第3話

「あの……お断りします」

「はっ!? 今なんと!?」

 渡邉はまたしても大袈裟に、右耳に手をあてて身を乗り出して聞き返した。

「だから断るって。なんか面倒なことになりそうだし、俺来年受験だし……」

「おおっ!」

 どこまでも大袈裟な彼は、再びおでこに手をあてて天を仰ぎ見た。

「なんと愚かな……。しかし! こんなこともあろうかと、若草様はちゃんと考えてらしたのですよ!」

「…………」

 なんとも馬鹿馬鹿しくて、返事をする気にもならない。

「おや、お返事がないようでございますが……まあ、よろしいでしょう。何とおっしゃられましょうが、あなたにこの権利を拒否する権限は一切ございませんので」

「権限がない? ってことは……」

「ということは、何だと思われます?」

 腕を後ろに回し、さらに身を乗り出して聞いてくる。

「断ったらどうかなる、とか?」

「はい。あなた様の命の保障はできかねます」

「……は? なに? 命?」

 俺は自分の耳を疑った。

「おや、お耳に届きませんでしたでしょうか。分かりやすく申しますと、お断りになられましたら、あなたのお命はございません」

「ございませんって、それって俺があんたに殺されるってこと!?」

「……あんた?」

 渡邉は眉をピクリと動かし、抑揚の無い声で続けた。

「先ほどから気になっておりましたが、私は『あんた』という名ではございません。渡邉でございます」

「そっ……それは失礼。で、これを断ったら俺は渡邉さんに殺されるってこと?」

 七三分けのスーツ男は満足げな顔で、「いかにも、おっしゃるとおりでございます。私、渡邉が責任を持って、この手であなた様を殺害させていただきます」と言った。

 俺は少々遠慮がちに訊ねた。

「ちょっと……質問してもいい?」

「何なりと」

 目を閉じ、手の平を上にした右腕を胸の前に運び、礼をする。

「……貴族の執事か」

「は? 何か?」

「あ、いや。えっと……たしか、人を一人殺す権利で、それが罪に問われないんだったけ?」

「さようでございます」

 渡邉が頷く。

「で、その法律が施行されるための実験台として、俺が選ばれた……と」

「滝沢様」

 ここで彼は初めて俺の名を口にした。

「あなたは少々誤解してらっしゃるようでございます」

「誤解?」

「ええ。大体最初から詐欺などと疑ってかかられるから、こんな誤った解釈をなさるのです」

 肩をすくめ、両手の平を天に向ける。呆れている時のポーズなのだろうか。

「よいですか? あなたは実験台ではなく、この素晴らしい法律が施行されるにあたっての試験をすることのできる、日本国民の中のたった三人に選ばれたのでございますよ」

 それは、イコール実験台ではと思ったが、口にするのはやめておいた。

「あ……えっと、試験……に選ばれて、そしてそれは絶対であり、俺は断れない。断れば渡邉さんに殺される――と」

「おおっ! なんとあなたは飲み込みがお早い! いかにも、おっしゃるとおりでございます」

 渡邉は満足げに答えた。

「でも……」

「……でも?」

 まさか口答えでも? というように、眉をしかめる。

「なにかご不満でも?」

「不満というか……」

「なんです?」

「何で俺が渡邉さんに殺されなきゃいけないわけ?」

 渡邉は、先ほどと同様の呆れたポーズをとったあと「簡単なことでございます」と言い、さらににっこり笑ってこう続けた。

「若草様の命(めい)は絶対であり、それに逆らうことはできません」

「逆らったら殺されるなんて、そんなことあっていいの?」

「今回は特別です。『人殺し権』は施行前に知られてはならないのです。そのために――」

「……そのために?」

「その『人殺し権』を試験する三人の中の一人に、私が選ばれているのです」

「うわっ、ひでぇ……」

 俺は思わず呟いた。

「……ひどい?」

 渡邉は眼鏡を外し、胸のチーフで楕円のレンズを丹念に拭き、再びかけ直す。

「あなた……もしや若草様のことを支持してらっしゃらないのでございますか?」

 その眼鏡の奥の目は、冷たく光っていた。もしも支持していないと言えば、その瞬間に渡邉の持つ『人殺し権』で殺されるかもしれない。俺は真剣にそう思った。

「いっ……いや、俺は政治に興味がないだけで……」

「さようでございますか」

 渡邉は目を細め、「今後、発言には十分気をつけていただきたいものでございます」と抑揚なく言った。

 その眼は先ほどよりもさらに冷たさを増していた。この男は何かあったら迷わず俺を殺す気だ。思わず目を逸らして答える。

「……分かりました。気をつけます」

 俺の返事を聞いて、七三分けで眼鏡をかけたスーツ男は満面の笑みで大きく頷いた。

「私、滝沢様とは仲良くやっていけそうな気がしてまいりました」

「…………」

 全然嬉しくない。

「さて」

 渡邉は、足元に置いていたアタッシュケースの中から書類を取り出した。

「それでは、こちらの契約書にご署名をお願いいたします」

 目の前に差し出された用紙には、次のような契約内容が記されていた。

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