仮想現実仮説


 盾男たちが後片付けをしている中、ヒメリは戻ってきたアリスとカウンター越しに向き合う。


「騒がせてしまってごめんなさいね。それじゃ、ギルドの入会手続きしましょうか」


 ハリウッド俳優を思わせる彫りの深い端正なアリスの右目に、赤い紋が浮かび上がる。


「可愛らしい名前ね。和風のリアルネーム系が好きなの? 私も実は名前をつけるときに洋風か、日本人っぽく姫川にしようかって十時間は悩んだわ」

「リアルネーム系っていうか、リアルネームです……」

「あらあら、そうなの?」

「……はいぃ。SNSとかでもそうなんですけど、わたし、名前をつけるのって苦手で」


 クロノに聞かれたらまた何か言われそうな話題だけに、なんだか萎縮して、周囲に聞こえていないか目を向けて小声になった。ちなみにクロノはアリスから片付けを命じられて部屋の隅で渋々とモップをかけている。

 そんな様子のヒメリを見て、アリスは可愛いものを見るような目で苦笑する。


「そんなに怯えなくても私は怒らないわよ。オンラインで実名っていうのは確かに危険だけれど、今となっちゃむしろその方がいいのかもしれないしね」


 意図が汲めず、ヒメリは首をひねる。


「その方がいいって、どういうことですか?」

「名前っていうのは、人が持つ自己同一性の一つであるってことはわかるでしょう? 大厄震のせいで元の世界に戻れなくなった私たちは、オーグアイに映る情報こそが自分を証明する唯一の情報になってしまったのよ。私みたいに今の自分の名前を気に入ってるならいいけれど、アバターの名前なんて適当につけたりお巫山戯でつけたりする人もいるから」

「あぁ~、なるほど……。そういえばウェスナでコロコロ・コロリンって人をみかけました。そのときは可愛いなーなんて思いましたけど、そっか、今はそれが自分の名前になっちゃうんですね」

「今のところは受け入れるしかないわね。少なくとも大厄震が解決するまでは」


 話しながら、ヒメリは書類に自分の名前を記入する。現実のように印鑑は不要だ。オーグアイが本人かどうかの証明を容易にしてくれる。

 なんだか達観したようなアリスの面持ちに、ヒメリは続けて訊いてみた。


「結局、大厄震の原因は何だったんでしょうか?」


 大厄震スーパーポジシヨン

 二か月前、突如としてウルスラインオンラインのプレイヤーたちはログアウトができなくなった。


 その原因は未だ定かではない。

 開発陣の意図があってのものだという陰謀論が当初はプレイヤーたちの間で主流だったものの、時間が経つにつれ収まっていった。

 なぜなら、計画的、あるいは何かしらの不具合だとしても、現時点で開発陣からは何も音沙汰がないからだ。


 そして原因がわからない理由の一つに、二ヶ月間という長期間が過ぎているというのに、誰も死んでいないということがある。

 ウルスラインをプレイするためにはオーディナルスフィアを頭に装着しVR世界に没入する必要があるが、仮想現実の中で本来の人間生理的活動まで補完できるわけがない。


 外部では家族や医療関係者が栄養を与えてくれているのではないか、と推測もされたが、これはすぐに否定された。大厄震以後、人間の生理的活動は、この世界の中での活動と連動するようになったからだ。

 例えばこの世界の中で食べ物を食べれば、その瞬間から腹は膨れる。もし外部で栄養を与えてくれているなら、空腹と満腹のタイミングが合うはずがない。

 つまりこの二ヶ月間、ヒメリを含む多くのプレイヤーは理由もわからずにこの世界に閉じ込められ、元の世界と同じように生きることを余儀なくされたままなのだった。


「それについては有志たちが集まっていくつか仮説を立てて議論しているわ」

「例えばどんなものなんです?」


 アリスが淹れてくれたコーヒーに口をつけながら、ヒメリは聞き返す。苦味が舌を伝っていった。この喉の奥の熱さも、大厄震前はこれほど鮮明ではなかった。


「今のところ有力だと考えられているのはあれね。仮想現実シミユレーシヨン仮説って知ってる?」


 指をくるくる回しながらアリスは言う。どこから説明したものか、と思案している顔だ。


「仮想現実仮説?」


 アリスから出てくるのは聞き慣れない言葉だらけで、ヒメリは疑問符を連続で浮かべながら何度も小首を傾げる。


「仮想現実仮説っていうのは、哲学や量子物理学の分野で語られている仮説のひとつなのだけれど、私たちが現実リアルと呼ぶ世界もまた、誰かによって作られた仮想現実なのではないか、というものよ」

「現実もまた仮想現実??」


 疑問符の乱舞を見せるヒメリにアリスは苦笑しつつ、カウンターに肘をつき身を乗り出し、人差し指を立てる。


「詳しく話すと長くなるからはしょるけれど、要は地球という世界すらも、高度に発達した人類、ビヨンドヒューマンの作り出した仮想現実シミユレーシヨンであるという仮説ね」

「あ。なんか映画で見たことあるような気がします。水槽の中で脳みそが電極で繋がれて、あたかも本当に五感があるかのような錯覚を与えられて、それが本当の自分だと勘違いしてるっていう」


 規模こそ違うものの、頭に機械を装着して別の世界を体感しているという意味では、やっていることはオーディナルスフィアも変わらないな、とヒメリは思った。


「もともと、『葉っぱを千切ることすらできる』と言われたほど作り込みがすごいことで有名だったゲームだからね。まだ残ってるオーグアイやゲーム的なシステム面の恩恵を享受しつつも、実際の生活にはそれほどギャップは生まれていないのが救いね」


 とはいえ、ゲームであったときは千切った葉っぱは数分後に復活していた。その復元機能も今はなく、葉っぱは千切られたままで元には戻らない。


「仮想現実の中の仮想現実シミュレーシヨン・イン・シミュレーシヨン。元の世界もまた仮想現実だと仮定するなら、仮想現実内で生きる知能はその世界の中でまた仮想現実を作り出す……。入れ子構造の世界の中で、このウルスラインの世界だけが何らかの理由で切り離された。大厄震というのは、そういう話なのかもしれないわ」

「う、うーん。なんとなく話はわかりますけど、わたしたちはこの世界が人工的に作られたものっていう自覚がありますし、そこは大きな差のような気も」


 アリスの説明を呑みつつも、腕を組んで疑問を口に出すヒメリ。

 ヒメリが映画の中で見たのは、被験者が無自覚のまま仮想世界で日常生活を過ごしているというものだった。

 自分が今現在進行形で体験している現象とは趣が異なる印象だ。


「いずれにしてもこの世界を現実のように振る舞わせている影響力があることは確かでしょう? ウルスラインの世界を現実にしてしまった力が働いていることは否定しようがない。仮想現実仮説を支持する人がいるのはそこに理由があるの。私たちは、この異変が誰かの意志であることを願いたいのよ」


 現実離れしたアリスの話に、ヒメリは唖然とするばかりだ。


「でも、そんなことができるんですか? 仮想現実を、本物の現実にしてしまうなんて……」

「あり得ないわね。だから私たちはその仮定の人物を、仮想現実を現実化し渡り歩く世界の歩行者ウォーカー、ゲーム世界を現実として観測した人間の中の特異点イレギユラー……観測者X、と呼んでいるわ」

「観測者、X……」


「仮想現実の中でできた仮想現実を渡り歩き、その先の仮想現実を自分が生きるための世界として現実化する。世界をまるごと造り替えてしまうほどの能力で、ね。彼か彼女か、その人物は何かそんな特殊な力を持っているのかもしれないわね」


 荒唐無稽とも思える仮説を、アリスは愛想笑いもせず真剣に話していた。

 ヒメリはそれが冗談だと笑い飛ばすこともできず、ただただ圧倒されるだけだった。


「そんな人がたまたまわたしたちと同じゲームをしていて、同じ時間にプレイしていた。そのせいで、あたしたちは閉じ込められてしまった……なんだか出来すぎて現実感がないです。こんな状況なのにいまさらですけど」


 ヒメリの混乱は増していく一方だった。開発陣の意図ならば解決策も見いだせようが、人類を遙かに超えた超越者の活動が原因では解決しようがない。


「なんでもないある晴れた日に、魔法以上に愉快なことがわたしたちにも降り注ぐことだってある。起こった以上、それは不可能なことじゃなかったってことなのよ」


 意味深に言うアリスは、悲しげに少しだけ目を伏せた。


「私たちは悔しいわね。この推測が当たっていて観測者Xが実在していたら、自分たちが世界の中で凡百でしかなかったって証明になってしまうんだから」


 自虐的に笑うアリスに、ヒメリはごくと喉を鳴らす。


「そんなすごい人がもし本当にいるなら、わたしたちはただ変化を受け入れて生きていくしかないんじゃないんでしょうか……?」


 ヒメリが悲壮的に訊ねると、アリスは軽く首を振った。


「ヒメリちゃんは、〈マップの端っこ〉には行ったことはある?」

「〈マップの端っこ〉、ですか? そういえばウェスナを散策していたら、道があるのに柵で仕切られてそれ以上進めない場所がありました。地図を見たらその先には行けないようになってて、残念だった記憶が」


 いくらオープンワールドRPGといえど、ゲームという制約上プレイヤーが行き来できる広さには限界がある。

 奥行きはあれど侵入できない街の閉鎖区画やら丘や川の向こうやら、プレイヤーが移動できる範囲は限られているのがゲームでの実状だった。

 そのことを思い出し、ヒメリはかくんと小首を傾げる。


「よく考えたら、世界が現実化したのに物理的に進めない場所があるのって変ですね」

「ゲームの中では元々プレイヤーが進めなかった〈行き止まり〉だった場所が沢山ある。なら今その〈行き止まり〉はどうなっているのかしら」

「う、うーん……想像もできませんけど、見てみないと、そこには何があるのかわからないままで……」

「そうね。とは言え有志の実験によって街の端っこや陸続きの向こう側は侵入が可能になっていることが判明しているの。まあもともと景色用にテクスチャ自体はあったしね」


 その場所は今はここにいるのと同じように歩くことができ、何ら不自然さのない景色が広がっているそうだ。


「でも、それと大厄震と何の関係があるんですか?」

「私たちは何の因果かこの世界に閉じ込められている。ここはまだ電子の世界の中なのか? それとも世界そのものが造り替えられてしまって、その中で生きることを余儀なくされたのか? そのどっちなのかは、まだ確定的にはわかっていないわ。いわば、現実と仮想現実の中間地点、といったところかしら。シュレディンガーの猫みたいなものね」


 ゲーム世界のシステムを引き継ぎながらも、生物的な生活を送らなければ生きていけないという矛盾を、アリスはそう説明した。


「キーワードは〈観測〉よ。私たちは調査することでその境界線を探っている。もっと簡単に言えば、〈知る〉っていうことよ。この世界がどうなっているのか、ね。私たちにできることは、ただのその一点」

「つまり、そういう〈行き止まり〉の場所を確かめていくのが、わたしたちにできること……?」


 ヒメリが話を掴めてきたと感じたのか、アリスは面白がるように彼女の意識を誘う。


「私たちには不可知の力によってこの世界は生まれ変わった。でも、変化が急速すぎたのよ。客観的に見て、この異変が計画的だったとは思えない。私たちが使えるオーグアイという機能を含めて、ゲームのシステム面がほとんど残っているのはあまりに不自然。ならば、現実化していない場所が、他にもあるんじゃないか。そう考えた人が多かったの」

「ええっと、変化は不完全で、場所によってムラがある……ってことでしょうか」

「その通り。じゃあ、この〈閉じられた世界〉の中で、未だかつて観測されていない場所を見つけ出すことができれば? それも、観測者Xすら知りようのなかった、ゲームのときにも見ることができなかった、全く未知のオブジェクトの向こう側で」


 アリスは答えを知っていながら、ヒメリにその先を促すように目を流して訊いた。


「またこの世界に、変化が起こる、かもしれない?」


 導かれた正答を恐る恐る口にしたヒメリにアリスは深く頷き人差し指を立てる。



「〈グレート・ウォール〉――そこにこの世界の謎を確定させるカギがある」


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