第5話
「それではご署名を」
渡邉は万年筆を差し出した。
「ちょ、ちょっと待って!」
「はい。お待ちいたします。私はこう見えて、大変気が長うございます」
右手を胸にあてて斜めに頭を下げる。
突っ込みどころは多々あるが、今はスルーすることにした。
「なんだかごちゃごちゃ書いてあるけど」
「恐れ入りますが滝沢様、この程度の文章が理解できないとおっしゃいますと、来年の受験は大変厳しいものになるかと思われ、私の心はいたたまれなく……」
先ほど眼鏡のレンズを拭いたチーフを再び取り出し、目頭を押さえる。
「ご……ご心配、どうも……」
「いえいえ。で、何かご不明な点でも? あっ! ちなみに、そこの第3条にあります代理人とは私、渡邉のことでございます!」
両腕を広げ胸を張る、誇らしいときのポーズが出た。
代理人がこのオーバーアクションの男だということは、改めて言われなくても分かり切っている。俺は契約書の内容よりも、この秘書に突っ込むタイミングばかりを考えていた。
「私の顔に何か付いておりますでしょうか?」
急に聞かれて、契約書そっちのけで渡邉ばかり見ていた俺はひどく焦った。まさか「それ、ヅラ?」とは口が裂けても聞けない。それこそ、この七三男は今ここで『人殺し権』を発動しかねない。
「あ、いや……えっと……あっ、そうだ! あと一人は誰かなって思って」
渡邉は綺麗に七三に分けられた髪の毛を、一本も乱すことなく首を横に振った。
「それは――申しあげられません」
さらに契約書を指差し、続ける。
「ここ第1条にございますように、このことは一切他言してはならないのです。もしも私がもう一人の方のことを漏らしてしまいますと、その時は……」
「その時は?」
渡邉はヒィーとかヒェーとか言葉にならない悲鳴をあげた。
「めっ、滅相もございません! 私が小池様のことを口走るなどあり得ないことでございます!」
ガタガタと震えだした自分の体を両腕で抱き、真っ青な顔で叫んだ。
「……ふーん、あり得ないんだ」
俺はにやけそうになるのを抑えつつ言った。
「もっ、もちろんでございますっ!」
「あっそ。ところで、小池さんって、誰?」
そう聞いた途端、今度はヒョェーとはっきり言いながら、万歳のポーズで3センチほど飛び上がった。
「あっ、あなた! どっ、どうしてそれを、なぜその方をご存知なのですっ!?」
「どうしてって……そりゃたった今、渡邉さんが俺に教えてくれたからに決まってるじゃないか」
「OH!」
渡邉は外人のように叫び、天井を仰ぎ見た後、両手で頭を抱え込んだ。彼の髪の毛がずれやしないかと期待し凝視したが、残念ながら動かなかった。
「ああ……私は……私はなんということを……」
うなだれて、そのまま玄関の床にガックリと膝をつく。
「俺、渡邉さんとは仲良くやっていけそうな気がするよ」
俺は心の中でガッツポーズをとりながら、耳元でそっと言ってやった。
「……滝沢様」
玄関に両手両膝をつき、顔を上げないままの渡邉に呼ばれた。
「なに?」
「折り入って、お願いしたいことがございます」
声が微かに震えてはいるが、取り乱している様子はない。
「はあ……何か?」
「わ……わたくしを……この私を、今すぐに殺してくださいませんでしょうか」
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