第18話「この世界の成り立ち」
箱の力を使って、昭和四十年の日本に行く。にわかには信じがたい話だが、猫のユキさんは、それを実現することに自信ありげな感じだった。
「昭和四十年の日本にタイムトラベルして、自ら物証を作ったり、信用のおける第三者に真実を公言して貰うってことかい?」
「やるべきことはそうです。ですが、厳密に言うと、貴方は昭和四十年にタイムトラベルする訳ではありません」
「タイムトラベルじゃない?」
「まあそう考えてもらっても、現時点でそれほど問題がある訳ではありませんがね」
猫のユキさんはそういうと、少し考えこむような仕草をした後に、こう続けた。
「概念として、あの箱の力を説明しましょう。貴方は時を遡るのではなく、【昭和四十年の日本に、伊集院アケミが存在するという世界線】を新たに生み出すのです。大事なのは、この世界線という概念です」
並行世界の論理か……。だとすれば、確かにその時空移動は、単純なタイムトラベルとは言えなくなる。時空移動が行われる度に、世界はどんどん増えていくからだ。
「君の言っていることの意味は大体分かるつもりだけど、もう少し説明して貰えるかい?」
「はい。箱の所有者の存在する世界と、その世界で進んでいく時の流れの事をまとめて、我々は世界線(world line)と呼んでいます。箱は、この世界に無限に存在する世界線を行き来するための装置です。我々はこれを、フォールド・システムと呼んでいます」
「フォールド・システム……」
なるほど。爆薬の仕込まれたパソコンを取り出したにもかかわらず、依然として箱が重たかったのは、そのシステムが内部に組み込まれていたせいかもしれない。
「フォールド・システムは、既存の世界線を行き来するだけでなく、新たな世界線を生み出す能力も持っています。そして、箱が新たに世界線を生み出す場合、必ず元の世界線からコンマ何%かの乖離を生じるように設計されているんです。何故だか分かりますか?」
僕は少し考えてからこう答えた。多分、間違ってないはずだ。
「時空移動によって想定されるトラブル……。つまり、タイムパラドクスを未然に防ぐためかい?」
「その通りです。フォールド先の日本は、この世界における昭和四十年の日本ととてもよく似ていますが、厳密に言うと異なる世界です」
普段から、ゲームやアニメで並行世界ものに慣れ親しんでいる僕には、この辺の理屈はさほど難しい話ではなかった。世界が一つではないという事は、「歴史の改ざんは不可能である」という事と、殆ど同義だ。
過去にさかのぼって、本来は存在しなかった出来事を起こそうと、その時点で世界線が分岐して、新たな世界がまた一つ産み出されるだけだからである。
「要するに、僕が時をさかのぼって何をやろうと、この世界の歴史には影響を与えないってことだよね?」
「その通りです。箱の力で時間軸を変えることは出来ますが、一度出来てしまった歴史を変えることは誰にも出来ません。昭和四十年から分岐する、新たな世界線が生まれるだけです」
つまり、僕がフォールド後の世界でどんなヘマをやらかそうと、この世界における角栄の日銀特融という偉業が消えることは絶対にない。しかし、その後に続くユキさんの言葉は、僕の想定とは若干異なっていた。
「但し、これから生じる世界線は勿論のこと、その後に生じる世界線にも、貴方の行動が何らかの影響を与える可能性はあります」
「どうして?」
「世界線の分岐とは、全く別の世界が生まれることを意味するのではなく、【ほとんど同じ世界が、無数に生じていく事】を意味するからです。貴方がこれから昭和四十年にフォールドして何かをやれば、これから先に生まれる世界線にもまた、貴方のような人が登場し、似たようなことをやるでしょう」
「なるほど。それは興味深い話だ」
「はい。これは非常に
僕は、自分が昭和四十年にフォールドするという事の意味を、少し冷静に考えてみた。日銀特融の裏に師匠がいた事を証明するのは、正直難しいだろう。だが、これから時をさかのぼれば、少なくとも僕は、若かりし頃の剣乃さんや赤瀬川さんに会う事が出来る。
箱の産み出す昭和四十年の世界線が、この世界の昭和四十年とさして変わらないというのなら、未来の知識を持つ僕は二人の力になれるはずだ。つまり、夢にまで見た全盛期の師匠の仕事を、側近として手伝う事が出来るかもしれない。
どうせこの世界じゃ友達もいないし、金融庁に付け回されて息の休まる暇もない。だったら、ユキさんの提案に素直に乗った方が、これからの人生は楽しい気もする。
「ユキさんがそういう提案をしてくるってことは、僕がこの箱の力を使って昭和四十年の日本に飛んだとしても、『箱の力の濫用』には当たらないってことだよね?」
「勿論です。真実を明らかにしたい貴方の気持ちは、とてもよく理解できますから」
「フォールド後の世界でも、全力さんを通して、君からアドバイスを受けることは可能だろうか?」
「全力さんが寝ている間なら大丈夫です。それに私には、貴方がその世界で何かやらかさないか、監視する必要もあるんです」
「そうか……。もし僕が、その世界線で何かヘマをすれば、そこから先に生まれる世界線でも、僕みたいな人間が来て、同じようなヘマをやらかしちゃうんだもんな」
「その通りです。だから、箱の所有者には、私のようなお目付け役が必要になる訳です」
そう言って、猫のユキさんは笑った。
「まあ、あまり気にしすぎないでください。余程のことをやらない限りは大丈夫だと思いますよ」
「何故?」
「因果律の力が働くからです。先行する世界線で一度できた歴史は、並行世界においても、簡単には変えられないように出来ています。だからこそ、ほとんど同じ世界が無数に存在する訳です」
「なるほどね」
「最悪の場合、別の世界線に再度フォールドすることだって可能です。まあ、フラグ管理が面倒になるので、あまりやりたくはないですが……」
「フラグ管理?」
「いえ、こちらの話です。忘れてください」
そういって、ため息をつく猫のユキさんの横顔には、中間管理職の苦悩が感じられた。見た目は全力さんなのに、印象がまるで変わるのが、とてもおかしい。
「それよりも、まだ貴方に伝えてない大事なことが一つあります」
「なんだい?」
「所有者になってから、貴方はまだ箱の力をまだ一度も使ってないですよね?」
「多分使ってないと思うけど、フォールド以外にも、あの箱にはいろんな機能があるのかい?」
「はい。あの箱は少し特殊で、所有者の意思に反応して様々な機能を発現することが確認されています。だから、【箱の力】という漠然とした言い方しかできない訳です」
「そうなんだ」
「はい。更に言うなら、その隠された箱の機能を解明するのも、私の仕事の一つです」
「なるほど……。で、まだ伝えてない大事な事って一体なんなのさ?」
「箱の所有者として登録されてから、四千二十六時間以内に箱の力を発現させないと、所有者としての権利が全て失効します」
ユキさんは、さも当然のように、何の感情もなくそういった。
「えっ?」
「もう一度、貴方を登録することは不可能ではないですが、いきなり行方をくらませちゃう人を、上の人間が所有者として認めるかどうか……」
「ちょっ! そういうことは早く言ってよ!」
「だから言う前に、貴方が消えちゃったんじゃないですか。危うく、私の首が飛ぶところでしたよ」
そういうと猫のユキさんは、「やれやれだぜ」みたいな仕草をした。見た目が全力さんなだけに微妙にムカつくが、ここでキレたって仕方ない。
「悪かったよ。で、その四千二十六時間まで、あと何時間残ってるのさ?」
「あと四時間くらいですかね。正確に言うと、三時間と五十二分八秒です」
「四時間!?」
「いやだから、三時間と五十二分ですって。あっ、今五十一分になった」
「なんだよ、もう! 赤瀬川さんにお別れを言う時間もないじゃん!」
「大丈夫。フォールドすれば若い頃の彼に会えますよ。ヤクザだけど」
「いや、赤瀬川さんは初めて会った時から、ずっとヤクザだし……って、そういう話じゃなくてさ!」
混乱する頭の中で僕は必死に考えた。昭和四十年に飛ばなければ、所有者としての権利が失効するというのなら、僕が今やるべきなのは、そのための準備をする事のはずだ。
「あーもういいよ! とりあえず、出かけてくるから、ユキさんはここで大人しくしててね!」
「どこに行くんですか?」
「古物商に行って、手持ちの金を昭和四十年で使える金に換えてくる。後の事は、動きながら考える!」
「じゃあ私は、時空移動の準備をしときますね。時間厳守でお願いしますよ」
猫のユキさんは、淡々とそう答えた。
「昭和四十年で使える金って、聖徳太子の一万円札と、伊藤博文の千円札だよな? 五百円札は岩倉具視だけど、まだ青くない奴。あれ、五千円札は誰だっけ?」などと考えながら、僕は事務所の階段を全速力で駆け下りた。
(続く)
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