第9話 逢魔が時

ァー…サァー…サァー…


…ん?


と、不意に肌を心地良い風が触ってくる感触に気付いた。と同時に、断続的ながら規則正しくも感じる風切り音も耳に入ってきて、その心地良さを倍増させてくれていた。

何だかフワフワとした夢心地で良い気分でいると、不意に鼻腔を懐かしい油の匂いが刺激してきて、本当に今自分が例の夢にまた来たのが実感として湧いてきた。


今回は触覚からだったか…んーん


「んーん」

と声を漏らしつつ、ここでようやく目を開けると、自分が今どの様な状態にあるのかが分かった。

油の匂いからして、ここがケリドウェンの住うバルティザンなのは見ずとも分かっていたのだが、自分が腰掛けている場所までは想像していなかったので、少しばかり驚きと同時に、目に飛び込んできた光景に視点を固定してしまった。

私はバルティザンにある窓のうちで、回廊に面した二つの窓ではなく、海に面した一番大きめの窓の縁に腰掛けていた。

顔は意識が戻った時には自然と外に向けていたらしく、目を開けた瞬間は目の前に広がる空と海、そして対岸…と言って良いのだろう、片や西洋風の建物群、片や東洋風の建物群で犇めいているのが以前と同様に見えた。


まぁ…うん、

『前回まではファントム達の住処であるアサイラムの中にあるクリプトにいたはずなのに、何で今回は急にバルティザンに戻ってきてからのスタートなのか?』

『というか、最後に目にした新たなファントムの顔って、あれは…裕美とヒロの顔じゃなかったか?』

などなど、夢の中にあるまじき現実的な疑問に頭を占められて若干混乱していたのも、光景に目を奪われてしまった理由の一つではあるのだろうが、しかしそれを差し引いても、ついついその物珍しさに目を離せずにいた。

というのも、相変わらずこの世界は、私自身やカンテラやフードを始めとする自分が身に付けている物、または私が知る限りにおいては、ケリドウェン以外で現実に即した色合いを発するものはなく、モノトーンと言って良い黒と白のコントラストでしか表現がなされていない味気ないものなのだったが、しかし今回はそんな中でも、今眺めている空や海からはいつもと違った印象を受けたからだった。

色彩が貧弱なのはその通りだったが、ライトグレーが基本に見えた空は、いつの間にかダークグレーが大半を占め始めており、下に広がる海も墨汁の様に真っ黒な色合いを示していた。

そう、全体的に暗めの色が支配し始めてきており、それ故に辺りは暗くなってきたというので、先ほど触れた対岸に見える、こちらとは違って遠目からも華やかに見える西洋風と東洋風のどちらの建築物にも、満遍なく光が灯っているのが見えた。

その灯りがまた側の海面を照らしている為に、水面の揺らめきに伴って瞬く様に輝く様が、それがまた幻想的に見えて、今触れた様な全ての要素が突如として目に入った為に、繰り返しになるが、ついつい見惚れてしまったという次第だった。


「…あ、気が付いたかい?」

と、恐らく”目が覚めた”時に大きく伸びをしつつ声を上げた時に気付いたのだろう、声がしたので私が外から顔を内に向けると、外がこれだけ暗くなっても柔らかなオレンジ色の光を放つ何本かの松明の光や、ボウボウと燃える炎を内部に宿す竈門から漏れる光以外に光源が無いせいか、薄暗いとしか言いようが無いはずなのに、しかし…ふふ、これまた夢特有のご都合主義のなせる技か、私の目にはくっきりはっきりと、竈門の前でそれまで作業をしていたらしいケリドウェンが、こちらに体ごと正面に向けて微笑みつつ立っているのが見えた。

その問いかけに対しては、私は特に答えず、いや、むしろ『何で急に私はバルティザンにいるのかしら?いつの間に戻って来たの?というか、どうやって戻って来たの?』と、何でちゃんよろしく、やはりこうして質問をぶつけてみたくなる衝動に内心は襲われていた。

だが一方で、さっき見た光景によって場に充満する雰囲気が、そんな質問をする様な空気では無いと訴えかけて来ているように感じた私は、それはまぁさて置く事にして、何となく顔をまた窓の外へと向けた。

「今って…夕刻で良いのかしら?」

と私が振り向きざまに聞くと、「ふふ、そうだよ」とケリドウェンは微笑みつつ返した。

そしてそのまま間をほとんど空ける事なく、体をまた竈門へと向けると、何かを注ぎ入れ始めた。

このマイペースっぷりが、またしても義一を彷彿とさせられたので、私は一人でに思わず笑みを零すと、早速ケリドウェンの側に近寄ろうと試みた。

その途中、まだ確認していなかったと何となく遠回りして行く事にした。ちょっと気になっていた事があったのだ。

私は回廊に面した窓の一つに立ち寄って、立ち止まる事なく歩く速度だけを遅めながら外を眺めて見ると、あれだけ外が明るかった時にはワラワラと大勢のラルウァで犇めきあっていた回廊には、人っ子一人として姿が見えずに、薄暗さも手伝って寂しいものだった。

それを確認し終えた私は、後はそのまま真っ直ぐにケリドウェンが立つ竈門の側に近寄った。


私が到着したちょうどその時、ケリドウェンは小瓶の蓋を開けるところで、中に入った白い粉状の物を横から眺めていた。

と、その瓶と白い粉を見た瞬間に、これが一体何なのか察した私は、気付いた途端にその不気味さから結果として辿々しげになってしまったが、しかしそれでも一応確認のためと声をかける事にした。

「そ、それって…昼間…で良いのかしら、その…ファントム達の住処であるアサイラムへと案内して貰っている途中で、回廊に倒れていたラルウァの亡骸から取った仮面の…粉?」

と、口にしながら初めのうちは手に持たれた瓶を眺めていたのだが、途中からはケリドウェンの横顔に視線を移しながら言い終えた。

周りが暗くなった為に、外からの自然光が入って来なくなったお陰で、逆にすぐ側の竈門が放つ柔らかい光にケリドウェンの顔が暗闇の中で浮かび上がるように見えて、本人には悪いかもだが、その手に持っていた物を含めて不気味さが一層増していた。

と同時に、んー…ふふ、彼が『ケリドウェン』などという、私の知るケルト神話に登場する魔女の名前を冠していたせいか、その炎の光に浮かび上がる姿から何だか神秘的なものをも感じるのだった。


と、私が質問をし終えたと見たのか、ケリドウェンは一旦こちらに微笑を浮かべた顔を向けると、また瓶に戻しつつ言った。

「うん、そうだよ。早速油作りに使わせて頂いているんだ」

と言い終えるのと同時に、前触れもなく小瓶を逆さまにすると、中に入っていた元ラルウァの仮面だった白い粉が、サラサラと耳に心地良い音を鳴らしながら大釜の中へと入っていった。

さっきも触れたように、彼のその様子姿から神秘的な印象を受けたのもあって、不気味さは半減していたのは事実だったのだが、しかしそれでもあくまで半分に留まっており、明るいところでラルウァの亡骸、それも仮面が外れた下に現れた不可解な様相をこの時になって鮮明に思い出していたせいもあって、徐々にまた恐怖心に近い感情が湧いてくるのを覚えていた。

だが…ふふ、しかし生まれ持ったが病故か、それも少しばかりのことで、すぐに好奇心が勝ってしまった私は、ジッと大釜に注ぎ込まれていく白い粉を眺めていた。


「…よしっ」

という掛け声と共に、空になった瓶を近くの空きスペースに置くと、そのまま流れるように壁に掛けてあるかき混ぜ棒にケリドウェンは手を伸ばし掛けたのだが、その時、


カーン…カーン…カーン…


という、まるで教会の鐘の音のような、金属を打ち付けるような重厚音が聞こえてくるのに気付いた。そう、以前に外が明るい時に耳にしたのと全く同じものだった。

その突拍子の無さに私は一瞬体をビクッと震わせると、そのまま音のした方へと体ごと向けた。

それは先ほど今の位置に来る前に寄り道した、回廊に面した窓の一つだった。

「鐘の…音?」

と、素直に思い浮かんだ単語を私は口に出したのだが、ここで不意にケリドウェンに肩に手を置かれた。

見ると、彼も私と同じように竈門ではなく窓を正面に体を向けていたのだが、「…ふふ」と私に意味深な笑みを浮かべて見せると、その直後にはスタスタと、これまた前触れも無く足を前に踏み出して、そのまま一直線に例の窓へと歩いて行ってしまった。

そんな様子に、またしても私は思い出し笑いに近い笑みを零すと、特に声をかける事なく、そんな身勝手に行動を始めたケリドウェンの後をついて行く事にした。


私が初めて来たときのように、ケリドウェンは窓枠に片手をかけて外を眺めていたので、到着した私もその反対側の窓枠に手を掛けて外に目を向けた。

と同時に、やはりと言うか初めと同じ様に、目に入ってきた光景についつい目を奪われてしまった。

ケリドウェンが言うところの”朽ち果つ廃墟”の島中央部、その頂上付近からまだ鐘の音が辺りに響き渡っていたのだが、それがもしかしたら合図だったのか、さっき盗み見た時とは丸切り違う変化が生じていた。

それは大きく分けて二つあった。

まず一つは、昼間と同じように鐘の音と共にラルウァ達が回廊に大量に溢れ返り、無感情な様子で一定のペースを守りつつ、ノソノソと歩いていたのが見えた点だ。そして、変化はそれだけに留まらず、さっきは左側通行だったというのに、今では右側通行となっていたのに気付いた。要は皆して逆走している感じだ。

まぁしかしこれも、それなりに違和感は覚えつつも、ラルウァ達が犇く点では同じなので、それ程の衝撃は無かった。

そう、実際に私の心を奪った理由はもう一つの点にあったのだ。

さっき竈門の前に立つケリドウェンの元へ行く前に、寄り道して覗いた時には薄暗いというか真っ暗と言っていい様相だったというのに、今では暗いバルティザンで目が慣れてしまっていた私には、最初に目を開けられないくらいに眩しい程に、そこら中にケバケバしい灯が灯されていた。

実は、これは窓辺に立つケリドウェンの側に到着する前、つまりは近寄っていく段階で、窓の下から強めの光が漏れてるのが実は見えていたので、その時点で異変には気付いていた事を告白しておこう。

昼間歩いてる時には気付かなかった…いや、もしかしたら夢特有の、非現実性なこの世界の理の為せる技か、そのどちらなのかは知らないが、それはともかく、いつの間にか回廊の至る所に街灯が立ち並び、その一つ一つからは強めの閃光と言って良い程に思える光が発せられて、辺りをくまなく照らし出していた。

それを見て率直に思ったのが、

『何だか、暗闇が出来るのを極度に怖がってるみたいね』

といったものだった。


さて、その変貌には驚いたのだが、回廊の壁と一緒にすぐそこに迫る島の岩肌にまで、まるでクリスマスの時期に街中に溢れるイルミネーションで使われる様な電飾が、そこかしこに張り巡らされていたのに気付くと、思わずギョッとしたのと同時に、些か…いや、その悪趣味ぶりにかなり引いてしまい、感動も徐々に一緒に薄れてしまった。

そのお陰というのか、冷静も冷静、むしろ心も冷ややかに階下に広がる光景を眺められたのだが、改めて何故ここまで自分自身が冷めていたのか納得がいく説明を見つけることが出来た。

確かにさっき大きい方の窓で見た対岸に見えた、西洋風や東洋風な点では違っても共に派手な見た目をした建物群もライトアップされており、状態としてはこちらと変わらないはずなのだが、しかしどこか”廃墟”の方は”ちゃっちい”様に感じてしまったのだ。

そしてその原因はどこから来るのだろうかと一瞬考えたのだが、それこそ途端に理由は分かってしまった。

というのも、何度か触れてきたし、ここの住人であるケリドウェン自身も言っていたから触れやすいのだが、んー…うん、やはり、そこらじゅうがひび割れだらけで、誰も整備したり手を付けていないのが丸わかりで、ただでさえ見窄らしく見っともない外観だというのに、それを目も眩む様な閃光によって、恥部と本来なら思わなくてはいけないであろう”それら”を、むしろ際立たせて浮かび上がらせてしまっているのが要因だった。

どうしても灯りをそこら中に灯したいというのなら、どうせなら”ボロ”をほどよく隠せる松明程度の柔い光を使えば良いのにという感想を思ったのと同時に、ふとバルティザンの内部に目を向けると、その感想通りに程々の松明の数によって灯りを灯されたこの空間の方が、外よりも比べ物にならないくらいに薄暗いながらも、しかしこっちの方が嫌悪感を感じるどころかホッと息をつける、落ち着くという感想を、外との対比のお陰かより一層強く覚えるのだった。


さて、どれほど眺めていただろう、最後の鐘の音が鳴らされた後も、その残響音がまだ周囲に残っているのを耳で味わっていたのだが、「…おっと、いけない」とケリドウェンが身軽に踵を返して竈門の前に戻るので、私も特に突っ込まずに後をついて行った。

彼は到着するなり、先程手に取りかけた掻き混ぜ棒を手に持つと、早速グツグツと煮え立つ大釜の中の油をかき混ぜ始めた。

そんなケリドウェンの姿を、本人も黙ったまま集中した様子でいるので、私も余計な口を挟まずに、ただ竈門から漏れる炎が発するオレンジ色に浮かび上がるケリドウェンの横顔と、かき混ぜられている、すぐ側に立っているというのに相変わらず熱さをそれほど感じない大釜の中身を、交互に眺めて暫くは過ごしていた。


どれほど時間が経ったのだろう、「…よし」と小さく声を漏らしたケリドウェンは、大釜の中の油から掻き混ぜ棒を引き抜くと、それを元あった壁に掛けた後で、「んーんっ」と、両手を組んだ両腕を天高く上げて大きく伸びをしながら声を漏らした。

先ほどまでの集中具合からは真逆の、その呑気な調子を見せる彼の姿に思わず私が笑みを零すと、それに気付いたケリドウェンもこちらに顔を向けて、一瞬キョトン顔を見せていたが、すぐに同じ様に吹き出す様に笑うのだった。


と、二人で笑い合うという時間も少しの間だけ続いたのだが、ふと「…あ、そっか…うん、僕もそろそろ言わなきゃいけない時期に来てるんだろうなぁ…」と不意にボソボソと、顎に手を当てつつ考えてる風を見せながら呟くので、「なに?どうかした?」と私は声をかけた。

するとケリドウェンは、「あ、うん…」と一応の返しをしてくれたが、しかしその直後には「ん、んー…」と被っていたフードを脱ぐなり、私の知る義一と同じ様に、照れたり参った時にする癖である、頭をポリポリと掻き始めた。

そうしながら今度は何を始めるのか、現実世界で何度も経験していた私はというと、ここは変に口を挟むよりも、本人が話始めるのを待つのが得策だと知っていたので、ただ唸る彼の姿を眺めていた。

と、頭を掻き終えたらしいケリドウェンは、しかしまだ顔に苦笑を残したままだったが、今度はそこに照れ笑いを交えつつ、如何にも口が重たげに私に声をかけてきた。

「んー…突然に、何を突拍子もない事を言い出すんだと思うだろうけれど…琴音、君…ケリドウェンになってみる気は無いかな?」

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