雨降る夜は上機嫌に

葵ねむる

雨降る夜は上機嫌に

 このところ、何もかも上手くいかない。


 人生ゲームのサイコロの目が、わたしだけ一しか出なくなってしまったような日々だ。兎にも角にも最悪、の二文字しか当てはまらない。うんざりする。強いて言うならすべてに対してかもしれない。それは周りの喧騒に対してであったり、パッとしない世の中に対してであったり、セルフコントロールの下手な自分に対してであったりする。頭のうえを雨雲が渦巻いているみたいだ。もどかしくて、うんざりするのに、ちっとも先に進めない。


 家にいるだけで悶々と時間は過ぎていくのに、夜だけは長く感じるようになった。こんこんと眠れてしまえたら、どれほど楽だろう。寝たら一晩で嫌なことは何もかも忘れるのが長所だと思っていたけれど、そういうわけにもいかないほどに、心がぎゅうぎゅうに締め付けられているみたい。布団に入って一時間ほど唸り、やっと眠りについたと思ったら、またふと目が覚めた。

 レム睡眠の浅い波を繰り返していたのか、目をこらして見つめた時計は午前三時過ぎを示している。もう一度眠りにつくべく、目を閉じてみるが、ちっとも睡魔は訪れそうにない。諦めて試しにテレビを点けてみるけれど、代わり映えのしないテレビショッピングしか映らない。眠れないせいで、夜まで苦痛に思えてくる。

 手持ち無沙汰なまま携帯電話のSNSを確認して回り、ふと、ひとつの記事が目に止まった。



【簡単!生チョコタルト】



 普段わたしはあまり進んで甘いものを食べるほうではない。お菓子作りなんてもってのほかだ。けれど、深夜に眺めるその文字は、いつもの何倍も魅力的なものに思えた。吸い寄せられるようにタップする。材料は、板チョコ3枚、生クリーム、卵、ビスケット、それから、溶かしバター。以上。あれ、と思い、ベッドからぬるりと抜け出して台所に立ち、冷蔵庫へ向かう。思わず「あ、」と声が漏れた。全部ある。


 昨日のカルボナーラに使った残りの生クリームで量は足りそうだ。それに板チョコとビスケットは、稀に食べたくなったときのためにストックしてある。冷蔵庫の青白い光に照らされて、それらがやたら眩しく光って見えた。…チョコタルト、作ってみよう。そうしてわたしは手を洗い、ふたたび深夜の台所に立った。

 クッキングシートを型に合わせて切り、ビスケットを袋に入れて粉々にする。粉々になったら溶かしバターを入れて、よく混ぜ、それらを型の底にゆっくりと流し入れる。覚えられないから、勝手に口が工程を唱えていた。わたしのちいさな声に重なるようにして、ざっざっ、とんとん、静寂に包まれていた台所に、生きた音がする。それだけのことが、案外悪くないものに思えてきた。

 そのあとの工程が少ないのも有り難い。生クリームとチョコレートを電子レンジで溶かし、よく溶いた卵と一緒に混ぜ合わせる。あとは先ほど底に敷き詰めたビスケット地の上に今混ぜ合わせたものを流し込み、予熱したオーブンに入れてしまえばわたしのやることはおしまい。後は40分少々待つだけだ。


 使った鍋や泡立て器を洗いながら思い返せば、こんなふうに、家でお菓子作りをするなんて初めてのことだった。それも自分のためだけにお菓子を作るなんてことも。手作りのお菓子は祈りだ。誰かに喜んでほしくて、誰かに嬉しくなってほしくて手を動かすのだから。作ったうちの切れ端やカケラしか自分の口に入らなくても、それで良かった。それはそれでとても尊い行為だとおもう。けれどそのやさしさをわたしは、自分自身に向けても良かったのだ。

 わたしは、わたしだけのためにチョコレートタルトを焼いてもいい。しかもこんなふうに、真夜中だとしても。


 ここ最近は、水面と水のなかを行き来しているような日々だった。足掻いても足掻いても息が苦しくて、休もうとしてもそれすら辛いとおもった。誰かの些細な言葉にいちいち苛立ったり、指のささくれを引きちぎるだけで鋭利な痛みに泣きそうになったりした。この世界は、自分だけになってしまったんじゃないかとすら思う夜もあった。

 けれど、そんなことは無いらしい。焼き上がるのを待ちながら、舌が焦げるほど熱いお茶を飲みながら外を眺める。うっすらと明るくなりはじめた外の景色のなかにも、ぽつぽつと家の明かりが灯っている。光の数だけ誰かもまた、同じ夜を持て余しているのだとおもった。そして、光の間隔を空ける暗闇の数だけ、眠りについている誰かがいるのだとおもう。そんなふうに、誰かの息遣いを感じるのは久々だった。



 ピー、ピー、と乾いた電子音が部屋に鳴り響く。どうやら焼き上がったらしい。あとは冷蔵庫で冷やして熱を冷ませば完成。深夜の自分が起きていたから、生まれた目の前のそれが、途端に愛おしく思えた。深夜に目が覚めてしまった、眠れなくなった、自分を嘆くよりも、起きられたおかげで美味しいチョコレートタルトに巡り合えることを喜ぶほうがきっといい。どうせ明日はそう予定が詰まっているわけでもないし。

 冷蔵庫で冷やしている間にすこしだけ寝ようかな、と思った。今ならすこしだけ良い夢が見られる気がする。それでも眠れなかったら、それまでに冷えたであろうチョコレートタルトを食べよう。自分のためだけに焼いたチョコレートタルトを、自分ひとりで食べる贅沢もきっと悪くない。


 出来なかったこと、うまくいかなかったことや、嫌なことを数えるより、その中でもちゃんと生活している自分を褒めてあげよう。だって日々は続くから。


 そうして、夜が明けていく。冷蔵庫に送り込んだチョコレートタルトのことを考えながらわたしは、すっかり温もりを失ったタオルケットを引き寄せた。



 Fin.



( 次頁にて、参考にさせていただいたチョコレートタルトのレシピをご紹介します。 )


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