がした。けれど彼女は寝息を立てて眠っていた。私は二年生の三人が横並びに寝ている間に割り込んで寝た。

そのまどろみの中でなら黒川さんのことを考えられた。私は彼女をまだ慕っているのだろうか? あるいはそうであるとしてこの先も慕い続けられるだろうか? 最初に彼女の噂話を聞いて彼女の概観を把握し部室で出会ったころから私は黒川さんを尊敬していた。彼女は勉学に秀でている人である。そうしてまたその才覚を隠して通俗な姿でいられる人である。多くを語らずにいながらあるときには個人の主義を述べる。それから相手の主義を引き出した。そしてまた別な話を引き出した。無言でいるのは苦にならない一方で会話していても楽しかった。ふとしたときに人の目を見、笑んだ。困っている人には気にかけもしたし私がのぼせたときのように優しい声をかけた。そういう彼女がどうしてすさぶる衝動を突き動かしたのだろう? シャワーを浴び鏡に映る顔を見据えるうちに自己の内部に熟する交接の欲求を発見したのかもしれない、いや、すでに成熟を感知していた肉欲をここで暴露するか自分自身の顔を見て考えたのかもしれない。彼女が書き出す物語の女のように静かな血の流れの下に避けがたく現れ自分の手を汚し自己を嫌ってでも発散しなければならない逼迫した情動が彼女の肉体に満ちているのだ。私はそこに分離した自身がある気がした。私が別個の篠崎唯一を見、拒否したのだ。私は向こうで一人薄地のタオルケットをかけて眠る黒川さんを見た。それは集合した密な闇だった。



急激に意識が戻った。頬に汗がにじみ体が熱かった。つけたままでも冷房の空気はロフトには届かずいつまでも湿った熱気が滞留していた。下に降りると涼しかった。テーブルのところに黒川さんがもう座っていた。私は階段の途中で止まり彼女の横顔を見た。まだ何かルーズ・リーフに書いている。少しも止まらなかった。書くことはとうに決まっていて後はその一切を書ききってしまうだけなのだろう。私はまた彼女の手の感触を想起した。不思議とどこか他人の話を思い出しているようだった。

トイレに行った後で昨日の夕に二年生の三人ともう一人の三年生の先輩が買ってくれていたおにぎりを二つ食べた。鮭とツナ・マヨネーズだった。米に水気がなく乾いた感じがあったから残っていた麦茶で流し込んだ。時刻はまだ五時を過ぎたところだった。夜光灯は消え外の光が入っていた。もう薄明るかった。私は目の前で眉をひそめながら何かを書き続けている黒川さんが深夜に荒い息遣いのまま私を「唯一ちゃん」と呼び私の腕に指を走らせたのはその前に自分が見ていた悪夢の続きだったのではないかと思い始めた。一度彼女に起こされたのが原因で黒川さんを夢に見たのではないかと疑った。そう思うとなおさらその気が強まった。眼前の黒川さんはすでに朝食をとっている私に挨拶もしないし席を外しもしない。そこには積極も消極もなかった。ただ凪いでいた。表面には何の意思も見えなかった。寮の裏で話しのぼせた私の体を拭いてくれたあの人とも裸体をすり寄せ尋常にない呼び名を使ったあの人とも判別できなかった。けれど私の身体はどこか落ち着きがなかった。まだ彼女の手の熱を感じているようだったし不意にまた呼ばれることを恐れているようだった。そうした意識が従来の敬慕の念に絡まって私の心情は定まらずただうごめいていた。



私の名前がどうして「唯一」であるかは母に聞いてもはっきりしなかった。父は言葉を濁した、というよりはむしろ自分の思うところを秩序ある言葉で上手に説明できないでいるらしかった。父の説明は規則的に不規則であるという矛盾にさいなまれていた。それは秩序ある無秩序であった。私には少なくとも相応の理由があって「唯一」と名付けられていることだけは了解できた。それが「唯」でなくて「唯一」であるのも一応納得した。もっともその納得は私自身が他人には説明できないのを隠しながらなかば譲歩を含ませてある諦めの色が濃かった。筋のある由来は語れた。唯一無二の子供として生まれたというような美談に片づけられた。父はそうではないと言ったけれど。姉の名前は一般的だからまた不思議だった。姉は咲子といった。字義の上では笑う子であるし花のように咲く子である。なるほど彼女はよく華やかに笑った。

そうして考えると黒川姉妹が姉は「朝美」で妹が「彩」であるのもいったいどういう理由があるか知れなかった。けれど本来兄弟姉妹の名前に連関を持たせるのは世間に通用されない。文字数や意味合いを揃える家庭もあればまったく不規則に命名する家庭もある。あるいは我々の感覚において把握できない潜在的な関係が名前のうちに畳み込まれているかも分からない。「朝美」の次に「彩」が来るだけの具体的な訳を父母は感じているのだろうか。



 黒川さんが紙の上に目を向けたまま深く息を吸い吐いた。それがある種の合図であるというように私の思い巡りは打ち止めになり彼女に集中した。急に立ち上がってどこかに行くのも気が引けた。私に残存する良識が密かに足を掴んだ。けれど目の端に彼女の姿を捉えているだけで顔を上げて表情をうかがえなくなっていた。思索のうちに視線が下がるともう持ち上がらなかった。ただ卓上のおにぎりの包装を見た。

 「篠崎さん」

 「はい」


 沈黙。


黒川さんは書き続けていてついさっきペンを置いたばかりのルーズ・リーフの束をバインダーにまとめた。その厚い紙の束に何が書き込まれているかは想像つかなかった。

「あげる」と言ってそれを私の前に押し出した。「後で見て。部屋に戻ってからか、バスの中でもいい」

彼女はそれから「ごめんなさい」と言った。



 七時前には沖さんが寝室から出てきた。そのときの音で目覚めたか間もなく五年生の人が居間に来て朝のニュース番組をおにぎりを食べながら見ていた。彩さんや東さんは後に続かなかった。先に遅くまで話し込んでいたはずの三人の二年生の人たちが降りて来てテーブルの隅で食事した。バインダーを置きに行った後の私はまた黒川さんに対面するのもテーブルの椅子に座るのも遠慮されたからその五年生の先輩の横に座ってニュース番組を漫然と見た。旬の農作物の不作と国家間のいがみ合いと株価の下落を伝えていた。天気予報では雲が多く出るものの晴れると言っていた。窓の外には雲間から濃い青空が見えた。もうある種の蝉は鳴き始めていた。

 八時ごろにもう一人の三年生の人と東さんが出てきた。彩さんは何度も人に声をかけられながら九時半にようやく起きてきた。予約したバスがまた来るのは十時半だったから彩さんは時計を見てにわかに慌てていた。黒川さんが笑った。

 荷造りが始まり掃除と片付けが始まった。生ごみはコテージの管理者が処理してくれるらしいがおにぎりの包装やビールの空き缶は各自が持って帰ることになった。本来なら成人していても合宿中の飲酒は禁止されていると五年生の人は冗談を言うように笑った。

制服に着替えた三年生の二人が先に出た。五年生の人と東さんも後から出て外で話していた。二年生は最後に部屋を点検して回っていた。私は片づけながら何度もバインダーがリュックサックにしまわれていることを確認し直した。そこに何が書かれているのか散り散りに考えたがまとまった結論などなかった。彩さんが制服に着替えるのを待って外に出た。 

「意外と堅苦しく感じるね」と彩さんがこだわりなく言った。

 バスは十時過ぎにはもうコテージ近くにある駐車場に停まっていた。我々のうちのほとんどはもう乗り込み、沖さんと東さんがまた受付に行った。車内にいるとエンジンの音で何もかもが遠くに聞こえただ開けたままのドアから入る熱風だけで夏と分かった。もう日差しがきつかった。皆カーテンを閉めていた。最初から眠るつもりでいるのか一人で座る人が多くいた。ただ二年生のうちの二人と後から乗った黒川さんともう一人の三年生が一緒に座った。私は最後列の窓際に座った。そこにいれば誰にも自分の姿が見られず手渡されたルーズ・リーフの束を読み通せるはずだった。私は朝美さんの後頭部をまた見た。艶やかな黒髪だった。それから車内を見渡しまた黒川さんを見た。バスは予定より早くそこを出発し学校に向かった。冷房がわずかに効き始めた。

 コテージの敷地を出てすぐそばの信号で停車したところで私はリュックサックからあのバインダーを取り出した。表に貼られている無地のシールには「黒川朝美」とあった。それから厚い束が中に収められているのを見た。最初にあったのは十数編もの小説であり、最後には手紙めいた文書があった。そこには青インクのペンで行いっぱいに少し角張った文字が敷き詰められていた。改行も空白もなかった。区切りの記号が出てくるだけだった。私はその一字一句すら見逃さないつもりでまず手紙から丹念に読み進めた。そのうちまさに冊子の掌編で見た黒川さんの文体を思わせる文章を滑るように読み取っていき私は今バスがどこを通りあとどれほどで学校に到達するかも計算せずにただ目の前の文を読んだ。読み通すのにいくら時間がかかるか分からなかった。

そこには以下のように書き綴ってあった。

 「篠崎さん。このような手紙を受け取っても迷惑かもしれません。しかし私は、私の満足のために渡します。ここには、私の入学以後のことや、私がそこで考えたことをばらばらに書きます。時系列はおおむねあっていると承知していますし、結局のところ私が何を言いたくて、何をやろうとしているかは、あなたにすぐに知れます。少しきざかも知れませんが、私はじきにいなくなろうと考えています。だれのせいでもありません。ただ自分がそうしたいと思ったから、消えてみるのです。そのために多くの人に迷惑をかけ、心配させ、もしかすると捜し出そうとする人すらいるでしょう。そうしたことをまったく承知した上で私は逃げるつもりなのです。どうしてそう思ったかはこの先から書いていきます。もう五月になりました。どうにかして合宿のころには書き終わりたいと思っています。/二年前に高校生になりました。そうして三年生になりました。文理の選択を終えて、ふつうの学校とは違い大学入試のようなものはありませんから、ずっと気楽です。それに今年、今年度は彩が入学してくるからいっそう生活を楽しんでいました。彩の合格発表を、学校まで見に来た両親や彩と一緒に見に行きました。彩が一人で掲示板に行き、見ました。私はそれまでの彩の頑張りを、よく、母からの電話や手紙で知りました。五年制(再来年から七年制になり、高等部と大学部に分かれるそうです)であることや、自由に部活動を発足できる以外にはとくに目立っていいところもないと思っていましたが、彩は熱心でした。電話越しに話したことがあります。絶対合格するから、と意気込む彩を私は励まし、応援しました。私の中学校からも何人か来てはいましたが、それほど懇意ではありませんでしたし、なにより妹が来てくれるという事実が嬉しかったのです。/私が入学して、今の清陽寮に入りました。私はあの建物に満ち満ちている空気が好きでした。あそこには懐かしさがありました。寮はいくつもありますし、同じ中学から来た人は全然見かけませんでした。小さな学校でしたから、自然と同じ学年の人なら全員の顔と名前を憶えてしまえます。それでも見かけないのなら、本当にいないのだと不安を感じました。私はこのときはじめて知らない土地の怖さを知りました。外を歩いても、知っている景色なんて、まったくないのです。寮の歓迎会まで、私はほとんど食堂と部屋の往復の生活でした。持ってきた本も身を入れて読めずすぐに閉じて眠ってしまいました。教科書の受け取りや自己紹介や身体検診のときには学校へ行きました。でも終わったらすぐに部屋へ行き、眠りました。しかしやっぱり暇です。眠るのにも限界がありました。それに部屋で一人でいると何とも言えない不安が胸を蝕みました。無意に窓の向こうの空を眺め、天井を眺め、受け取った教科書とか校内靴とかを見ても、なんだか虚しいのです。廊下や外からは人の声が聞こえます。楽しげな声です。皆どこかへ出かけ、部活の見学をしているのでしょう。友だちが一緒にいるからです。一人ではなくもっと多くいるからです。私にはだれもいません。そのとき私は、一時的に中学の人に近づくような人にもなれませんでした。ようやく食堂で見かけ、会釈した人が一人いました。でもそれきり話しませんでした。むこうも何も言いません。一時の寂しさをやわらげるためにあえて人に近づける人にはなれませんでした。そしてそのうち、そういう人を軽蔑しました。浅ましい人だと、笑いました。嫌いました。私はもう一人でいいと思いました。一人でいる虚しさより、無理に仲良くしようとしてとうとう離れてしまうほうがよほど虚しいと、気付きました。歓迎会のときも、自然と仲良くない人どうしでも横に座り合ったりして、先輩の話を聞くもののようですが、すくなくともこの三年間見てきて、そう思ったのですが、私は会が終わったらすぐに部屋に戻れるように、入り口近くにある、二人がけのカフェテーブルを選びました。今でもそこに座ります。どうせ、来た何人かの先輩と当たり障りなく談笑すればよいと思いました。あるいは、だれも来ないうちにやっぱり帰ろうと思いました。その日はもう夕食を抜いてしまおうと、どうして嫌がったのに歓迎会に来たのだろうと、思いました。そうしたら、帰る前に、一人来ました。「ごはんは食べた?」と、その人は聞きました。その人は大路つぐみと言いました。私がまだだと言うと、大路さんは急いで二食分の鯖焼きを持ってきました。食べながら話そう、と言いました。私たちは、私が篠崎さんやほかの一年生の人たちに話したようなことと同じことを、話しました。大路さんはお金持ちの令嬢でした。そう言うと凄いように見えますが、やはり生活ぶりは派手であったようです。一通りの説明が終わって、大路さんが勝手に注文したケーキを食べながら彼女の身の上話を聞きました。私立の幼稚園、小学校、中学校を卒業してここに来たというのです。周囲もお金持ちばかりだったそうです。制服は素材もデザインもあでやかで、通りを歩けばすぐにどこそこの学校の人と分かってしまうのです。私はその制服と、それを着た大路さんを想像しました。きっと似合ったでしょう。ここはそう華やかでもない一般的なデザインの制服です。きっとそんなものとは比べられない制服であったことでしょう。けれどそのとき目の前にいた大路さんも美しい人でした。髪の毛は明るい茶色で、腰のあたりまで伸ばしていました。私たちよりずっと手入れの行き届いた艶のある髪です。頭の後ろから梳けば、先まで一度も引っかからずにすうっと流れました。そうしてその間から彼女の匂いがしました。花の香のような匂いです。私はそんなことで彼女に惚れてしまいました。私はわざわざ寮で彼女に会えば、食事に誘い、あるときには彼女の部屋に行って話しました。大路さんは私のささいな冗談でさえ、汲み取って笑ってくれるのです。それから、美容のアドバイスをくれました。そんなことで四月の最初を過ぎました。もちろん、クラスに幾人かの友人ができました。しかしそんな人たちも、大路さんよりは遠く見えました。私はすっかり大路さんに入り込んでいたのです。彼女の持つ心の余裕がうらやましかったのです。それから、笑いかけてくれる彼女のその笑顔が好きだったのです。/あるときに大路さんから文芸部に入らないかと誘われました。憧れている人から誘われましたから、快諾しました。以前から、本の種類によらず読書していましたし、本を読むことは、あるいは字を追うことは、私の喜びでした。今度はそうした本を生み出す側に回るのです。不思議と、全然、抵抗はありませんでした。ときに空想することはあっても、それを実際に文章にしたことはありませんでしたから、思い切って入部しても、最初はなかなか書けませんでした。しかし、ちょうど夏の合宿の前、梅雨の間に、短編の小説を書き終えました。その後は心地よい疲労感と達成感に包まれていました。自分が創作する人間になった実感がありました。そしてもうすでに、そのときには次の小説の案が頭に浮かんでいました。私は篠崎さんの書いたものを読めないままになるのが寂しいです。私は大路さんに真っ先に見せました。彼女の部屋に押しかけて、原稿用紙に書いたそれを読んでもらいました。大路さんは、いいと思う、と褒めてくれました。そのたった五字が六字の言葉のために、私は今でも書き続けているような気がします。彩が書き始めたのも、一年生の私が家族にあてて手紙を書いてからのことです。学校での近況を伝えるなかに、文芸部に入って小説を書いてみているという文を、添えました。するとじきに彩から電話がありました。お姉ちゃんが始めたなら、私もやると、言ってくれました。それが私に誇らしかったのです。今でも彩は物語を作っています。それは篠崎さんも耳にしているでしょう。まだ読んでいないかもしれませんが、私は彩の書き出す世界が好きです。ふだん、わりに活発な彩が、むしろだからこそかもしれませんが、うら悲しい作品を書いています。/私にとっての最初の小説を書いてから、大路さんは私の部屋を尋ねるようになりました。何というわけでもない世間話がほとんどです。ちょうどそのころは長雨の降る梅雨ですから、たとえば雨の話をします。大路さんは、以前は、雨が降る降らないにかかわらず、地下にガレージがあったから送り迎えのときは濡れなかったと言いましたし、そもそも雨の中を傘をさしてあるく経験もわずかばかりだと、教えてくれました。こっちに来てからは、付き人のような人もいませんから、自分で傘をさします。小さなかばんを手に提げ、傘をさして歩く彼女はまた美しいのです。ときに私は大路さんと一緒になって学校へ行きました。バレエをしているのか、していたのか、背筋が人よりいい大路さんはまさに百合のように、美麗に歩みます。彼女は虫や植物に詳しいようで、よく、路傍の草花や飛んでいる蝶の名を教えてくれます。そんな話も、私の部屋に図鑑を持ってきて話してくれることがあります。今でもそうであるように、部屋にコンロはありませんから、熱い紅茶を入れてたしなむようなことはできませんし、そのときはまだ、今のように食堂の人に言ってお湯をもらうこともできませんでした。私たちは喉が渇くのも我慢して、話しました。それから、夕に食堂でお茶を飲んで、また話していたのです。しかし、季節の話や自然の話がほとんどだった私たちの会話に、大路さんが別な色の話をはさみ込みました、というのは、以下のようにあります。「結局、大事なのは、愛か、金か」「文学上に性愛の話を盛り込むべきか」「空想は有限か」「物語の中には時間や空間があるか」すべてに一応の結論をつけました。何度も考え、話し合い、ときに真っ向から対立しました。けれども情に激して軽挙妄動するような粗相はいたしません。ただ静かに話し合い、論議しました。大路さんは私が意見を言うたびに、ふっと、寂しげな笑みを浮かべました。憐れむような笑みです。そうした私の意見が、大路さんのものとまったく異なるのはそう多くありません。むしろ、おおむね一致しています。大路さんは自分が悩み、その末につけた不確かな決着と、私が今ここで反射的に放った意見とにそれほど差がないのを、自嘲したのかもしれません。あるいは、自分で浅はかな結論と思って蔑んだ意見が、目の前の後輩からあっさり出現したのに、失望しているかもしれません。彼女は何も言いません。ただ、笑むのです。彼女は背が高いですから、立ち話をしていれば、私が彼女を見上げます。そうしたときにも、そういう微笑を顔に浮かび上がらせます。けれどそれに対して私はいらだちはしません。やはり彼女の内側に、何かが、在るのだと思います。季節が来れば素直に咲き、虫に蜜を吸われるのも人に摘まれるのもまったく意に介さないような花の甘い香りがするつややかな長髪の大路さんにも、裏には相応の闇を抱えているのです。そうしてその闇を、その笑みの中に織り込んであるのです。私は、そうした雨の気配のように不意に現れ、大粒の雨を落とす予兆のように急に翳る大路さんの暗い心中を、暴いてみたかったのです。しかし私は自然に咲き、いつ枯れてしまうかもわからないような花を連想させる大路さんに、いつからか欲情しました。彼女の抱える苦悩の断片を見出すほど、それが交接によって表面に現れるのだと思うようになりました。大路さんはいつも美しい人です。はかなく美しい人です。麗人です。遠くに、他人行儀に見れば、人形ほどに生の匂いを感じません。どこか浮世離れした人なのです。でも、そばに居て、一緒に話をすると、彼女も月並みなことで悩み、むしろ私が彼女に教え諭す機会すらあります。そのとき大路さんは、本当にうれしいのだと言うように、息を込めてありがとうと言います。朝美ちゃんありがとうと、私の目を見て言うのです。その目を見ると彼女を奪いたくなります。人形のようにも花のようにも、そして一介の少女のようにも見える大路つぐみさんを、あらゆる他の目から隠し、私のものとして愛し通したいのです。私はまた大路さんの顔を思い出します。近づけば、よく手入れされた髪の毛から人間の少女の匂いが立ちます。いつまでも嗅いでいたくなるような匂いです。/大路さんと話し合ったようなことを、篠崎さんにも話しています。ついこの前、晩春から、時折り、篠崎さんがあの裏手に来て、私と話すようになりました。やはりあなたも、私がそれ以前に大路さんに話したことに近い意見を言います。やはり皆、同じことを考えるのでしょうか、それとも、それがある種の真理なのでしょうか。/寮の裏手の開けた場所は、調理師の人などが食堂に入る裏口であり、あの外に平生は大きなゴミ箱が置かれています。あとは、業務の後にあそこでたばこを吸っている人もいます。私は何度かそういう人を見ました。洗った台拭きを干しているときもあります。それにあそこを知って使っているのは、どうやら私たちだけでもありません。職員の人を除いても、何人かの生徒は、裏から今度彩がいる清心寮のほうへ、垣根をまたいで行けます。何度も人が越えていくからか、もう一部が獣道のように禿げています。管理人も何も言わないでしょう。下駄箱に外履きの靴が置かれさえしていたら、夜の見回りのときも、部屋の戸を叩いて反応を伺いなんてしませんから、余分に靴を買っておいて、どこからか、ひっそりと出て行けばいいのです。そうして裏手から垣を越えるのです。同学年の人も向こうに行って、黙って友人の家で寝泊まりして休日を過ごしているらしいです。人によっては、密かに手に入れた酒とか、職員と懇意になって煙草をもらうそうです。同じ寮、つまり清陽寮の、あの活発そうな三島美耶さんも、そんなことをやっていると聞きます。いろいろな人の噂があります。告げ口などしません。皆、私には関係ありませんし、見るかぎりは篠崎さんも、ほとんどその人たちと関わりがなさそうですから、安心しています。ただ耳に入る噂、目にする光景を、自分の中にしまい込んで、決して誰にも言わないように努めるだけです。もちろん、真面目な人がほとんどです。三島さんとよく一緒にいる、広田音羽さんの悪い噂は聞きません。あの人は、バドミントンで地区大会とか全国大会に出場して、いつも上位に入賞するそうです。土曜日になると、早朝から道具を持って体育館に向かう広田さんを見かけます。そして夜になると、チームメイトと一緒に寮のほうまで帰ってきます。体育館にあるシャワーを使ってから帰ってきているのでしょう、清潔な制服と乾いた髪、肌の広田さんと、夜にはよくすれ違います。私が夜の散歩をするころ、広田さんも帰ってくるのです。彼女の、快い笑みや声と、食堂の机に座って友人と練習の話などをしているときの真剣な顔が、私は好きです。人一倍、努力しているのがよく分かります。けれどどうして、広田さんは三島さんと一緒にいるのでしょう。中学以前からの交友なのでしょうか、よく二人きりで何かを言い合って、大きな声で笑っています。/大路さんは、文芸部以外にはどの部活動もやっていないようでした。入部してからはほとんど毎日、部室に通っていましたが、いつもそこで本を読むか、人と話していました。ちょうど、今の私がしていたように。それに、休日に部室へ行くと、大路さんは次の物語を書いていました。それがどんな話であるかは、今度の部誌で読むまでのお楽しみだと、いたずらな笑みを浮かべて言うのです。私はその横に座って、顕微鏡で観察するときのように緊張した目で原稿用紙にむかい何かを書く大路さんを見ました。とても鋭い目です。少女のような匂いを発しながら、野に咲く花のように可憐にたたずむあの人が、奥に鋭敏な感覚を持っているようなのです。表層にある虚偽や似非をかき分けて、底に落ちている本質を取り出そうと根詰めているのです。その目が私に向けられたら、きっと私の心も見抜くでしょう。そのときは、どこかそうした考えを馬鹿げていると横に捨て置きながら、大路さんに向けている純粋な情欲と汚濁した愛情を直截な言葉にして、胸に泳がせます。そうして大路さんがその目で私の本心を掴み取ってしまうのを待つのです。表面ではただ静かにしています。話しかけもしませんし、努めて音も立てないようにします。彼女が見ている別世界から引きはがしてしまわぬように、私は慎重にやっています。胸のうちだけがすさぶっているのです。

私はそうした思いをどの人にも打ち明けないでいます。両親にも、彩にも言いません。傍目には分からないようにしているつもりです。ですから、ふだんは一人でいるときに手を汚すこともしません。内側にますます高まる熱を抱え込みながら、少しも発散しないようにしています。ただ私は、最初に短編の物語を書いたときから思っているのですが、物語のうちに現れる思想、思考は、かならずしも書いた人のものに一致しませんから、そこに登場する人は、しばしば欲望に忠実です。私が本当にそうした感情を抱いているとどれだけの人が思うでしょうか。もとよりわずかばかりの人だけが目を通すような部誌ですから、そこを(実際には真実ですが)履き違える人が読む事態には、ならないだろうと思っています。ですから、むしろそこでは自分の本心を、遠慮なしに発露してしまいます。私が絶対にするまいと決心していることを、そこにいる女にやらせるのです。大路さんはそうした描写を盛り込んだ、最初の短編を、誰よりも先に、私の前で読みました。それで「いいね」と言ってくれたのです。「私は、この話が好きだ」と、褒めてくれたのです。それはややもすると私の欲望の承認にほかなりません。私は、その時そう思いました。けれど私は同時に臆病でもありました。図々しく、私自身に重ねて書いた女が、交接の欲をただ自分独りで満たす姿を、まさにその相手に見せて、それを「いいね」と言われましたから、純粋に自分の厳密な意味での処女作が認められる喜びを噛み締めながら、しかも愛の告白が受け入れられたと得心しました。だから二念なく、無遠慮に、ここで私の言葉でもう一度言わねばならないという考えもよぎり、あるいはもう承諾されたからあとは好きにしてしまってもいいとも昂ぶりました。けれど臆病ですから、ただ平然と感謝の字句を述べながら、その女が物語の中で、雨が静かに降る梅雨の部屋で発散した欲求を、すべて現世にいる私が受け取ってしまったように不意に体に湧いた熱を陰に押しやりました。そのときもその女のように行動することはしませんでしたし、ひたすら体内で噴火し、自分をも溶かすほどの熱を、部屋に帰ってからシャワーの冷たい水で冷やしました。その後で鏡を見て、「これが黒川朝美だ」と、「自分に良くしてくれている先輩に男のように欲情し、はては奔放に生きる男でもやらないようなことをやって、思いを伝えようとしている」と、鏡に映る私をなじりました。そしてそんな自分は物語の中の女とは違い実在します。ここにいて、熱も欲もここにあります。私は自瀆によって意識するのではなくて、自分の体に触れ、風呂場の鏡に反射する眼球を見て、意識しました。私はここにいる。黒川朝美はここにいる。私は大路つぐみを求めている。黒川朝美は大路つぐみを求めている。そう思いました。体を殴ってもみました。腿を握ったこぶしで痛めつけ、長いものさしで叩くと、肌の表面が赤く腫れます。そこにある痺れるような痛みが、私がここにいて、ものを考える証左となるのです。/梅雨も過ぎました。このころに大路さんは私に合宿の話を持ちかけました。篠崎さんにも、言おうと思います。私は快諾しました。ほかにも仲良くしている同級生や先輩はいましたから、そうした人たちと一泊二日の合宿に出るのは、どこか夢見のような感じがあります。私の気持ちはすぐに夏期休業のはじめのころにある合宿に、むかいました。期末考査の勉強をしながら、次の物語を書き、大路さんと話し、クラスの友人と遊びもしました。北のほうの喫茶店のような店で、ケーキを食べ紅茶を飲み、近くの映画館で映画も見ました。学校の敷地内に、そうした店があって、教員が居もしますが、おおむね学生だけでそこを楽しめるのは、この年齢の私たちにはこれ以上ない喜びだと思います。篠崎さんもどうか、友人とそうした場所での団欒を、楽しんでください。/期末考査をやり過ごして、合宿の日になりました。自分では満足できるような結果を残せたので、何の未練も余念もなく、この日のために買ったリュックサックに必要なものを詰めて部室まで歩きました。雨は降っていません。不確かではありますが、夏ですし、きっと快晴だったことでしょう。天気の違いなど、ささいなことです。降っているか、降っていないかの、分かりやすい区別以外は、私には必要なかったのです。ですから、少なくとも降っていなかったはずだとしか、思い返しません。どの道を歩いて部室にたどり着いたかも、あるいは、取るに足らないことでしょう。実際そんなものを丁寧に覚え通そうとするのは、途中に何か鮮烈な出来事があったときばかりです。けれど、そのときは何も起こりません。あたりは静穏です。太平です。夏ですから、ひどく暑いのでしょう。蝉が鳴き、蜂が飛び、川水は生ぬるく、人は絶えていないのでしょう。部室には、何人かいました。大路さんもいましたし、ほかにも、今でも顔を出してくれる五年生の小宮山紘子さんなどもいました。親しい人ばかりいます。チャーターバスが来るのを待って談笑しました。私は同じ学年の人と話しました。松ほのかさんと、大野満さんは、篠崎さんも会ったことがあると思います。そんな人たちが十人くらいいました。どんな話をしたかなんて、そんなことは私にも分かりませんが、楽しかった印象が記憶の上ににじんでいます。バスは昼前には来ました。荷物を持って乗り、すぐに出発しました。私はそのうちの、松さんと一緒に席に座りました。大路さんは同じ学年の友人と一緒だったと思います。眠りもせず、楽しいばかりに、ずっと話していました。一時間くらいで着いたはずです。ふだんは話すといっても、一時間ずっと話題を変え話し手を変え、休まず、沈黙がすこしもなかったのは、このときが初めてのように感じていますし、後には一度もありません。でもむしろそれが普通です。篠崎さんと話すのも、随分と快いですが、やはりどうしても沈黙はあります。私はその沈黙を愛しています。ふいに会話が途切れ、自然の音や、遠くの声が、耳に届く瞬間は、裸足に寄せる波が浸かるような小気味良い感触があります。それにそのときの、ふっと顔を下げるときの篠崎さんの真面目な顔が、その波の中で美しくきらめきます。会話の名残を表情に残したままの顔が上がって、その周囲の沈黙を見るように、外であれば景色を、室内であれば家具や卓上のものを、こだわりなく眺める、そのもっとも純粋な表情が、私に愛らしいのです。篠崎さんは自分のそういう特徴を知っていますか。そういう顔の後で、どういう心決めか、最後に私の顔をのぞきこんでみるのです。あなたはそういう人です。最初から私があなたの顔を見て、愛おしい、愛おしいと、思っているのを、知っていたかのように、私をすこしだけ見ます。それからまた、私が話かけるか、篠崎さんが話しかけるかします。さて、コテージに着きました。このコテージは、ここ数年使わせてもらっています。今年も、同じようにそこへ行くでしょう。あと数週間です。私には、篠崎さんと合宿に行けるのが何よりもすばらしい仕合わせです。そのときの私も、野花のような少女のような大路さんに誘われて、浮わついていました。中に入り、好きなことをしました。小説を書き、友人と話し、大路さんと話し、テレビ番組を見て、また小説を書きました。その日のうちに、少し趣向を変えた掌編小説を書き終えて、大路さんに読んでもらいました。けれどそのとき私の胸がざわめきました。風が林冠を撫で流れるように、さあっと身震いし、彼女の目を凝視しました。彼女の顔に影が差したのです。顔をしかめたとか、明らかに鼻白んだとかではありません。おそらく気のせいと思って見逃してやるような変化です。一瞬、彼女が表情を失い、すぐに平生の真面目な顔に戻りました。けれど私に、評価とか所感を語ってくれるときにも、あの瞬間の、中身だけを虫に食われた果実のような傍目に分かりづらい微細な変化の跡が、寂しげな目としてはっきり残っていました。おもしろいと、もう少し長くしてもいいかもしれないと、言ってくれる大路さんの目が、いや目ばかりではなく声までも、水気を含むような、何かを内に必死に押し込んでいるようなのです。人との話はまったく記憶にないのに、大路さんのそういう顔だけは、今でもたしかに覚えています。彼女が私の作品に閉口したのではなかったと思いますから、当然ながら、私はそうした大路さんのことでただ心配していればよいのですが、私はやはり臆病ですから、そのときは、きっと私の書いたものがいよいよひどい出来で、どうにか言い繕っておくしかないと思われたのだと悲しみました。するとどうしてか、小説を書くことすら、してはならないように強迫的に感じました。合宿が終わったら、もう部室にも行かず、原稿用紙に書きつけもせず、ただクラスの友人とだけ親しくし、たまの読書を楽しもうと、束の間の決心をしました。その後で、夕食を作る当番に私と大路さんが含まれていて、しかも買い出しは、私たち二人で行くことになりました。運命的な巡り合わせです。どうも気の進まない買い出しではありますが、そのときはもう期間が押していましたから、私たちは速足で、日が落ちてしまった薄暗い道を歩きました。/終結を言うのが怖くなってきましたから、途中ながら別な話をします。篠崎さん、しかし、私たちはどうして小説など書くのでしょう? 多くの人は読むばかりで、書こうとも思いつきません。彩も、私が書き始めたと話してから、私に倣って自分でも小説を書くようになったのです。きっかけがどうであれ、物語を生み出す行為にはある種の神秘性があります。生み出すとか、作るというのは、人間がする根源的な行為のうちの大きな枠組みの一つであり、すべて(といってよいほど多く)の人は、生み出す、作る、の行程に携わります。一次産業、二次産業の従事者は言うまでもなく、妊婦も、老人も、生み出しています。我々の行為の多くは、そうした生産の性質をうちに抱えています。ですから小説を作るのもそれと同じことですし、本来的には、話をするのと同じ頻度で、めいめいが創作してよいのです。公表するかどうかはまったく個人の自由ですし、私でも、書いておきながら誰にも見せていない作品が、いくつか、あります。そういう取捨選択はきわめて自然な流れの中で行われていますが、選択の以前に、書くという出発点にすら立たない人のほうが、きっと多いのです。どうしてでしょう? 私にはそれほど困難なことと思えません。思い浮かんだ何かを、一つの世界として、少しずつ拡張すれば、それはもう物語になります。いつから捜索を始めるかは、個人の自由ではありますが、生涯で一度も物語を生み出さない人もいます。現代においてそうした人が一般なように見えますから、もうそれがある種の常識であるとして、諦めてしまうほうが利口かもしれません。その人たちでも、何か別のものを生み出しているはずですから。/また、本筋から逸れた話を展開する私の不手際を許してほしいのですが、小説がはたして「意図的に作られている」か、もしくは「おのずから成っている」か、どちらかという問いを私は抱えております。というのは、そもそも人間の存在が、神のような、ある絶対者によって製造される従属的な一見安定したものなのか、あるいは、それ自体が十全な活力を有して発生した絶対に安定したものなのか、ということの応用とでもいうべき問いです。つまり、小説は人間という絶対的な存在、それ自体が他の力に依存せずに別個に独立な存在である者によって作られたのか、それとも、小説はそうした人間の営みを媒介して顕在化するが顕在化以前からある不定形な超越論的存在か、もしくは人間により顕在化する運命を抱えている、存在が必然な従属的存在かということです。私の想像するものが、言葉によってどれほど的確に伝わっているかは、残念ながら私に理解されません。また私が言葉にすることによって、言葉で表しがたい領域の手触りを感じられているか、これも分かりません。人体の感覚でのみ理解できる形式でしか現れない以上の領域があるとして、それを感覚できるか、私はまだ諒解していません。私は私の必要のために小説を書きますが、私自身の肉体に関わる苦悩を綴る文の総体が、私の力を借りながら、とはいえ総体それ自身の持つある種の観測しがたい力によっておのずから生じているならば、それは瞠目すべき事態です。篠崎さんも感じたかもしれない、私の内部にある猛烈な意思を表現する方法としての散文が、私自身の必要性に従わずに生じているならば、私は今一度書き表されたいくつもの小品と向き合わなければなりません。私に内在する懊悩が、もしかすると必然的に小品上に顕現したのではないか、と考えると、そうした運命はいったいどこから来たか、思わずにはいられないのです。私の思考としては、自由意思を行使しています。内部の情欲をどうやって発散するかなど、本来はまったく私の自由であるはずだからです。けれどももし小説として現れるのが必然なら、というよりは、もっとも現実的な慰藉によって快楽を得るか得ないかに拘わらずに、小説が眼前に小説たりえるならば、私は意思の介在のない神秘を見据えなければなりません。小説はそれ自体が時間・空間の持続であり、おおむね現象の世界を意識している持続でありますが、この持続は他者の目に見えないときにも存在するものと思われます。いや、「持続する」状態が停止しているとしても「持続する可能性を有する物体」に変わりない、と言うほうが正しいでしょう。我々が他者を現実に観測していないとき、その人が生存しているか、厳密に言えば分からないように、小説も、読んでいないときはそこに物語が広がっているか分かりません。ですが、もし小説を、あるいはある媒体によって表現される物語を、それら自体がおのずから成っている、一見すると人間に従属する存在であれば、それらは我々の見ていないときでも持続しているかもしれません。もっとも人間でも同じことが言えなければ、この論は立たないようですが。やはり「作る」行為には意思がありますから、「作られたもの」自体の意思は、生命のある存在でないかぎり、うかがえないことでしょう。こうなるとこれだけで大部分を占めてしまいそうになるので、ここで止めておきます。/大路さんと近くのスーパーで買い物をした帰り、大路さんが話し始めました。「黒川ちゃんは、本当に入学してから、小説を書き始めたの?」これには「はい」とだけ言いました。すると「すごいね、本当によくできてる」と、褒めてくれました。これからも頑張ってねと、称えてくれました。それでようやく、私にあった、自身の作品への諦観というか、拒絶のような一握の不吉な塊が、いちどきに取り払われました。あのときのあの表情が、少なくとも私の作品に向けられた非難の目ではないのだと、はっきりしました。いったんは安堵しました。けれど次には疑問が生じます。では、あの顔は何を示しているのか。臆病な私には深入りする質問ができません。感謝の字句を述べて、ただその称賛を受け入れるだけです。外灯がついた帰り道を、時折り、大路さんの目を見ながら歩きました。篠崎さんが私にそうするように。やはり大路さんの目にはふだんにない特別な感情が溶け込んでいました。そうしてそれがいったい、何であるかは、まったく私に理解しえないのです。問いただすのは、人前より、今ここのような二人きりの暗い電灯の下であるほうがはるかによいでしょう。臆病を押しやって、思い切って、聞いてみるしかありません。それで何かあったかと尋ねてみました。大路さんは驚くような顔をした後で、ちょっとね、とまた寂しい笑みを見せました。やはり、何かあるのです。大路さんはふいに止まり、横の水路をしばらく見ました。後から止まった私は、彼女の顔を見、髪を見ました。美しいままです。それから大路さんは転校が決まったと言いました。別の高校に行くと言うのです。あたりの景色が淡い単色の絵のようにぼやけました。大路さんの姿だけはっきり目に映ります。転校という二字は、私のうちで氷のようにじわじわと溶け、時間をかけてその意味を理解していきました。転校する、私の前からいなくなる、もう会えなくなるかもしれない、大路さんの美しい顔を、愛おしい笑みを、もう見られなくなるかもしれない。そんなことが散り散りに頭に浮かびます。なぜとも聞き返しませんでしたし、いつからかも問いませんでした。ただ、そのうちいなくなるという事実だけ、私に強烈な印象を残し、大路さんが先に歩き始めるのに気付いて、私も後を追いました。コテージ前の林を進むときも、まだ二人は黙っていました。もう冗談を言い合えなくなっていました。彼女が転校の悲しみを胸にため込んでいるとき、私は自分が非難されたと思って暗い陰にいたのです。同時に彼女も暗い陰にいたことを察知しないままに、妙な自虐をしていました。私は、大路さんが必死に抑え込んでいる苦しみを無視していたのです。事実に対する理解が進むと、私はそうした自分の不手際を恨みました。もっと早くに察知できたのではないかと、自分を非難しました。けれど大路さんはそのうちにいなくなります。それだけは、どうやっても変わらないのです。大路さんはコテージに入る前、買い物が早く済んだからまだ大丈夫だと言って、そこらを歩こうと言いました。私は黙ってついて行きました。道の外灯がわずかに照らす林は、それでも暗いので、妙な怖さがあります。私たちは知らぬ間に寄り添いながら歩きました。相手の体温が安心のよりどころなのです。大路さんはまた話し出しました。彼女は一度、海外に出てしまうそうです。それから、可能であれば、半年後か、一年後か、またこちらに戻って来て、新たな生活を始めると言うのです。その半年か一年かの外国での生活に、どういう意味があるかは分かりませんが、どうにかならないのかと尋ねました。どうにかここで学生生活を終えられないのかと、訊きました。どうしても無理なようです。何度も話したけれど、こればかりはどうにもできないと、言いました。急な別れです。すこしも予期していなかった、まったく予想外な別れです。私はただ寂しいと彼女に投げかけました。彼女はもう私の顔を見ませんでした。また周囲の静寂が、ある種の音のように聞こえました。私は顔を隠す大路さんに、あふれんとする悲念の波が、彼女の内側で大きな波となって幾度も彼女の心に打ち付けていると思いました。私が悲嘆に暮れる大路さんに何をしてやれるでしょう。私は彼女の顔を見ているばかりで、手に提げた買い物袋の重みが、まさに自分にかかっている重力だというように感じていました。けれどそのように感覚に気持ちを向けるばかりで、大路さんに何か声をかけよう、慰めてやろうというところに差しかかると、何をすればよいかと混乱してしまいました。先に動き始めたのは彼女です。その暗がりで、大路さんはふと買い物袋を置いて、私に抱き縋りました。これが、大路さんからの要求であるとようやく理解しました。また急なことに驚きもしましたが、要求されていますから、私も袋を置いて同じようにしました。大路さんの熱が伝わりました。彼女の強く固い抱擁がたしかに分かりました。それから、寂しいと、聞こえました。私はそれ以上に何をしてやることもできませんでしたが、大路さんがもういいと言うまで、いつまでも彼女の強い抱擁を受け入れ続けました。/コテージに戻って夕食を作り、順に風呂に入り、友人と話したり、テレビ番組を見たりしました。そこには松さんも小宮山さんもいます。そのときの人数の調整や、大路さんが一人で入浴したいと言ったことから、私はその二人と三人で風呂に入りました。努めて平生を装っても、大路さんのことが思い出されます。それからの記憶は随分あやふやになってしまっています。入浴してからも読書や執筆をして、時間が来れば眠りました。翌日には、またチャーターバスに乗って帰り、そのまま部室で反省会をしたら、解散になりました。/ここからはコテージで、篠崎さんが熱心に小説を書いている前で、私も同じように書いています。もう、あれから二年経ったのかと思うと不思議に感じます。/私はそれきり大路さんに会いません。反省会のときも静かだった彼女は、そのまま一人で帰っていきました。私は彼女の後を追うこともできずに、一人で木橋のある道を通って帰りました。それから一切はあっさりと通り過ぎました。私は自由参加の補講に出る気にもなれず、部屋で消沈していました。大路さんの顔ばかり思い出されます。ほかの誰にもそのつらさを打ち明けられないでいました。/私が篠崎さんに自分の専攻について話さないのは、そうしたところにあります。私は、大路さんを失った悲しみから、どういうわけか、大路さんが専攻していたからという理由で、好きだった文学を離れて、理化学の方向に進みました。そうすれば、また大路さんとどこかで会えるような気がしたのです。同じ専攻であれば、巡り巡って、運命的な出会いができると、ほとんど確信していたのです。得意ではありましたが好きではありません。しだいに熱意も失われていきます。遠くに彼女の面影を追い求めるばかりで、眼前にある問題は一向にぼやけたままです。良い成績を重ね続けようというどこか受動的な気力だけが私を突き動かしていますが、それでやり過ごせることなどわずかばかりです。篠崎さんはどうか、そんな半端な気持ちで将来を決めてしまわないように、祈っております。大路さんを慕う心持ちは誠実ですが、他者への愛だけではどうにもならない部分があることを分かってほしいのです。/二年生としての生活はまったく平凡でした。文理の選択を、以上の理由から理系に決め、それに伴い友人も変わりました。寮が同じであれば、継続して交流もありますが、多くの友人は別な寮にいたので、残念ながら交流は続きませんでした。それもまた、今の心残りです。話すことはそうありません。勉強に専心し、合間に少しずつ小説を書いていました。また不思議なことに、部の誰も、大路さんについて語ることはありませんでした。彼女から私に宛てた手紙もありませんし、他の人に手紙が送られたという話も耳にしていません。さまざまな理由が思いつきますが、私はなるべく、そうした理由の中でも自己を貶めるようなものだけは信じないようにしました。また以前のように何かを見失ってしまう気がしましたし、個人として、コテージのそばでの抱擁が、彼女の誠実な心持を映していると考えているからです。当然ながら、今でも、彼女を思って、裏切るように体に湧く欲求をあえて解消することもありません。湧いたものは湧いたまま放っておき、どうしても危うくなれば水を被りました、腿を殴打しました。大路さんを抱きしめたこの体の内側に、そのような意地汚い交接の欲望が現れるのは、人間である以上はもう仕方ないと思っています。中学生のころから、熱せられた水が湯になるように沸々と温まった欲求がありましたから、自分があくまでも動物的な側面を避けがたく抱えているのだと自覚していました。でも実際にその肉欲を、快楽によって消そうとすれば、自分が大路さんや、あるいは篠崎さんに抱いてきた特別な感情が、ただの性欲の二文字に片づけられてしまいそうで、嫌なのです。誰かに打ち明けるでもなく、できるだけひっそりとこの信念を遂行してきたつもりでいます。もちろん、私の小品にはそうしたことを、かなり直截に書き込んでありますし、篠崎さんもこの手紙によって知るところとなりますが。それでもこの三年間、私はその結果に向かわないように努力しました。焦がれるような愛情が、俗なものにならないように尽力しました。そんなことをしていたら、受験に際して苦悩する彩を、姉として、励ましてやる時期になったのです。彩は成績の上では申し分ありません。面接試験も、まずまずの出来であるそうですから、特段の心配を置く必要もありません。私は電話越しに、大丈夫だよ、とか、彩ならできるよ、とか、平凡な言葉を口にします。それで彩が励まされているのかも、裏に不安を隠しているかも、まったく分かりません。彼女の声はふだんとそう変わりはないようですし、どちらかというと、電話で話すのは世間話のようなものばかりですし、励ましの言葉も、時候の挨拶のようにかけます。試験が終わった後で彩と両親に会いました。皆、元気そうでした。母が着ていたコートも、父の着ていたジャージも、あるいは彩の着ていた制服も、すべて私がよく知っている服でした。ただ私がいないだけで、同じような時間がそこに流れていました。母の冗談も、父の笑い声も、彩のしぐさも、懐かしいあのころのままでした。私一人が、進学してから、大路さんを追い求めているうちに変わってしまったのです。彼女を失ってますます変わりました。そうしてまた篠崎さんに会って、変わってしまったように思います。思い焦がれた人のために何度も自分の精神が変質しているようです。これから、私みずから、あなたから離れたら、また自分が変質しそうで怖くもあります。二年ぶりに顔を合わせた家族に疎外を感じたように、大路さんを失い、篠崎さんから離れた後では自分が別な人間になるのではないか。そんなことを考えています。/彩の合格も分かり、まず安心しました。そして心強くもありました。気心の知れた、同じ血の通う人が来るわけですから、その点でも私は安心していました。彩が寮に入ってからは、時折り、彼女の部屋に行って話をしました。学校生活のことで助言したり、何でもない話をしたりしました。彩はやはり文芸部に入りたいと言いました。私はむろん賛成しました。大路さんが出て行ってしまってから、空気の重かった部室がいっとき私に遠のいていましたから、これを契機にまた以前のように通えたらと思いました。彩を連れて部室に向かい、新しく部長になった二年生の沖那美子さんと話し、途中で来た二年生の人たちとも談笑しました。活発で気立ての良い彩ですから、打ち解けるときはあっさりと打ち解けてしまいます。私はそんな彼女にどこか惹かれてもいました。私のように暗い苦悩に捕らわれていない、潑溂な彼女が、また私のそうした未明の部分を照らしてくれる気がするのです。私はそんな人に魅せられるのかもしれません。花のようで、少女のようにも見える大路さんの、静かながらに言い表しがたい暖かさのある性格も、篠崎さんのように、何か自分の見たいものを見据えながら生きる性格も、私の翳る心情に日を差してくれます(また私は、そのような篠崎さんの目が私に向き、おそらく私に何を話そうかと思案している顔を見せると、なおさら昂揚するのです)。/そして、篠崎さんが来ました。彩は別の部活動も見ておきたいと見学に行きましたが、私と沖さんは部室で、新入生が来るのを待っていました。そこにあなたが来たのです。歓迎会で姿を見ていましたから、すぐに同じ寮の人だと分かりました。歓迎会での篠崎さんは、入学した当初の私みたいで、一人でいました。そうしてどこか悲しい顔をしていました。あなたの内側に、私が抱えている者に近い何かが燃え盛っているのかもしれないと、あなたの横顔を見ました。篠崎さんも美しい人です。あどけない、幼い顔のうちに幽かな美麗を織り込んであります。大路さんほど髪は長くありませんが、むしろ大人のように見えました。上級生としての責務のために篠崎さんに話しかけると、いくらか用心する体勢を構えながら篠崎さんは会話してくれたのを憶えています。緊張していたのでしょう。けれど応対ははっきりとしていました。それに素敵な名前をしています。唯一というあなたの名前をはじめて聞いたときから、私はその名前が気に入っていました。朧気で、ガラス細工のような名前です。少しだって触れてはならないような気がします。今、目の前で石川上一郎の本を読んでいるあなたも、そんな雰囲気を漂わせています。/しかし、篠崎さん、一度もあなたの作品を読むことなく、離れてしまうのは心残りの一つです。篠崎さんもきっとすばらしい物語を生み出すでしょう。それがどんなものかは分かりませんが、少なくとも私の心を掴む物語です。それはかならずしも、綺麗で清冽であることはありません。性快楽の衝動を避けられないような人が登場しても、だれか人が死んでも、美しい物語はいくらもあります。私は、本来なら、物語を書くときには、そうした人間の根源的な要素を取り除いてしまうほうがよいだろうと考えていますが、篠崎さんはいかがでしょう。人間の性愛を、生死を嫌いますか。金とか醜悪な人間関係を憎みますか。けれどそれも人間を書き出すのに欠かせない諸要素です。それがすべてではありませんが、そうした人間の部分を書くのは、ときにはよいでしょう。私は、自身のうちにそうした性愛や交接への関心があるから、あえて書かなければならないとも思っています。加えて、私はそうした事物が書きたくて、物語を書いているのだろうと思います。大路さんや篠崎さんに向けたくても、己の用意した枷のために不能になっている自分を慰藉しようとしているのです。どうかそんな私を嘲笑ってください。そうして軽蔑してください。身勝手な欲に突き動かされる私を笑ってください。/まさに私は、昼にあなたと彩と出て外を歩いたとき、あなたのことばかり見ていました。私が勝手にあなたの真似をして、気にかけてもらいたいと思って買った靴を、実際にあなたが不思議そうに眺めている、その大人になり切れない顔を盗み見ていました。こだわりなく川底を見るあなたを見ていました。だから、夜にはあなたを連れて出て、寒いと言って手をつなぎ身を寄せました。そのとき、篠崎さんはまったく抵抗しませんでした。それで勝手にのぼせ上って、いつまでもこうしていたいと思って、わざと遅く歩いて帰りました。あなたも身を寄せるのが、ある種の告白と思っていました。/けれど実際に風呂場でのぼせてめまいがしていたあなたの体を拭き、早く服を着るよう言ったのは、もっとも純粋な心配と不安から生じた、祈るような言葉です。あなたが暗い目で私の顔を見、自分で抱えられるかも分からない何かの重い塊を手放して、心の奥底に落とし込んでしまっているのが、あなたの目を通して見えました。夜の川ほどに黒々としたあなたの眼が、のぼせた自身でも私でもない別のところに向かい、月明かりを撥ねて煌めいているような眼の光が微妙な加減によっていつか彗星ほど鮮やかに、静かに消えるさまを見ていました。本当の気がかりの気持ちから、私はあなたの姿を見ました。/そして今、篠崎さんが落ち着いた顔でロフトへ行き、寝静まったのが分かって、安心しています。私ももう少しだけ続きを書いたら、眠るつもりです。/篠崎さんはおそらく、彩の書いた物語を読んでいないと思います。私が文芸部に入り、創作を始めたと伝えてから、彩は私の後について、創作するようになりましたが、やはり才能があったのでしょう、彩がここに入学する前に送ってもらったものを読むと、妙な面白さがありました。現実的な話がほとんどです。現代社会のどこかで営まれているかもしれないと感じるような、説得力を持つ話ばかりです。新たに出会った友人とのやり取りを、自分の視点からのみ映し出していくつもの憶測を展開したり、駅前のカフェでくつろぐ人たちの人間模様を一組ずつ連作のように書き出したり、ある種の共通するメタファーによってまったく場所の違うところで起こる出来事をつなぎ合わせたり、彩はどこか技巧的でもありました。そしてそこでは、彼女が意図しているか、もしくは彼女の信念が自然と現れているか、人は死にませんし生まれもしません。性愛をほのめかす場面すらありません。私がしばしば死や自瀆について、直截的な描写を用いるのとは違って、彩はそれらをすべて回避しています。人間のもっともヒト的な部分を無視して、人間的な部分のみ書き出しているのです。それは都市に住む人間であり、あるコンテクストにおいて肉体を脱した、精神のみで構成される近現代の人間です。動物の性質を極力、排除して、特別な有機体として本来ある根源の性質から逃れようとしているのです。それは読むほどに、むしろ陰に押しやった人間のもっともヒトな部分を、透かし絵のように映し出しています。読みながらに感じる空腹感や、性欲や、聞き流しているニュース番組で報じられる死者の存在を、否が応でも浮き彫りにしているようです。それは私の思い過ごしかも知れません。私が逼迫した欲を感じているから、彩の物語に触れるとき、自分を顧みるだけかもわかりません。それにそんなことを彩に問いただすことも無理です。その無理を通せば、きっと彼女は実の姉を嫌います。電話の向こうや、手紙の上で、お姉ちゃんと呼んでくれている彼女は、肉欲に振り回されそうになる私を憐憫の目で見るでしょう。そうして、軽蔑するのです。しかし死については、尋ねたことが一度だけあります。彩の書いた小説では、全然、人が死なないね、と言ったことがあります。彩はただ、書きたくないから書いていないだけだと、こだわりなく答えました。つまり同じ意味で、性愛も書いていないでしょうから、彼女は暗に、いやむしろそうした表現によって明確に、人間の原始の部分への嫌悪を明かしています。そのため、私は二年生であるまでは、彩が入学してきて、私の書いたものを読んでしまうことを恐れました。無事に合格して、寮に入ったら、お姉ちゃんの書いたものも読ませてねと言う彩を、私は以上のような理由から遠ざけようとしました。けれど私たちは家族であり、似た趣味を抱える同人でもあります。具体的なことに差があるだけで、文字媒体によって表現したいと切実に希求する姿は、姉妹である我々の背格好ほど類似しています。私が三年生になれば、小さな自分にも見える妹が入学して、寮に入り、また姉の前に顔を見せるのはとうに分かっていました。私は新たに覚悟を決める必要ができました。彼女に自分の作品を見せ、蔑視を向けられる覚悟です。何度も頼まれていましたから、いまさら読ませないとはいきません。実家にいる彩から、何度も読みたいと催促されながら断り、入寮してからも皆部室に置いてあるからと逃げ通してきましたが、もう、この前、読ませました。篠崎さんにも渡した、新入生を歓迎する目的での小冊子を、あなたに渡した後で、さもあらばあれと思って、彩にも渡しました。蔑視を受ける覚悟は、大路さんが幾度も私に施した称賛のために持たざるを得ませんでした。臆病な私は、以前にもらった言葉に縋りながらでしか、新たに蔑まれる事実を受け止められなくなっていました。読んだ感想は、春に、部室で二人きりになったときに、彩から話しかけられて聞きました。嫌いではないと、私がふだん何を考え、何を伝えたいと願っているかが分かったと、言われました。そのためにもう実の姉妹としての関係を断たれるわけではないようでした。ただ彩は超然と物を見て、考えていただけでした。実の姉という条件を取り払っていたのです。十数年、同じ家で暮らし、同じ中学に通い、同じ食事をとり、同じ風呂に(ときには一緒に)入った過去を無視して、今ここにある作品と私だけを見て、私情はあらわにせずに、真っ当な評価を下しました。自分でも始原の熱望を絶えず抱いて、誰彼に向けたいと思って懊悩した事実が彼女の裏に隠されてあるかもしれませんが、そうであるにせよ、そうでないにせよ、眼前に明瞭な実姉の肉欲の現れを、あるがままに見つめられている妹はよほど立派でした。純粋に私の抱えているものを理解してからも、それによる軽蔑(もしくは、まったくあり得ないわけではないはずの同調)の色を表に出さずにいる、随分と高大な人でした。それ以外の作品も読ませましたし、そこにも私が持ち合わせている情欲を塗り込んでありますから、私の思いが如実に彩に知れると思います。ですが彼女は私から離れません。いつまでも私をお姉ちゃんと呼びますし、部屋に来て世間話もしてくれます。私は助かったと思いました。もちろんそうした欲求が実の妹である彩にすら向いて、いつか個人としての黒川彩の気持ちを、別な個人としての黒川朝美のものにしようだなんて図案していません。私はただ姉としての愛情を彩に向けています。しかしたとえそうした前提があるとしても、暴走しかねない熱をまとう姉を蛇蝎視せず、あくまでも依然と付き合ってくれる妹には感謝しかできません。/篠崎さん、ごめんなさい。謝っても謝り切れません。どういう言い訳もできません。どの説明も言い訳として受け取られるのは承知しております。ついにあなたに手をかけた私が嫌われても仕方ありません。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。私は、ロフトからあなたの苦しむ声が聞こえて、気がかりで、あなたを揺すり起こし、汗で濡れるあなたにシャワーを進めました。その後がいけなかったのです。あなたが寝起きのおぼつかない足で風呂場に行くとき、夢にうなされるあなたの汗と、あなたの匂いとを強烈なイメージで思い出し、ふいに、篠崎唯一を奪わなければならないと思い立ちました。大路さんに向けた感情よりずっと強く醜いものです。あなたを襲い、むりやりにでも交接しなければならないとあなたの背中を見て感じました。それであのようなことをしでかしたのです。たしかに暑くはありました。けれどそれすら口実です。のぼせて暗く鈍い視線をどこかに飛ばすあなたの、表面ばかり冷えて奥に生きるものの体熱を感じる肉体を思い出し、つないだ手と寄り添う体から分かるあなた自身を思い出し、止めようのない情動が胸に湧きました。それは広野を町のほうへ進む竜巻のようでありました。あなたをめちゃくちゃに壊してしまわなければ消えないような暴風でした。台風を体内に巻き起こし、内側からただれてしまうほどの熱に侵された私は、あのとき、シャワーを浴びながら、どうやってあなたを奪うか考えました。そうして抑え込もうともしました、いけない、長らく我慢し、抑制してきた汚い情欲をここで晒してはならないと、思いました。そのために幾度も全身にシャワーの湯を当てて冷まそうとしました。けれど何のつもりか、冷たい水で全身を冷やそうとしなかったのが、いけなかったのかもしれません。鏡で自分の顔を見、目を見、ぬるま湯の流れる体を見ながら、やはりどうしてもここに湧いて拭えない肉欲を、篠崎唯一を使って霧散させなければ私は収まらないという結論を出しました。自身を軽蔑しているはずの自分の目が、そのときだけはなぜか、私を後押しするように見えました。猛り燻った肉体が、いつもよりずっと俊敏に動こうとしていました。声ばかり震えていました。今すぐ篠崎唯一を強奪し、交接によってその愛欲を黒川朝美のほうに向かわせなければならないと思いました。それであなたに声をかけ、追い詰めたのです。けれど篠崎さんは私を拒否しました。私の手を払い、明らかな困惑と唾棄の顔を見せました。そして体は硬直していました。どこか冷え切っていました。あのときあった体熱すらすっかり消えていました。私に向かう好意は、そこにはありませんでした。どれほどあなたを怖がらせたでしょう。もしかしたら、多少なりとも信頼してくれていたかもしれません。掌編を読んで、私を疑ったかもしれません。どちらにせよあの瞬間から、私に置いていたはずの信頼はまったく瓦解しました。跡形もありません。一度、後悔を引きずったまま眠りました。後からあなたがそろりそろりとロフトに来て、二年生の人たちの間に潜り込む音が聞こえました。あれで、やはり嫌われてしまったと、自業自得でありながら、感じたのです。そしてまたあなたが同じテーブルに座っています。のぼせた後で、小宮山さんが入れてくれた麦茶を飲んでいるときの落ち着いた顔はもうありません。何度も私の様子をうかがいながら朝食を食べる篠崎さんは、まったく私を先輩として好いてはいませんでした。ごめんなさい。いや許せるはずがありません。黙って、本当ならこんな今も奥に燃えている情欲を発散しようとすることがなければ、あるいは、ふだんからたびたび発散していれば、篠崎さんから永劫に離別することもなかったかもしれません。私のひどい不始末のせいで嫌われるようなことがなかったならば、もう少し清らかな別れとなっていたかもしれません。すべては私のせいです。ただここに際して、信用していいはずの先輩に疑惑の目を使うような人にさせてしまった、私が一人悪いのです。篠崎さんは被害者です。どうか私を軽蔑してください。彩のような態度ではなく、忌むような眼で私を見てください。嫌ってください。一度だって私がしたことや私の気持ちを理解しようとしてくれなくてよいのです。私が唐突に消え去ってしまうことを、自分の過失と思わないでください。変な、嫌いな先輩が一人いなくなったと思って、清々しく感じておいてください。ですが、どうかお願いですから、彩には教えないでください。彼女が物語を通して私を理解したならば、どうかそのままで、私が実際に起こした出来事など知ることなしに、いつまでも私を一人の実の姉と見ていてほしいのです。身勝手な注文とは承知しています。そんなことは不賛成であると分かっております。ですが、最後に頼みたいのです、彩には今回のことは教えず、ただ素知らぬ振りをしていてください。この文書をもらったことも、打ち明けないでください。どうか不自然な失踪ということにして、最後に私の名誉を残しておいてください。不安と不信の目で見る卓前の篠崎さんが、また尋常の美しい顔で私を見ることは要求しませんから、その情愛をすべて、もしくはまったく小さな断片でも、私に差し出さなくとも良いですから、一切のことを平穏のままにして、ただ私が消えただけということにしてください。大路つぐみさんとは少し違う形でも、消えてしまいたいと思っている私の本意を叶えさせてください。どうして消え去りたいかは、本当なら対面して話すべきであったかも分かりません。ですがもう時間がありません。篠崎さんに不快な思いをさせてしまったうえは、もうこれ以上、何も打ち明けず、ただこの紙束をあなたに託して、後で幻影のごとく消滅するほかありません。篠崎さんは何も思わず、予告しながら突然に消えた一人の不埒な人間を忘れてしまってください。ここに収めてある小説も、この手紙めいた文章も、読まなくても構いません。ひどい先輩の残したものですから、もう焼き捨ててしまって良いのです。この言葉も届かなくて良いのです。ごめんなさい。ずっと大切に思っていたのに。こんなことをしてごめんなさい。/気にかかっていることは、いくつもあります。もし失踪する前に、篠崎さんの口から、私の掌編の感想を聞いていたら、もっと違う気持ちを持つことができたかもしれません。あなたに抱いていた感情も、作品への酷評や、それを書いた私(とその本心)への侮蔑によって消失できたかもしれません。どうかあなたの感想が聞けていたら、と思います。篠崎さんが、小説のうちに死や性愛を書いてもよいと考えているかどうか、それも議論できていません。私は、事を小説にするときには、精密に人を掴み、正確に実情を捉えなければ、それは小説とは呼べないと思っています。死も性も愛もすべて人間の部分ですから、無視できるはずがありません。自己の内面に満ちる苦悩をことごとく包括する技量と熱量がなければ、結局のところでは何にもなりえないと考えています。/それに篠崎さんの書いた物語も、まったく読めていません。あなたが世界をどんな目で見据え、思っているか、どんな空想を脳裡にこさえてあるか、そしてそれをどう表現し物語にするか、それも分からないままです。/ですがやはり、書きながらに何度も思い浮かべるのは、篠崎さんに深夜にやったようなことをせず、必死に自分の衝動を抑え込んで、何事もなく、別れられたとしたら、もっとずっと後の濁らない終わりになっていただろうかという夢想です。ほとんど偶然的に、運命的に、大路さんに惚れ込んで、彼女を追いかけるような学校生活に終始し、彼女が家庭の事情のために学校を去り、姿を消した状況を、今度は後輩である篠崎さんに惚れた自分が、どういう理由があるわけでもなく、ただ消えたくなったからと言うだけで消えようとし、しかもそれでは飽き足らず、大切に思っていたはずの大事な後輩を傷つけて、その不祥事のせいでなおさら後戻りできず、苦々しい別れをもたらしてしまった自分が、中学生以来、長らく基礎欲求に悩まされてついに抑制もできず暴走させた自分が、存在せず、代わりに真っ当に生き真っ当に慕われる自分であったら、こんな無理に押さえつけようとしている欲を持たない清潔な自分であったら、きっと万事は良いほうへ良いほうへと進んでいたことでしょう。/最後に、どうしても心配であるのが妹の彩のことです。姉の失踪が、いつか知るかもしれない篠崎さんへの過失が、彼女の人生を穢してしまう気がしています。もしそんな縄に縛られず、自分の思う通りに学生生活を過ごし、その後の人生を過ごしてくれたら、何事もなく、平穏に、無事に、元気で、笑顔で、生き抜いてくれたら、姉としてもどんなに幸せだろうかと考えています」

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