朽ち果つ廃墟の片隅で 五巻

遮那

第1話 変化 琴音編 ❶

「そっかぁ…うん、君から予め連絡を貰っていたけれど…裕美ちゃん、心配だねぇ…」

と言葉に偽りなく、その顔にも心配の色を隠す事なく浮かべて言う、向かいに座る義一に対して「えぇ…」と私も、口に付けていたカップを離すと、それをゆったりとした動作でソーサーの上に戻しつつ返した。


本日は裕美のお見舞いに行ってから翌日、七月の最終月曜日の午後だ。言うまでもなく、今私は義一宅の宝箱内にて、義一と一緒に出してくれた紅茶を飲みながらお喋りをしている。

今日はまず朝起きて食事を終えると、今は夏休み中なので、十五分位かけてストレッチをしてからピアノの練習を四、五時間するという、正午過ぎまでの休日ルーティンをこなしてから宝箱に来た。


んー…本来ならと言うか、本当の気持ちからすると、昨日に続いて今日もお見舞いに行きたかったし、それを実際に帰りがけに訴えてみたのだが、「ふふ、そんな毎日だなんて来なくても大丈夫だよ」と照れ笑いを浮かべる裕美に返されてしまった。

「あ、いや…あはは、今の言い方だと、来て欲しくないみたいに聞こえちゃったかも知れないし、そう受け止められたら困るけど…うん、まず今日アンタがいの一番にお見舞いに来てくれた事それ自体がめっちゃ嬉しかったし、さっきスマホを見てたら、明日はヒロ君が、明後日は絵里さんと、それに…ふふ、これが驚いちゃったけど、絵里さんだけじゃなく有希さん、それに百合子さんまでが来てくれるというから、そ、その…うん、心配しないで?暇な時に来てくれたら、それだけで嬉しいから」と顔をほんのりと赤く熱らせながら続けて言われたので、確かに同じ都内とは言え、若干離れた所に住む有希と百合子がわざわざお見舞いに来てくれるという話を聞いて私も驚きこそしたが、しかしすぐに「えぇ、わかったわ」と取り敢えず引き下がる事にした。

勿論、「あまり間を開けずにまたお見舞いに来るから、覚悟しておきなさいよ?」と部屋を出る間際に捨て台詞を吐くのを忘れなかったが、背後から聞こえる明るい裕美印の笑い声と、病室のドアを閉める間際に見えた、西陽からの逆光のせいで黒い影の様に見えた裕美の、こちらに手を振る姿が今も残像の様に目の裏に残るのだった。


というわけで…ふふ、今日はお見舞いに行くのは止したのだが、その私の代わりのつもりでも無いだろうが、お母さんが今頃裕美のお見舞いに行っているはずだ。

昨夜食事をしながら、お母さんから色々と細かい事を質問されて、それに対して一つ一つ答えていっていると、最後に「私は明日、裕美ちゃんのお見舞いに行くつもりだけれど、琴音、あなたはどうする?」と聞かれたので、裕美に言われた言葉を要略しながら伝えると、「あー…なら仕方ないわね」とお母さんはすんなりと納得した。

「いくら親しい人がお見舞いに来てくれても、勿論嬉しいけれど、そんな毎日の様に来られても、嬉しさは変わらずとも負担にはなるからねぇ」と続けて言われたので、「あー、そういうものなのかもね」とお母さんの言葉に私も納得がいったのだった。

既に裕美のお母さんには連絡が通っているらしく、お見舞いに行って良いか聞くと、快い返事をくれたとの事だったが、それが裕美まで話が通っているのかは微妙なところで、何もこの件についてメッセージを送っていなかったので、今頃もしかしたら軽くでも驚いているかも知れない。

…いや、もう一人、驚いていそうな人物がいる。そう、裕美が自分で話していたが、今日はヒロも裕美のお見舞いに行っているはずだからだ。

私のところにも、裕美から知らされて家に帰り、寝支度を済ませて自室に引き籠もっていた頃に、ヒロ自身から連絡を貰った。「俺は明日お見舞いに行く予定だけど、お前はどうすんだ?」というものだった。

「私も行きたかったんだけれどねぇ。まぁ細かい話はともかく、明日はあなたが一人で裕美のお見舞いに行ってあげてよ」と、別に図ったわけでは無かったが、何だか意味深な返事を返してしまった。

だが、鈍感なフリなのか、本気で気付いていないのか微妙なところだが、ヒロはそんな私の文面には突っ込まずに、「分かった。じゃあ明日行ってくるわ」とシンプルな返事を返してきた。

…ふふ、これも意図したわけでは無いが、お母さんの件を伝えるのを忘れてしまっていたので、恐らく今頃驚いている可能性が一番高いのはヒロだろう。


…と、せっかく義一が心から心配してくれているというのに、思わず思い出し笑いの為に、ニヤケそうになるのを何とか抑えていたのだったが、そんな私が何故今宝箱にいるのかの説明もした方が良いだろう。

結論から言うと、実は前々からこの様に義一の元へ訪問する予定は既にあった。

とは言っても、別に日程が決まっていたわけではなく、「七月中のどこかで、ちょっと時間を作って貰えないかな?渡したい物と、直接伝えたい事があるんだ」という、義一にありがちな思わせぶりのメッセージを一週間前くらいに貰っていたのだ。

どうせ中身を聞いても教えてくれないのは長い付き合いの中でわかっていた私は、「考えとく」と保留していたのだが、今月も後一週間、しかも恐らく裕美関係で時間を作るのが難しいだろう事は容易に想像が出来ていたので、むしろ今日がチャンスと、昨晩のうちに義一に連絡を入れておいていた。

いきなりの提案だというのに、開口一番に受け入れてくれたのだが、既に話はしていたので「裕美ちゃんの方は大丈夫?」と心配してくれた義一に対して、ついさっきお母さんにしたのと同じ説明を、もう少し端折りながら説明すると、すぐに理解してくれて、そして今日と相成った。



宝箱に入ってからというものの、勿論自分が約束した事は忘れていなかっただろうが、やはりというか初めからずっと今まで、裕美のことに話題は終始した。これまたお母さんの時と同じ様に、昨日お見舞いに行った時の裕美の様子などを義一が仕切りに質問をしてきて、それに対して私が答えるという問答を繰り返した後で、少しのインターバルが出来た時が一番初めの部分となる。


裕美が大会に出るのは無理だというのも私から知らされていた義一は、腰の怪我という肉体面だけではなく、やはり裕美の精神面の心配を主にしていたので、そんな裕美に対してどんな態度で接すれば良いのかと参考までに尋ねてみると「うーん…難しい問題だねぇ…でも、取り敢えず、話を聞いた感じだと、昨日君がした態度のままで僕個人としては良いと思うよ?普段通りに接してくれた方が、裕美ちゃんも心が楽だろうしね」と、私と同じ考えを述べてくれたので、その言葉に対してお礼を返すのだった。

「僕もお互いに知らない訳じゃないし、お見合いに本当なら行きたいけれど、流石に今の僕の身分じゃ行くわけにもいかないのは分かっているから、琴音ちゃん、君には悪いけれど、僕が宜しく言っていたと伝えてくれるかな?」

とすまなさげに言うのを聞いて、快く引き受けたところで、一旦裕美の話は終わりとなった。




「では…いただきまーす」

と義一が両手の間にスプーンを挟みながら挨拶したので、「ふふ、召し上がれ」と私も同じような体勢を取って返した。

「とは言っても…」とその直後、テーブルの上に乗った小振りのサラダボウルガラスの中身に目を落とすと、少し自嘲気味に笑いながら付け足した。

「…まぁ、今回は手抜きというか簡単なものだけれどね?」


そう、私と義一の前に置いてあるお皿の中身は、結論から言うとフルーツポンチジュレだった。

毎度の如く、忙しいのを知りつつも本人が是非にと言うものだから、ついつい甘えて義一に材料は全て用意して貰った。

材料のあらましを披露すると、ミカンの缶詰、キウイフルーツ、ブドウ、粉ゼラチン、砂糖、レモン汁だ。

ここに来て早々に、一旦宝箱に荷物を置くと、そのまま間を置く事なく二人揃ってキッチンに入った。

義一にミカンの缶詰の中身を果肉とシロップに分けるように指示する間、私はキウイフルーツの皮を剥き、いちょう切りにした。

分け終えたと言う義一に、今度はボウルに熱湯を入れて、分量を計っておいた粉ゼラチンと砂糖を加えて、よく混ぜるように頼んだ。

完全に溶けたと言うので、その上から私がレモン汁と義一が分けた缶詰のシロップを加えると、また混ぜるように頼む間、すっかり自分の家と同じように把握したキッチンの冷凍庫の中から氷を取り出すと、氷水を作った。

義一が頑張って混ぜてくれたソレを氷水に当てて粗熱を取りながら、ゴムヘラを使って泡立たない様にかき混ぜた。

こうする事で段々トロミがついてきて、固まるまでの時間短縮が可能となるのだ。…と、ふふ、お菓子作りの先生でもある師匠から教わった。

そこにミカンとブドウを加えて少し混ぜると、ボウルごと冷蔵庫に入れた。まだ入れていないキウイフルーツも忘れずにだ。

因みにキウイフルーツも一緒にボウルに入れなかったのは、キウイなどのフルーツにはゼラチンを分解するタンパク質分解酵素が含まれているためで、固まる前に入れてしまうと固まり辛くなってしまうのだ…との事だった。

ミカンなどの酸味が強い柑橘系を入れても同様らしいが、師匠が言うには「ソレは許容範囲内」との事なので、私はただ素直に従うのみだ。

さて、そこでひと段落がついた私たちは、お互いの労を労いつつ、後片付けを済ませると、紅茶を淹れてくれると言う義一をキッチンに残して、私は先に冷房の効いた宝箱へと入った。

後から義一が茶器の乗ったおぼんを持って入ってきて、お互いに持ったカップを優しくぶつけ合った後で一口飲みあい、近況報告などから雑談を始めた流れでの一番初めとなり、そして裕美の話にひと段落がついたところで、手元に置いていたタイマーが鳴ったのを合図に、私たちは一緒にキッチンへと戻った。

冷蔵庫から取り出して、キチンと程よく固まっているのを確認すると、義一が用意してくれた小振りのボウルに分け入れた後、最後にキウイフルーツを乗せて完成となったソレを、宝箱に運び入れての今だ。


正直…ふふ、手抜きのスイーツではあるのだが、どこまで本気なのか…うん、この手の事には疎い義一だから本心かも知れない、美味しいと言ってくれるのを聞いて、こんな誰でも作れる様なものでも、そう言ってくれるのは勿論嬉しかった私だったが、「あ、そう?それは良かったわ」と澄ましげに返しつつ、表情が緩むのを気にしながら、口に含むたびに柑橘系特有の、今の様な夏場にはもってこいな爽やかな涼やかさを味わっていた。


「あ、そういえばさぁ…」

と私はスプーンを咥えながら口を開いた。

「ふふ、昨日観たよ。有希さんが初めてアシスタントとして登場した番組をさ」

と意味深に笑いつつ言うと、「あー…ふふ、見てくれたんだね」と、何故そんな笑みを私が浮かべていたのか察したらしい義一は、少し苦い笑みを浮かべつつ返した。


そう、義一の番組は都内と、その周辺の県限定の電波を持つテレビ局の番組で、毎週土曜日の朝に放送されているのだが、以前にも軽く触れた様に、その時間帯はちょうど朝食時だというのもあり、普段からリアルタイムでは観れずにいた。

まぁもっとも、お父さん達の前で義一の番組を観れるわけも無かったのだけれど。…もうどうでも良いと思っていてもだ。

土曜日に放送された分は、有名な動画サイト内にあるテレビ局公式アカウント内に、その日の晩のうちに同じ放送がアップされるので、その翌日、つまりは日曜日に試聴するというのが日課となっていた。

普段なら、日曜日は月一の藤花が教会で独唱する日でないならば、基本的に午前から夕方にかけて師匠の家でレッスンをするのが習慣だったのだが、既に触れた様に、昨日は裕美のお見舞いに行き、本当はあまりよろしくないが夕方まで長居をしてしまったので、結局は寝る前に観る羽目となった。

…ふふ、いや、少し意地悪な言い方をし過ぎたかもしれない。今言った様に、師匠の元でレッスンを受けて終わるのは大体五時くらい、ここ最近は毎度の様にそのまま夕食にお呼ばれするというルーティンも出来ていたので、今回のことが無くとも、視聴するのは寝る前なのだった。


その旨も触れつつ、そのまま番組内容の話に入っていった。

「…だからね、あなたとは宝箱で色々なテーマで議論を楽しんできたけれど、今回のテーマについては意外と一度も無かったから、とても新鮮で面白かったわ」

「そうかい?ふふ…うん、考えてみたら、君といわゆる”女性”について話した事は無かったね」

と義一は徐々に自然な笑みになっていっていたが、しかしやはりまだ苦味成分は残したままだった。

「まぁ…ふふ、放送時間の制約上、色々と端折っちゃったから、視聴者に誤解を残してしまう結果になっているかも知れないけれど、僕が言いたかったのは単純な事で、どんなに男女平等、男女の間の差を無くそうとしたって、どうしたって”性差”の壁を取り除く事は不可能だし、それに関連する、特に”家族”に関しての男女それぞれの役割、得意分野が違う事からは逃れられないって事なんだ」

「えぇ、そうだと思う」

「ふふ、ありがとう。だからまぁ…今言った様に、現代というのは妙に男女の間にある差を縮めようって事を躍起になって頑張ってるんだけれど、僕はそんな達成不可能な無駄な事をするのは止めて、したい人はすれば良いけれど、これといって強い意志を持たないならば、昔の様にキチンと男と女は違うんだというのをまず認めて、お互いにその違いを”正しく面白く感じたり思って楽しもうよ”って事を、あの中で言いたかったんだ」

「…」

と義一の言葉に、敢えて私は意味ありげに間を置いて見せた。

別に番組を観たその時だって、すんなりと理屈を無理なく飲み込めた私だったが、何となく意地悪にそうしたくなったのだ。

だが、何か目的があってした訳でも無かった私は、すぐに自然体な笑みを浮かべつつ返す事にした。

「…ふふ、あの番組内で義一さん、あなたは有希さんが同意してくれた時に、私は私でボーヴォワールの言葉を思い出していたんだけれど…」

「あー…ふふ」

と、流石義一は一瞬にして何のことを指しているのか察したらしいが、「流石琴音ちゃん、すぐに連想したんだねぇ」とまた不用意に褒めてきそうになったので、それを慌てて遮るために話を続けた。

「え、あ、いや…あ、それでね?何が言いたかったのかというと…さ?んー…ふふ、義一さん、あなたはあの番組内で『自分の意見に同意してくれた女性は、今現時点の日本で有希さんが少なくともいてくれたお陰で、一人は見つけれた』的なことを言ってたけれど…ふふ、リアルタイムでは無いにしろ、ここにだって一応いるんだからね?」

と私は悪戯っぽく笑いながら、自分の顔を指差して言った。

そんな子供っぽい態度を見せた私に対して、義一は一瞬呆気に取られていた様子だったが、それも長くは続かず、一度クスッと吹き出す様に笑うと、その延長線上にある様な笑顔を浮かべながらお礼を返してくれた。


「でもまぁ、有希さんもあなたの意見に賛成だって言っていたし、今までも私個人としては面白かったけれど、二人が良いコンビとなって益々番組が面白くなっていきそうね?」

と、お互いに笑い合った後で私がそう口にすると、丁度紅茶を飲んだところだった義一は、カップをソーサーに戻しながら返した。笑顔だ。

「ふふ、ありがとう。んー…実はね、あの収録の後で、これは毎回恒例となってるんだけれど、プロデューサーとかと一緒に簡単な打ち上げに行くんだけどね?そこに有希さんも一緒に来てくれて、どれくらいだったかなぁ…ふふ、打ち上げが始まって早い段階で、ついつい聞いてしまったんだよ。あそこで同意してくれたのは本心からだったのかって」

「えー…ふふ、義一さんらしい」

別に一々確かめなくても良いだろうに…と思ったが、今口に出した通り、何事においても曖昧なまま”流す”という事が出来ない義一さんらしいと思うあまりに、自然と微笑を浮かべてしまった。

「で…その質問に有希さんは何て答えたの?」

と微笑から意地悪げな笑みに変えつつ聞くと、義一は少し笑みに苦味を滲ませながら答えた。

「うん、そしたら…ふふ、彼女ったら、一瞬キョトンとしていたけれど、徐々に心外そうな不貞腐れた顔をして見せてね?『普段たまにテレビに出る時には猫を被ることもあるけど、あの番組では素で行こうと思ってるって初めの打ち合わせ段階で言ったでしょ?あなたからも気を使わなくて良いって言われてるし…ふふ、もし異論があったらズバッと言ってたよ。だから…アレは本心』とね」

「あー…ふふふ」

と、その場にいなくとも、義一と有希が話している場面は数奇屋で一度見たきりだったが、それでも今の話だけでありありと二人のやり取りする光景が浮かぶようだった。

「ふふ、これからうまくやっていけそうだね」

と初めに言った内容と同じ言葉をかけると、「うん、有希さんに引き受けてくれて有り難いと思ってるよ」とすぐに義一も同意してくれたが、「ただ…」とここで不意に留保を置いたので、「ただ?」とすかさず聞き返してしまった。

すると義一は、苦笑いがメインではあったのだが、しかしどこか企み顔…うん、何か悪戯でも考えているような、そんな表情も滲ませつつ答えた。

「琴音ちゃん、君や有希さんは同意してくれたけれど…ふふ、近々絵里と会う約束になってるんだけれどね?その時にまず初っ端に、また怒られちゃいそうだよ」

「あー…ふふふ」

と、義一の言葉から瞬時に”ある事”を思い出したあまりに笑みを零してしまった。そしてそのまま、思い出した内容を絡めて返すことにした。

「あはは、そうね。…『昔から言ってるでしょー?女からすると、男が女とはこうあるべきだって言うのは毛嫌いされるって。私は別に気にしないけれど、そのうち…夜道で背中を刺されても知らないからね?』って絵里さんなら…ふふ、言いそう」

…ふふ、そう。このセリフは、二人が大学生の頃に、義一が自分を好いてくれている女の子への対応に対して、絵里が心底呆れつつ言ったものだった。

それを敢えて細かくは触れずに、ただこうしてセリフだけ抽出して言ってみたのだが、すぐに身に覚えがあるのを思い出したらしい義一は、「い、いやぁ…」と頭をポリポリと掻きつつ何だか照れた様子を見せていた。

「…あはは、確かに言われそうだよ。…今回”も”」

と、しかしこう付け加えた時には、また悪戯っぽい顔を見せていたので、反省が無いと呆れて見せつつも、それを言葉にはせずにただ笑い返すのだった。


さて、それからも暫くは昨夜観たばかりの番組についての感想を喋っていたのだが、ジュレをようやく食べ終えると、二人揃って空いた食器を持ってキッチンに向かった。二人で食器を洗った後は、紅茶のお代わりを淹れるからと言う義一をキッチンに残して、一足先に宝箱に戻った。

椅子に座り一人で静かに待っていたのだが、ふとその時、今日は何でここに来たのかを今更ながらに思い出していた。

と、思い出したそれと時を同じくして、「お待たせー」と義一が口にしながら戻ってきた。

そして、オボンからソーサーに乗った紅茶入りのカップを置いてくれた義一に対して、「ありがとう」と、自分の飲み易い位置に移動させながらお礼を返したのだが、義一が椅子に座るのを確認すると、いい頃合いだと早速問い掛けてみる事にした。

「ふぅ…って、そういえばさ、昨日もメールしたように、今日はあなたが前に行っていた件で来たというのがメインなんだけれど…用件って一体何だったの?」

とカップを下ろしつつ聞くと、「え?」と直後はすぐに答えてくれなかったが、それも長くは続かず「あ、あー…ふふ、うん。アレはね…」と徐に顔を私から逸らすと、代わりに書斎机の方へと顔を向けた。

私も釣られて見てみると、やはり今年に入って以来ずっと変わらずそうなのだが、やはりその重厚感ある年季の入った机の上には、所狭しに本なり書類なりが積み重なって置かれていた。その後ろには、やはり様々な言葉で埋め尽くされたホワイトボードも健在だった。


「ちょっと待っててね?」と義一はゆっくりと椅子から腰を上げると、こっちからの返事を待たずに書斎机へと近づいて行った。

その様子を私がただ眺めている中、「えぇっと…ふふ、あった、あった」と独り言をブツブツ言いながら、どこかから物を引っ張り出すと、それを持って戻ってきた。


「ふふ、用件って程のものじゃないんだけれど…うん、前にチラッと言ったように、君には二つの件でちょっと用事があったんだ」

と言いながら椅子に腰を落とすと、「その一つ目が…ふふ、はい、これ」と義一は差し出してきた。

「え?何だろ…」と私は何も考えずにそれを受け取って見ると、それはどうやら書物らしく、新書サイズのものだった。

それは書斎机の段階でわかっていたので、すぐにその表紙を眺めて見ると、そこには『反グローバリズム論』と書かれており、その下には『望月義一』と『中山武史』とクレジットされていた。

「これって…」

と私はゆっくりと顔を上げつつ、早速質問をしようと思っていたのだが、上げきったその時、ふと以前に話を聞いていたのを思い出し、直前になって問いかける内容を変更した。

「…あっ、こないだチョロッとあなたが話していた、武史さんとの共著がようやく完成したのね?」

と聞くと、「あはは、よく覚えていてくれたねぇ」とテーブルに肘をついて、顎を手に乗せながら朗らかに笑いつつ言った。

「ふふ、そう。それはまぁ今までのとは違って、僕と武史が普段からしている雑談を文字起こししただけ…というと雑過ぎるけれど、まぁそんな対談本なんだ」

義一はここで一旦紅茶で唇を濡らしてから続ける。

「本の名前は出版社が決めるんだけれど、確かに内容としては、まさにそのまんまだから、僕も武史としても不満は無いんだ」

「へぇー、そうなんだ…」

と私は表紙と裏表紙を何度も本をひっくり返しながら見つつ相槌を打った。

それから試しに目次を開いて見ている間も、義一は話を続けた。

「ただ…ふふ、せっかく『反グローバリズム論』だなんて立派な題名を付けてくれたのに、中身は雑談がほとんどだ から…ふふ、だったらもう少しキチンと纏めた議論をしたのにって、そんな意味では不満というか、もう少し手を入れたかったなって今思うんだけれどねぇ」

と話す義一の顔には、参り顔が浮かんでいたが、そんな様子が可愛らしく思えた私は、「ふふ、そうなんだ」と合いの手を入れつつ、パタンと本を閉じて、テーブルの内で自分側の空いているスペースに置くと、「ところで、これって…」と私はわざとらしく上目遣いになりながら勿体ぶりつつ口を開いた。

「…ふふ、私が貰っても良いの…かな?」

「…」

と、義一の方でも澄まし顔ですぐには答えてくれなかったが、しかしそんな自分にウケてしまったらしく、クスッと小さく吹き出すと、「うん、勿論」と柔らかな笑みを浮かべつつ返してくれた。

「むしろ、良かったら貰ってくれるかな?」

と付け加える義一に対して、「ふふ、もーう…」と私は今度は苦笑交じりに返した。

「毎回言ってるでしょう?あなたの出す本は、全て洩れなく読みたいんだから。…ふふ、愚問ってものよ」

と最後は目をぎゅっと瞑って見せつつ、同時に敢えて誇らしげに胸を張りながら言い終えると、「あはは」と義一は明るく笑った後で「ありがとう」とお礼を付け加えた。

「いーえー、こちらこそ読ませて貰うね。…うん、私からも連絡するけれど、武史さんにもよろしく」と言いながら、持って来ていたトートバッグに本を丁寧にしまうと、「うん、分かった。伝えておくね」と義一は微笑み交じりに答えてくれた。


それからは、義一とこの本に関連した雑談に花が咲いたのだが、一つワクワクする話をその中でしてくれた。

というのも、今度この本が出版されるというので、その出版記念に、新宿に本店がある有名な本屋のブースでイベントをするというのだ。

本来はというか、義一の処女作である『自由貿易の罠』がいきなりの大好評を得たというので、何度も出版記念講演を頼まれていた…とは武史から聞いていたのだが、私が言うのもなんだが同じように人前に出るのを好まない性分故に、義一は今まで断る続けてきていた。それは勿論、二作目の『新論』にしても、三作目の『国力経済論』、同時発売だった四作目の『貨幣について』にしても同じ事だった。

なので…ふふ、勿論そのことを知っていた私は、なんで今回に限ってそんなイベントに出ることを承諾したのかと聞いてみると、義一は今日一番の苦笑いを浮かべつつ答えてくれた。

「い、いやぁ、まぁその…あはは、まぁいつも提案されていたのは、司会の方と僕とのワンツーマンでの対談方式でね?んー…まぁ独りっきりじゃない点ではマシかも知れないけれど、でも初対面の人と二人っきりで一時間以上人前で喋るのは億劫で…さ?だから断っていたんだけれど…でも今回は、武史と一緒に出るというのでね?だったらまぁ…うん、毎回断るのも申し訳なかったというのがあったし、だったらたまには引き受けてみるかなって気になったんだよ」

…との事だった。

まぁ、思った通り、想像通りの答えだったので意外性は微塵も無かったが、でもまぁそんな些細な事よりも、私も良く行く本屋でのイベントというのもあって、いつあるのかと質問攻めにしたのは言うまでもない。

そんな私の勢いに苦笑いで応じつつ、義一は素直に日程を答えてくれたが、その瞬間、私はテンションを落としてしまった。

何故なら、一応来月中というので夏休み中には間違いなかったのだが、それはお盆中というので、その一週間ばかりは恒例の欧州への家族旅行という予定が既に入っており、そのイベントに行けない事が確定したからだった。

それが分かった途端に、演技ではなく素で軽く落ち込んで見せていると、

「あはは。いやいや、でもね?気休めになるか分からないけれど、一応そのイベントには録画用のカメラが入るらしくて、その本屋のホームページでも一定期間中は無料でアップしてるらしいし、僕らオーソドックスのサイト上でもアップする予定だから…ふふ、心配しないでよ」

と義一が慰めの言葉をくれたので、本当は会場に行って、初めて世間の人間の義一達、特に義一に対する生の反応を見れるというので、現場で肌身に感じたいという思いを強く持っていたのだが、それは叶わずとも、それならまぁ良いかと妥協して受け入れて、なるべく早くその様子をアップするようにと頼むのだった。


その後はというと、話を元に戻してというのか、せっかく著者の一人が目の前にいるというので、若干のネタバレにもなるかもと思いつつ、早速新著である『反グローバル論』に関連した議論をしてみたいとワクワクしていたのだが、ふとここで、義一が先ほどチラッと漏らした言葉を思い出し、本当なら早く話し合いたかったのを何とか堪えつつ、目下の課題を解消する事から優先する事にした。

「ふーん…あ、ところでさ?さっき”二つの用事”があるって言ってたけれど…もう一つって一体何なの?」

「え?あ、あー…うん、それなんだ、けれど…ねぇ?」

と、途端に気まずげな苦笑いを浮かべながら絞り出すように呟くという義一の態度から、咄嗟に異変を嗅ぎ取ったのだが、ここで茶化すのは得策ではないと流石の私も学習していたので、大人しく続きを待った。

ただ視線だけ外さずにジッと見つめていたのだが、義一は根負けした風に溜息を吐くのと同時に笑みを漏らすと、「んー…ちょっと待っててね?」と義一はまた腰を上げて、スタスタとまた書斎机へと歩いて行った。

その様子をまた眺めていると、何やら机の上を探っていたが、今度はすんなり目当ての物が見つかったらしく、そのまま流れるように淀みなく椅子に座ると、間を置く事なく両手で今取ってきたばかりの物を掴んで、『ジャーン』と言わんばかりに広げてこちらに見せてきた。

んー…ふふ、実はというか、当然義一が手にした時点で、それが何なのか瞬時にわかっていたのだが、敢えて見せられたそれを眺めてみると、やはり間違いなくそれは、私が義一に預けていた大量のプリント群の一角である、詩を纏めたものだった。

「これって…私があなたに預けてた、その…」

『詩でしょ?』まで続けて言おうと思ったのだが、自分で思った以上に照れてしまい言葉が途切れてしまった。

それを見兼ねた義一はすぐに助け舟を出してくれた。微笑み交じりだ。

「ふふ、そうだよ」

と義一はさっぱりとした顔で笑いながら、プリントの束を自分寄りのテーブルの上に置きつつ言った。

「まぁ…ふふ、まどろっこしい前置きは抜きにして、いきなり本題というか、今プレゼントした新著以上にある意味大事な、君にわざわざ来てもらった用件なんだけれど…こないだチラッと確認というか聞いたの覚えてるかな?」

とここで義一は、チラッと手を上に置いたままのプリント束に目を落としながら続けた。

「…君の書いたこの詩集や、君が言うところの『夢ノート』、後は日常で疑問に思ったことを書き留めて、それに対する意見を纏めた『徒然日記』」

「えぇ。…って、え?徒然…日記?」

唐突に現れた聞き慣れない単語に私が聞き返すと、義一は途端に初めはスマなさそうな、照れ臭そうな表情で答えた。

「あはは…うん。君は単なる”日記”だと言ってたけれど、読んでいる時にね、内容的にふとさ、清少納言の”枕草子”、鴨長明の”方丈記”と共に、日本三大随筆の一つに数えられている、吉田兼好の”徒然草”を思い出したんだ」

「あ、あー…その”徒然”なのね」と私がすぐに納得がいった勢いのままに合いの手を入れると、義一は苦笑交じりから、徐々に悪戯小僧よろしい笑顔で答えた。

「ふふ、そう。君には説明するまでも無いけれど、”徒然”というのはそもそも、変化が無いせいで退屈してしまう、手持ち無沙汰な事をさす言葉だよね?」

「えぇ」

「それでね…ふふ、君の日記を読んでいる時にさ…不意にね、誰でも一度は聞いた事がある徒然草の冒頭部分を思い出したんだよ。

『つれづれなるままに、日暮し、硯にむかひて、心にうつしゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』とね」

「あー…ふふふ。『することもなく、手持ち無沙汰なのに任せて、一日中、硯に向かって、心の中に浮かんでは消えていく取り留めも無いことを、あてもなく書きつけていると、熱中するあまりに異常なほど、狂ったような気持ちになるものだ』って意味よね」

私たち二人の間では確認は必要無かったのだが、すかさず何となく自分なりの現代語訳を差し入れてみると、義一は満足げに笑みを強めつつ口を開いた。

「ふふ、そうそう。まぁ…うん、察しの良い君の事だからもう分かってるだろうけれど、『暇つぶしに日常を生きていて、目についた疑問をツラツラと書き殴っただけだよ』って、君が謙遜を含めて言ってたのを覚えていてね?」

「…ふふ、本当に記憶力お化けというか、そんなくだらない事まで覚えてるんだからなぁ」

と、本心では尊敬の念に近い感情を持っていたのだが、表面上はこの通りに呆れ笑いを浮かべておいた。

そんな反応には慣れっこな義一は、ケラケラと一度明るく笑ってから先を続けた。

「いやぁ、あははは。…あ、でね?その言い方というか、それが今引用した徒然草そのものじゃないかって事に気づいてね、それにあやかって『徒然日記』と名前を付けちゃったんだ。だめ…かな?」

と義一が少し首を傾げつつ聞いてきたのを見て、その様子が何だか子供っぽく、しかし何故か自分の年齢よりも一回り以上の男がしてるというのに、それが何だか可愛らしく思えて、自然と笑顔になってしまいながら答えた。

「…ふふふ、ダメも何も義一さん、あなたが覚えていた通り、私としては本当に徒然なるままに書き殴っただけなんだし、むしろそんなものに対して立派な名称をくれたものだから、恐縮するってものだよ。そんな意味では困るは困るけれど…」

とここで一旦溜めて見せると、何となく狙ってだがニカっと目を細めながら、無邪気っぽさを意識しつつ笑うと続けて言った。

「…うん、確かに名前があった方が何かと便利だもんね。…うん、私はその名前で良いよ」

と最後に向かって、徐々に笑みを強めていきつつ話し終えると、無防備なキョトン顔を見せていた義一だったが、すぐに小さく息を鼻から出すのと同時に笑みを浮かべると、「うん、ありがとうね」とお礼を返すのだった。


「あはは。…って、あ、そうだ、話が逸れちゃったね。でね、ここからが本題中の本題だけれど、こないだ君が許可してくれた通りに…うん、実際にね、とうとうと言うかオーソドックスの面々に君の作品群を読んで貰ったんだ」

「あ…あ、あぁー…うん…」


そんな話をしたなぁ…


と、ここにきてようやく当時を、まるで他人事のように思い出していた。

…ふふ、我ながら惚けているなと思うけれど、でも事実として、今までこの話をしていたというのに、この時点まで関連して思い出せずにいたので、急な話題を提示された気になり、咄嗟には反応を返せずにいた。

だが、義一が話した事が事実なのは瞬間的にわかっていたので、それには疑いを覚えずに、狼狽ながらも肯定的な相槌を打った次第だった。

「まぁ…ふふ、君の作品群は量があったから、実は全部じゃなく三作品の中の一部ずつだけれどね」

と義一が付け加える中、私はようやく落ち着きを取り戻してきていた。


あー…ふふ、そっか。最近考える事が多かったせいで、すっかり失念していたけれど、そんな約束をしていたわねぇ…


と、心の中で様々な意味を含めた苦笑を溢していたのだが、冷静になるのと同時に、正直私の書いたものを読んで、雑誌オーソドックスに集う面々が、一体どんな感想を持ったのかという好奇心が、ムクムクと胸の中で膨らんでいくのを自覚していた。

つまり、表向きは戸惑いげでも、早く感想を聞きたいというのが本音だった。


「まぁ”面々”とは言っても、こないだもチラッと示唆したと思うけれど、実際には全員じゃなくて、顧問の佐々木先生と浜岡さんの両名、後は、たまたまその場にいた小説家の勲さんの合計三人にしか読んで貰っていないんだけれどね」

「あ、あー…そうなんだね」


そっか…まだ美保子さんや百合子さんは読んでないんだ


まだ心の準備が万全ではなかった私は、その事実を聞いて心の中でホッとしている中、義一は口調も穏やかに話を続けた。

「でね?ここでまずお三方からの感想なんだけれど…」

「う、うん…」

と、生唾をゴクリというような、そこまで大袈裟な漫画的にはならないまでも、心情としては同じに待ち構えていると、義一はほんの数瞬だけ間を置いてから声調を変えずに口を再度開いた。

「んー…ふふ、こんなに勿体ぶる必要は無かったかな?結論から言っちゃうとね…うん、三人が三人共に、僕と同じような感想をくれたよ。…ふふ、君は照れるだろうけれど、事実として言えば、『完成度が高くて、とても良かった』とね」

「え、あ、え、へ、へぇ…そ、そう…?」

と、義一が今まさに言った通りに、案の定大きく照れてしまいながら返してしまった。

「ほ…本当?」

と、私は一応以前した様に繰り返し確認すると、義一は義一で「あはは、本当だよ」と明るく笑いながら返してきた。

「佐々木先生にしても、文芸批評が本業の浜岡さんにしても、同じくお褒めの言葉をくれたんだけれどね?それに加えて…ふふ、滅多に現代の小説なり文芸を褒めない、自分の作品ですら褒めない勲さんですら、君の作品を褒めてくれていたんだよ」

「え…へぇー」

と、勲という単語が出てきた瞬間、思わず語気強めに声を漏らした。

初めは照れ隠しのあまりに冷めた返しとなってしまったが、初めに勲にも読んで貰った話は聞かせて貰ったのにも関わらず、新鮮な反応を返してしまった。

勿論顧問の二人に褒められたというのも嬉しかったのは本当でも、勲さんに褒められたのはまた一入だったのだ。


というのも、実際に私が勲と顔を合わせて会話なり議論をしたのは、初めて数奇屋に行ったその一度きりだったが、しかし新たに始まったテレビ番組オーソドックスでの、義一とのやり取り、議論を視聴していたのが大きかった。

そこで義一と勲は、この二人が集まれば大体予想がつく通り、番組のテーマは『文学』という、大局的すぎて掴み所が難しそうな議題だったが、しかし番組自体は、私の色眼鏡付きで言えば全体的に纏まっていた。

と同時に、その中で二人が文学について議論するその一つ一つが、一々腑に落ちるばかりで、その中身は私が直接勲としたのよりも一層深い内容だったために、ここで急に上から目線に聞こえるかもだが、番組の視聴以来、私の中での勲の評価がより一層グンと上がっているのだった。

そんな近況での、そんな勲も褒めてくれたと聞いたのが、どれだけ私にとって大きかったのか、少しでもわかって頂けた事だろう。


というわけで、何とか押さえようとはしていても、嬉しさのあまりに顔がニヤケてしまっていた私の様子を、先ほど触れた番組内容についての感想を私から当然受けている義一は微笑みつつ眺めていたのだが、ここで不意に表情に静けさをもたらすと、声のトーンも落ち着きを払いながら口を開いた。

「で…だね、ここからが本当の、琴音ちゃん、君をわざわざ呼んだわけなんだけれど…」

「え?う、うん…何?」

もう話は終わったものと安堵していたところで、急に空気が変わったのに若干動揺しつつ、今から何を言われるのかと身構えつつ合いの手を入れると、義一は今度は何だか苦しげな笑みに顔を変化させながら先を続けた。

「これまた突然の提案になってしまうんだけれど…君の書いた詩の方を、さ?その…雑誌オーソドックスの毎号ごとに、少しずつ掲載するのを許してくれない…かな?」

「…へ?…って、え?」

と、顔は正面に向けたままだったが、言葉だけ二度見…いや、”二度口”をしてしまった。それだけ動揺が激しかったのだ。


…え?私の書いた詩を…掲載したい?義一さん達の…雑誌に?


「…え?」

と我ながらしつこいが、また繰り返し声を漏らしてしまうと、義一は義一で苦笑を強めつつ言った。

「いやね、君の詩を是非オーソドックスに載せたいって思ったのは、一応の編集長である僕の一存だけじゃなくて、僕が読んで貰った三人の共有した意見なんだ」

とここまで言うと、調子を整えるかのように一旦紅茶を啜ってから話を続けた。

「僕らの雑誌、オーソドックスは、最近は僕自身がFTAの馬鹿騒ぎに関わっているせいで、今年に入ってからずっとそんな細々とした、政策論議がメインで来てたんだけれど、本来は一応”真正保守”を謳っているからね?ふふ、本当はそんなクダラナイ話に埋没するよりも、君が知っているところで言えば、美保子さんや百合子さんみたいに芸の世界に帰属している人達の話をメインに行きたいんだよ。…ふふ、これは僕個人じゃなくて、創刊した神谷さんの意思でもあるんだけどね」

「うん…」

と、正直今は雑誌の基本理念についての話よりも、今自分のことで精一杯だったために、早く先を聞きたくてウズウズするあまり、この様に少し無愛想な反応で返してしまった。

そんな態度であったにも関わらず、義一は穏やかな表情を崩さないまま、調子を変えることなく話を続ける。

「勿論美保子さん達だけじゃなくて、それこそ勲さんもそこには入るんだけれど…ふふ、案の定話が回りくどくなったけれど、要は何が言いたいのかと言うとね?今は仕方なく現実の政治や政策の話ばかりがメインになってしまってるけれど、だったらせめて、雑誌の中身のバランスを保つためにも、僕らが芸能欄と呼んでいる、一定数のページを確保している箇所があるんだけれども、その文芸の方の割合というか幅を、もう少し広げたいと常々思っていたんだ。つまり…うん、文芸の方での執筆者が、脚本家のマサさんを除けば僕らの雑誌では小説家の勲さんしかいなくてね?それでは心許ないと、勲さん以外にも彼と同等の力を持った執筆者が欲しかったところだったんだよ」

「…へ?」

さっきは酷い言い草をしてしまったが、しかし正直なところ、義一がここまで自分の雑誌について、具体的な考えなり想いを語ってくれた事が今まで無かった事実に気付いてからは、ここまで素直に話に聞き入っていたのだが、最後の言葉に思わずつまづいてしまったがために、またしても素っ頓狂な声を漏らしてしまった。

そしてその直後には、「い、いやいやいやいや」と顔の前で忙しなく手を左右に振りながら、慌てて訂正を入れようと躍起になった。

「ちょ、ちょっと待って。…それって、単純に話をそのまま真に受けるとすると…、その今あなたが言った、勲さんと同等の力を持った執筆者というのが、その…」

と私はここで一度口を止めると、ゆっくりとした動作で自分の顔を指差しながら辿々しく言った。

「私という風に…受け取れちゃうんだけれど?」

「…」

そんな調子で言った私に対して、義一は静かな表情のまま直ぐには反応をしてくれなかった。

だが、段々と顔が綻んでいったかと思うと、そのペースに合わせるように口もゆっくりと開いた。

「…うん、実はまさに、今君自身が自分で言ってくれたような事を考えていたんだよ」

と何故か途中から誇らしげに話していた義一に対して、「い、いやいやいやいや」と私はまたもや先程と同じリアクションを取ってしまった。


と同時に…ふふ、我ながら本当に呑気だと思うが、やはり二度目というので余裕があったらしく、ふとこれと同じ反応を、師匠がよくしていたのを思い出して、芸だけではなく、こんな点でも影響を受けているのかと他人事のように冷静な分析をしていた。


だが、こんな現実逃避に近い思考をしても現実は変わらないというので、すぐに頭は切り替えられた。

「わ、私…だって別に、そ、その…言うまでもないけれど、ただの何処にでもいる素人の女子校生だよ?今あなたが言ったような想いに対して、自分が沿えるとは微塵も…うん、思わないのだけれど…?」

と、一応冷静であるように努めながらそう言い終えると、「あははは」と義一は無邪気に笑ってから返した。

「ふふ、君が果たして、何処にでもいる女子校生かどうかは置いとくとしてね?君は少なくとも…うん、勿論どこにも、作品を世間に向けてと言うか発表してないという意味では、確かに素人と目されるんだろうけれど、でもそれはただ矮小な一面だけを見た時の感想であって、僕ら…うん、僕に限って言っても良いけれど、ピアノは言わずもがな、君が書いた詩にしても、小説と言っていい夢ノートにしても、随筆と言っていい徒然日記にしても、そのどれを取ったって、それは素人ではなく玄人、少なくとも芸に対する態度としてはプロだとそう感じてるんだよ」

「え、あ…え、えぇ…」

恐らく自分ではよく分かっていないのだろうが、義一はこうして突然私の事を褒めてくる中で、稀にだが普段以上に、妙にこのようにヒートアップする事があった…のは、過去にも触れてきたので分かって頂けると思う。

だが…うん、ここ最近は義一自身が忙しかったのもあり、議論も私が出てくる余地のないものばかりだったのもあって、こうして褒めてくる事自体が少なかったのだが、その反動か何か知らないが、久しぶりにヒートアップしてテンションが上がり、容赦無く真っ直ぐな力強い視線をこちらに飛ばしてくる義一の態度に呆気に取られて、私はただなす術も無く、頼りない声を漏らす他に出来ないでいた。


そんな私の引いた感じが伝わったのか、もしくは満足したらしい義一は徐々に元のテンションに戻り始めると、戻り切らないままに話を再開した。

「…ふふ、今のは先に断ったように、僕個人の想いの丈を話させてもらったけれど、でもね、これも初めに言ったように、僕だけの考えって訳じゃなくて、実際に今言ったような事を話してみたら、佐々木先生や浜岡さんも同意してくれたと同時に、同じ関連で執筆している勲さん本人も、君と一緒に寄稿することに賛成してくれたんだよ」

「う、うん…」

と、義一が普段通りに戻ってくれたお陰で、その点での動揺は引いていたのだが、本題中の本題である目下の問題については、まだ全く現状の整理が覚束ないでいた。

当時の自分の状況を例えるなら、頭の中で嵐が巻き起きており、その中で言葉が縦横無尽に飛び回るせいで、中々自分の考えに適した単語を拾えずにいたというのが近いと思うのだが、そんな私を他所に、義一は最後の仕上げと言葉を続けていた。

「勿論君の意思を尊重するし、無理強いは一切するつもりは無いけれど…」

と義一は少しずつ表情を和らげていくと、腹積りが一切無いような…って、これは私特有のフィルター越しだけれど、そんな様子を浮かべつつ穏やかに言った。

「…ただ、これだけは信じてね?何も半端な気持ちで、その場の、いっ時の思い付き、気分で話してきたわけじゃ無いって事を。んー…うん、色々今までも好き勝手に話してきたけれど、毎回ではなくても良いから…さ?そのー…”まずは”僕に預けてくれた詩の一部を、少しずつ毎号毎号に分けて載せるのを、お願い…出来ない、かな?それに加えて、更に追加のお願いをすれば、その…こっちは不定期でも構わないから、既存の詩だけじゃなく、新作の詩や、あと徒然日記にあった様な随筆も、もし新たに制作出来るのならば、それらも合わせて載せたいんだ…けれど」

「…」

と私は、自分としては当然として直ぐには答えなかった。勿論まだ混乱は収まっていなかったのもあり、だから咄嗟に反応を返せなかったのは、今で触れてきた通りだ。

だが、一度聞いた時点でもそうだったが、また一度繰り返し義一の話した言葉の節々を反芻してみると、その”らしさ”のあまりに、意図しないままに少しずつ自然と頬が緩んでいって、そのまま笑顔になってしまうのを抑えきれなかった。

「琴音…ちゃん?」

とそんな私の顔を、テーブルの向かいから覗き込む様に義一が声をかけてきた。

それに気付いた私は、あくまで自然体を装いつつ思わず出た笑みを引っ込めようと思ったが、しかし道半ばで、また先ほどと同様に記憶を反芻してしまったがために笑みを催してしまった。


ふふ、これが絵里さんが言うところの”天然たらし”たる所以よねぇ…人を乗せる、その気にさせるのが上手いんだから


「…ふふ、今のその言い方、話し方は…ズルイわ義一さん。だって…ふふ、断り辛いもの」

と私が若干ニヤケつつ言うと、「あ、いや、そんなつもりじゃ…」と今度は途端に、義一はさっきの私の様に狼狽し始めた。

そんな様子を見て、意地悪な見方だが、最近では一番多めに不用意に褒めてきた事へのお返しを、果たすことが出来て満足したのと同時に、ますます何だか心が絆されてしまった私は、大きく溜息を吐いて呆れ笑いを浮かべた。

「それって…私の名前ってクレジットされるの?」

と私が聞くと、「え?あ、いや…ふふ」と、ここにきて落ち着いてきたのか、義一はまだやや苦笑気味ではありつつも、表情柔らかく答えた。

「いやいや、勿論君の名前は伏せさせて頂くつもりだよ。君はまだ未成年だし、それにまぁ…”色々と”あるでしょう?いくら僕らの雑誌が世間の目に滅多に触れないとはいえね」

「あー…ふふ、えぇ」

と、義一の言葉には具体的なものは一つも無かったが、しかしこれだけから瞬時に全てを察した私は、流石に今まで続けていたニヤケ面を続けることが出来ずに、一緒になって苦笑してしまった。

そんな私の変化に対して、義一も合わせる様に苦笑度合いを一瞬強めたが、直後にはまた笑みを和らげて話を続けた。

「だからもし君が許可してくれるのなら、一応…”少女A”って名称を使おうと予定してるんだ。ふふ、いきなりだし、急に良いペンネームを作るのは難しいだろうしね?」

「”少女A”…?…って、あ、あぁー…」

聞いた瞬間には、聞き覚えがあるな程度に止まり、咄嗟には思い出せずにいた私だったが、しかしそれほど時間をかけずに、どんな記憶がそんな気を起こさせたのか、出所がハッキリとした。


そう、あれは毎週ゴールデンタイムに放送されている、全国ネットの地上波討論バラエティ番組に、義一と武史が初めて揃って出演した後で、数奇屋で催された雑誌の中の人気コーナーである対談の内容を、書き起こした中で出た名称だった。


「…ふふふ」

と口元に手を添えて思い出し笑いをしていると、そんな私の様子を見た義一にも良い影響があった様で、顔に明るさを取り戻しつつ言った。

「ふふ。勿論暫定の名称のつもりではあるんだけれどね?…で、えぇっと、それでー…なんだけれど…どうかな?」

と、しかし途中から、またさっきからずっと見せていた、スマなさげな苦笑いに逆戻りしてしまいながら、義一が再度聞いてきた。

「え?あ、う、うん、んー…」

と私も流石に悪いと緩んでいた顔を元に戻してから、そんな誠実な態度に敬意を払うつもりで、改めて検討をしてみた。

だが…ふふ、うん、既にさっきバラしてしまった様に、私の中では実はあの時点で気持ちが固まったというか、開き直りに近い形で決心が出来ていたので、その胸の内をそっくり素直に吐露する事にした。

「…って、ふふ、考えてみたらというか、さっき義一さん、あなたが話した内容をそっくりそのまま受け入れるとすると…ふふ、随分と注文が多いわね?初めは詩だけだったはずなのに、いつの間にか徒然日記みたいな随筆まで頼むなんて」

「え?あ、いやぁー…まぁー…」

と義一は痛いところを突かれたと、素直に顔だけに止まらず、体全体からその心情が表れているかの様な態度を取りながら、こういった時の癖である頭をポリポリと掻いて声を漏らしていたが、そんな見慣れ過ぎたにも関わらず、これまた毎度のように思わず頬を綻ばせながら、私は先を続けた。

「ふふふ。…うん、まぁでも、不定期でも良いって言うし、さっきから自分で言ってる様に、私如きの書き物なんか、雑誌にとって何の足しにもならないと今も変わらずに思ってるけれど…」

と、ここまでブツブツ言うと、一旦区切って改めてテーブル向こうに視線を向けた。

そこには苦笑いの引いた、静かながらも真剣味も見える義一の顔があったが、ほんの数テンポだけ見つめ合った後で、息を吐くと共に笑みを浮かべると私は静かに言った。

「…うん、良いよ。私のなんかで良ければ、何とか自分なりに頑張ってやってみるよ」

「…あ、本当?」

と、義一は今日一番のキョトン顔を途端に見せた。

「本当に…良いの、か…い?」

と、おずおず念を押してくるのを受けて、私は私で呆れと共に笑顔を浮かべつつ返した。

「あはは、本当だってば。まぁ…うん、さっきは冗談半分…ふふ、これは半分は本気って意味を含めて、確かにあなたの言い方にヤラレタというのが最初だったけれど…でもね」

と、途中までは冗談交じりにニヤケつつ話していたのだが、ここで一旦区切るとともに、表情を自然体に戻しながら続けて言った。

「うん、最後にこうして決めたのは私自身の意志でだよ。だから…ふふ、私の意志を尊重すると言うのなら、受け入れて…貰える?」

と最後に、自分なりには無理なく自然な無邪気の笑顔を浮かべる事ができて、満足した心地のまま言い終えると、義一は静かな顔のまま直ぐには返事をくれなかったが、しかし一瞬だけハッとした表情を見せたかと思うと、途端にハニかんで見せた。

そして、その柔和な笑みのまま「ありがとう」と、シンプルだが情感のこもった声色でお礼を言ってくれたので、「いーえー」と、本当はもっと普通に返したかったのだが、少し照れてしまったがために、結局はこうして冗談っぽく返す事と相成った。

それからは、それまで二人の間に流れた妙な空気を払拭するかの様に、お互いに事前に話し合って決めたわけでは無かったが、思惑は一致していたようで、どちらからともなく笑い合うのだった。


「んー…ふふ、君がせっかく心広く許してくれたというのに、その直後で調子に乗るようだけれど…」

と、背中しか見えなかったが、口調から自嘲しているのが手に取るように分かった。

義一は自分で取ってきた私の”詩集”を、元あった書斎机に戻しているところだ。

「さっきは敢えて触れなかった”夢ノート”なんだけれど…ね?」

と義一は、書斎机から戻って来つつ言った。

「アレはさっきも言ったように、まだ顧問の二人や勲さんにも見せていないから、これは僕独自の思いなんだけれど…本心から言えば、本当は載せたいと思ってるんだ」

「ん、んー…」

と私は、丁度紅茶の入ったカップに口を付けていたので、声というよりも音を口元から漏らしていたのだが、顔は思いっきり苦笑だった。

確かに、先ほどの話の中でこの件に関しては、ずっと頭の奥底で気になっていた点だった。というのも、詩集や徒然日記に関しては、あれ程までに何度も口にしていたというのにも関わらず、”夢ノート”についての言及が殆ど無いに等しかった事について、あまりにも不自然に感じていたからだ。


…ふふ、やっぱり敢えて残しておいたのね?


という意味を含んでの苦笑いだったのだが、それをどう受け取ったか、義一も少し照れ混じりの苦笑を浮かべ返してきたのだが、それも長くは続けずに、照れを引かせたかと思ったら、今度は真剣味を滲ませつつ、ゆっくりと口を開いた。

「…うん、でもね?こう見えても僕にだって、あの”夢ノート”の存在が、君の中でとても大きな部分を占める…うん、少し語弊があるかも知れないけれど、君の深層に関わる大きな存在というのは、自分なりに分かっているつもりなんだ」

「…」

「だから、簡単に扱って良いとは微塵も思っていないんだけれど…でもね?」

と義一はまだ何かを言いかけていたが、いつも通り…そう、今日に限って言ってもずっと変わらず”誠実”な態度を取り続けている義一に対して、本来はどうかと思うが、しかしやはり思わず知らずに微笑みが浮かんでしまうのは、もうこれは生理現象に近いものなので、私としては止めようが無かった。

それに気付いたらしい義一も、ここで一旦区切ったのだが、妙な間を開けるのは私の本意では無かったので、すぐさま微笑交じりに口を挟んだ。

「えぇ…うん、ふふ、その…ありがとう」

と、結局はこの通りに短い言葉になってしまったが、私なりに様々な思いをこの一文の中に盛り込んで言うと、きちんと察して受け止めてくれたらしい義一は、ニコッと言葉なく微笑むのみに留めると、話を再開した。

「だからまぁ、これは…ふふ、うん、これは当然ね、勿論微力ながら僕も何か相談なりとか話し相手として、力になりたい…と言うと、押し付けがましい、恩着せがましく聞こえるかもだけれど、僕の心情としてはそうでもね?ともかく問題が解決するかは現時点では分からなくても、それなりに君の中で納得のいく何らかの答えというか、一つの結論が出た事によってひと段落が着いたら、その…徐々にね?巷によくある週刊誌とか月刊誌にある様な連載小説の形で、少しずつでも不定期にでも、載せたいと思っているんだけれど、どう…かな?」


…ふふ、本当にこの人は…。気を遣い過ぎて、結果的にこんなややこしい、回りくどい言い方ばかりしちゃうんだからなぁ…。…ふふふ、”らしい”けれど


「…ふふふ」

と表向きには、また一度吹き出すように微笑を零した。

「もーう…ふふ、それはまた後で相談してよ。今は詩と徒然日記の件で頭がパンクしそう」

とそのまま笑顔を保ったままに、大袈裟に両手で自分の頭を挟みながら苦悶の表情を作りつつ返すと、

「うん…ふふふ、ごめんごめん」

と、私のそんな態度から心内を汲み取ってくれたらしい義一は、初めは自然に謝る形で、しかしすぐに冗談含みの顔を覗かせていた。

それに対しては、もう何も言わずにただ悪戯っ子のような含み笑いを私が浮かべると、これも定番となっている参り顔を作ってからの笑みを義一は返してくれるのだった。


夏場の宝箱は、数多の古書の状態を保つ意味でも冷房がよく効かせてあるお陰で、季節の割には紅茶が冷めるのが早いと、義一はまた紅茶を淹れ直してくれた。

んー…ふふ、決して寒い程に冷房が効いている訳では無いのだが、恐らく程よい温度調整がなされていたおかげだろう、温かい紅茶を飲んでも体が火照ったという経験は、今だけではなく過去においても皆無だった。

…っと、勿論、紅茶の温度自体を普通よりもぬるめに設定してくれてたのも大きかったけれど。

さて、せっかく淹れてくれたのに口付けないのは失礼だろうと、親しい仲にもナントカという考えもあり、また普段通りに出されたばかりの紅茶を啜っていると、大体同じタイミングでカップを元に戻しながら、不意に義一が自嘲気味な笑みを溢した。

「え?なに?」

と私がすかさずツッコミを入れると、「あ、いや…うーん…」と義一はますます渋い色を顔全面に滲ませ始めた。一応笑顔は保ったままだ。

私はこれ以上は突っ込まずに、ただ事の成り行きを眺めていようと黙って待っていた。

「…うん。やっぱりこの件も、しっかりと話さないとなぁ…」と義一は小さくボソッと言葉を漏らすと、いつの間にか俯き加減でいた頭を上げると、顔つきは先ほどまでと変わらないままに、頭を掻きながら言いにくそうに口を開いた。

「んー…これまたさっきとは違う意味で、話を切り出し辛いなぁ…ふふ、今さっき引き受けてくれて、すぐにこんな無粋な話をするのは気が引けるんだけれど…」

「無粋?…って、何のこと?」

と、あまりにも焦ったくなってしまった私が、ついつい口を挟んでしまうと、義一はますます渋い顔をしながらも答えた。

「うん、まぁ端的に言えばね?その…唐突に聞こえるかも知れないけれど、原稿料について、つまりギャランティーについて、折角だしこの件でまたわざわざ来て貰うのも何だから、今してしまいたい…んだけれど?」

「…へ?」

と私は思わず惚けた声色で声を漏らしてしまった。

勿論、今義一が述べた単語一つ一つについて、意味自体は当然知っていたのだが、それが自分と関連する形で出てくるとは、今まで生きてきて想像だにした事が無かった為だった。

「原稿…料?ギャランティー…ってつまり…いわゆるギャラってこと…よね?」

と、しかし一応確認のためにそう聞き返してみると、やはり苦笑いだったが、しかしさっきよりかは明るみを顔に差しつつ義一は答えた。

「うん、そう…なるね。まぁ、正式に頼む以上、依頼する以上は報酬というか原稿料が発生するのは当然だしさ」

「う、うーん…」

と、私は話される内容に関しては異論は無かったのだが、しかし…うん、やはり義一自身が言っていたように、いきなり生々しい話というか、この手の話をお互いに無粋だと感じる感性を持っているせいで、頭では理解しているつもりでも、それこそ生理的に近い反発の反応をせざるを得なかった。

「い、いやぁ…うん、義一さんが言ってる事は、私なりに理解すると言うか、分かるつもりではあるんだけれど…『いいよ別に。…原稿料なんかいらないよ』とは…いかないのかな?」

と、それなりに慎重を喫して言葉をこれでも選びながら言うと、「う、うーん…」と義一は参り顔で笑いながらまた唸ってしまった。

「君がそう反応するとは分かっていたんだけれど…ふふ、自分で頼んでおいて何だけれど、僕としては報酬を受け取ってくれないと困るんだよ」

「うん…ふふ、それはだから分かってはいるつもりなんだけれども…ねぇ?」

…といった調子で、後から思い返してみると、なんと不毛なやり取りを何度もよく続けられたなと思う次第だが、当時の私と、それに義一からしたら、こうしたお金が絡む話が、よく言って苦手、普通に言えば毛嫌い、悪く言えば嫌悪感を催す事柄だっただけに、話は平行線を越す事は中々叶わなかった。

だが、この押し問答を何度か繰り返した後で、「受け取ってくれないと困る」と、またしても渋めの顔つきで笑みを仄めかしながら言ったその顔が、本心から困っていそうだったのを見て感じ取り、もうこれ以上粘っても無理だと悟った私は、それまでの経緯を含めて根負けした形で了承するのだった。


…ふふ、そう、ここで疑問が出てくると思うので、先回りして答えておけば、この時の私に『雑誌に寄稿するのを断る』という選択肢はハナから無かった事だけは付け加えておこう。

それだけ…ふふ、やはり我ながら自分が”チョロい”と思うが、勿論誰からでも褒められるのは大の苦手なのは

変わらないのだが、しかし…うん、その褒めてくれる主体が、自分が心の底から信頼して心を許している相手からだと、葛藤しつつも最終的にはこの様に簡単に懐柔されるのだなと、後で思い返す度に独りで苦笑いを漏らしてしまうのだった。


この話は、義一から満面の笑みでお礼を言われて、私が疲れをオーバーに見せながらも、それでも笑みは絶やさずに応対して終わったのだが、後日談として一つここで付け加えさせて頂こう。

実際の原稿料なりの具体的な話は、この夏休みの間にまた宝箱にて打ち合わせがなされたのだった。

「…ふふ、こうしてまた呼び出すのなら、あの日に別に纏めて話す事は無かったじゃない?」

と私がツッコミを入れたのは勿論だ。

それに対して義一は「面目ない」と照れながら返してくれたが、その日は義一に事前に頼まれていた銀行の通帳と、その時に同じタイミングで作った自分用の印鑑を持って行っていた。

そう、つまりは原稿料は口座に振り込まれるシステムだというので、それで頼まれるがままに持ってきた次第だ。


因みに…って、私は自分が現役の女子校生だというのに、その他の一般的な、もちろん私や義一が言う意味とは若干違う意味での、括弧付きの”常識”というものを、皆無と言っていいほどに知らないのだが、自分自身で言えば既に個人の口座を持っていた。

これにはきちんとした理由がある。というのも、ここ暫くは全くと言っていいほどに本編では出てきていなかったが、確認を含めて触れると、私が高校生になるのと同時に一人暮らしを始めるのが大きく関係している。

そう、私たち望月家というのは、昔から十五歳という年齢を超えたあたりから、一人でも生きていける様に一人暮らしを早い段階で体験させるという慣習があり、それは現代まで引き継がれてきていた。

大戦前までは男子限定だったが、戦後に入ってからは女子だろうと同じくそうさせられてきた歴史がある…と、この話はお父さんからではなく義一から聞いた。

さて、そんな訳で、予定としては以前と変更は一切なく、私は高校に上がるのと同時に、既にお父さんが買って用意済みの、地元の駅前にある、現時点でまだ建ってから五年も経っていないマンションの一室に住む流れとなっているわけだが、一人暮らしとは言え擬似体験に近いもので、まだ学生の身分でもあるからと生活費を毎月両親から振り込んでもらう予定になっており、初めてこの話を聞いてから間をそれほど置かずに、お母さんから家事を習い始めた頃辺りで既に口座、その口座を作るために印鑑も作ってあった。

今この口座は、基本的にお小遣いなりお年玉を預金しておくのに使ったり、携帯料金をそこから引き落とす為だけに使っているのだが、折角あるならと、今回はこれを利用する事にしたのだった。


持ってきた通帳と印鑑を手渡すと、早速義一は自宅にある、会社やコンビニなどにある様な業務用のコピー機で早速印刷をした。

…ふふ、どうでもいい事だろうが、この時初めて、この家にコピー機が、しかもこんな業務用のがあるのを知り、作業の間は何でこんな物を持っているのかと聞いた。

まぁ答えとしては単純で、元から雑誌オーソドックスに寄稿する様になった高校生の頃から、何かにつけてプリントアウトする事が増えたというので、家庭用の小さいのを持っていたらしいが、今年編集長に就任したというので、義一曰く、需要が一気に増えたというので思い切って業務用のを買ったとの事だった。

…ふふ、この話を聞いている中には、今のデジタル時代に今更コピー機で一々書類を作るのかと思われる方も、もしかしたら居られるかも知れないが、まぁ事実として義一はそうしていたし、その話を受けた一回り以上若い私ですら、別にそれに関して違和感なりは覚えなかったとだけ告白しておこう。

まぁ…ふふ、いかにデジタル化が進むとはいえ、勿論その様な技術進歩を非難する気など毛頭ないが、まだまだ保存が効くという意味で、アナログな紙媒体の出番はまだ続くだろうと、そう考えている私と義一だから当たり前とも言えるだろう。


さて、話を現在に戻そう。

あまりに一気に突然様々な話が出来したことを受けて、先程と似た様な話で例えれば、まるで突如として荒れ狂う嵐の中に無防備なまま放り込まれた様な、そんな心地の実質一時間余りを過ごしてきた心地だったが、やっと話にキリがついたと言うので、これは義一も同じ心境だったのだろうが、私も一息入れるために普段以上にゆっくりと紅茶を口の中に入れると、程よく品のある苦味と、鼻から抜ける風味を味わっていた。

「ふぅ…」とほぼ同時に大きく息をお互いに吐きながら、実際に落ち着いた感覚を覚えつつカップを下ろしていると、カチャンと小さくカップとソーサーが当たる音がしたのと時を同じくして、義一は何かを思い出した表情を見せると口を開いた。

「そういえばさっき言ったように、絵里が近々ここに来る予定なんだけれど…絵里には内緒にしといた方が良い?君の詩が、僕らの雑誌に載るって話の事だけれど」

「ん?…あ、あぁー…」

と私は何となくソーサーの上に置いたカップの側面を、両手で包みながら声を漏らした。その手元からは、カップ越しにほんのりと紅茶の暖かさを感じていた。

「そうねぇ…」

と私は、正面に座る義一よりも少し上に顔ごと視線を上げつつ、それなりに簡単にだが色んな条件を想定して考えてみた。

…ふふ、今考えてみればというか、それすら今更だが、一体何の用事で絵里が宝箱に単身来るのか、それが気になってもおかしくなかったのだが、まぁ事情が事情なだけに、そこまで気が回らずに、素直にこの時は事態を想像してみていた。

そして、それなりに自分の中で纏められたので、顔を正面に戻すと答えた。

「んー…うん、取り敢えずは義一さん、あなたからは言わないで置いてくれる?自分から…うん、機会があったら話すよ」

「そうかい?」

と聞き返す義一に対して、「えぇ」と私は一旦相槌を打つと、今度はニヤッと笑いながら続けて言った。

「…ふふ、今絵里さんは、今度来月にあるという師範としてのお披露目会の準備で大忙しじゃない?今日も公演に向けての練習があるって事だったし、明日は百合子さんと有希さんと一緒に裕美のお見舞いに行くって事だったしね?」

「うん、そうだったね」

「えぇ。だからまぁ…うん、結局はそんな機会なんか来ないで、私の書いたのが寄稿されたのを読んで初めて知るみたいな、狙わなくてもドッキリみたいな形になるかもだけれど…ふふ、そんなサプライズでも最悪構わないかなって思っているのよ」


…そう、ここで補足的に触れれば、今も絵里は雑誌オーソドックスの毎号を、義一から嫌々な態度をしつつも変わらずに受け取って読んでいた。

そしてそれは、数奇屋に初めて訪問し、そこで百合子と初めて出会った時の約束通り、今では義一のページだけではなく、他の芸能から理数系、人文社会系まで幅広い執筆人の論稿を、隅々まで読み込んでるらしい…と、本人は素直に言ってくれないが、一緒に会話する限りそう見受けられた。なので、ずっと仮に黙っていたとしても、すぐにバレてしまうのは火を見るよりも明らかだった。

それに…ふふ、『少女A』という私の暫定的なペンネームは、既に前回の時点で絵里にも知られているのも頭にしっかりとあった。


「あー…ふふ、そうかい?」

と義一は呆れた様子で合いの手を入れたが、しかしすぐに、恐らく今私がしているのと同じ事だっただろう、義一も意味ありげな笑みを作ると続けて言った。

「まぁ…うん、それはそれでアリかもね?」

「でしょう?まぁ一応、出る前に伝える努力はするつもりだけれどね?」

と私からも目をギュッと瞑りながら返した後で続けた。

「…あ、だからその…うん、話を聞く限りでは、まだ他の皆には話が伝わってないって話だったけれど、そのまま黙っておいてくれるかな?特に…うん、あなたも知ってると思うけれど、SNSでグループを組んでいるladies dayに、私と一緒に入っている、美保子さんにしろ百合子さんへも…さ?」

と、自分では普通に話したつもりだったのだが、結局はまたニヤケつつ言うと、「ふふ、分かったよ」と義一もさっきと変わらない態度で応対してくれた。

それからは数瞬だけお互いに顔を見合わせていたのだが、どちらからともなく小さく吹き出した後で、クスクスと微笑み合うのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る