第26話「スターリン暴落」

「ねえ、ユキさん。もう一度聞くけど、君は僕を意図的に嵌めた訳じゃないんだよね?」

「勿論です。私は本当に、昭和四十年の東京にフォールドするものだと考えていました。『片隅に生きる人々』に込められた、剣乃さんへの思いを考えれば当然です」


 ユキさんはそう答えた。僕はその言葉を信じようと思った。仮にそれが嘘だったところで、僕にはもうどうすることも出来ないからだ。この世界で生きていくにしろ、もう一度フォールドするにしろ、ユキさんの協力は絶対に必要だ。


「わかった、君の言葉を信じるよ。ところで君は、フォールド前に、『出来る限りのサポートはする』と僕に約束したはずだ。早速だけど、調べて欲しいことが一つある」

「なんですか?」

「どこか、この近くにガソリンが買えるところはないかな?」

「ガソリン? ガソリンなら、まだ十分にあるじゃないですか。それに、そもそも買うお金がないですよ」

「買う訳じゃないよ。売るんだ。僕は今、携行缶にいれたガソリンを二十リッターほど持っている。この時代ではとても貴重な、オクタン価100のハイオクガソリンだ。欲しがる人は絶対にいるよ」


 この時代のガソリンは配給制だ。戦前の日本は、100オクタンの燃料は全て輸入に頼っていて、それが手に入らなくなったのが戦争に踏み切った理由の一つでもある。この時代の日本企業では、精製すること自体がほとんど不可能な代物だ。


「なるほど……。確かにそれは良いアイデアかもしれませんね」

「ああ。もし引き取ってもらえないとしても、どこか換金できるところを教えてくれるだろう。この時代には闇市がそこら中にあるはずだからね。それにこれは、話の切っ掛けに過ぎないんだ」

「切っ掛け?」

「ああ、本当の目的は別にある」


 ガソリンを売るというアイデアを思い付いた事で、僕の頭の中で、人生を逆転するための絵図が一気に出来上がっていた。


「どういうことですか?」

「この先何をやるにしろ、車に強い人間が、最低一人は必要になるってことさ。あのCR-Xは今の僕にとって、箱の次に大事な重要な切り札だ。だからちゃんと整備できて、価値を理解できる人間を探すんだよ」

「その人間を見つけてどうするんですか?」

「技術を売る」

「技術?」

「ああ、あの車を売ったって入るお金は一度きりだ。でも技術はそうじゃない」


 僕は力を込めてそう答えた。


「今の僕が持つ一番の財産は、あの車に使われている技術テクノロジーだ。それを理解する人間さえ見つかれば、あのCR-Xは宝の山になる。僕にとっては三十年前の旧車でも、この時代の人たちから見れば、四十年も先を行く未来の車だからね」

「なるほど。信頼できる人間さえ見つかれば、うまくいくかもしれません」

「ああ。この時代にガソリン販売をしている人間は、相当に時代の先を見てる人物のはずだ。そういう人間にアヤを付ければ、この車の価値を見抜ける技術者にも辿り着けるかもしれない」


 燃料と発動機の問題を除けば、戦前の日本は、世界的に見ても優秀な航空機を多数輩出していた。大戦末期には、ジェット機の国産に成功していたほどである。敗戦した日本は、航空機の研究・設計・製造をGHQから全面的に禁止させられたが、職を失った技術者たちは大挙して自動車メーカーになだれ込み、自動車産業がこの国の次の礎となった。


 米国の自動車産業に属する人間は、四十年後の未来において、自国で日本車が走り回っていることなど、想像すらしていないだろう。今ガソリンを売っている人間は、そんな日本の未来を、確実に見抜いている人物のはずだ。


 リッター100馬力近い出力を叩き出すオールアルミのZCエンジン。燃料噴射装置の電子制御技術PGM-FI。そして、『走る棺桶』とまで揶揄された車体の軽量化……思いつくだけでも、あのCR-Xに使われてる技術には、枚挙にいとまがない。


 これらの技術を理解できる人間を探して、その特許を大手企業に売り込む。もしそれに成功すれば、その特許料収入だけでも、相当な金額になるだろう。だが、そんな先の収入を当てにしなくても、大金を掴むチャンスはすぐ目の前に転がっている。


「それに僕は、別に大金を掴もうっていうんじゃないんだ。種銭さえできればいい」

「種銭?」

「ああ。種銭さえあれば、僕は必ず相場で金を掴める。戦争は早まることはあっても、回避されることはないからね」

「戦争……? 朝鮮戦争の事ですか?」

「その通りだ。今が一九四六年の三月だというのなら、これから来る大相場の前に準備する時間は十分にある」


 平均株価の大まかな値動きなら、すべて僕の頭の中に入っている。昭和二十四年五月十六日の取引所再開時に、百七十六円二十一銭で始まった平均株価は値下がりを続け、一年後の二十五年六月には百円を割り込んでいた。その値下がりトレンドを打ち消したのが、朝鮮特需だ。


 一九五二年の大納会の引け値は三百六十二円。年明けには、わずか一カ月で百円近く値上がりして、五百円乗せを目指そうとしていた。その上昇トレンドは、一九五三年三月五日のある事件まで続く。


「僕の知ってる歴史通りに話が進むなら、これからGHQの命令で、財閥の本社から、将来のお宝株が大量に放出されるはずだ。まずはそれを仕込めるだけ仕込む」

「そのお金は、どこから手当てするんですか?」

「技術を理解できる人間を探すといっただろ? もっともらしい話が出来れば、それでいいんだ。将来見込める特許収入を担保ネタにして、どこかの金持ちから引っ張ればいい。後は待つだけだ」

「なるほど。戦争はいつか必ず起こりますからね」

「朝鮮特需のうちに、持ち株を一旦売り抜けるから、もしその話が空振りに終わったとしても、借りたカネは必ず返せる。このプランの良い所は往復で取れるところだ」

「往復? 売りでも取るという事ですか?」

「ああ、スターリン暴落を狙う」


 スターリン暴落は、師匠ですらまだ子供だった時代の昔話だが、その悲惨さは勿論知っている。朝鮮特需で起こったバブルはこの暴落で一気にはじけ、その後日本は、長い不況に突入するのだ。


 売りで稼ぐのは難しい。狂喜に浮かれる市場の中で、天井知らずの損と向かいあう覚悟がなければ、ポジションを構築することが出来ない。だからこそ、もしこの暴落を売りで取れれば、僕は短期間で大金を掴めるだけでなく、相場師として名を上げられるだろう。


「スターリンの死去が伝えられた一九五三年の三月五日。あの日一日で、平均株価は一割も下げた。その後もずっと下落基調だ。戻りを売り続ければ、いくらだって儲けられる」

「スターリンの死因は脳卒中です。持病ではありませんから、この世界線ではいつ倒れるかわかりませんよ」

「分かってる。大事なのは、いつか起こる世界史上の事件を見越して投資をするってことだ。君の言葉が正しいなら、先行する世界線で一度構築された歴史は、簡単な事では覆されないんだろう?」

「はい。歴史の因果律が作用しますからね」

「だとすれば、スターリン暴落もいつか必ず起こる。いくら何でも、スターリンが長生きして、世界の覇者になる未来はありえないよ」

「もしそうなったら、核戦争で人類そのものが終わりますしね」

「そうだよ。そしたら、ユキさんも失業者だ」

「違いないです」


 そう言って僕らは笑った。かなりブラックなジョークだったが、とにかく今は笑いたかった。


「君が反対するなら、別に売りで取らなくたっていい。暴落が来るたびに買いを入れて待ってればいいんだ。この国はこれからどんどん良くなるんだから、それだけでも、大金を掴めるはずだ。そして……」

「そして?」

「いや、なんでもないよ」


「若かりし頃の師匠と一緒に、相場を作るんだ」という言葉を、僕は慌てて飲み込んだ。ユキさんは僕の味方だと思うが、彼女の属している組織がそうだとは限らない。何より僕はユキさんに、自分の闇歴史を知られたくはなかった。


「ねえ、ユキさん。僕はまた同じ間違いをするところだったよ」

「間違い?」

「僕は今まで、ずっと誰かの力を借りて楽をしてきた。何かトラブルが起こったら、全部金の力で解決してきたんだ。だからこの世界では、それが出来なくて凹んでる」

「そうですね」

「でももし、そのやり方が上手くいったって、それじゃ今までと同じだ。いつか必ず行き詰まる。人に力を借りるなら、それに見合う何かを自分も持たなきゃダメなんだよ」


 僕は少し力を込めてそういった。もう間違う訳にはいかない。


「その力が、今の貴方にはありますか? 私も協力してる一人だと思いますが」

「ある。あのCR-Xと、元の世界での相場の知識――それが、今の僕の武器だ。持ってるものだけで勝負する。勝てないなら、勝てるようにする方法を考える。それが僕と、僕の相方の信条だ」


 僕が絵図を描き、相方が形にする。僕らはずっと、そうやって戦ってきた。僕が諦めてしまったら、僕の相方は本当に死ぬ。僕が彼から受け継いだもので戦い、この世界でも必ず成功する。


 それが、彼に筆を折らせてしまった僕の、唯一の贖罪のはずだ。


(続く)

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