最終話 いつか・・・
雲一つない青空の下、
いぶきの姿はすぐに見つけることができた。
今朝忍と母とで着つけた振袖に身を包み、忍が結った髪がよく似合っている。
母はずっと、「いぶき可愛い、いぶき可愛い」と言いながら、パチパチと写真を撮っていた。
いぶきは成人式では運営スタッフでもあるので、ほかの新成人たちよりもずっと早く会場入りする。迎えに来た瑛太の車に乗ったいぶきは、
「お母さんありがとう。いってきます!」
と晴れやかな笑顔を見せた。
車に乗る前に、スーツ姿の瑛太といぶきの写真をスマホで撮った。それは忍の感傷かもしれないが、二人のスマホに転送しておいた。消えてしまっても、記憶には残るいい笑顔だった。
式典会場の外でいぶきは、美奈子と良太、そして瑛太と楽しそうに笑っている。
いぶきが忍に気づいて大きく手を振ると、瑛太もこちらに気づいて一礼した。
そんな瑛太にいぶきは内緒話をするように身を寄せるので、彼が少しかがみこむ。すると突然いぶきは彼にサッとキスをしたのだ。
驚いたような瑛太に微笑んだいぶきが何か言い、瑛太の肩がビクリとするのが遠目にも分った。だが彼は、そのままいぶきをかき抱き口づけた。周りの悲鳴やはやし立ては聞こえていないだろう。瑛太の首に回すいぶきの振袖の袖が揺れ、――そして、夢のように消えた。
「いってらっしゃい、いぶき」
忍は小さく小さく呟く。
いってらっしゃい。元気でね。
誰かを大切に、そして真剣に愛せるあなたが、幸せになれないはずがないわ。
お母さんは、ずっとずっとあなたを愛してるから、あなたが元気で楽しく生きられるよう祈り続けるから。
絶対に忘れないから。
誰も知らなくても、いくつもの世界が、宇宙が重なっているというのなら、いつかまた出会えると信じよう。この世は不思議なことが起こることを、私は知っているの。
* * *
二〇二〇年九月。
予定日より少し早かったが、これ以上ないくらい天気のいい日に娘が生まれた。
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
看護師さんの言葉に浅倉は忍の手を握りしめ、何度も何度も「がんばったね。ありがとう、ありがとう」と繰り返す。その涙の浮かぶ目と、胸にそっと置かれた小さな命の確かな存在に心が満たされ、忍はにっこりと微笑んだ。
頬が濡れるのは、汗か涙か……。
「うん。直人さんもありがとう。――はじめまして
忍は娘の名前をよんで、人差し指を差し出す。
きゅっとその指を握りしめてくれた娘に心の中で語り掛けるのだ。
――風夏ちゃん。あなたのお名前は、お姉ちゃんが付けてくれたのよ。暦の上では夏生まれではなくなっちゃったけど、いいわよね?
「妹の名前は、風夏ってどうかな?」
いぶきが紙に漢字を書いて見せてくれたそれは、水色のインクで可愛らしく装飾してあった。
「私と心晴ちゃんは夏生まれだけど春を表しているでしょう? なんとなく妹も夏生まれのような気がするの。暑い夏に吹く爽やかな風のような女の子になってくれたらいいなって」
「素敵な名前だと思うわ。でも冬生まれだったら?」
まだ妊娠もしていないのだ。忍がわざとからかうと、いぶきは夏の字の横に花の字を書いた。
「風花、とか?」
「ふうかちゃんであることは変わらないのね?」
「うん。ふうちゃんって呼びたいなぁって。この前朝方に見た夢の中で私、いぶきと大きくなった心晴ちゃんがね、妹のことをそう呼んでいたの」
あの可愛らしい紙は消えてしまったが、忍が真似をして同じように書いた小さな命名紙。
ベッドに戻り、カバンから出したそれを見て、浅倉が微笑んだ。
「いぶきちゃん、いい名前を付けてくれたよね。あの子にぴったりだ」
「えっ?」
いま、彼はなんと言った。
「覚えて……るの?」
いぶきが消えた後、彼は確かにいぶきのことを忘れたはずだ。実際、まわりの記憶がいろいろ入れ替わっていることを目の当たりにした。今のは無意識に出た言葉なのだろうか。
驚く忍に、浅倉は困ったように微笑んだ。
「よかった。いぶきちゃんは、俺の夢じゃないよね」
「え、ええ。でもどうして?」
彼は忍から秘密の話を聞いた後、思い出せる限りの思い出を一冊のノートに
今年の成人式の様子を、忍と見に行ったことは覚えていた。
自分が参加できなかったからと笑った妻の言葉を、あの時は素直に信じた。
でもある時、一冊のノートを見つけた。自分あてに書かれた自分への手紙のような、あるいは小説のような内容。明らかに自分の字なのに書いた覚えのないそれに驚いた。
妻に内緒で何度も読み返しているうちに、ぼんやりと光景が浮かぶようになり、
「風夏を抱いた瞬間、いぶきちゃんの笑顔がはっきり見えたんだ」
晴れやかに笑う浅倉の笑顔に、のどが締め付けられる。
忍が残した日記は残っていたが、誰が見ても妄想の産物にしか見えない代物だ。それ以外のいぶきに関するものはすべて消えた。あの日いぶきが着ていた振袖は、実家にたたんでしまわれたまま、着た気配さえなかった。
「わざと小説っぽく書いたから、それがよかったのかな。俺、高校生の時漫画家になりたくて、でも絵が下手だから作家になろうって思ったことがあったんだよ。半年くらいで飽きたんだけど」
だからノートを見つけても、昔書いた小説か何かの名残だと思う可能性が高いと考えていたのだという。それでも残った、そして記憶も戻った。
「もう、君ひとりの思い出じゃないんだよ。俺も、覚えてる。写真ひとつなくても、あの子は確かにいたんだ。もうぜったい忘れない」
「ありが……とう」
この人と出会えた幸運に、胸がいっぱいになった。
いぶきが出逢わせてくれた、最愛の人。そして新しく増えた、もう一人の最愛の娘。
――ねえ、風夏ちゃん。私達のところに生まれてきてくれてありがとう。本当にありがとう。お父さんもお母さんも、そしてお姉ちゃんもあなたに逢えるのを楽しみにしていました。
元気に大きくなってね。
一緒にいろんなことをしましょう。
そしていつか、かぐや姫のお母さんだった話をしましょうか。
Fin
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます